水色の旋律

最後の旋律 春香の旋律     next

 じりじり、じりじりと、音まで聴こえそうな太陽の光。真っ白に輝く太陽から、私の生まれ育った村に、私の体に、降り注いでいる。
 じりじり、じりじり……
 この砂浜を、青い海を、ゆっくりと時間をかけて暖めてゆく。
 私は目を閉じて、耳を澄ます。そうすると、たくさんの音が聴こえる。
 大勢の人の息遣いと、衣擦れの音。まるで、私を急かしているように聴こえる。
 聴こえていたはずの蝉の声も、この砂浜までは届かない。
 それと、波の音。
 子供の頃は、この音が嫌いだった。私を飲み込んでしまう、海の音が。
 誰にも助けを求められずに、たった一人で泣いていた。寂しさと、哀しさに涙を流していた。
 でも、どうしてだろう? 今は、この途切れることない波の音が、こんなにも私を落ち着かせてくれる。安らぎを、与えてくれる。
 私を育ててくれたこの村の、海。その海が歌う、終わりのない歌。透き通って、流れて過ぎ去る、柔らかな旋律。
 目を閉じたまま、私は笑顔を浮かべる。あの人に向けたのと、同じ笑顔を。
葉生ようせいさん……)
 目を開いて見えたのは、色のぼやけた海。それと、空。小さく息を吸って、小さく吐く。ぼやけた青さが、少しずつはっきりとしてくる。海も、空も、とても綺麗な青さで、私を迎えようとしている。何も哀しむことはないんだよと、そう言ってくれているような気がする。全てを受け入れてくれる、完璧な、青さ……
春香はるか……」
 私の名前。春の香りという、父がつけてくれた名前。それはきっと辛い冬にのみ求められ、暑い夏には思い出してももらえない。物悲しい秋の夜には存在すらも忘れられているような、そんな春の香り。
「はい」
 私が決めたこと。誰に決められたのでもない、初めて自分で選んだこと。
 私は一歩踏み出す。どんなことでも許せるような、そんな青い景色の中に。
(葉生さん、やっぱり……来てくれないんだね?)
 最後の瞬間に想うのは、あの人のこと。今の私を一番見て欲しかった人。
 もっと早くに出会いたかった、大切な男の人。
 その姿を見てしまえば、多分私は泣いてしまうと思う。でも、もう一度だけあの人に会いたかった。
 色の薄い髪の毛、少し痩せた頬、口の片方だけを上げる笑顔。考え事をしているとき、眉間にしわを寄せる癖。困っているときは、眉を上げる。真剣な話をするときは、目をとても綺麗に輝かせていた。
 沢山の新しいことを教えてくれた。新しい気持ちを教えてくれた。忘れていたことを思い出させてくれた。
 欲しかったものを、与えてくれた。
 耳を澄ませば、今でも聴こえる。私を落ち着かせてくれる、ゆっくりとしゃべる声が。
 だから平気。この瞬間に会うことが出来なくても、私は……
 あの人のことを、忘れたりはしない。決して。


1・真夏の青い景色の中で 白く眩しい少女と出会う

 じりじりと、音まで聞こえてきそうな、凶暴な日差し。汗だくになりながら、俺はやっと辿り着いたバス停に転がり込んだ。バス停、とはいってもちょっとした小屋のようになっている。おかげでこの必要以上に力強い太陽から、完全に逃げることが出来た。正直、助かった。
「っあー……疲れた……」
 朝からずっと背負っていた鞄を長椅子に放り投げ、自分も倒れ込むようにして座る。半日も海沿いに歩いたのだ。もう体力なんて残っていない。街育ちの俺には、アスファルト舗装されていない道、というのはどうにも歩きづらくてならない。ろくに整備もさせていない道を歩いたせいで、体中あちこちが痛い。
 バス停の中は薄暗くて、涼しかった。息を整え、水筒の生温い水を飲み、目を閉じると、だんだんと眠気が襲ってきた。半日も歩き通したんだ。少しくらいは眠っても誰も文句は言わないだろう。誰もいないけれども。
 長椅子に横になった。鞄は枕にするには丁度良い。涼しくて、静かで、昼寝をするにはもってこいの場所だ。
 目を閉じると、波の音が聞こえる。それと、蝉の声。静かな中で、控え目に聞こえる二つの音に、俺は意識を傾ける。
 夏の、音が聞こえる。
 ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐く。だんだんと、意識が遠のいて行く。
 遠くに聞こえる波の音が、まるで子守唄のようで……
 俺は、とても深い眠りに沈んでいった。

 短い夢を見た。夢を見た気がした。
 古い、とても古い記憶のような気がした。
 どこの国の船籍とも分からない、大きな古びた船を見上げている俺の姿。
 波の音がその記憶を呼び覚ましたのかもしれない。子供の頃、良く港で船を見て時間を過ごしていた。
 どこか、違う場所に行きたかったのだろうか?
 そして、俺は違う場所に行って何をしようと思っていたのだろうか?
 そんな、とても短い夢を見たような気がした。

(……白?)
 目を覚まして最初に見えたのは、白だった。白い影が揺れている。
 疲れの残っている体を半ば強引に引き起こし、何度か瞬きをする。焦点の合った視界に写ったのは、少女の姿だった。
「あ、起きました?」
 起き抜けに「起きました?」と声をかけられたのは初めての経験だ。白い少女は元気良く振り返り、笑顔でそう言った。とりあえず俺は「ええ、まぁ」と簡単に答える。
「もう少し待っていてくれますか? あとちょっとで終わりますから」
「はぁ……」
 そう言うと、少女はまた俺に背を向けた。どうやら壁を拭いていたらしい。見ると手には雑巾を持っている。足元には水の入った桶もある。
(つまり、だ)
 状況を整理してみよう。少女はここを掃除している。俺はここで眠っていた。で、起きた。少女は掃除があとちょっとで終わるという。
(それでどうして俺が待つ必要があるんだろう?)
 疑問に思ったが、とりたてて急ぐこともないし、起き抜けで体も動かないし、何よりまた暴力的な直射日光を浴びるのが嫌だったので、とりあえず待つことにした。
(そういや、締め役の田中って人を頼ってみろって言ってたな)
 今朝まで数日、俺はこの村の隣町に寝泊りしていた。旅費を稼ぐためだ。そこで世話になっていた酒屋の主人が教えてくれた。とても親切な人だった。
『この村の北にはどんな村がありますか?』と尋ねたら、『海沿いに歩けば、すぐに浜道という村がある』と。『田中って人が締め役をしてるから、頼ってみると良い』と。村の目印は、今いるバス停だ。だから俺は朝一番で隣の町を出て、海沿いに歩いて来た。
(まさか、すぐってのが『半日歩く』ってことだったとは思わなかったけどな)
 苦笑いが浮かんだが、それでもたどり着いてしまえば何てことはない。途中、何度も「バスを使えば良かった」と後悔したが。
 まあ、今は素直にその田中って人を訪ねてみよう。せっかく教えてもらったんだ。無駄にすることはない。
 そうなると、ここに地元民らしい少女がいるのは運が良かった。日頃の行いどうこうは関係ないにしろ、話が早くて助かる。
「あの、すみません」
「ごめんなさい。すぐ終わりますから」
「あ、はい」
 ……分かった。待とうじゃないか。そう決めて、とりあえず少女の姿を眺めていることにした。一生懸命に掃除をしている様子を見ているのは、退屈じゃあない。
 小屋の外を見ると、真昼の太陽が妙に白々しく降り注いでいた。


 二ヶ月前の出来事だ。俺の、生まれた家での出来事だ。
「葉生」
 名前を呼ばれた。生まれてから十八年、俺はそう呼び続けられてきた。
「出て行け」
 簡単な言葉だ。他にどう解釈のしようもない。そして、そう言ったのは俺の実の父親なのだった。
 何となく、部屋の中を見回す。そこにあるのは柱時計から灰皿まで、全てが高級品で構成された、趣味の悪い部屋だ。この街で指折りの豪商、東雲しののめ家の主の部屋に相応しい、成金趣味の部屋。同じ屋根の下で暮らし、育ってきたが、結局この父親の趣味は理解出来なかった。趣味だけじゃない。考えていることすら理解出来なかった。血は繋がっている。それは間違いない。でも、そんなものは何の絆にもならないことを、俺は短い人生の中で学んだ。
「東雲の名前をこれ以上汚す前に、ここから出て行け」
 ドブネズミでも見るかのような視線と、慈悲の欠片もない言葉に、俺はもう傷付きはしない。そんな時期は、もうとっくの昔に過ぎた。今はただ、この男の元から離れられる、ということしか頭にない。
 やっと、この下らない柵の外に出ることが出来る。
 黙って踵を返し、分厚い扉を押し開けた。唾でも吐いて笑いたい気分だ。 
 背中越しに扉が閉まり、俺の父親はもう父親ではなくなった。廊下で大きく深呼吸をする。
 世界の色がはっきり見えるような、そんな気持ちになった。

