海の影が見える町     next


1. 僕らが初めて会ったのは 空と海とが出会う場所

『ここに居る理由? これから話すよ――啓吾』

『永遠の自由』なんて今更な言葉を聞かされても、何というか……対応に困るしかないだろう?

 十七年、俺として――星見啓吾(ホシミ ケイゴ)として生きてきた。この歳になってやっと自分というものが分かり始めてきた気がする。でも、それは結局一時的なもの。『自分』なんて曖昧で不確かなものは、下手に固めてしまうといつ足を引っ張るか分からないから。
 変わり続ける日々の中で自分も少しずつ変われなければ、毎日を楽しむことなんて出来ないだろう?
 たくさんの友達がいて、たくさんの出来事を経験して、だんだんと大人になってゆく。今の俺はまだその途中。まだまだ先は長いし、焦って『自分』になろうなんて思ってもいない。
 だから……と小難しいことを並べ立てたけれど、結局何が言いたいのかと言うと――
 折角の夏休みくらい、自由に遊ばせてくれたっていいじゃないか、という話だ。
 そう、『自由』に、だ……
「俺はついに『永遠の自由』を手に入れたんだ! やっと夢が叶うんだよ!」
 興奮も声のボリュームも抑えるつもりはないらしく、派手なジェスチャーを加えながらそう言っている。顎の回りにだけ髭を生やした、黙っていれば渋い中年で通るような、凛々しい顔つきの男。何を隠そう、隠そうにも隠した先から飛び出して来るようなこの中年が、俺の叔父さんだ。名前は三次柾哉(ミツギ マサヤ)。三次というのは母さんの旧姓。つまり、母さんの弟に当たる訳だ。
「あー……」
 急に体が重くなったような気がする。ソファーから腰が離れない。本当は今すぐにでも立ち上がって、出来ることなら叔父さんの顔に水でもかけて、「少しは冷えた?」とか決め台詞でも吐いて自分の部屋に戻ってしまいたいのに……
 天井を見て、ガラステーブルを見て、溜め息をついて、それから窓の外を見た。昼下がりの日差しは手を抜く気が一切ないらしく、庭の芝生をきらきらと輝かせている。一歩家の外に出れば、夏の匂いがするだろう。爽やかで、気持ち良くて、思わず顔がにやけてしまうような匂いだ。外はあんなにも夏なのになぁ……
「どうした? 辛気臭い顔して」
「いや別に何でも」
 本当にどうでも良い心境で、そう言った。結局、この叔父さんは『自分』の思う通り、すなわち『自由』にしか行動しやしないんだから……

 事の起こりは、今朝家を出る前に母さんが言った何気ない一言だった。
「今日ね、柾哉叔父さんが話があるから来るって言ってたわよ」
 普段の俺だったら『叔父さん』という単語一つで鋭く激しい拒絶反応を起していたはずだ。いつでも俺の予定を乱して狂わせて、そして俺を疲れ果てさせるのは柾哉叔父さんなのだから。数え上げるのも、いちいち思い出すのも嫌になるくらい、叔父さんには厄介事を持ち込まれている。問題なのは、叔父さん本人には一切悪気も反省もないということだ。
 でも、その日の俺は特に気にせずそのまま「ん、いってきます」と家を出た。夏の始まりの気持ちの良い朝だったし、それに今日は終業式。たった数時間退屈な話に耐えるだけで、明日からは長い長い夏休みが始まるんだ。少しくらい俺のトラブル感知センサーだって緩むというものだ。
 そして全てが平均程度という退屈な通知表をもらい、真っ直ぐに家に帰った。玄関を開けて、「ただいまー」と言って靴を脱ぎかけたところで、
「啓吾、おかえり! 待ってたよ!」
 と、声をかけられた。叔父さんだった。
 そして玄関からリビングまで引きずられるようにして運ばれ、強引にソファーに座らせられ、言われた第一声が、
「お前の夏を俺にくれ!」
 だった。
 俺はこのとき、自分のセンサーの誤差が致命的なレベルに達していたことにやっと気付いた。当然、遅すぎた訳だけれども。

