雨が降ったら
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子供の頃の記憶で一番古いのは、雨の記憶。
昔見た映画のシーンのように、色のない雨がまるでノイズのように降り注いでいる。
今よりもずっと低い目線。ずっと近い地面。うつむいて、そこを見ている。
足元に置いてある、段ボール箱の中身を。
傘を持たない小さな俺は、冷たい雨にびっしょりと濡れていて……それは、見下ろしている箱の中身も同じで……
自分が何を思っているのか分からないまま、ただ涙を流していた。
雨は降り続ける。その音が、俺の最初の記憶。
雨は降り続けている。
1.降る雨に、傘を
雨の降る日は、あまり好きじゃない。
「どうして? お客も入るし、仕事も増える。賑やかな店内ってのも良いじゃない」
「そりゃあ、暇で暇でどうしようもないよりは良いけどな……」
カップを洗う手を休め、顔を上げる。カウンターに肘でよりかかる同僚で同級生の女友達を見て、俺は顔をしかめた。
「日織(ひおり)、営業中はだらしない格好するなよ……」
ため息混じりにそう言うと、当の本人は「はっ!」と鼻で笑った。雑な仕草と口調は、昔から変わらない。例えそれが仕事中でも、だ。
「どうせ誰も見ちゃいないわよ。静視(しずみ)は本当に神経質だわね」
「お前がずぼらなんだよ」
ここは喫茶『トパーズ』。俺たちの働いている店だ。営業中に下らない無駄話を続けている訳にもいかず、俺は休めていた手を動かし始める。シンクの中にはさっきまでの混雑を示すように、大量の洗い物が残っている。話をしながらじゃあいつ終わるか分からないくらいの量が。
「そもそも今日の厨房は智居(ともい)の当番じゃなかったか?」
トーストやホットケーキを乗せる真っ白な皿を洗いながら疑問を口にした。
「智居、お客さんの相手してるわよ」
面倒くさそうに吐き捨てた日織の台詞に被さるようにして、タイミング良く店内に笑い声が響く。一番大きく聞こえたのは、同僚で同級生で友達の智居の声。お客の声はそれに同調するようにささやかに響いている。
(喫茶店ってのは静かで落ち着ける場所じゃないのか……?)
ため息がまた一つ。綺麗になった皿がもう一枚。
喫茶店といっても、この店はそれほど広くはない。俺たち三人でなんとか回せるくらいの広さだ。店長はいつも事務所兼休憩室になっている奥の部屋に篭っていて、店内には滅多に顔を出さない。
以前は店長とその奥さんの二人で営業をしていた。高校生の頃は用もないのにここに溜まって長話をしたものだ。
丁度俺たち同級生三人が進路を考え始めなくてはならない時期、店長の奥さんが倒れた。入院した奥さんの看病で店を閉めようとしていた店長。そんな店長を助けるために俺たち三人がバイトで入った。そしてそのまま卒業して就職。二年前の話だ。
(智居のバカはずっとあの調子だけどな……)
特徴的な甲高い笑い声がまた店内に響いた。お客の笑い声よりも、智居のバカ笑いの方が耳に届くのはどうしてだろう? 答えは決まりきっている。バカだからだ。
「日織」と手を休めずに呼ぶ。
「何よ?」
日織は拭いていたトレンチを置いて顔をこちらに向けた。
「あのバカ引っ張ってきて仕事させてくれ」
「あー無理ね」
簡単に単調に冷酷にそう答えられ、俺は何も言えなくなってしまった。
「良いんじゃない? お客も大分引いたし、しばらく忙しくならないだろうし」
日織はショートにしている髪をかき上げて、店の名前が刺繍された黒いエプロンを解いて、それを壁にかけた。
「ってコトで休憩入るから。後よろしくね」