 俺はそうやって、家を出た。長い雨が続いた時期のことだ。あれから二ヶ月、俺は旅をしている。
 家を出た当初は、適当に離れた場所で仕事と寝泊りする部屋を探そうと考えていた。でも、訪れる場所でたくさんの人と出会い、たくさんの仕事をするにつれて、もう少し旅を続けてみようと思うようになっていた。旅の空が性に合っている、という訳ではない。ただなんとなく、旅を続けている。
 そして、この浜道という海辺の寒村にまで流れ着いた。ここで俺の旅が終わるなんて、思ってもみなかった。


「すみません、お待たせしました」
 十分くらいはかかっただろうか? 背中を眺めているのにも飽き始めた頃に、ようやく少女が手を止めた。
雑巾を桶に入れ、くるりと振り返る。
「えっと、よそから来た方ですよね?」
「ええ。名前は桐生きりゅう葉生と言います。隣町から歩いて来たんですが、締め役の田中さんの家を教えてもらえますかね?」
 桐生、というのは母方の姓だ。東雲と名乗るのは、もう止めていた。東雲の名前に縛られるのは、もういやだったから。母親の姓を名乗っているのは、母がもういなくなってしまった人間だからだ。それ以外の理由は無い。
「隣町って……歩いて? 本当に?」
「ええ、まぁ……」
 驚かれてしまった。やはり驚くような距離だったのだ。旅費をけちらず大人しくバスを使っていれば良かった。今更後悔しても遅いが。
「あの、どういったご用件でしょうか?」
「しばらくこの村に滞在したいので、仕事でも頂けないかと思いまして。それで、隣町で世話をして下さった方が、締め役の田中さんという方を頼ってみろ、と教えてくれたので」
「えっと……」
 少女は、何かを考えているようだ。何となく、観察してみる。
 伸ばした黒髪は丁寧に梳かれているようで、癖も無くさらりと流れている。色は白い。こんな海辺の村に住んでいるにしては珍しいかもしれない。身長はだいたい俺よりも頭一つ半くらい低い。線は細くて、どこか頼り無い感じがする。歳は十六か十七くらいだろう。俺よりも年下に見える。大人と子供の境目に立っている、少女としか言い表せない年代だ。俺は少し前に通り過ぎてしまった時期。そんな、脆くて綺麗な輝きを持っている年代の、少女。
「それなら、私が案内しますね」
「あ、いや、それは悪いですよ。場所だけ教えて頂ければ自分で探します」
「いえ、その田中って家、私の家だから」
「……え?」
「私、田中春香っていいます。この村の締め役は、私の父なんですよ」
「そうなんですか?」
「はい」
 満面の笑みでそう答えられた。話が早くて助かる。ただ、こんなにも無防備で良いのだろうかと、逆にこっちが心配になってしまうような笑顔だが。
「それじゃあ、早速案内しますね」
「お願いします」
 長椅子から立ち上がり、鞄を背負う。こうも話が順調に進むとは思わなかった。
「あ、そうだ」
「はい?」
「しばらくこの村にいるんだったら、多分私の家で寝泊りすることになると思います。私の家、部屋がたくさん余っているから」
「はい」
「だから、その他人行儀な口調は止めましょうよ、葉生さん。少しの間でも、私達は家族になるんだし」
「あー……」
 何というか、こういう娘なんだな、と思った。
「分かった。これからよろしく、春香さん」
「春香、で良いですよ。父も私をそう呼びますし」
「春香」
「はい」
 日陰でも眩しく感じるくらいの、笑顔。思わず目を細めてしまいそうになる。
 春香は跳ねるようにしてバス停の外に出ると、手を伸ばして俺を呼んだ。
「行きましょう。私達の家に」
 その仕草が、少しだけ真夏の日差しを忘れさせてくれた。

 元気良く太陽の下を歩く、白い服の少女。高い位置にある太陽から降り注ぐ、色の薄い光に照らされて、まるで夏の幻のようだ。
「葉生さん! 頑張って下さい!」
 息切れで声も出ずに、手だけで答える。
 バス停を出ると、目の前には長い坂道があった。一番上は陽炎でかすんで見えないくらい、長い坂道。そんな坂道を、今歩いている。
 坂道は曲がりながら山へと伸びている。道の両脇には林があって、丁度その間を縫うようにして通っている。木に遮られた陽光が、カーテンのように道に差し込む。お世辞抜きで綺麗な景色だ。後ろを振り向けば、海が見える。真昼の日差しを波が照り返し、きらきらと輝いている。青くて、眩しい海。真っ白な砂浜と青い海、それに青い空がとてもはっきりと見える。
 蝉の声が、うるさいくらいに響いている。生きている、と命がけで叫んでいる声が、肌まで震わせるように感じる。まるで降るような、蝉時雨だ。
(綺麗なところだな……)
 俺が育った街とは大違いだ。まだこんな場所が残っているなんて、少しだけ感動してしまった。アスファルト舗装されていない、土を均しただけの坂道を歩く。
 右手側、つまり隣町がある方角の林は、所々木漏れ日が差し込み、下草を照らし出している。青々と生い茂る草が、気持ち良さそうに光を受けて、海からの潮風に揺れている。
 左手側は、木々の向こうに立ち並ぶ家々が見える。この坂道よりも一段下の、開けた場所にある集落のような家々。どこか寂れて見えるのは、多分、人の姿が見えないからだろう。間に合わせで建てたような家が、点々と立ち並んでいる。いかにも寒村、といった感じだ。
(なんだかなあ……)
 不安になってきた。こんな村で仕事なんてもらえるのだろうか?
「この坂の上にも村があって、そこは星里って呼ばれてます。父はそこも一緒にまとめているんですよ」
 桶を手に、元気に歩く春香。俺は早くも息切れしてしまっているというのに、元気なことだ。
「それで、星里には広い畑がたくさんあるから、仕事の心配はいらないと思います」
「あ、いや、別に心配は……」
 多分、俺が疑わしげな目で村を眺めていたのを見られてしまったらしい。気まずさを誤魔化すように、足を進める。
(しまった。案外敏感なんだな)
 失敗した、と思いつつ、春香の顔を伺う。どうやら気にしてはいないようだ。良かった。
 でも、寂れた村だというのは、本当のことだ。斜面に張り付くように建つ家々は、遠目で見ても決して丈夫そうには見えない。電気もガスも来ていないのだろう。街灯が一つもない。多分、水道も通っていないだろう。都会で育った俺から見れば、どうにも不便に思えてしかたない。もっとも、そういった設備はまだ都市部にしか整ってはいないが。
 坂道から枝分かれしている道の、三本目を左に曲がる。
「もうすぐです。頑張って下さいね」
 励まされてしまった。悔しいが、何も言えない。春香について歩くだけで精一杯なのだ。
 曲がった先は、細い道だった。坂道は車が余裕で走れるくらいの幅があったが、ここは大人が三人並んであるけば狭いくらいの幅しかない。山側は斜面になっていて、その上には林。海側も林。陽の光があまり射さない、薄暗い道だ。
 ふう、と息をつく。頭の上から降り注ぐ陽光が無くなっただけでも、随分と涼しく感じる。それに、風が海から吹いてくるので、気持ち良い。汗で重くなった服も、徐々に軽くなってくる。大きく息を吸うと、木々の爽やかな香りと潮の香りが胸を満たしてくれた。良い場所だ。
「はい、ここです」
 あのバス停で、春香が言っていたことを思い出した。部屋が余っている、と。俺は、なるほどと納得していた。確かに立派な家だ。純和風建築でこれだけ大きな建物となると、寺とかしか思い浮かばない。濃い緑の葉が茂る立派な木々に囲まれるようにして、田中家はそこに堂々と建っていた。
 こんな田舎に、というのは少し失礼かもしれないが、これだけ豪勢な家は俺の育った街でもそうはない。
「ちょっと待っていて下さい。すぐ父を呼んで来ますから」
「お願いします」
 玄関口で春香にそう答えると、無言でじっと見詰められた。
(ああ、そうだったな)
「頼むよ、春香」
「はい」
 俺の言葉に満足げな微笑みを残し、春香が廊下の奥に消えて行った。まったく、些細なことにこだわる性格のようだ。残された俺は、鞄を下ろしてかまちに腰を下ろした。
 玄関は土間になっている。昔ながらの造り、というやつだろう。建物の大きさ、立派さには慣れていても、和風建築に慣れていない俺は、物珍しさから辺りを見回していた。
 とにかく、木が多い。それも、太い材木が複雑に組み合わされている。多分、釘を使っていない類の技法で建てられているのだろう。飴色に変色した梁が、年月の重みを示している。最近の流行は鉄筋コンクリート建築だが、この国には本来、こんなにも素晴らしい家を建てる技術があるのだ。
 感心して細部まで見入っていると、廊下の向こうから足音が近付いてきた。この足音の主が締め役、田中氏なのだろう。かまちから腰を上げ、襟を整えて待った。
「お待たせしました。田中寿三郎じゅさぶろうと申します」
 白髪混じりの頭と、しっかりとした身体つきの初老の方だ。背筋はしっかりと伸び、動作はきびきびとしている。言葉遣いもはっきりしていて、深い皺のある表情はどこかしら愛嬌を感じる。ただの権力者ではなく、人格者でもあるのだろうと直感的に思った。
「桐生葉生と言います。今は訳あって旅をしている最中です」
 出来るだけ礼儀正しく言った。少しでも好印象を与えておくべきだ。そうでなくても俺みたいな奴は、正体不明のよそ者でしかないのだから。
「娘の春香から一通りのことは聞きましたが、寝泊りする場所と仕事を探しているそうですな?」
「はい。それで、今朝までお世話になっていた方がこちらを訪ねてみろ、と教えてくれましたので」
「なるほどなるほど」
 田中氏は満足げな顔で頷いた。俺はまるで先生に向かい合った学生のような気持ちで、田中氏の次の言葉を待った。
「寝泊りする場所は、この家を使ってもらって構いません。部屋は余っていますからな。それと、仕事ですが……」
 顎に手を当て、思案している。
「力仕事は出来ますかな?」
「一応は」
 胸を張って「大丈夫です」と言えないところが情けない。そもそも俺は体よりも頭を使う方が得意な類の人なのだ。体力にはちょっと自信がない。それでも、二ヶ月の旅の間に多少は鍛えられている。もっとも、半日炎天下を歩き通した今では自前の鞄ですら重く感じるが。
「それなら、丁度良い仕事がある。お金もなんとかしよう。それで、何日くらいこの村に腰を据えるつもりですかな?」
「そうですね……。一週間くらいはお世話になりたいんですが」
「ふむ……一週間か……」
 少しだけ、田中氏の表情が曇ったような気がした。さっきよりも深く思案しているのか、表情が多少険しくなっている。
(まずかったか……?)
 失敗したかもしれない。もし滞在を断られれば、次の村まで行くしかない。今は昼過ぎ。バスを使うとしても、次の村に着くのは夕方になるだろう。そうなると、世話をしてくれる家を探すのは難しくなる。ここのような田舎の住人は、日暮れと共に家に帰る。通りすがる人も無い中で一軒一軒しらみ潰しに訪ねるのは正直、骨が折れる。
「どうなるかは、今考えても詮無いことか……」
「はい?」
「いや、こっちのことだよ。とりあえず上がって、一息つくと良い。春香に冷たい飲み物でも用意させよう」
「それじゃあ……」
「儂はどうにも、頼まれると断れない性質でな」
 顔の皺を一際深くして、田中氏が笑った。安心して、大きな息を吐いた。
「お世話になります」
「そう堅苦しくしなくても良い。いいから上がって休みなさい」
「はい」
 どうやら、性格の良く似た親子のようだった。