(こんなコトだったら羽田とナオと一緒にカラオケ行ってりゃ良かった……)
 同じ水泳部の友達の顔を思い浮かべた。次期部長に抜擢され、妙に張り切っている羽田。それでも夏休みは嬉しいのか、いつもの仏頂面をほんの少し柔らかくしていた。ナオはナオでいつも通りに能天気。ロクに練習もしないのに一年の頃からリレーのメンバーに入っているような才能の塊で、下級生の女子に大人気のライトな男だ。その二人が女子部員を全員誘ってカラオケに行くと言っていた。当然俺も誘われたけれど、断わった。
 終業式といえば、ちょっとした節目だ。どうしてか、昔からこんな節目の日にはゆっくりと一人で過ごすのが好きだった。皆でわいわいやるのも嫌いじゃないけれど、緊張感がふっと緩んだ穏やかな時間の流れ方は、やっぱり他の何にも代えがたい。ただ若年寄なだけなのかもしれない。でも、夏休みはまだ始まったばかりだ。楽しみなんてこの先幾らでもある。
 その時はそう思って誘いを断わったけれど……今になって激しく後悔している。
「お前の夏を俺にくれ!」発言でもう充分にげんなりしているのに、次が「『永遠の自由』を手に入れた!」発言。こんなの、俺でなくても対応に困る。辛気臭くもなるというものだ。つまり、その二つの言葉が意味することを考えれば。
(明日っからせっかくの夏休みだってのに……)
 頭を抱えて転げ回りたくなる心境で、叔父さんの話を聞く。
「実は前々から話があったんだが、今度ある場所に支店を出すことになってな」
 わざとらしく咳払いなんかして、そう続ける。
 実はこの叔父さん、三十半ばの若さで三店舗もの喫茶店を経営していたりする。店の名前は『clock』。良く分からないネーミングセンスの喫茶店だ。立地条件が良いのか運が良いのか、悔しいことにどの店舗も割と繁盛しているのだ。
「まあ、支店とは言っても小さい店でな。俺とお前で充分切り盛り出来るくらいの店なんだが」
「はいストップ! 俺にも一言言わせて!」
 このままでは完全に叔父さんのペースだ。俺はなけなしの気力を振り絞って声を出した。
「高校二年の夏休みなんだよ? 部活だってあるし、勉強だってやらなきゃいけないんだ。友達との約束もあるし、読んでおきたい本だってたくさんあるんだよね俺。やることたくさんあって大変大変!」
 一息でそう言って、「じゃあそういうことだから」と腰を上げようとした。そのまま逃げて話をうやむやにしてしまおうと思った。
「そういやお前、来年は受験生だったな?」
 急に真面目な口調でそう言われた。見ると、顔も真面目だ。おちゃらけと適当な口調で実年齢を誤魔化している、いつもの緩んだ顔とは違う。
(もしかして、俺の話が通じたのか?)
 そう儚く期待したけれど、次の一言はやっぱり叔父さんらしい一言だった。
「二年分まとめて遊んでおこうぜ! パーっとよ!」
 満面の笑顔に、俺は自分の無力さを噛み締めた。
 結局、叔父さんのもってくる厄介ごとからは、逃げられはしないのだから……

「だってお前、練習とかどうすんだよ? 大会が終わったからって部活が無い訳じゃないんだぜ?」
「あー……そんなことくらい分かってるんだけどなぁ……」
 あの後、叔父さんは手早くぱぱっと無駄なく必要なことだけを告げて帰ってしまった。しかも出発は明日らしい。仕方なく羽田にこうして電話連絡を入れている訳なんだが……
「叔父さんが言うには『練習なんざ向こうでだって出来る!』とか何とか……」
「まあ、確かにマスターならそう言うだろうけど……」
 羽田も『clock』には良く顔を出すので、叔父さんのことは知っている。こういう時は話が早くて助かる。
「そんな訳で、しばらくこっちにいないから。悪いけど水泳部の連中には羽田から説明しておいてくれよ」
 電話の向こうで、羽田が溜め息を吐いているのが分かった。俺はもう溜め息なんて出ない。
「涼子が荒れる姿が目に浮かぶよ……」
「なんでここであの無差別暴力女の名前が出る?」
 涼子ってのも水泳部の仲間で、なんというか……ときどき真剣に将来が心配になるような女だ。見た目は普通なのに、中身は野獣というタイプの。
「色々あるんだよ……」
 今度の溜め息は、どうも俺に向けられたもののようだ。「?」と眉根を寄せるけど、電話じゃ相手には通じない。不便だ。
「分かったよ。それで、いつ戻って来るんだ?」
「一応八月上旬には一回戻って来れると思う。登校日もあるし」
「そうか」
 叔父さんは一夏フルに俺をこき使うつもりだったらしいが、そうはいかない。とりあえずそれまでにはバイトを一人用意するという条件だけは強引に頷かせた。俺だって負けっぱなしじゃあいられない。
 そのバイトが仕事を一通り覚えたら、俺も解放されるって訳だ。
「それで、どういうトコに行くんだ?」
「ああ……なんでも……」
 頭に浮かんだのは、憎たらしいほど晴れ晴れとした叔父さんの笑顔だった。
「海辺の田舎町、らしい」

 夕食の席で、父さんが言った。
「いいじゃないか。息抜きには丁度良いだろう?」
 正直に言おう。俺は面倒ごとが嫌いだ。
「啓吾は頑張るだけしかしないんだから、少しは叔父さんの能天気さを見習いなさいな」
 そして母さん。
 一番能天気なのはウチの両親だ。俺の顔を見ろ!
 ……本気でヤなんだよ!
 折角の夕食もげんなりした気分だとふやけたような味しかしない。そもそも食欲がない。
 どうも叔父さんは俺に話を持って来る前にウチの両親を説得……というか懐柔したらしく、俺の意思とは無関係に話は決まってしまっていた。スタート地点に立つ前に、勝負は決まっていたということだ。俺って無力。
「バカンスかぁ……父さんも行きたいなぁ……。なあ母さん?」
「そうですね。今年は啓吾もいないことだし、また温泉にでも行きますか?」
 こんな話まで出ている。
「俺……断わりたかったんだけど……」
 箸を置くのも動かすのもおっくうになって、そのままふらふらさせながら言ってみた。
「それに、もうすぐ真剣に進路とか考えなきゃいけない時期なんだけど……」
 言い訳がましくそう言ってしまうのも、まだはっきりとした進路が決まっていない不安からだ。もちろん、何とかして今からでも叔父さんの誘いを断われないかと思ってもいるのだが。
「進路のことなんてまだ先になってからでも充分間に合うさ。今は今出来ることをやってればいいじゃないか」
 上機嫌な父さんは、そんな優しいようで実は適当なことを言っている。
「どうせ啓吾は何をやるにしても大丈夫なんだから、たまには羽を伸ばして来なさいな」
 この両親は……本当に俺の親なのか? もっと良く俺の顔を見てくれ! これが羽を伸ばしに行く人間の顔に見えるのか!
「それに、もう決まったことじゃないか。今更ぐちぐち言ってもしょうがないぞ。男らしく腹を決めなさい」
 全く、こういう時だけ親ってのは正しいんだよなぁ……
 能天気な両親を見ていると、辛気臭くなっている自分がバカみたいに思えてきた。軽く息を吐いて、肩の力を抜く。
「ま、そうだね。別に夏休み全部って訳じゃないし、それほどこき使われることもないだろうし、軽い気持ちで行ってくるよ」
 強がりだけでもそう言ってしまうと、少し気が楽になった。止めていた箸を動かし、食事を再開する。
「その海影町ってトコの、『clock』を手伝って来るよ」

