あの人 第一話    next


 あの人の掌が私の皮膚を滑る。
 感情の昂ぶりに導かれ、私の肌は朱に染まる。
 優しく、暖かく、激しく、あの人の掌が私を求める。
 自分が儚いモノになったような気持ち。あの人の宝物になったような感じ。
 あの人の掌が、そう思わせてくれる。
 こんな気持ちになるのは、相手があの人だからなのか、それとも……
 思索を遮るように、私の吐息は熱くなる。
 やがて声は、意味のないただの音に変わるだろう。
 そして、あの人は……

 夢からの覚醒。現実の侵略。いつもの気だるい朝。
 この街で爽やかな目覚めを経験したのは、初めの一ヶ月だけだったはず。
 そして、あの人は私から逃げた。そう考えなければ、気が狂ってしまいそうだった。
 逃げた人は、追いかければ良い。でも、捨てて行った人は?
 もしもあの人が私を捨てたのなら、探せはしないだろう。
 きっと、冷たい瞳で見られてしまうから。
 あの素晴らしい日々が、嘘になってしまうから。
 だから私はあの人が逃げたと考える。せめてあの人を探す権利を得るために。
 私の寝室には、セミダブルのベッドと、クローゼット。それと大きな鏡しかない。
 この鏡は、あの人が与えてくれた物。だから置いている。
 あの人のことを、忘れないように。
 鏡に映る私の顔は、今日も気だるそうだった。
 そして、今日も私の気だるい一日が始まる。

 リビングにはそれなりに物がある。最低限の物だけが。
 テレビもビデオもラジカセも無い。それでも、生きて行ける。
 キッチンに行き、冷蔵庫を開ける。食材は乏しい。
 あるのは買い置きのアイスコーヒーとミルク。それに出来合のサラダだけ。
 それらを適当に流し込み、私は浴室でシャワーを浴びる。
 夜寝る前と、朝起きてから。一日に二度シャワーを浴びることにはちゃんと理由がある。
 夜のシャワーは疲れを洗い流すため。
 朝のシャワーは、寝汗を洗い流すため。
 あの人が私の元を去ってから、私は酷く寝汗をかくようになってしまった。
 きっと、悪夢でも見ているのだろう。記憶には残らない悪夢を。
 全ての衣服を脱ぎ去り、整った肢体を鏡に向ける。視線を足から腰、胸から首、そして顔まで移す。
 ショートにした髪には少し寝癖がついていた。
 でも、それでも良い。どうせシャワーを浴びれば消えてしまう。
 水圧を最大にしてのシャワーは、全身に血液と一日分の活力を送ってくれるような気がする。
 ふかふかのタオルで体の水気を取り、コロンを叩く。これが私の朝の匂い。
 子供の頃は朝食の香りが朝の匂いだった。
 今はこの人工的な芳香が私に朝を感じさせてくれる。
 それだけでもこのコロンには価値がある。
 あの人のくれたコロンだから。
 寝室に戻り、クローゼットを開く。
 数着しかない服の中から、洗いざらしのジーンズとTシャツを選んだ。
 その上にグレイのジャケットを羽織る。
 また、鏡を見る。
 これでナチュラルに化粧を施せば、いつもの私のスタイルになる。今はその一歩手前。
 いつもの私になる前の、誰にも知られていない私。
 ただ一人しか知らない、秘密の私。
 鏡に手を触れる。その堅さと冷たさを、そしてあの人への気持ちを再認識する。毎朝の儀式。
 手早くメイクを済ませ、私は街へと出る。私を傷付けることの無い、ヤサシイ街へ。

『君は俺を理解していない。理解しているつもりになっているだけだ。俺にだって人に言えない罪の一つくらいはある。君はその事実から目を逸らし、万能の俺を自分の中で創ってしまった。もう、君は俺を愛せないだろう……』