 田中氏の案内で居間まで通された。歩いた感じでは、見た目通りに相当大きい家のようだ。通り過ぎた部屋だけでも、かなりの数があった。それでも掃除はしっかりと行き届いているらしく、床板にも壁にも障子にも埃一つ見当たらない。
「儂はまだ仕事が残っているから席を外すが、すぐに春香を寄越すから待っていなさい」
 そう言われ、俺は一人で居間に残されることになった。
 広々とした部屋に一人ぽつんと残されると、どこか頼り無い気持ちになってしまう。
(まだかな……)
 春香が来るのを待っている。田中氏に言われた通りに。家の中はとても涼しくて、外の茹だるような暑さが嘘のように思える。夏涼しく、冬暖かい。和風建築の良いところだろう。
 蝉の声が聞こえる。生まれ育った街では聞くことのなかった、夏の風物詩だ。生きている、と主張するような声が幾重にも積み重なり、どこか懐かしい響きとなって耳に届く。
(懐かしい、か……)
 それはただの錯覚だろう。蝉の声なんて、子供の頃に聴くことはなかったのだから。俺の子供の頃の記憶といえば、鬼のような形相で怒鳴る父親の姿と、叱られても小さな掌を拳にして涙を堪えている自分の姿だけだ。良く性格が歪まずに育ったものだと自分でも感心している。
(いや、もうとっくに歪んじまってるかもな……)
 初めて父親に逆らったのはいつのことだったろうか? 初めて父親が俺を怒鳴ったのは? どういう経緯があって、俺は父親との溝を深くしていった?
(ああ、そうだ。あれは……)
 母さんが、死んだ時だ。
「葉生さん」
「あ、ああ」
「開けますね」
「良いよ。どうぞ」
 不意に春香がやってきたので、少しだけ焦ってしまった。記憶を遡っていると、どうしても無防備になりがちだ。障子が開ききる前に気持ちを落ち着かせる。大丈夫だ。
「お茶、淹れてきました」
「ああ、ありがとう」
 盆の上に乗っているのは、急須が一つと湯のみ茶碗が二つ。
(二つ、ってことは春香も飲むってことだな)
 そういうことなのだろう。ちゃぶ台の上に盆を置くと、慣れた手付きで急須を傾けている。
「このお茶は、坂の上の星里で採れたのを分けてもらってるんですよ」
 二つ目の湯のみに茶を注ぎながら、春香がそう言った。とても嬉しそうに。
 こぽこぽと、心地良い音がした。お茶を注ぐ音だ。二杯分の音がして、止んだ。白くて細い指で、白い瀬戸物の湯のみが差し出された。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう。いただきます」
 差し出されたお茶を受け取り、大きく一口。
「……冷たい」
「ええ。水出しのお茶ですから。おいしいでしょう?」
「旨いな……」
 緑茶をこうして飲むというのは初めてだが、渋みがあまり無く、むしろ甘みすら感じられる味に驚いた。胸がすっとするような爽やかな香りにも、だ。なにしろ、実家ではお茶でなく、コーヒーばかり飲んでいたから。
 喉を鳴らして一息で全部を飲み干す。疲れた身体、乾いた喉にじわりと沁みる新鮮な緑の香り。素直に旨いと思った。
「おかわり、どうです?」
「あ、じゃあ頼むよ」
「はい」
 とても嬉しそうに頷いて、二杯目のお茶を注いでくれる。
「私もこのお茶、好きなんです。色も透き通った緑でとても綺麗だし。それに、身体にも良いんですよ」
 なるほど。色か。そんなことは全然気にしていなかった。せっかくなので湯のみを満たす液体に視線を落としてみる。
「綺麗でしょう?」
「本当だ」
 真っ白な瀬戸物の湯のみを満たす、透明な緑色の液体。日差しの入り込まない部屋でも、どこか太陽の輝きを思わせる。
「なんだか飲むのが勿体無いみたいだな」
「でも、もう一杯目はしっかり飲みましたよね」
「まあね」
 こぼすように笑う春香がとても楽しそうに見えて、俺も少しだけ声を立てて笑った。
 旅の疲れなんてものは、どこかへ消えてしまっていた。