 自分なんて曖昧で不確かなものが、やっと分かり始めた年頃の俺。
 厄介ごとと面倒ごとが嫌いで、無駄に騒ぐのも嫌いで、得意なのは適当に言い訳をして逃げ出すことくらい。
 好きなのは夏。それと、プールの底から水面を通して見る青空。あとは友達と、非常に悔しいことだけれど叔父さんの淹れたコーヒー。
 いつも周りの連中が持って来るトラブルに巻き込まれて、その度に頭を抱えたくなる。
 変わり続ける毎日と、変わり続ける自分。穏やかに、それでも騒がしく過ぎる毎日。予定通りに行かない日々の中で、たくさんのことを学んでいる最中。
 そんな俺が高二の夏休みに訪れたのは、青い、本当に青い空と海が出会う場所だった。
 そこで俺は、自分と自分以上に大切なものを見つけることになる。

 俺の長い夏休みは、こうして始まった。
 

 某県某市。一応『市』にはなっているけれど、という程度の街で電車を降りた。俺の住む街とは違って、風がすっきりと気持ち良い。アスファルトやコンクリートが熱せられた空気じゃなくて、土の地面が熱せられた空気の匂いがした。それと、微かに海の匂いも。
 駅からバスに乗って、市街地を抜け、海沿いの道へ。坂道を下ると目の前にばっと海が開けた。その瞬間、驚きと感動と、それと何故か懐かしさが溢れそうになった。バスのフロントガラス越しに見える、青い海。昼下がりの薄くて力強い日差しに照らされて、きらきらと輝いている。
「……だからな、啓吾。つまり『永遠の自由』なんてものは、誰でも努力次第で手に入れられるってことさ」
 これで隣にいるのが叔父さんじゃなかったら言うことないんだけどな……
 乗り合わせたお客は少ない。俺の住む街じゃありえないくらいに少ない。これから行く町がどれだけ田舎なのか、この時点で分かるような気もする。
 そんなお客の少ない状態でごちゃごちゃ言うモンだから、とにかく目立ってしょうがない。ちらちらと横目でこっちをうかがう女子高生の視線を感じながらも、俺はただ窓の外を眺めていた。
 海を左手に臨みながら、バスはゆっくりと進む。きらきら、きらきら。陽光を照り返して銀色に光る様は、まるで宝石のようだ。
 参ったな……こんなキレイな海を見るのは初めてだ……。
 自然と胸が高鳴ってしまう。視線を逸らすことが出来ない。心が、完全に奪われてしまった。昨日叔父さんに話を持ちかけられたときの暗たんとした気分が嘘みたいだ。
 俺は俺で窓に張り付きそうなくらいに浮かれているけれど、叔父さんも負けず劣らず浮かれているらしい。いつにも増して口数が多い。
「今回は夏のみの営業だが、冴が許してくれたらいつかこっちの方に移り住みたいと思ってるんだ。もちろん冴も一緒にな」
 冴さんというのは叔父さんの恋人で、『clock』の共同経営者でもある人だ。経営の才能が全くない叔父さんがここまで好き勝手出来るのも、ひとえに冴さんの苦労があるからこそだと思っている。すらりとしたスタイルの大人の女性で、パンツルックが良く似合う素敵な人。俺もいつか恋人にするならああいう人がいいなとかたまに思う。
 でも……店長でマスターな叔父さんがこっちに来たってことは……
(他の店、全部冴さんに押し付けてきたな……)
 そりゃあアルバイトだって何人かいるし、喫茶店なんてそう忙しくなることもないから平気だとは思うけれど、冴さんも良く認めたものだと思う。
 それにしても叔父さんの行動はいつでも他人に迷惑ばかりかけている気がする。それが『永遠の自由』だというのなら、ちょっと考えものかもしれない。
「啓吾もきっと気に入るさ。海は静かにそこに在り、風は優しく頬を撫でる。そして何より水が美味い! これが最高だな。美味いコーヒーは美味い豆と美味い水、そして最高の技術があってこそ、だからな」
 そんなわがまま気まま思いつきメインな叔父さんだけれど、叔父さんの淹れたコーヒーはとにかく美味いのだから世の中分からない。他のどの店に行っても、叔父さんのコーヒー以上のものは飲んだことがない。特別なコツがあるのかと思って以前聞いてみたのだけれど、「愛し合ってるんだよ。俺もコーヒーもな」としか答えてくれなかった。分かるような分からないような……
「まあ、夏なんてすぐ終わっちまうさ。もったいないけどな」
 珍しく感傷的な声で叔父さんが言う。外から中に視線を戻すと、それでも叔父さんは笑っていた。俺と目が合うと自然と目をそらした。
「良いところだぞ……海影町は……」
 窓の外――青一面の景色を見詰めて、いつもの雑な口調ではなく、とても涼やかな声で、叔父さんが呟いた。
 それはとても良い声で、俺は少し、ほんの少しだけ、うらやましいと思ったんだ……