 部屋を出て街を歩いていると、自分の他にも人間がいることに改めて恐怖する。
 でも、人との触れ合いを完全に断ってしまえば、生きることは出来ないだろう。
 私はそこまで強い女にはなれなかったし、なろうとも思わなかった。
 一人になる時が来るなんて、考えてもみなかった。
 ローファーがアスファルトを蹴りつける。その分だけ前に進む。
 努力しただけ立派な人間になれる。そう言われているようで、悔しい。
 悔しさを紛らわすために、視線を上げた。視界を埋め尽くすのは人。人。人。
 それぞれの人生を必死に、あるいは絶望の内に生きているであろう、灰色の人の群れ。
 私はどうに生きて行くのだろうか?
 このまま怠惰な日常の中であの人を探し続け、やがてそれにも疲れたら……
 それなりの人と結婚し、それなりに幸せな人生を送るのだろうか?
 あの人のことを引き摺ったまま……
 すれ違う人の全てを羨ましく思う。もしかしたら、私はこの世界で一番不幸な女じゃないのだろうか?
 それが都合の良い言い訳でも、そう思えて仕方が無い。
 ココロの沈み具合に応じ、視線がまた落ちる。
 それでも前に進むしかない。これから仕事なのだから。
 どんな仕事でも、大した違いは無いらしい。
 違うことといえば、収入と苦労、それに楽しめるか否かの違いだけだという。
 そんなことをどこかで耳にした。
 どうせやるのならば、楽しく苦労のない仕事を選びたい。その上高収入なら文句は無い。
 きっと誰もがそう考えているだろう。でも、私はその辺りのことはどうでも良い。
 女は家庭を守るもの。
 今の時代では古い考え方かもしれないけれど、私はそうなりたかった。
 主婦の仕事はどんな仕事よりも辛いし、収入なんて全く無い。
 それでも、たった一人の愛する人の帰る場所を、あの人の居場所を守れるのなら、構わないと思った。
 だから今の仕事は正直、どうでも良い。手を抜いている訳じゃなく、「これに一生を費やそう」とは考えないということ。
 信号を待っている人達の塊を避け、この道を進む。仕事場まではもう少しだ。

「おはようございます」
「おはよう!」「うーす」「おはようございまーす」「……はよ…」
 朝の挨拶は好きかもしれない。一言口にするだけで、何人もの人が答えてくれるから。
 思えばこれが今日初めての声じゃないだろうか?
 立ち並ぶ机の間を縫って自分のデスクに向かう。途中でも数人から朝の挨拶を貰う。
 ここは出版社。私よりも早くここにいる人達は、早出の人か徹夜の人かどちらか。
 それは顔を見ればすぐに分かる。でも、見なくてもさっきの挨拶で充分分かった。
 この会社を選んだ理由は、たった一つ。とにかく情報が集まる場所だから。
 様々な情報が入ってくる場所で仕事をしていれば、あの人のことが何か分かるかもしれないから。
 そんな陳腐な理由で選んだ仕事でも、二年近く勤めていればそれなりに仕事は覚える。
 無駄かもしれないけど、それでも何もせずに泣いているだけの女にはなりたくなかった。
 だから、ここにいる。あの人を捜すために。
 この街から出て、どこか別の街を捜した方が良いかもしれないと考えたこともあった。
 でも、あの人は多分この街から外に出ていないだろう。予感ではなく、確信がある。
 元々私達はここの人間じゃない。二年前に済みなれた町を離れ、ここにやって来たのだ。
 私は正直、恐かった。でも、あの人が決めたことだから従った。
 そう、この街を選んだのはあの人なのだから…
 雑多に整頓されたデスクに向かい、今日の仕事を片付けに入る。
 データ入力のサポートなんて仕事には、自分の食事を作るよりも慣れてしまった。
 今日もこうして一日が過ぎて行くのだろう。
 あの人は、見つからない。