 良く冷えたお茶を飲みながら春香と雑談をしていた。
 他愛の無い話だ。俺が今までの旅で世話になった人達のことや、その土地のこと。春香の好きなもののことや、この村での生活のこと。どれもこれも他愛の無い、それでも互いのことを知り合うには大切な話をした。
 どうしてこんなにもゆったりした気持ちで話すことが出来るのだろう? そんな疑問が浮かんで、すぐに消えた。少しの間だけでも、俺達は家族。そう言ったのは春香だ。
「どうして旅をしてるんですか?」
「そうだな……なんとなくってのが本当のところだけど、ちゃんとした理由もある。分からなかったから、なんだよ」
「分からなかった?」
「ああ。この先どうすれば良いのか、何になれば良いのか、分からなかったから。だから旅をしてみようと思ったんだ」
 嘘じゃない。そもそものきっかけは家を勘当されたことだが、家から離れたところで気付いた。俺には、理想の自分というものが無い。
 何をやって生きて、そして死にたいのか。どんなことに一生を費やしてみたいのか。それが分からなかった。だから、それを見つけるために旅を続けている。
 ただ、分からないから旅をしている。それは、偽りのない本心だ。
「それって……すごく羨ましいな……」
 少し、ほんの少しだけ、春香の笑顔が曇った気がした。
「私はそういうの、もう決まってるから……」
 どんな事情があるのかは知らない。でも、予想することは出来る。大方、政略結婚の類のことだろう。親の決めた許婚がいる、というのは、旧家の名家では珍しくもない話だ。古い時代から変わることのない、悪しき風習の一つだと俺は思っている。
 勝手な想像だが、他に思い当たる節はない。でも、それが全くの的外れだということもある。俺はどんな言葉を掛けて良いのか分からずに、黙って春香の次の言葉を待った。
 と、伏せていた顔を上げ、弾けるような笑顔で言った。
「葉生さんの生まれた街のこと、話してくれますか?」
 話し辛いことだ。俺を捨てた、故郷の話なんて。でも……
「いいよ」
 と迷わずに答えた。なんとなく、話しても良い気になったから。
 春香には、話しても良いと思えたから。
 多分それは、春香の入れてくれたとても綺麗なお茶のせいだろう。
「俺の生まれ育った街は、とても大きくて人の大勢いる、港街だった」
 語り始めると、春香は目を輝かせて、身を乗り出して、全身を耳にしてくれた。
 その仕草が微笑ましくて、俺はとても穏やかな気持ちで故郷のことを語ることが出来た。

 レンガ造りの街並み。アスファルト舗装された道。むっつりと押し黙って、早足で歩く人達。朝は通りを人々が忙しそうに歩き行く。路面電車と、黒い排気ガスを噴き出して走る車と、荷を積んで走る自転車。正体不明の雑音すら心地良く感じる、朝。
 俺の通っていた大学の敷地には、まだ自然が残っていた。青々と茂った芝生に腰を下ろし、昼食をとるのが好きだった。木々の間をすり抜ける風は、こことは少しだけ違う潮の香りがした。外国から運ばれてきた潮風と、俺の街の潮風が混ざり合った匂いだ。
 夕暮れ前になると、街中のガス灯に火が灯された。オレンジ色のおぼろな光は、灰色の空に本物の夕焼けの色を思い出させようとしているようだった。人の手で汚してしまった空に、人の手で夕焼けを刻む。どこか物悲しくて、自室の窓から良くその光景を見下ろしていた。
 知り合ったたくさんの人達。
 大学の研究室の教授。顔は厳つかったが、人の話を聞く耳を持っていた。そして、その話を自分の中で進歩させることの出来る人だった。尊敬していた教授。
 同じ講義を受ける友達。妙にウマの合う連中だった。バカな騒ぎを起こしたこともあったが、基本的には優れた知識と、確たる目標を持っている奴らだった。
 それ以外にも、どこで知り合ったのか分からない仲間がいた。いつしか一緒にいるようになっていた友人達。きっと、友達になるのに理由なんて必要ないのだろう。とても単純な連中だった。大好きだった、仲間達。別れの言葉はあえて言わなかったが。
 二人の兄さんのことも話した。和威かずい兄さんと、いつき兄さん。役人なんてやってはいるが、二人共それぞれやりたいことがあったということ。それについて決して諦めてはいないということ。俺を作り上げた、たった二人だけの兄さん。
「港は? 港がある街だったんでしょう?」
 目を輝かせた春香に急かされ、その話をする。
 外国船籍の巨大な船が、ほとんど毎日訪れては帰って行った。見たこともない文字と、瞳と髪の色の違う人。聞いたことのない声と、陽気な船乗り達の歌う楽しげな歌。様々な大きさの箱が下ろされ、そして積まれていった。あの街で一番活気に満ちていた場所。誰もが生きている表情をしていた。俺のお気に入りの場所だった。
 まだ珍しいカフェテリアやバーでは、外国人達が我が物顔でテーブルを陣取っていた。多分、母国の雰囲気を思い出しているのだろう。そんな彼らはそれでも謙虚で、船乗りなりの礼儀とやらを持っているようだった。羽目を外しても、他人に迷惑はかけない。そんな気の抜き方を知っているように見えた。ただの荒くれ者ではない、誇りある船乗り達。
「港かぁ……」
 夢でも見ているかのような口調で、春香がそう呟いた。
「そういえば、この辺の海には港が無いんだな」
 海沿いに歩いて来たが、海辺に付き物の船着場や港が一つも無かった。もっとも、途中には集落らしいものも無かったが。
「この辺りの人は、海には出ませんから……」
「珍しいな」
 漁師のいない海辺の村というのは珍しいはずだ。目の前に広がる青い海に出れば、簡単に食料を確保出来るだろうに。
「いいな……大きな船に乗って、知らない場所まで……か……」
 独り言のようにそういう春香は、哀しそうに見えた。
「これから幾らでも船に乗る機会なんてあるさ。まだまだ若いんだし」
「若い、なんて言っても葉生さんだって私と同じくらいじゃないですか」
「そりゃそうだな」
 暗くなりかけた雰囲気をなんとか和ませて、会話を続けた。
「いいな……」と言った春香の表情が、俺の脳裏に焼き付いて残った。

 話に夢中になって忘れていた。昼食がまだだった。空腹をお茶で誤魔化せるはずもなく、それでも自分から言い出すことも出来ず、春香に乞われるままに話をしていた。
 と、春香が不意に言った。
「お腹、空いてるんじゃないですか?」
「あー……実は」
 限界だった。良く春香は気付いたものだ。少し恥ずかしかったが、それでも助かったという気になる。
「ちょっと待っていて下さいね。有り合わせの物になっちゃうけど、ご飯持って来ますから」
「頼むよ」
「はい」
 あのバス停で出会ってから何度となく目にした、本当に嬉しそうな笑顔。それを残して春香は廊下に出て行った。空になった急須と湯のみ茶碗を二つ、お盆に乗せて。
(さて……)
 しばらく時間がかかるだろう。どうやって待とうか。どうやって空腹を紛らわせようか。
 とりあえず横になる。畳の匂いと肌触りを感じて、仰向けに寝転がる。横になってみて初めて気付いた。自分がどれだけ疲れているのか、ということに。
(情けないな……)
 力の抜けた頬で気の抜けた笑みを浮かべる。春香の笑顔とは大違いだろう。誰が見ている訳でもないが。さすがにお茶くらいでは炎天下を歩き通した疲れは取れないらしい。
 少しだけ休もう。そう決めて、目を閉じた。
 意識に靄がかかって、耳に届く音が遠くの木霊のようになって、全てが消えた。
 夢も見なかった。

 夢は見なかったが、音を聴いた。聴いていた気がした。それは例えるなら、無骨なこの手で触れれば儚く崩れてしまうくらいに薄い硝子を、細くて白い指の手がとても慎重に触れて鳴らしたような、透明に澄んだ音。その音が清流の流れのように続き、一つの旋律を創り上げる。止まることなく旅を続ける風が歌う、永遠の歌のような旋律。
 人の手で奏でることの叶わない、天上の音楽。
 消えることなく響き続ける至上の鈴の音のような、魂の奥底まで震えさせるような優しい響き――
 それは、何の音だったのだろうか?
 旋律はやがて遠ざかり、代わりに廊下を歩く足音が近付いてきた。
 ああ、春香が戻って来たんだな……
 閉じていた目を、開ける。