 そんなこんなで俺はここ、海の影と書いて「みかげ」と読む、そんな町にやって来た。
 走り去るバスと、一緒に降りた数人のお客。俺たち以外の人たちはさっさとバス停を離れ、それぞれの方向に歩って行ってしまった。三人組みの女子高生らしい制服の女の子たちが、笑いながら坂道を上がってゆく。
 しかし……
「暑い……けど、なんか気持ち良いね」
 新幹線、電車、バスと半日近く座りっぱなしで固まっていた体を伸ばす。大きく弓なりに体を反らすと、自然と胸にしみ込む海からの風。瞼を閉じて、ゆっくりとその感覚を味わう。すっきりとした、良い風だ。
「日差しは強いんだけど、思ったより暑くないや」
「そもそもだな、都会のあの蒸し暑さが異常なんだよ。アスファストで覆われてない道はないし、建物は全部コンクリートだし、室内冷やすために街全体を暖めてるしな」
 叔父さんもさすがに体がぎしぎし言っているのか、肩を軽く回している。シャツの胸ポケットからタバコを一本取り出して、火をつけた。
「お、珍しく都会批判。叔父さんはどっちかってと田舎より都会派だと思ってたけど」
「そりゃ、経営者としては都会の方がいいさ。喫茶店なんてお客あってのものだからな。けどな、ここには俺の『永遠の自由』がある! それだけで他のどんな場所にも勝るってモンだな」
「へーへ……」
 いい加減聞き飽きて、聞き慣れた『永遠の自由』。
(そういえば……)
 まだ、それが何なのか、どんな意味なのか、俺は教えてもらっていない。いつか訊いてみようとは思っていたんだけれど、なんとなくその機会がないままここまで来てしまった。まあ、その内訊いてみよう。
 バス停のベンチに荷物を下ろしたまま、叔父さんはゆっくりタバコを吸っている。白い煙がふわりと吐き出されて、それが風に流された。
 タバコに火をつけたということは、多分しばらく動くつもりはないんだろう。正直助かる。新幹線も電車もバスも、肌寒いくらいに冷房が効いていて、少しうんざりしていた所だったんだ。
 ベンチに座って、大きく息を吸う。
 辺りを見ても、人の姿はない。車も通らない。とても静かだ。聴こえるのはただ一つ、波の音だけ。バス停の後ろは防波堤になっていて、その向こうはすぐ砂浜のようだ。都会みたいに蒸し暑くないのは、海のおかげかもしれない。
 それと、風。後ろの海から正面の坂道へ向かって、風が吹いている。吹いているというよりも、流れていると言った方がぴったりかもしれない。それくらい、穏やかな風。強い日差しで熱せられたアスファストを冷やして、坂道の両脇に立つ木々の梢を揺らして、山へと上ってゆく。
(海がある。風が吹いている。山がある……贅沢な所だな……)
 これで渓流でもあれば、絶好のキャンプスポットになりそうだ。
 陽炎で霞む、海沿いの道。バスは俺たちを運んで、そして走り去って行った。海岸線に沿った道なんて最高のロケーションだ。多分あのバスは俺の知る限りで一番幸せ者なバスだと思う。こんな素敵な場所を毎日走り続けているのだから。
 正面を見る。海岸段丘というのだろうか、斜面はやがて切り立った崖になっていて、その向こうに山裾が見える。坂道はくねくねと曲がりくねって、山を目指す。うっそうと茂る木々の間に、点々と家の屋根が顔を覗かせている。とにかく自然が多い。ここから見た感じだと、人が住んでいるのが信じられないくらいだ。ガードレールの描く白い軌跡も途切れ途切れに、青葉が鮮やかに町を覆っている。
「……田舎だねえ……」
「良いトコだろう?」
 確かに、良い所だ。静かだし、蒸し暑くないし、空気も旨い。せかせかしていた地元での暮らしが嘘だったかのように思えるくらいだ。とても穏やかに、時間は流れて行く。
「で、だ」
 叔父さんがポケット灰皿にタバコを押し付けて、言う。
「店はここから少し歩いた所なんだが」
「うん」
「どうする?」
 ……いやまあ、どうするも何も……
「まず荷物置いてから考えない?」
 俺も叔父さんも、かなり大きな荷物を抱えている。叔父さんは旅行カバン、俺はスポーツバッグ。何をするにしても、こんなものを背負ったままってのは疲れるじゃないか。
「そうだな、そうしよう」
 いつもの適当な口調を消して、叔父さんは立ち上がった。
 この人は時々こういうことをする。答えは決まりきっているはずなのに、俺に意見を求めたりするのだ。そういう時は大抵、試されているのかもしれないとか思って嫌な気分になる。自分の出した答えが、出来損ないのように思えてしまう。
 でもまあ、気にしていても仕方ない。いつまでもバス停でぼーっとしている訳にもいかないし。
 荷物を背負い、アクリル板が作ってくれていた日陰から一歩出る。あまりに強い日差しで、目の前が真っ白に焼けるような感覚。
「さあ、行こうか!」
 ガキみたいに「にかっ」と笑って、叔父さんが歩き出した。
 太陽が、俺の肌を照らす。じんわりと汗ばむのを感じながら、叔父さんの背中を追って一歩を踏み出した。