ひらひらと手を振りながら奥に歩いて行く彼女の背中に、恨みを込めた視線を向ける。なんて薄情な……
ため息混じりに洗い終わった食器を拭き始めようとすると、「あ、そうそう」と日織が言った。背中越しに振り返って。
「で、何で雨が嫌いだって?」
「嫌いじゃなくて、あまり好きじゃないって言ったんだ」
「一緒よ。で、どうして?」
くるりと振り返って、両手を腰に当て、女とは思えないような仁王立ちの姿勢で俺を見ている。どうやら答えないと休憩に入らないようだ。ため息が洩れそうになるのをこらえて、少し考えてからこう答えた。
「雨の音が、寂しそうに聞こえるだろ?」
結局、智居が仕事に戻ったのは店内のお客が全員帰ってからだった。
「お前、いつか俺の恨みを買うからな」
厨房の端、店内からは影になって見えない場所に座って、コーヒーを飲みながらそう言った。
「接客も立派な仕事じゃんか。忙しくなったらちゃーんと仕事しますって」
「今日の厨房当番はお前だったはずだけどな。俺の記憶と当番表の日付が正しければだけど」
智居はさして気にもせずに、「静視は面白いこと言うよな」と軽く笑った。
「悪かった悪かった。反省してますから」
俺の肩をばんばん叩きながら、一切反省していない口調でそう言う。また笑いながら。
ため息が漏れて、少し笑顔が浮かんだ。
これは智居の才能だ。周りにいる人間を全員笑顔にする。本人は多分、何も考えていないのだろうけれど。
「それより休憩中なんだから奥で休んで来いよ。しばらく俺と日織だけでなんとかなるしさ」
時計の時間は、五時の少し前。丁度混雑と混雑の隙間のような時間帯だ。いつもこの時間の店内はがらんとしている。道に面した大きなガラス窓から見える通りに、だんだんと人が増えるまでは。一日の仕事を終えた人たちが、帰り道を歩くまでは。
「俺が奥入ると日織の苦労が増えるような気がしてな……」
「お前いっつもそれ言ってるな……」
「いつもいつも言わせるような行動しないでくれ、いい加減……」
それでも椅子から腰を上げた。カップの中のコーヒーがくるりと波紋を立てて揺れる。
「それじゃあ休憩入るから頼むな日織」
「はいはい」
「おい俺には?」
テーブルを拭いている日織から返事があったのを確認して、智居の声を無視して、休憩室の扉がある通路へと足を進めた。
ドアをノックして、「失礼します」と言ってから開く。
「店長、休憩頂きますね」
事務所兼休憩室は、どこか陰気な感じがする。裏道に面している窓にはいつもブラインドが降りているし、外へ続く扉は窓すらない。それでも落ち着くのは、いつもここには店長がいるからだ。
俺たち三人は、何も分からない学生だった頃から、この店に入り浸っていた。悩み事があれば全部この人に相談したし、迷ったときにはちょっとしたアドバイスももらった。信頼しているし、当然尊敬もしている。
あの頃、少ない小遣いを使って店長の淹れてくれたコーヒーを飲んでいた。こうしてこの店で働くようになった今でも、あの味を俺の目標にしている。ほっとする、元気が出るような、そんな味を。
机に向かって、なにやら分厚い本を見ている店長。顔を上げようともしないで「どうぞ」と小さく答えてくれた。
部屋は、少し狭い。それも壁という壁には全て本棚が設えてあるせいだ。天井近くまである背の高い本棚には、それぞれぎっしりと本がつまっている。地震でもあれば本に潰されて窒息してしまいそうなくらいに。
そんな部屋の中に店長用の机と、来客用のテーブルとソファーが置いてあるものだから、余計に狭く見える。陰気な上に狭いというのは最早救いようがないかもしれない。