「入りますね」
「ん……」
 鈍い動作で体を起こし、胡坐をかく。声が上手に出せない。まぁ、寝起きというのはいつでもこんなものだろう。
「そんなに待たせちゃいました?」
「いや……」
 ちゃぶ台の上に小鉢と椀とを並べる春香の姿を、黙って見ていた。頭の中でその白い手の動きだけをなぞる。
「なんだか私がここを出てから、十年くらい待ってたみたいな顔をしてますよ?」
 手を休めることなく、小さく笑いながらそう言う。
(何をしていても楽しそうだな)
 春香を見ていると、一度も使われていない真新しい敷布が思い浮かぶ。白い服を着ているからじゃあない。白という色はやはり、汚れとは縁遠いというイメージがある。それが春香のイメージとぴったり合っている。
「葉生さん?」
「ん?」
「あの、起きてます?」
「ああ、起きてるよ」
「だったら早くご飯食べちゃって下さいね。そしたら、家の中とこの村をちょっとだけ案内しますから」
 なるほど。それは確かに必要なことだ。例え一週間とはいえ、ここは俺の家。そう思っても構わないだろう。春香がそう言ったのだし。
 そうなると、自分の家で迷子になってしまうような間抜けな真似はしたくない。迷子になることの出来る家、というのも凄い気がするが。
 それに、仕事をもらうのであれば、村のどこに何があるのかくらいは覚えておきたい。もっとも、どんな仕事をもらえるのかはまだ分からないが。
「分かった。じゃあ、頂きます」
「はい、どうぞ」
 目一杯に料理の載ったちゃぶ台を挟んで、春香が座っている。にこにこと微笑んだままで。
「あのさ」
「はい?」
「そんなに見られてると、手を付け辛いんだけど……」
「気にしないで下さい。さ、どうぞ」
 分かった。こういう娘なんだろう。俺は諦めて箸を手に取った。
 絶対に有り合わせじゃあない料理を、それも一人分とは思えない量を、おいしく頂くために……

 食休みは、たっぷり一時間近く取る羽目になってしまった。

「さ、準備は良いですか?」
 春香が空になった皿を片付けている最中、必要以上に膨れた腹を抱えるようにして横になっていた。苦しいまでの満腹感は大分薄れ、代わりに眠気が襲ってきていた。どうもここに来てから眠ってばかりな気がする。とはいえ、せっかくの春香の提案を断ることも出来ないし、腹が張って動けないなんて情けないことは言えない。
「ああ、大丈夫だよ」
「それじゃあ行きましょうか。早く起きて下さい!」
「はいよ」
 出来る限りしっかりと見えるように起き上がる。立ち上がり、服の乱れを直す。
「それじゃあ、頼むよ」
「はい」
 満足そうに頷く表情を、とても頼もしく感じた。

 まず初めは、田中家の中から案内してもらった。生活するのに最低限必要な場所だけで良い、と言う俺に、春香は「いいから、ついて来てください」とにこにこしながら言うだけ。風呂場、台所、居間に客間が無数、田中氏の書斎や仕事場、大きな樫の木の見える縁側、竹林の見える和室、それと春香の部屋。覚えきれないくらいたくさんの部屋を回り、最後についたのは庭に面した一室だった。
「で、今度は?」
 半ばうんざりとした気持ちでそう尋ねる。ちょっとした旅館よりもずっと広い田中家。間取りを頭の中で描けたのは最初の内だけで、今では何が何やら分からなくなってしまっていた。春香は随分と丁寧に案内してくれたが、まだ迷える自信がある。
「ここが、葉生さんの部屋になります。お布団とかは押入れの中に入っていますから、好きに使って下さいね」
「ああ、そうか」
 俺はてっきり、最初に通された居間で寝起きするものだと思っていた。
「それなら荷物を持ってくれば良かったな」
「私が後で持ってきますよ。それくらいのことはします」
 全く、なんて頼りになる娘だ。これじゃあ俺なんて何もしなくて良いんじゃないのか? 俺なんて一軒分の間取りを覚えるだけでも頭がくらくらしてるってのに。
「それじゃあ、次はこの村を案内しますね」
「頼むよ」
 外の空気でも吸えば、多少は頭も回るようになるだろう。
 部屋の外から聞こえるのは、蝉の声と枝葉の擦れ合う音。障子の向こうの景色は、その色を濃くしている。そろそろ、夕暮れが近付いていた。

 家の外に出ると、暑さは大分和らいでいるように感じた。汗はじわじわと湧き出るが、不快な程じゃあない。吹く風の温度が下がっている分、昼間よりずっと心地良い。
「それじゃあまずは、明日から葉生さんが働くことになる場所まで行きましょう」
「あ、知ってるのかい?」
「ええ。父に聞きましたから」
 何だろう? 少し、ほんの少しだけ、春香の笑顔が曇ったような気がした。
 数歩前にいる春香が、背中越しに言った。まるで、ささやくように。
「それに、私も無関係って訳じゃないから……」
 ささやくような、消え入るようなその言葉が、微かに届いた。聞き取ることが出来たのは、一瞬だけ蝉の声が弱まったからかもしれない。
 無関係じゃない。どういうことだろうか? 何かひっかかるものを感じたが、元気良く振り返った春香の笑顔には曇りなんてなかった。
「さ、早く行きましょう! 夕ご飯の支度までには戻らないと!」
 気持ちの隅にひっかかった何かは、気にしないことにした。

 バス停から山へと伸びる坂道まで出て、少し登ったところで春香が足を止めた。
「葉生さん、こっちですよ」
 手で示されるままに目をやると、そこには細い道があった。大人二人がすれ違うのが精一杯の幅だ。鬱蒼と茂る木々の隙間に線を引いたような、真っ直ぐな細い道。色濃い陽光は枝葉に遮られ、木漏れ日すら射さない日陰道だ。
「随分とまた陰気な道だな」
「いいから、こっちですって」
 素直な感想を言ってみると、春香に背中を押された。
「この道の先に、葉生さんの仕事場があるんですから」
 背中を押され歩き出すと、春香が俺の脇をすり抜けて、前に出た。服の裾が暗い道に白い軌跡を描く。
「さあ、早く!」
 考えてみれば、この村に着いてからずっと、俺は春香に急かされてばかりだ。
(それにしても……)
 もう、随分と長い間この村にいる気がする。もちろん、今日の昼ごろに辿り着いたばかりなのは分かっている。だからこの感覚は錯覚に決まっている。
(それなのに……)
 胸を過ぎるのは、郷愁。ありえないことだとは分かっている。それなのに、胸の奥底にでは、確かに懐かしさを感じている。
 子供の頃に信じていた、何も奪われることのない日々。そんな安堵を感じる。
 ここで得られるものは当たり前のものばかり。そして、失われるものは一つもない。
 そんな、理想の箱庭に辿り着いたような気がする。
「葉生さん! 早く!」
 楽しそうに、本当に楽しそうに振り返る春香。見飽きることのない笑顔。故郷を追われてから数ヶ月。もしかしたら、俺は……
 初めて、落ち着くことの出来る場所に辿り着いたのかもしれない。

 懐かしさと安らぎに包まれ、白い背中を追って歩いた。夕暮れ時の空は木々の枝に切り抜かれ、途切れ途切れにしか見えない。雲一つない、昼よりも色が深くなった青い空。見えては消え、消えては見える空が、そろそろ一日の夕暮れを迎える準備をしているように感じられる。蝉の声は蜩に代わり、騒がしさからある種の切なさへと変化した。
 風の匂いが変わった。多分、直接日差しに当たることがない場所だからだろう。少しだけ、水気を帯びた匂いがする。潮風とはまた違う匂いだ。
 林の中を歩くのは、もちろんこれが初めてじゃない。でも、こんな気持ちで木々の間を歩くのは初めてだ。こんな、穏やかで迷いの無い気持ちで歩くのは。
 今はただ、目の前を踊るようにして進む白い背に付き従って歩くだけで良い。とても簡単なことだ。何も迷うことなんてない。
 葉の擦れる音がまるで、木々の歌に聴こえる。さらさら、かさりかさりと歌う、生きている木々。もしもそれが本当に歌なのだとしたら、それを聞こえるようにしてくれたのは、春香だ。
(楽しい、か)
 春香を見ていて楽しそうだと思っていた。何であんなにも楽しそうなのか、疑問にすら感じた。でも、何のことはない。何もなくても、楽しいんだ。
「葉生さん!」
 立ち止まり、振り返った春香。その姿は白さを一層増している。陽の下に出たのだろう。この日陰の小道も、そろそろ終わりということだ。
 待たせるのは忍びない。大きく息を吸って、軽い足取りで駆け出す。
 太陽の下で待つ、純白の少女の元へ。