『ここに居る理由……って、必要なのかな?――藍香』

 耳に残って消えない言葉。どうしてこんなにも強く残っているのか分からない、そんな言葉。
 ついさっきバスの中で耳にしただけ。それも、空耳かもしれない。とても小さくしか聞こえなかったし。それなのに、どうして……
「――ヤ、アヤってば! 聞いてる?」
「え……?」
 顔を上げると、見慣れた女の子が頬を膨らませていた。
「アヤ、また何か考え事しながら歩いてたの?」
 アヤ、というのが私の名前。本名は沙羅藍香(さら あいか)というのだけれど、あまり好きじゃない。インパクトが強過ぎるし、目立つ名前とは逆に私自身は地味な方だから。
 藍香なら「アイ」じゃないか、と思うかもしれないけれど、「愛」っていうのも少しかわいらしいイメージがする。私には相応しくない。だから私は「アヤ」。自分で言い出したのか、それとも誰か他の子が言い出したのか、今となっては覚えていない。
「ん……考え事って訳でもないんだけど……」
 隣を歩く水出悟子(みずいで さとこ)ちゃんに苦笑いを返す。とても美人で、運動も出来て、いつも元気で、学年問わず男子に人気のある悟子ちゃん。小さな頃からずっと一緒に海影町で育ってきた。狭い町だから同じ歳で知らない人はいないけれど、何故か悟子ちゃんとはいつも一緒にいる。
 私はあまり友達が多くない。あまり自分の意見を言うのが得意じゃないから、良く「つまらない子」と陰口を言われていた。言い返せないくらいに当たっているのが哀しかった。私は、つまらない子。
 そんな私と正反対の悟子ちゃん。実は結構な心配性だったりする。私の顔をじーっと見て、「熱中症とかじゃないみたいね」と胸を撫で下ろしている。
「部活で疲れた?」
「そんなことないよ」
「夜更かし……はアヤに限ってありえないし……」
 眉間にしわを寄せて考え込んでいる。私のことにここまで一生懸命になってくれるのは嬉しいんだけど……
「あのね、悟子ちゃん。ホントに何でもないから……」
「だって、アヤが目で自分の靴追ってるときって、沈んでるときじゃない?」
「あ……」
 そういえば、そうかもしれない。でも、足元を見て歩くのはもう癖になってるし……
「違うの。ただ、さっきバスの中にいた人が言ってたことが気になって」
「ああ、あの中年の格好良い男の人と、線の細い弱そうな男のこと?」
 隣街からこの海影町に来るバスに乗る人は、いつも同じ。だから、見慣れない人が乗っているとすぐに「よその人」なんだなって分かる。悟子ちゃんが同年代の男の子を悪く言うのはいつものこと。「男の色気は三十越えてから」が持論らしいし。
「何か言ってたの? 私茜と話し込んでて聞いてなかったんだけど」
 茜ちゃんというのも、私たちの同級生。部活をやっていない茜ちゃんと帰りのバスが一緒になることは珍しいから、悟子ちゃんもつい話し込んでしまったのだと思う。私と茜ちゃんは家が近いから一緒に帰れるかと思ったけれど、商店街に寄るというので途中で別れた。大人びた感じのする、物静かだけれど物事をはっきりと言う女の子だ。
「えっとね、しばらくこの町にいるみたいなんだけど……それで……」
「えー! よそ者が? 何か嫌だなあ」
「ま、まあそれでね、大人の人の方が『良いところだぞ、海影町は』って言ってて」
「ふーん……」
 急に黙り込んでしまった。歩く足取りはそのままで、口元に指を添えている。悟子ちゃんが考え事をするときの癖だ。こういう仕草が自然に出るかわいらしさっていうのは、同性から見てもいいなと思う。男の子に人気があるのも当たり前かもしれない。
「で、アヤはどう思うの? 海影町って良いところだと思う?」
「ん……」
 少し考える。でも、答えなんて考えるまでもなかった。
「分からないよね」
「そうよね、分からないわよね。比べようにも他のトコ知らないしね」
 高校に入学するまで、私はこの町から出たことがほとんど無かった。小さな頃は旅行に連れて行ってもらったこともあったらしいけれど、良く覚えていない。高校はこの町にないから隣街までバスに乗って行っているけれど、隣街とこの町だけを比べるっていうのもおかしい気がするし。
「清水君とかだったら何て言うかな?」
 ふと思ったことを口にしてみる。清水君、ていうのも同級生で、小学校の途中で引っ越して来た、見た目も中身も秀才といった感じの子だ。
「何でここでアイツの話を出すかな……」
 げんなりした口調で悟子ちゃんがぼやいた。というのも、二人は恋人同士だから。本人たちは否定しているけれど、側で見ているとそうとしか見えない。いつもお互いの部屋を行き来しているし、一緒に隣街まで買い物に出たりすることも多いみたいだし。
「アイツだって似たようなもんじゃない? どうせ昔のことなんて覚えちゃいないわよ」
 ぶっきらぼうにそう言っているけれど、その言葉の中に少しだけ寂しさが混じっているのが分かった。もしかしたら、二人が子供の頃に何かあったのかもしれない。
 私は特に何も答えずに、黙っていた。何となく、二人とも黙り込んだまま歩く。
 バス停からの坂道。海と山を結ぶ坂道。私の家はこの坂道を登りきった先にある。悟子ちゃんの家は坂道を途中で左に折れてしばらく行ったところ。大人の人たちは坂の上を『星里』、坂の途中を『浜道』と呼んでいる。古い名残だとか。浜道には商店街があって、星里には役場や学校がある。だから、この坂道は海影町に住んでいる人にとっては誰でも歩き慣れた道。
「しっかし暑いわね……夏なんて無くて良いのに……」
 完全にダレきった口調で悟子ちゃんがぼやいた。私は苦笑いを浮かべた。
「悟子ちゃん、冬も無くて良いとか言ってたよ?」
「私にしてはまともな意見ね。良いこと言うわ、私」
 ふわりとした風が、私たちの背中を押すように吹いている。海から吹く風。途切れることなく吹き続ける、私たちにとっては当たり前の風。この風が吹いているから、この町は真夏でもそれほど暑くない。日差しは強いけれど、それも心地良く感じさせてくれる。
「冬は厚着すれば乗り越えられるからまだマシだけど、夏なんて服全部脱ぐ訳にもいかないし、汗は拭いても拭いても出てくるし、べとべとするし、目に入ると痛いし……」
「それは……確かにそうかも」
「それに何より! 蝉がうるっさいのよ!」
 蝉の声に対抗するような大きな声で、坂道の脇の林に向かって叫んだ。私はそれが面白くて、少し笑ってしまった。そんな私に、悟子ちゃんが笑い返す。
「元気、出てきたみたいじゃない」
「あ……」
 もしかして、私に気を遣ってくれたのだろうか? 切れ長な目が、優しく私を見詰めている。
「うん」と頷いて、微笑を返す。悟子ちゃんのこういうところって、いいなと思う。
「それにね、」と悟子ちゃんが続ける。
「それに、良いところだろうが何だろうが関係ないわよ。私たちがここで暮らすことを選んだ訳じゃないんだもの。大人になってこの町を出てさ、たくさんの場所を見て、それでもこの町で暮らすのを選んだなら、『海影町は良いところ』ってことになるんじゃない?」
 照れているのか、視線を空に向けて早口でそう言った。
「ここに居続ける理由が一つでもあるんだったら、それはアヤにとって『良いところ』になるし、他の場所に行かなくちゃならない理由があるんだったら、そっちの方が『良いところ』になるってことでしょ?」
「私にとって、か……」
 どうなのだろう? 海影町は私にとって『居続けたい』と思える理由のあるようなところなのだろうか?
「あー……だからそんな難しく考え込まないでよ。どうせ分かるのはまだまだ先の話なんだからさ」
「うん、そうだね」
 私たちはまだ高校生だし、大人になるには少し時間がある。答えを出すのは後回しでも良いのかもしれない。
 と、もう一つ思い出したことがあったので言ってみた。
「……『永遠の自由』……?」
 思い切り胡散臭そうな顔をして、悟子ちゃんが繰り返した。肩ががっくりと落ちている。
「なによその体中の力根こそぎ強奪してくような台詞……」
 そうだろうか? 私はちょっと良い言葉だなとか思ったのだけれど。
「男はそういう無意味にロマンチックなの好きよね」
 確かに、男の子は似たようなことを言う人が多いかもしれない。でも、言っていたのは大人の人の方だった。だから何か深い意味でもあるのかと思ったのだけれど……
「それか何かの冗談なんじゃない? だいたい『永遠』も『自由』もありゃしないわよ」
「ん……」
 何て答えて良いか分からなくて、とりあえず悟子ちゃんの話を聞くことにする。
「永遠に生きてなきゃならないんだったら絶対誰も努力なんてしないし、本当に自由だったら誰も何もしないわよ」
「そうかも」
 悟子ちゃんらしい極端な意見。でも、当たってるかもしれない。
「っと、じゃあ今日はこれでね。練習頑張りな」
 気が付けば、鳥居のある辺りまで来ていた。本当はもっと下にある道を曲がると近いのだけれど、私と一緒に帰るときはいつも遠回りしてここまで付き合ってくれる。
「うん、それじゃあまた明日ね」
 小さく手を振る私と、大きく腕ごと手を振る悟子ちゃん。スカートをくるりとひるがえして、悟子ちゃんは鳥居の下の小道へと入って行った。
 一人になると、何だか蝉の声が大きくなったような気がする。この季節はいつも感じること。自分の足音と、風の通り過ぎる音と、蝉の声。波の音はここまでは届かないけれど、かすかに海の匂いだけはする。そんな中、私は残りの坂道を歩く。