「クセですよね、それ」
「え?」
「その唇を指でなぞるの。考えごとしてる時とか、何もしていない時とか…」
「そう?」
「はい」
 二歳年下の女の子に指摘された。
 唇から離れ、やり場をなくした指先をぼんやりと眺める。
 細く白いだけの指先を。
(あの人が一番触れてくれたのは、唇だから……)
 そう答えてしまいそうになった。弱く笑い飛ばし、マグカップに手を伸ばす。
「自分のカラダで一番好きなところだから、かな?」
「うわー。それってエッチですよー!」
「気の回し過ぎよ。そんなことばっかり考えてると、本当にエッチな娘になっちゃうわよ」
「あははっ!」
 中身の無い会話にも慣れた。こんな時間を楽しく思うこともある。
 普通の女の子と私と、決定的な違いはきっと無いのだろう。
 冷めてしまったコーヒーを一口含み、口の中を湿らせる。
 そのまま喉に流し込むと、コーヒーの香りが鼻腔を満たしてくれた。
「でもセンパイ、ホントにキレイですよねー」
「…………」
「私なんて背も低いし、胸も小さいし、顔も美人じゃないし……今時ソバカスに眼鏡なんて流行らないですよね?」
「そうかしら?……でも、男の人の好みなんて分からないわね……」
 冷たくならないように気を付ける。純粋な、良い娘なのだから傷付けてはいけない。
 私とは違うのだから。
 決定的な違いは無くても、彼女と私は違う。
 彼女はきっと、白馬の王子様を信じている。
 もしかしたら赤いフェラーリの青年実業家かもしれないが。
 私は、そんな男はどうでも良い。たった一人、あの人だけを追いかけている。
 今でもあの頃のまま、潤んだ瞳で彼の背中を見つめているのだから……

『俺の後をついて来ても、何もないぞ』
『待ってよ!すぐに追いつくから!』
『……何時か俺にお前の背中を追いかけさせてくれよ!待ってるから、さ』

 時計の針が何度か回り、今日も仕事が終わる。
「お先に失礼します」
「お疲れ様でした!」「おーい」「お疲れ様ー」「……かれ…」
 数人は今朝もいた面々だ。今日も徹夜なのだろう。
 彼らには、彼らにしか出来ない仕事がある。
 だからどんなに辛くても、週に十時間しか寝れなくても、逃げはしない。
 それが、彼らの望んだことなのだから。
 私にはそれがない。だからという訳ではないが、定時に仕事を終えても誰も何も言わない。
 あの人がいた頃の私なら、彼らと同じ方向を見ていたかもしれない。
 減らない仕事と格闘し続け、一瞬だけ得られる満足感を求めただろう。
 でも、今はあの人はいない。私は仕事に情熱を捧げられない。
 そんな気持ちの全てを振り切るように、足早に仕事場を立ち去った。
 
 夕方はこの街が一番美しい時間でもある。
 古い街並みが、一日の慌ただしさをそっと包んでくれる一時。
 人々の時間が、仕事からプライベートへと切り替わる。
 朝の無表情な雰囲気は消え去り、一人一人が嬉々として家路を急ぐ。
 疲れていても帰る場所があるのだから、きっと辛くは無いのだろう。
 そんな人達の感情の波を一人で掻き分け、私は裏通りへと向かった。
 明日は休みだ。こんな日はあの人の赴きそうな場所を訪れ、じっと待つことにしている。
 まだ夜の顔を見せない裏通りの入り口にある、普通の喫茶店で時間を潰すことにした。
 ガラスの扉には、銀色のカッティングシートで“time”と書かれていた。
 軽く押し開け、中へと入る。
 カランカラン……
「いらっしゃいませ」
 いかにもマスターという外見の男が、端的に歓迎の意思をくれる。
 通りを見渡せる窓際の席を選び、私は座った。
 私の他には客はいない。時間が時間というのもあるし、場所の問題もある。
 大通りと裏通りの間隙にぽつんとあるのだ。どっちの通りに棲息している人間も入るのを躊躇うことだろう。私もここには初めて入った。
 通りの出口側にある“clock”という喫茶店兼バーのようなところには何度か足を運んだが、通りのこちら側にはあまり来ることがなかったから。
 窓越しに見えるのは、やはり人。それと大通り以上に古い街並み。
 裏通りだからといって、別に汚れている訳ではない。
 ましてや危険な香りを纏った人達が道の中央を我が物顔で歩いている訳でもない。
 単に裏にあるのでそう呼ばれているだけだ。
 それでも表通りとは人の種類が違っている。
 全員がそうとは言わないが、化粧を厚く塗った女性やスタイルがあからさまに分かる服を着た女性やらが多い。
 時々、黒いスーツに見を包んだ若い男性が通り過ぎたりもする。
 彼らはこれからが仕事の時間なのだろう。
 そういった面では、ここは確かに裏通りと言えるかもしれない。
 アイスコーヒーとホットケーキを頼み、また窓の外を見る。
 人々の足取りを瞳に写しながら、考えるのはとりとめも無いことばかり。
 その根底には、あの人の言葉ばかりが居座っているのが分かる。
 それが、私を安心させてくれた。