 駆け出した先は、開けた場所だった。
「ここですよ。ここが、明日から葉生さんの仕事場になるところです」
「そう言っても……何もないけど?」
 見回す。どう見ても何もない。普通の家なら二、三軒は建てられるくらいの敷地があるだけだ。確かに地面は平らに均されているし、土の色も均一になっている。土砂を入れ替えて、締め固めたのだろう。でも、それだけだ。他に目立つようなものは何もない。目の前は林の続き。右側はちょっとした斜面になっていて、その上は林。後ろを向いても林。ただ、左手側だけが開けていて、そこから海が見える。
「あるじゃないですか。ほら」
 春香の手の延長線の向こうにあったのは、積み上げられた材木。柱のような太いものから、板のような薄いものまで様々に、整然と積み上げられている。敷地の端の辺りにあったので見落としていたのだ。
「家でも建てるのかい? それにしては材木が少ないみたいだけど……」
「あ、違うんですよ。造るのは……小船です」
「船?」
 意外な答えに、声が裏返った。普通の港町だったら船を造る、というのも当たり前のことのように思えるが、この村の人間が海に出ないと言ったのは当の春香だ。海に出ないのに船が必要になるのだろうか?
 それに、場所もおかしい。こんな山の中腹で船を造ったとして、どうやって海まで運ぶというのだろう?
「船です。といっても、ただの……お祭りに使われる、かざりのようなものです」
「そうか、祭りがあるのか」
「はい」
 お祭り、という言葉を言ったとき、少しだけ春香の口調が強張ったように聞こえた。
(気のせいか?)
 俺を見上げる春香の表情に、曇りはない。
「祭りのための仕事、か……それじゃあ頑張らなくっちゃあな」
「そうですね」
 気のせいじゃない。今度は、気のせいなんかじゃない。確かに、この話になってから春香の声が固くなっている。笑顔も、どこか表面だけに張り付いている偽物のように見える。
 顔の表面だけに張り付いた、薄っぺらな表情に見える。
 そして、その偽りの笑顔が剥がれ落ちた下には、きっと泣き顔があるのだろう。そんな風に感じてしまう。
「……春香?」
 何か、あるのか?
 そう訊こうとした時、春香が今までと同じ笑顔を浮かべた。まるで、俺が訊こうとしたのを察したように。そこで微笑まれては何も言えなくなる一瞬を初めから知っていたかのように。
『この話はもうおしまい』とでも言うかのように。
 それは少しだけ、ほんの少しだけ俺の神経に触れた。今までとは違う意味の笑顔が、俺の気持ちを苛立たせた。
 俺が歩み寄り、踏み込もうとしているのに、足元に線を引かれたのだ。『ここからこっちには来ないで下さい』と、拒絶されたのだ。
 妙に、腹立たしかった。
「春香」
 名前を呼んだ。ただ、それだけだ。それなのに、春香は身体を急に強張らせた。色白の顔からは血の気が引き、青くすらみえる。ひきつけでも起こしたかのようだ。
「あ……えっと、次は坂の上の星里って村まで案内しますね」
「春香、具合でも悪いんじゃないのか? 顔が真っ青だぞ?」
 顔色が見る見る悪くなって行く。その様子を見て、俺の苛立ちはどこかへ行ってしまった。そんなことよりも、春香を心配する気持ちの方がずっと大きい。
「大丈夫ですよ!」
 ぎこちない足取りで、俺の後ろ、元来た日陰道へと歩いて行く。
「ちょっと……深く聴きすぎただけですから……」
 春香は止まることなく歩いて行く。意味のつかめない言葉と、呆然と立ちつくす俺を置いて。
(なんなんだ?)
 何か、おかしなことでも言っただろうか?
 自分の行動と言動を振り返るが、心当たりなんてなかった。
(ただ、祭りのための仕事だから頑張るって言っただけなのに……)
 感じていた郷愁は一気に消え去り、正体のはっきりしない霞が胸に残った。
(それに、聴きすぎたってのは、何をだ?)
 ヒグラシの鳴く声を、だろうか? それだけで顔が青ざめるほどにうろたえるだろうか?
 何一つとして分からないまま、俺は春香の姿を追って駆け出すしかなかった。