「練習頑張りな」と、別れ際に悟子ちゃんはそう言った。何の練習なのかと言うと……
(この格好じゃあ分からないよね……)
 一年振りにタンスの奥から出した服。着てみると、少し袖が短い気がした。だからこうして鏡の前で確認しているのだけれど、
(これじゃあ、まるっきり巫女さんにしか見えないと思う)
 毎年同じことを思っている。襦袢の上に白衣を着て、緋袴を履く。この季節にこんな厚着をするなんて、と思うかもしれないけれど、生地は薄手で通気性の良いものを使っているので見た目ほど暑くはない。本当はこの上にもう一枚、千早という服を羽織るのだけれど、それは本番だけ。もちろん髪飾りをしたり鈴をつけたりもする。
 何の本番なのかというと、それは夏祭り。
 海影町には、毎年夏になるとお祭りがある。どこにでもある夏祭り。小中学生がお囃子を演奏して、大人の人たちはお酒を飲む。出店も出るし、隣街からわざわざ足を運んで来る人もいる。
 他のところと少し違うのは……巫女役の女の子が一人、神楽舞を踊ること。
 海影町には一つだけ神社がある。坂の途中の鳥居の置くにある、小さな神社。名前は「春香神社」。巫女が踊ったりするのは、その神社が出来た由来からきているらしいのだけれど、私は詳しく知らない。ただ、お爺さんやお婆さんの中には、私の舞を見て涙ぐむ人もいる。どうやら哀しくて辛い由来があるらしい。
 私が初めてこの役をやったのは小学校六年生の頃。今年で六回目になる。何度やっても、この格好はやっぱり恥ずかしい。
「じゃあ、行ってくるからね」
 少し大きめの声で呼びかける。遅れて「うーん」と小さく返事が返ってきた。面倒くさがりやの弟が、部屋で寝そべったまま答えているのだろう。
「もう少し経ったら洗濯物取り込んでおいてね」
 今度は返事がなかった。聞こえない振りをしているのだろう。日が沈み始めるとせっかく乾いた洗濯物が湿気るから嫌なんだけれど……
 でも、平気だろう。そういうことはちゃんとしてくれるはずだ。だって、今この家に住んでいるのは私たち二人だけなんだし。
 二度目の「いってきます」を言って、玄関を出る。地面からむっと上がってくる熱気に、思わず目を細める。
 そろそろ、夏が本格的に始まる。