ソファーに腰を下ろして、カウンターから持ってきたカップを置く。革張りのソファーに、少しだけ温かみが残っている。多分日織もここに座っていたのだろう。丁度、店長の顔が真っ直ぐに見える位置に。
少し長めの髪の毛をオールバックに撫で付けている。この人のいつもの髪型だ。少なくともここ三年ずっと同じ髪型をしている。服装はごく普通のスーツ。営業のサラリーマンにも、夜の街の呼び込みにも見える人だ。顔立ちは優しいけれど目つきは少しだけ鋭くて、真っ直ぐに見詰められると結構怖い。
「静視君」と店長が小さい声で俺を呼んだ。この人はいつも聞こえるぎりぎりの声しか出さない。
「そろそろ新しい従業員、入れましょうか?」
本から顔を上げようとせずに、突然な話題を持ち出した。
「最近少しずつ客入りも伸びてきているし、今時定休日がある喫茶店っていうのもね。あと一人か二人増えれば、年中無休で営業出来ると思いますけど」
「はあ……」
何とも答えられずに、店長の話を聞く。
「もちろん今のままでも充分だとは思います。でも、君達にはまだまだこれからがありますからね」
「っと、そんな話何で俺にするんですか? 日織と智居にはしました?」
「ああ、それは……」と、店長が珍しく顔を上げた。
照れくさそうに笑って、本を閉じてから、
「こういうことは、まず静視君に話すのが一番だと思って」
まあ、智居に話せば店の客にまで話すだろうし、日織に話せば「お任せしますよ」って答えが返ってくるのは分かりきっているし……
簡単には答えられずに、とりあえずコーヒーを飲む。
「正直、迷っているんですよ。手を広げれば利益は出るかもしれない。でも、ひょっとしたらクオリティとかサービスとかが落ちるかもしれない。従業員全員に目が届かなくなるかもしれない。とかね」
「でも、そんなのはなんとでも出来るでしょう?」
珍しく弱気な店長の言い草に、思わず身を乗り出してしまう。
「ええ、もちろんその通りですよ」
店長の満足げな笑みを見て、俺は気付いた。
(なんだかんだ言って、俺をやる気にさせようって魂胆か……)
少しだけ悔しかったけれど、それでもことは仕事のことだ。適当に答える訳にもいかず、俺はちゃんと考えてから続けた。
「店長、もし資金的に余裕があるなら、もう一店舗出すって選択もありますよ。日織辺りに店長代理任せれば、営業くらいは何とかなるだろうし」
店長は少し考えてから、「それも視野に入れておきましょう」と言った。
「とにかく、考えておいて下さい。何も今すぐに、っていうことではないですから」
「分かりました」
「それともう一つ」
店長が両手をぐーっと上に伸ばして、言った。
「僕にもコーヒー、もらえません?」
店長の分のコーヒーを淹れ、「さっきの話はとりあえず秘密で」と言われ、智居と休憩を変わった。
「日織、厨房いてくれよ。俺がホール見るから」
「はいはい」
店内には、二組の客が入っていた。三人組の大学生らしい男たちと、高校生くらいの男女だ。注文はもう済んでいるらしく、今はそれぞれの会話に夢中になっている。
(ま、厨房だホールだって分けても結局それほど仕事がある訳じゃないんだよな)
厨房とホールを区切るカウンターは、店内の一番奥にある。ここに座るお客は、一人で静かに時間を潰したいという人くらいだ。
この店は、丁度駅と街中との中間くらいにある。通りに面しているということもあって、それなりに客入りは良い。窓から外を見ると、傘を差して歩く人たちが少しずつ増えてきていた。そろそろ忙しくなる時間だ。
高校生らしい二人組みは、時々思い出したように会話をしては、ぎこちなく笑い合っていた。多分付き合い始めて間もない恋人同士なのだろう。そういう雰囲気がある。