「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。葉生さんって、実は結構心配性ですよね」
「……茶化さないでくれよ」
 笑っている。微笑んでいる。歩く姿はとても自然だし、顔色だってもう悪くはない。それなのに、何だろう? このままにしておいてはいけないような気がする。
 放っておくと、どこかへ消えてしまいそうな――
「大丈夫ですよ。本当に。ちょっと立ち眩みがしただけですから」
「立ち眩み?」
 そんなに都合良く立ち眩みなんて起きるだろうか? それに、さっき確かに言った。『聴きすぎただけだから』と。
「あ、坂道の下の方を曲がると、村の真ん中に出ます。私と父以外の人達は、ほとんどその辺りの家に住んでるんです」
「おい、春香……」
「本当はちゃんと案内したかったけど、夕ご飯の支度があるから、また後にしましょう。それで次は坂の上の村、星里に行きますね」
 まただ。また俺は弾かれた。並んで歩いているのに、二人の間に見えない壁でもあるかのように。俺の言いたいことは受け流され、春香の望むままに流されてしまう。
(でも、それのどこが悪い?)
(どれだけ懐かしさや安らぎを感じたとしても、どうせいつかはここを離れる)
(下手に踏み込んで互いに傷付くことになったら、どうする?)
(このまま何も考えず、通り過ぎて行けば良いじゃないか)
 ……自分の中で木霊する、『大人』としての自分の言葉。
 俺はその全てを蹴り飛ばした。『大人』の言う言葉がいつでも正しいとは限らない。それに、俺はまだ『大人』じゃない。ただの青い若造だ。
 若造だったら若造らしく、勢いだけで青臭いことを言わせてもらう。
 例え、後悔することになったとしても。
 それに――
(春香が言ったじゃないか。『短い間でも、家族』だって。だから俺は……)
「何か、隠していることがあるんじゃないのか?」
 そう、尋ねた。覚悟を、決めて。
「…………」
 沈黙が降りた。春香は何も言わない。口を閉じたまま、ただ坂道を歩き続けるだけだ。俺はその隣に並び、春香に歩調を合わせている。
 傾いた太陽に照らされた二人の影が、細長く伸びている。
 どれくらい、二人は黙っていただろう? 坂道はもう終わりにさしかかり、目線を上げると横に一本線を引いたような境が見える。長い坂道の、その上の段にもうすぐ辿り着く。
 春香はまだ口を開かない。俺の右側を歩く春香。ちょっと見下ろせば、その顔を伺うことが出来るだろう。
 でも、俺にはそれが出来ない。
(隠しているようなことを聞くんだ。こっちだって辛いさ)
 俺に何が出来るって訳でもない。でも、ただ春香の話を聞くだけだったら出来る。
 その後のことは、その時になってから、二人で考えれば良い。そう思った。
「葉生さん」
 搾り出すような声だった。唇の隙間から息だけを押し出したような声。それが俺の名前を呼んだということに気付くのに、しばらく時間がかかってしまった。
「私はね、ずっと一人だったんです」
 坂道を上りきると、目の前が開けた。畑がそのほとんどを占め、端に追いやられるようにして、遠くに民家らしき建物が並んでいる。どこか閑散とした所だ。
(ここが、星里か)
 詩的な名前の割には、どうにもぱっとしない村のようだ。人の姿すらない。でも、温かな色合いの夕陽に照らさせて、どこか切なそうな雰囲気を感じる。刈り取られ、積み上げられた雑草。あぜ道に咲く小さな白い花。畑に生い茂る、たくさんの種類の作物。思い思いの形で作られた、幾つかの案山子。そういったものが、一日の終わりに息を吐いているような光景。飛び交う小鳥達は、寝場所に戻るために、群れて飛ぶ。
 民家からは、細い煙が立ち昇っている。多分、夕食の支度を始めているのだろう。今日が、もうすぐ終わろうとしている。
 春香が言っていたことを思い出す。浜道と星里は、兄弟のような村らしい。星里の人々は村二つ分の作物を作り分け与える。浜道の人々は服や農耕具を作ったり、畑仕事を手伝ったり、家を建てたり直したりする。持ちつ持たれつ、という関係だという。確かに、このくらい広い畑がれば村二つ分くらいはなんとか養えるだろう。それくらい広い所だ。
 坂道の到達点は、十字路だった。均しただけの砂利道は、それでも手入れは行き届いているらしく、とても歩きやすい。春香はしばらく足を止めていたが、そこを右に向かって歩き出した。俺もそれに付いて行く。
 もう、太陽は大分沈みかけている。ここでは、太陽は海に沈む。波のきらめきが朱の色に染まり始めるのが、この星里からだととても良く見える。何にも遮られることのない、海から吹く風が頬を撫でてくれる。
 いつの間にか、汗をかいていないことに気付いた。大分気温が下がったのだろう。そろそろ、家に帰らなければいけない時間だ。ガスも電気も、当然街灯も無いこんな村では、夜道を歩くのは危険だ。それに春香が言っていた。夕飯の支度までには帰る、と。
 ずっと一人だった、と春香はそう言った。次の言葉が届いてこない。多分、どんな言葉で自分のことを話せば良いのか、探している最中なのだろう。一番分かり易く伝えられる言葉を。
 じれったいが、べらべらと簡単に自分のことを話す輩よりは余程信用出来る。迷うのは、本気で俺と向かい合ってくれている証拠だから。
 春香が言葉を探して迷っている間も、俺達は歩き続けている。行き先を決めているのは、春香だ。
 俺は、夕暮れを眺めながら歩く。春香は、言葉を探すようにして歩く。目指している場所は、全てが用意されている場所なのだろうか? そんな空想めいたことを思っていると、春香が口を開いた。
「ずっと一人で、友達も出来なくて、話せる相手は父しかいなかったんです」
「……どうして?」
「…………」
 急かすように質問を投げるのは良くないかもしれないが、俺だって春香のことを知りたい。知ると決めたんだ。
 嫌われる覚悟だったら、ついさっきしたばかりだ。
 春香は足を止め、不意に右を向いた。つられるようにして、俺も右を向く。
 海が、見えた。空も見えた。朱色の太陽に照らされた、昼間とは違う色の海と空。この瞬間がいつまでも終わって欲しくないような、そんな気になる景色。
 眩しい、一日の終わりの光景だ。
 その光に誘われるように、春香はふらふらと歩き出した。見ると、その先は地面が無い。崖になっているのか、それともその先が急な斜面になっているのかのどちらかだ。どっちにしても、そのまま進んで平気なはずはない。
「……春香!」
 焦って駆け寄り、手を伸ばす。
 伸ばした手は、空を切った。
 春香が飛び降りたからではない。急に振り返ったので、つかむものがなくなっただけだ。呆気に取られた俺を尻目に、春香は足を止めて語りだした。ここが、春香の目指していた場所だったのだろう。真っ直ぐな瞳が、潤んだ瞳が、俺を射抜くように見ている。
「葉生さん、私はね……ここから出たかったんですよ。ずっと。子供の頃から、ずっと……」
 眩しい夕陽に遮られて、春香の表情が見えなくなった。でも、分かる。春香は笑顔を浮かべている。
 今にも泣き出しそうな、痛みを堪えているような、辛そうな笑顔を浮かべているに決まっているんだ。
「どこか違う場所に行って、誰も私のことを知らない場所に行って、初めからやりなおしたかったんです。出来ることなら、生まれる前からやりなおしたかったんです」
 何一つとして、具体的なことは語っていない。自分の望みだけを、切々と語っている。でも、だからこそ、春香の苦しみが余計に伝わってくる。
 その望みが叶わなかったからこそ、叶わないものだと知っているからこそ、俺達は苦しむのだから。
「自分で生き方を決めたかったんです。好きなことをして、友達をたくさん作って、皆と一緒に過ごしてみたかったんです」
 その願いはとても切実で、ささやかで、年頃の少女が願うには痛々しいほどに純粋な、ただそれだけのもの。他の一切はどうでも良いと言い切れるくらいの、強く哀しい願い。
 俺の育った街では、そんなことは普通のことだった。そして、俺はそうやって育った。たくさんの友達と遊び、時には喧嘩したりして、同じ時間を過ごした。
 俺が普通に得てきたものを切望する少女が、今、目の前に立っている。
(どんな言葉で応えれば良いってんだ?)
 歯痒さに、拳を握り締めていた。俺にとって当たり前のものを持っていない春香に、どんな言葉をかければ良いのだろう?
「私はね、葉生さん。生まれたときから、ずっと一人でいることが決められていたんですよ。私が望んだ訳でも、選んだ訳でもないのに。ずっと気味悪がられて、遠くからしか人の姿を見ることがなくて、遠くからしか見られることがなくて、私は何もしていないのに……」
 春香が泣いている。涙を流さずに泣いている。見えなくても、声だけで分かる。
 夕日に染め抜かれた彼女の輪郭は朱色に染まり、まるで燃えているかのようだ。
 燃える空と、燃える海と、燃える少女。
 少女は孤独を嘆き、悲しみに心を燃やしている。
 湧き上がったのは、疑問よりも哀しみ。一人の少女がここまで悲しまなければならないことに対する、悲哀。同情じゃあない。そんな安いものじゃあない。俺はただ、哀しむ春香を見て、哀しくなっただけだ。
「……ごめんなさい。これ以上のことは話せないんです。父に迷惑がかかるし、私は父が大好きだから……」
 消え入りそうな声で、そう締めくくった。もう、声を出すことすら辛いのだろう。本当の気持ちを他人に話すのは勇気がいるし、それは常に心の痛みを伴うのだから。
 でも、春香は俺に本当の気持ちを話してくれた。出会ってからまだ半日しか経っていない、流れ者の俺に。そんな俺を、信頼してくれている。それも、最上級に。
 自分の本心を他人に語るなんて、そう簡単には出来ない。
 そう思ったとき、俺の中で小さな音がした。かちり。それはまるで、どこかでずれてしまった歯車がぴったりとはまったような音だった。
(俺も……)
 春香の隣に並んで、遠くを見る。目に写っているのは海じゃない。そこにあるのは――
 俺の記憶の中にだけ見える、過去の光景の連続だ。苦しみ続けていた、俺の姿だ。
「俺は、家を追われたんだ。親に縁を切られて、さ」
 突然話始めた俺に、春香が顔を向ける。多分、呆然としているのだろう。気配で分かる。
「俺は、昔からはみ出し者だった。なんかさ、我慢出来ないこととか許せないこととかがあると、つい反抗してしまうんだ。それが正しいことなのか、間違っていることなのか、俺には分からない。でも、大抵の場合、それは間違っていることだって周りには言われた」
 こんなことを口に出して言うのは、初めてだ。真剣に考えたことすらない。でも、なぜか言いたいことが、ずっと言いたかったことがすらすらと言葉になって出てくる。
「でも、俺は変わることが出来なかった。大人の顔をして間違ったことをしている輩がたくさんいるってことをこの目で見てきたからね。そうなるのが嫌だったのかもしれない。それで、結局は自分の居場所を失ってしまった」
 子供の頃から疑問に思っていたこと。どうにもならない悲しみ。それらが溢れ出して、感情が熱くなるのを感じる。大人になりきれない、青臭い自分が見える。
 きっと、真夏の夕焼けに照らされてしまったからだろう。そう、思える。
「子供の頃、街の港で外国の船を眺めて時間を潰したよ。この船はどこから来て、そしてこれからどこへ帰って行くのだろう、って想像してさ。ここじゃない場所に行きたいとも思った。俺は悪くないって言ってくれる人達がいる場所に行きたいって、さ。春香と同じだな」
 弱々しい笑顔が浮かんだ。春香はずっと俺を見詰めているはずだ。でも、俺はまだ春香を見ることが出来ない。
 まだ、言いたいことは残っている。
「でもさ、結局どこに行っても同じなんだよ。旅を続けて、痛いくらいに分かった。変わらなきゃいけないのは、自分自身なんだ。いくら場所が変わっても、自分が変われなくちゃ同じことを繰り返すだけなんだ。こんな簡単なこと、もっと早く気付いても良かったはずなのにな」
 そうだ。俺は、やっと分かったんだ。
 あの街に住んでいた頃の俺は、ただ自分のわがままを通そうとしていただけだった。
 そうじゃない。本当に大切なことは、そんなことじゃない。
 何が大切で、何が無用なことなのかは、人それぞれで……。それでも俺達は一人じゃあ生きられなくて……。自分以外の誰かと一緒にいるためには、自分が変わる必要があって……。
 下らないことにこだわって、大切なものを見逃してしまうのは、やっぱり愚かなことなんだ。
 生きるために自分を変えることは、とても自然なことじゃあないのか? そして、それは情けないことではなくて、とても素晴らしいことじゃあないのか?
 そうすることで得られるものだってあったはずだ。そうすることで見えるものだって。
 俺は、今になってたくさんのことを後悔している。だから――
「確かに、俺達を取り巻く現実は優しくないかもしれない。温かくないかもしれない。でも、それに絶望してるだけじゃ駄目なんだ。自分が変わらなきゃ、周りだって変わらないんだから。悲しいし、苦しいのは当然だけど、でも……」
 この言葉だけは、春香の顔を見なければいけない。春香の目を見詰めて言わなくてはいけない。
 大きく息を吸って、春香に顔を向ける。一番言いたいことを言うために。
 春香の姿が、俺の目にはっきりと映った。
「いつまでも、泣いてるだけの子供じゃあいられないだろう?」
 春香の姿は、夕焼けに染め抜かれ、金に輝く硝子の彫像のように見える。美しく、脆く、儚い、暖かな硝子の彫像のように。
 そして、金色に輝く春香の両目から――
 大粒の涙がこぼれた。