『見えないけれど、どうしても欲しいものがある。……笑うなよ。俺は本気なんだから。
 ……可笑しいか?俺が何かを本気で願うなんて。たまには、いいだろう?
 え?何が欲しいのかって?
 ……どうしても聞きたいかい?』

 唇に触れている。これは私の指?それとも……
 あの人が口にした言葉の全てが、思い出せる。
 ただの幻想でしかないかもしれないけれど、今の私にはそれしか許されない。
 溶けた氷で薄くなったコーヒーを口に含む。どこか、物悲しい気分にさせてくれる。
 私もあの人を探す内に、だんだんと薄れてしまうのだろうか?
 探すまでもなく、あの人が現われてくれれば良いのに…
 都合の良い思考は、止まることなく加速して行く。
 この“time”という喫茶店の扉を開き、店内を見まわす。
 そして、私を見つけてこう言うのだ。
『ああ、ごめん。ちょっと仕事が長引いて……』
 気まずくなった時にするクセがあった。掌で鼻から下を覆うクセ。
 私はその仕草を見て微笑み、こう口にする。
『別にいいけど。でもその内違う人について行っちゃうかもよ?』
 あの人は、それをただの冗談としか取らない。腕を下ろし、苦笑いを見せながら私の正面に座る。
 憎らしいことに、分かっているから。私が他の人を好きになれないことを。
 ………………
 窓の外を見つめている。
 行き交う人々は、既にまばらになり始めた。
 夕暮れのカーテンが街並みに等しく降り、この街の雰囲気が変化する。
 あの人がいることを軽く想像しただけで、私は現実から離れてしまう。
 それは行き過ぎた妄想。
 白昼夢と言っても差し支え無いほどにリアルな情景。
 あまりにリアル過ぎて、私はそれを否定出来ない。したくない。
 こんな気持ちを味わうようになったのは、あの人が居なくなってから。
 最近は毎日のように襲い来る優しい幻が、私を苛んでいる。
 そう、優しい日々の残滓が、私の足を縛り付ける。この街から離れないように……
 ふと考える。あの人は本当に優しかったのだろうか?
 少なくとも、喫茶店で待ち合わせなんて俗っぽいことは苦手な人だった。
 記憶は改竄され、捏造される。私にとって都合の良いように……
 思い通りにならないあの人を探すことが良いのか、望み通りに振舞うあの人の幻を見続けることが良いのか、私には解らない。
 決定的な違いは、私に触れてくれるか、触れてくれないかだけ。
 その違いが大きいのかもしれない。
 あの人が私に触れる、その直前の昂ぶりが好きだったのだから。
 だから私はあの人しか愛せないのだろう。
 あの人しか、私には触れさせなかったのだから。
 視界の利かない闇の中で、互いの呼吸と鼓動を分かち合い、触れ合う。
 その瞬間の何て甘美なことだろう……
 口の含んでいた琥珀色の液体を飲み下した。時間にすれば数秒の思索。逃避。
口に広がったコーヒーの香りが、私を現実に引き戻してくれた。
 それなら、私はあの人を探すしかない。私に触れることの出来る、現実のあの人を。
 望み通りでなくても、優しくなくても構わない。
 私に触れてくれるのなら……
 もう一杯コーヒーを注文し、私はまた裏通りへと意識を向けた。
 しばらくすれば夜になる。
 夜の街なら、あの人も居るかもしれない。
 淡い期待でもしなければ、私はすぐにでも潰れてしまうだろう。
 マスターの下げる皿が立てた音が、乾いて聞こえた。
 グラスの氷は、完全に溶けきっていた。

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