テーブル席は通路の両脇に三つずつ。全部で六つある。それぞれに四人ずつ座れるようになっていて、割と余裕のある造りになっている。
少し高い天井ではファンがゆっくり回っていて、その上には大きな換気扇が小さな音を立てて動いている。天井近くの壁には某有名メーカーのスピーカーがついていて、途切れることなく音楽を流している。
「で、日織」
「何よ?」
「この音楽は誰が選んだ?」
「訊くまでもないでしょ? 智居よ」
今すぐあのバカを引きずり出して土下座でもさせたい気持ちを抑えつつ、ステレオを変える。
……正体不明の宗教音楽から、クラシックへ。
毎日はこうして、穏やかながらも退屈じゃなく過ぎる。居心地の良い職場と、付き合いの長い友達。顔馴染みのお客と、密かに目標にしている店長。
世間一般の人がどうなのかは知らないけれど、俺は仕事が好きだ。
働いているときは、ひとりじゃないから。
喫茶店特有の落ち着いた時間の流れの中で、俺は今日も働く。
窓の外はまだ、雨が降っている。
街灯が通りを照らし始め、帰途に就く人たちも減り、店内の混雑も落ち着いた頃、食事休憩を回すことになっている。時間は決まっていないけれど、順番はいつも同じだ。最初が日織、次が俺、最後に智居だ。
日織が休憩に入り、智居も当番通りに厨房に戻っているので、俺はお客の引けたテーブルを拭いていた。真っ白に塗られた厚手の木のテーブル。俺もこのテーブルに向かってたくさんのことをした。学校の勉強や、智居たちとの下らない話だ。そう考えると、少しこそばゆいような気持ちになる。いつものことだけれど、こればっかりは慣れそうもない。
窓際の席を拭き終わり、壁際の席に移ろうと思ったときに、視界の端を何かがかすめた。違和感、というのだろうか? その景色に本来あってはいけないような、そんなものが見えて……
(何だ?)
顔を上げて窓の外を見る。夜になって暗くなった通りを、街灯やネオンが照らし出している。色とりどりに彩られた視界の中で、一つだけ灰色の人影があった。
小さくて細い人影は、ゆっくりと駅へ向かって歩いている。通り過ぎるたくさんの人たちに混ざろうとして、混ざれなくて、諦めているようなその姿。雨はまだ降り続いているのに、傘も差さずに……
(おいおい、風邪ひくぞ……)
この季節、昼間はまだ少し暖かいけれど、夜になればコートなしには外を歩けない。まして雨が降っていれば尚更だ。冬はもうそこまで来ているのだから。
布巾を持った手をそのままに、呆然とその人影を見送る。
うつむき加減にとぼとぼと歩く、びしょ濡れの人影。細くて小さな肩と、雨に濡れて灰色に光っている髪。その姿が、何だか俺の心を酷く揺さぶった。心の、記憶の奥底に沈めた、古い何かを呼び起こした。
(まるで……あれは……)
捨てられた、猫みたいじゃないか。どこにも行くあてのない、でも誰にも助けを求めない、ひとりぼっちで歩く、そんな……
頭の中で聞こえたのは、鳴き声。子供の頃にどこかで聞いた、生まれたての仔猫の――
そしてオレンジ色の街灯に照らし出されたその横顔は、幼い少女のものだった。
頭の中でずっと使っていなかった歯車がかみ合うような音がした。かちり、と。
俺は――
「智居、少し頼むわ!」
俺は布巾を智居に投げて渡し、カウンターの奥から水色のビニール傘と真っ白なタオルを手にして、店を飛び出した。智居が後ろで「おい! どこ行くんだよ!」と叫んでいた。
店の外は予想以上に寒い。雨脚は夜になって一層強くなったらしく、大粒の雨が道を洗い流している。
雨に打たれている少女は、すぐに見つかった。通り過ぎる人は怪訝そうな顔をして一瞬だけ見下ろすけれど、すぐに興味を失って視線を前に戻す。
(……ったくよ!)