 私の家がある「星里」は、ちょっとした平地になっている。海を前に見て、後ろには山。その間の、階段で言うと踊り場のような場所。開けた場所に、たくさんの畑が並んでいる。
 車が一台やっと通れるくらいの幅の砂利道を抜けて、アスファルト舗装されている道に出る。この道は海辺のバス停と町役場を結ぶ道。小中学校は役場のすぐ隣に建っている。
 海の方に向かって、その道を歩く。毎朝通る、歩き慣れた道。草鞋を履いた足に、焼けたアスファルトが少し熱い。
 ふっと、風が吹き抜けた。静かに、ゆっくりと。両脇に広がる田畑の緑を小波のように揺らして通り過ぎて行く。この季節の風は、いつも優しい。
 うっすらと汗ばむ肌をそのままにして、私は歩く。どうして悟子ちゃんが夏を嫌っているのか分からない。こんなにも気持ち良いのに。
 すれ違う人も、行き交う車もない、静かな道。時々畑仕事をしている人が見えるけれど、邪魔するのも悪いので黙って通り過ぎる。ただ、自分の足音と蝉の声だけが聴こえる。
 坂道にさしかかる手前に、道が一本交差して走っている。左に行くと舗装は途中で切れて、林道に入る。右に行くと住宅地があって、別の坂道に繋がっている。私はいつものように一度そこで足を止める。一時停止して左右を確認する、って訳じゃなくて、ただの癖。いつからか、この場所で立ち止まるのが癖になっている。それから、呼吸を一つして坂道に足を踏み入れる。
 蝉の声がだんだんと大きくなってくる。それに混じって、かすかに水の流れる音も聴こえる。この辺りは湧き水が豊富で、そこかしこに水場が作ってある。古いものから新しいものまで、たくさんの水場がある。なんでそんなにたくさん必要なのか、と町長の田中さんに尋ねたら、「場所によって少しずつ味が違うんだよ」と上機嫌に笑って言った。
 坂道の両脇には、林。というよりも、森の中を縫うようにして坂道が走っていると言った方が正しいかもしれない。所々で大きく枝を張り出した木々が、アスファルトに黒い影を落としている。
 緩やかなカーブを描く坂道の脇には、点々と家が建っている。でもそのほとんどは都会に住んでいる人が建てた別荘だったり、空き家だったりする。もちろん人が住んでいる家もあるけれど、この町の人たちはあまりこの坂道の近くには住みたがらない。それも、古い慣わしみたいなものらしいけれど。
 やがて、さっき悟子ちゃんと別れた辺りに差し掛かる。ぼーっとしていると見落としてしまうくらい小さくて目立たない鳥居の辺りだ。坂道を右に曲がって、鳥居をくぐる。
 鳥居の向こうは、真っ直ぐな一本道になっている。きちんと手入れのされた木々が、等間隔で並んでいる。一本一本に注連縄が巻かれていて、ここから先は「神域」なんだよ、と教えてくれる。そんな「神域」でも蝉には関係ないらしくて、相変わらず元気に鳴いているけれど。
 風のない日陰の小道。この道を歩いていると、何だか気が引き締まるように感じる。この先に神社があるからなのかもしれないし、それ以外の理由があるからなのかもしれない。でも、こうしてゆっくりとこの道を歩いていると、私が本当に巫女さんになったようで、思わず背筋が伸びてしまう。このときだけは、足元を見る癖も出ない。
 日陰の小道の終わりには、真っ白な日差し。日陰と日当の境界線が、はっきりと見て取れる。
(まずは掃除をして、それから道具を出して……)
 練習の時間にはまだ早いから誰もいないだろうけれど、それくらいなら私一人でも何とかなる。
 よし、と意気込んで境内に足を踏み入れたとき――
 左手側、海の方向から音が聴こえた。
 音というよりも、それは旋律。細くて控え目で、でも力強いような、そんな……
 普段ならこの場所は、蝉の声くらいしかしないはず。それなのに……
 今耳に届く旋律は、何故だかとても――
(どきどき、してる……?)
 その音の聴こえる方に、足を踏み出した。頭の中は、ほとんど真っ白だった。

 日陰の小道の終わり、境内の手前を左に向かった。立派な木々の間を、音を頼りに進む。
 だんだんとはっきりしてくるメロディ。聞き逃してしまいそうな旋律。
(どうして、こんなにも)
 胸が、高鳴っているのだろう?
 分からないまま、最後の木を通り抜けると……
 そこには、見慣れない男の人が立っていた。