訳も分からず苛立ちながら、傘を開いて少女の元に駆け寄った。水溜りに踏み込んでしまって、スラックスがじっとりと濡れた。
「風邪、ひくよ?」
傘を頭の上に差し出して、見下ろすようにしてそう言った。通りに溢れる原色の光と、街灯のオレンジ色の光。それらが少女をたくさんの色に染めている。
傘を持たない少女は、足を止めた。俺の胸の辺りを見て、それから顔を上げた。
「?」と、薄い表情の中に疑問符を浮かべて俺を見上げている。
「風邪ひくから。はい」
手に持っていたタオルを渡すと、少女は静かに手を出してそれを受け取った。
「ずぶ濡れじゃないか。せめて髪の毛くらいは乾かさないと」
顔色は青に近い白で、長い間雨に打たれていたということがすぐに分かった。良く見ると、肩も小さく震えている。肩まである髪の先からは、雫がぽたぽたと落ち続けている。
「ほら、そのタオルで拭いて?」
少し腰をかがめて、視線の高さを少女と同じにする。警戒されたり変に思われたりはしていないようだ。ただ、手にしたタオルに視線を向けてぼーっとしている。
(もしかして、意識がないのか?)
目の前で手を振ると、ゆっくり顔を上げた。目は、とろんと眠そうに半分閉じかかっている。
「大丈夫?」
「……へいき」
ぽつりとそれだけを言うと、少女はもそもそと髪を拭き始めた。
(んー、これは……)
多分、訳有りってヤツなんだろう。もっとも、何の理由もなしに雨の中を傘も差さずに歩く人なんていないけれど。
しばらく少女は黙って手を動かしていた。ぎこちなく、何だか慣れていないような手付きで。雨はとても冷たくて、外はとても寒くて、制服姿の俺はとても目立っていた。
「あのさ、俺そこの喫茶店で働いてるんだけど、何か温かいものでも飲んでいきなよ? 本当に風邪ひいちゃうよ?」
「……へいき。大丈夫」
幼さの残る口調で、少女はそう答えるだけ。会話にすらなっていない。
どうしたものかと考えていると、しっとりと湿ったタオルを手渡された。
「ありがとう」
「いや……」
ちょっとだけ触れた指は、驚くくらいに冷たかった。
呆然としていると、少女は歩き出してしまった。傘から出て、また雨の下へ。
「ちょ、ちょっと……!」
慌てて駆け寄り、また傘を伸ばす。少女は眠そうな顔でまた俺を見上げている。とにかく表情が薄い。まるで人形のようだ。思わずひるみそうになるのを堪えて、声を出す。
「これ、持って行って良いから」
半ば強引に傘の柄を握らせて、俺はタオルを頭に乗せた。
「それじゃ、俺は戻るから。まだ仕事中なんだ。キミも早く家に帰りなよ?」
「…………」
黙ったまま頷く少女にそれでも安心して、俺は駆け足で店まで戻った。
途中で振り向くと、水色の傘がゆっくりと揺れながら遠ざかって行くのが見えた。
「それで、そのコは結局どうしたのよ?」
店に戻ると、日織と智居が詰め寄ってきた。経緯を話すと、日織がそう言った。
「だから傘を渡してきただけだよ」
「静視って、どうしてそうやること全部中途半端なのかしらね」
はぁ、と短くため息を吐かれてしまった。
「女の子にはもっと親切にしろよな? せめて服を買い与えるとかよ」
智居のバカ発言に、今度は俺がため息を吐いた。
「あのな、俺はいつから足長おじさんになったんだよ?」
「それくらいのことはしてもバチは当たらないって話してんだよ」
店内にはまだお客が残っているので、カウンターの奥でひそひそと小声で話しをしている。秘密めいた感じだけれども、この歳になってまでやるようなことじゃあない。
「仕方ないだろ? 『へいき』だってんだから。それにもう行っちまったよ。この話はもう終わり! ほら、仕事仕事」
鬱陶しくなってそう切り口上で告げると、『静視、休憩だし』と二人に指さされた。
「店長、おつかれさまでした」
「おつかれさまでした!」
「はい、おつかれさま」