(うわ……)
 音の正体は、口笛だった。聴いたことのない曲、知らないメロディ。
 口笛を吹いているのは、見慣れない背格好の人。紺のシャツに、履きこなしたジーンズ。ポケットに両手を入れて、背中を真っ直ぐに伸ばしている。少し背の高い、スタイルの良い男の人だ。
 その人が立っている場所は、境内の外れ。ちょっとした柵が作られていて、その先は崖になっているところ。あの場所からは……
 この町と、海が見えたはず。
「あ……」
 思わず声が出てしまったのは、口笛が途切れてしまったから。早くなっていた鼓動が、もっと早くなる。
(ど、どうしよう……)
 絶対、私がいることに気付いたはずだ。かといって隠れるのも逃げ出すのも変だし……
 どうすれば良いのか分からないでいると、男の人は振り返った。
「……巫女さん……ですか?」
 きょとんとした顔が、私に向けられている。慌ててしまって、早口でまくし立てた。
「あ、えっとその……これはそうじゃなくて……巫女さんなのは服装だけで、私は違って……その……」
「あー……とりあえず落ち着きましょ?」
「……はい」
 恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。顔を上げられなくて、うつむいたままで言う。
「その……巫女さんじゃなくて、お祭りの練習があるからこの格好してるんです」
「ああ、なるほど」
 声が、さっきよりも近い場所から聞こえた。
「それであの……覗いてた訳じゃないんです。ただ、音が聴こえて、それが口笛で……その……」
「口笛……?」
 どうしよう。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
 足元を見ながら出した声は、とても小さくて細いものになってしまっている。
「ああ! 分かった!」
 少し間を置いてから、男の人が言った。
「つまり、巫女さんは口笛の音が聴こえたから何事かとここに来た。で俺がいて、口笛が止まった。俺が覗かれていたから怒っていると思ってる。そういうことでしょ?」
 こくこくこく、と、うつむいたまま首を縦に振った。
「いや、別にそんなことじゃ怒らないし、むしろ俺が怒られても仕方ないくらいですよ。勝手に境内に入ってぼーっと海なんて眺めてんだもん」
 男の人独特の、耳がくすぐったくなるような声。そんな声が明るく笑い飛ばしてくれた。
 でも、やっぱり海を眺めていたんだ……
「あの……巫女さん?」
「あ、はい……」
「そろそろ顔、上げません?」
「はい……」
 巫女さん、という呼び方は仕方ないにしても、すぐに顔なんて上げられっこない。出来ることなら今すぐにでもここから逃げ出してしまいたいくらいなのに。
 それでも、反射的に「はい」と返事をしてしまったからにはこのままって訳にもいかない。小さく深呼吸をして、ゆっくりと顔を上げた。
(わ……)
 びっくりしたのは、距離。思ったよりも近くに、その人は立っていた。手を伸ばせば届くくらいの距離だ。また顔が赤くなってしまう。
「邪魔になると悪いんで、これで失礼しますね」
 私が何も言わないのを見て、軽く頭を下げて歩き出す。私の横を通り過ぎて……
「あ……」
「あ」
「…………」
 何故か、私はその人の手をつかんでいた。
(ど、どうして?)
 頭の中は今度こそ真っ白で、何も考えられない。手を離すことすら忘れて、そのまま固まってしまう。
「……その、名前……」
「名前?」
 絶対、変に思われてる……何で私、手つかんだりしてるんだろう……
 でも、目の前の人はすぐににっこりと笑って答えてくれた。
「星見啓吾。十七歳の高二。しばらくこの町で暮らすことになったんだ。よろしく巫女さん」
「えっと、巫女さんじゃなくて……沙羅藍香って言うんです。それで、私も高校二年」
「あ、同じ歳なんだね。それじゃあ、よろしく沙羅さん」
 私の手を空いている方の手で取って、握手。私よりずっと大きな手が、私の手をそっと握ってくれている。
「みんな、私のことアヤって呼ぶんです。だから……」
「分かった。それじゃ、よろしくねアヤ」
 見上げるようにして、星見君の顔を見ている。何だかとてもすっきりとしていて、優しそうな顔つきだ。
「んじゃま、俺はこれで。実は叔父さんから逃げ出して来てるんだよね」
 へへへ、と気まずそうに笑う。叔父さん?
「ああ、そこの坂道の途中に『clock』って看板出てたの分かるかな?」
「あ、そういえば……」
 ちょっと前に工事をしていた家があった。看板には気付かなかったけれど、多分……
「喫茶店……?」
「そうそう。ウチの叔父さんの店で、手伝いに駆り出されたんだよね俺。昼過ぎくらいにこっちに着いて、すぐ掃除とか始めたんだけど……」
 そこで、一度溜め息が入った。とても長くて大きな溜め息。
「明日開店なんて、まず無茶だと思うね」
 海影町の商店街には、喫茶店なんてない。この辺りの若い男の子が溜まり場にしている食堂はあるけれど、喫茶店みたいな雰囲気のお店じゃないし。
(喫茶店か……)
「じゃあ、俺行くよ。しばらくはその『clock』って店で働いてるから、もし良かったら顔出してみて」
 元気の良い、まるでいたずらっこのような笑顔を残して、星見君は走り去って行ってしまった。繋いでいたはずの手も、いつの間にか離れていた。

 なんだか……不思議な経験をしてしまった。思い出すと、胸がどきどきいってしまう。
 境内の掃き掃除をしながら、ぼーっと考える。
(凄く綺麗な音の口笛だったな……)
(髪の毛、太陽に透けて金色だった……)
(星見啓吾君……)
 つらつらと、印象だけを並べる。
 もしかしたら、変なコだと思われたかもしれない。こんな格好だし、焦って言葉は声にならなかったし、急に手をつかんだりするし……
 どうしてあんなことをしたのか、本当に分からない。何かを考えたり思ったりする前に体が動いてしまっていた。あんなことって、あるんだなぁ……
(考えてみれば、私……)
 男の人と手を繋いだのは、初めてかもしれない。こうして思い出しても、やっぱり頬が熱い。
  走り去る背中に、目が離せなかった。繋いだ掌の感触が、まだ消えずに残っている。

(そこの……木の向こうで……)
 背筋を伸ばして、口笛を吹きながら――
 海を見ていた。
 頭の中でリフレインする、あの言葉。
『良いところだぞ……海影町は……』
 星見君も海を見ながら、そう思っていたのだろうか? だとしたら……
 私も、この町を好きになれるかもしれない。

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