いつものように、閉店後の掃除をして鍵をかけ、事務所の扉から外に出る。店長は車で、俺たち三人は歩いて。それぞれの方向へ向かって帰る。
「雨止まないなぁ」
「秋の長雨。毎年のことでしょ?」
「そうそう。この長雨が止んで少しすれば、すぐ雪が降る。今年はクリスマス前に雪が降るかもな」
「智居がクリスマスって柄かよ」
「そうね。気持ち悪いわね」
いつものような軽口を叩きながら、駅まで歩く。日織は駅の手前を右に曲がる。智居は駅のすぐ向こう。俺は線路沿いに左に向かう。何年もこうして、三人でこの道を歩いた。
傘を叩く雨音と、水溜りを踏む靴音。途切れないおしゃべり。
「そういや静視がナンパした女の子、どうなったんだろうな?」
智居がふと思い出したように余計なことを言った。
「ナンパじゃねぇ……」
「そうよ、その女の子。全然詳しいコト話してくれないじゃないの」
そう。俺が夕食の休憩に入ってからずっと、ことある毎に二人はあのずぶ濡れの少女についてしつこく訊いてきていた。俺はその全てを適当に誤魔化して逃げていたんだが……
(そもそも俺だって全然、まったく、何も分かってないんだからなぁ……)
どうにも説明のしようなんてないのだ。
「急に飛び出したときはどうしたのかと思ったぜ。帰って来たらびしょ濡れだしよ。聞いたらびしょ濡れの女の子がいたって言うし。お前時々妙な行動力あるよな。考えなしだけど」
「うるさいぞ智居。お前だって考えなしに店に来る女の子に声かけまくってるじゃないか」
「私に言わせてもらえば、二人とも同レベルだわね。傘を持たないで歩くコに傘を上げた静視にはまあ、合格点あげるけど」
「え、俺には? 日織俺には合格点くれないの?」
「アンタ合格する気あったの?」
智居と日織が下らない言い合いをしているその背中を眺めながら歩く。駅に近づくにつれて街灯は多くなり、通りには人の姿もちらほらと伺えるようになった。
はっきり言って目立っている。
「あーもう止めろよお前ら。何年同じこと繰り返してるつもりだ……」
『元はと言えば静視が』
「声揃えて理不尽なこと言うな」
頭を抱えたくなったところで、丁度日織と別れる場所まで来ていた。酒屋と食堂の間の路地を入り、しばらく進めば住宅地がある。
「それじゃ、また明日ね」
「おう、気をつけてな」
「おつかれ日織」
互いに軽く手を振って、いつものように別れた。
「で、静視よ」
「なんだ?」
「冗談抜きにして、気にならないか?」
「何が?」
「だから、そのお前が追っかけてったコだよ」
そんなこと、わざわざ言われるまでもない。何も答えずに、一人で歩き出した。
後ろから智居が駆け寄る足音が聞こえた。ついでに声もだ。明らかに楽しんでいる声が必要以上に大きいボリュームで叫ばれている。近所迷惑な……
「待てって静視! どう考えてもあやしいだろ!」
「やかましいぞ。も少し静かにしゃべれよ」
振り返らずに、足を速める。智居のしつこさには時々本気で参る。
「もしかしたらさ、すっごいヤバい事件とかだったりして。女の子さらって悪いことするトコから逃げてきてたりとか……人を殺して逃げてる最中だとか」
「逃げてばっかりじゃないか……」
一人でゴシップなことを口走りながら、それでも俺の後ろをついてくる。まったく、黙って歩けないのだろうか……?
「だってさ、俺はそのコの顔も見てないし、話だってしてないんだぜ? お前は全然教えてくれないしよ」
「あーうるさいうるさい」
思い出したのは、あの眠そうな目。それと、落とすようにしゃべる声。迷うように、戸惑うように伸ばした手。冷たかった指。真っ白な、表情の薄い顔。
(どうして、あんな顔をしていたんだろう?)
智居のような無駄な妄想はしないけれど、俺はそれだけが気になって仕方なかった。
そして次の日も、雨は止まなかった。
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