 泣きながら、春香が倒れ込むようにして俺に寄り掛かってきた。俺は、その小さな身体をしっかりと受け止める。
「私……私は……私だって本当は……」
 言ってしまえば良いと思った。言いたいことは全て、涙と一緒に外に出してしまえば良いと。
 でも、春香は「これ以上は話せない」と言った。どんな事情があるのか、俺は知らない。でも、泣いているときくらい自分を抑え付けるのは止めれば良いのに、と。そう、思った。
 小さな形の良い頭が、俺の胸の辺りに押し付けられている。艶やかな黒髪が、跳ねるように流れた。夕陽の色と、まだ微かに残っている真昼の色が、春香の背を照らす。
「春香」
 名前を呼ぶ。震えている肩を出来る限り優しく撫でながら。
「話せないことがあるなら、それでも構わない。でも、春香が言ったんだ」
 泣き続けている春香には、聞き取れないかもしれない。だから、俺はゆっくりと語り掛ける。本当に、聞いて欲しいことだから。
「短い間でも、俺達は家族なんだろう? だったら、俺達は兄妹じゃないか。俺の前でくらい、悲しいのを我慢することはないんだ。無理して笑うことはないんだよ」
 春香は、まだ泣いている。今まで溜め込んでいた悲しみの分、全てを涙にしてしまうように。だったらそれで構わない。そうすれば、きっと何かが変わる。ほんの小さなことでも、変わり始めるはずだ。
「俺はさ、情けない男だよ。ちょっと歩いたくらいで肩で息したり、腹いっぱい食べて動けなくなったりさ。でも、一緒に悩むことくらい出来る。一緒に考えることくらいは出来るんだ。だから、春香……」
 今、俺はどんな顔をしているだろう? ふと、そんなことが気になった。
 多分、今まで浮かべたどんな表情よりもずっと、優しい顔をしているのだろうと思う。
「いつか、話してくれないか? 話すことの出来ない、春香を苦しめている何かを」
 春香がどれだけ苦しんで、その中で何を切望していたのかは分かった。でも、俺はまだ、その理由を聞いていない。そして、それを知らない内はまだ、春香の苦しみを全て受け止めたことにはならないのだ。
 春香からは、答えは無い。
 ただ、俺の胸に頭を押し付け、嗚咽を漏らすだけ。
 でも、今はそれだけで充分だと思った。
 俺達はまだ、出会ってから半日しか経っていないのだから。
 俺達が変わるためには、たくさんの時間が必要なのだから。
 俺はまだ、しばらくここに居ることが出来るのだから。

 泣き止んだ春香は、真っ赤な目をして嬉しそうに微笑んだ。微笑んで、小さく言った。
「お兄ちゃん」
 からかうようにそう言う仕草が、とても楽しそうで、何かが吹っ切れたように見える。
 泣いていたのが嘘のようだ。
 俺は小さく肩を竦め、短い溜息を吐いて、言った。
「帰ろうか」
 もう一度そう言って、俺は春香の背中を軽く叩いた。ぽん、と。俺の掌の方が大きいような、小さな背中だった。
「はい」
 大きく頷いて、また笑う。泣いて、苦しんで、哀しんで、そして笑う。とても素直で、純粋で、大切なことだと思った。
 時代の変化は急激で、人々はそれに付いて行くのが精一杯。そんな中で感情を表に出すことは、自分の評価を落とすことに繋がる。そんな中で俺は育って来た。そんな場所で俺は成長するしかなかった。結局は、そんな時代に弾き出されてしまった訳だが。
 時々、俺は思った。俺達が生きる新しい時代は、機械の歯車のような人材を必要としているのだろうか、と。
(そんなこと、もうどうでもいいな)
 ここはそんな都会じゃあない。海があって、人がいて、とても田舎で、ガス灯も電気もなく、路面電車もバスも走っていない。時代の変化は、まだまだここまでは届いていない。
 古くて懐かしいままの、小さな村なのだから。
 春香を見下ろす。時代の変化とかそういった生臭いこととは無縁な、小さな背中の少女を。切なさを誘うような夕暮れ色に染まった、今日出会ったばかりの妹を。
 隠していた感情を少しだけとはいえ吐き出した春香は、とてもすっきりとして見える。この姿が受け入れられない時代なんて、要らないと思う。間違っていると感じる。
 俺達は、歯車にはなれない。悩んで、苦しんで、悲しんで、それで壊れそうになっても、乗り越えなければならない。一人でそれが出来ないのなら、誰かの手にすがってでも。そうやって、生きて行くしかない。人々の感情の波の上で、俺達は生きて行くしかないのだから。
(でも、やっぱりどうでもいいことだな)
 気楽に笑ってみる。口の端を緩め、眉を少しだけ跳ね上げて。
 どうでもいい。難しいことは後回しにすればいい。
 ただ、今は――
 春香と一緒に、家に帰ろう。
 一日の終わりを、しっかりと噛み締めながら。

「おかえり」と、そう言って迎えてくれたのは、田中氏だった。
「ただいま」
 春香がそう答えると、田中氏は何も言わずに何度か頷いた。
 そのやりとりが、ほんの少し羨ましかった。
「すぐ夕ご飯の支度しますから、葉生さんは部屋で待っていて下さいね」
 靴を脱ぎ捨て、春香が飛び出すように家の中に消えて行ってしまった。玄関には、俺と田中氏が残されている。
「えっと……」
 何を言えば良いのか、見当もつかない。春香の頬には涙の跡がくっきりと残っていたはずだし、目だってまだ赤かったはずだ。田中氏が自分の娘のそんな所を見逃すはずはない。
「葉生君」
「はい」
「夕飯までしばらく時間がある。どうだね? 少し話でもしようじゃないか」
「はい」
 何故か上機嫌な田中氏が、逆に俺を緊張させた。
(ひょっとして、何か勘違いされてるんじゃ……?)
 冷や汗をかきながら、田中氏の後ろについて居間まで移った。

 ちゃぶ台を挟んで向かい合い、熱い渋茶をすする。
(……何を言われるんだろう?)
 びくびくと怯えている自分が、とても情けなく思える。田中氏に一言、「出て行け」と言われるだけで、俺はここを離れなければならなくなる。そうなれば、春香との会話とか、俺の覚悟とか、ここで感じた郷愁とか、全ては無かったことになってしまう。
(情けないな……)
 力いっぱい格好をつけようとしてみても、結局は自分一人では何も出来ないのだ。俺という奴は。
 無言で湯のみを傾けるだけの田中氏。どこか満足そうに見える表情を浮かべている。
「幾つか、葉生君に話しておきたいことがあってな」
「はい」
 無意識の内に背筋が伸びた。正直言って、かなり緊張している。
「そう畏まることはない。世間話程度のものだよ。なにしろ、儂自身の話じゃからな」
「はあ……」
「君も薄々は気付いていただろうが、儂と春香は実の親子ではない」
(……そりゃそうだろうな)
 あえて問うつもりはなかったので黙っていた。そもそも、親子にしては歳が離れすぎている。春香はまだ十代半ばくらいだし、田中氏はもう老人と言っても良いくらいだ。どう考えても計算が合わない。
「儂の妻は、もう随分と前に他界した。春香は、養子として引き取った。それだけのことじゃ。だが、儂は春香のことを本当に自分の娘だと思っている。おかしいかな?」
「いえ」
 おかしいことなんて何も無い。それに、春香は言っていた。父が大好きだ、と。
 この親子は血の繋がりなんて頼り無くて薄っぺらなものよりも、ずっと確かな絆で結ばれているのだろう。
「両親を事故で失った幼い春香を、儂が引き取った。儂は当時から一人身でな。村の他の連中よりも余裕があった。村を纏めるという立場上でも、春香を見捨てる訳にはいかんかった。それに、あんな寂しそうに笑う娘を、儂は放っておくことは出来なかった」
 湯のみを持ったまま、とつとつと語り続ける。俺は多分、黙って聞いているだけで良いのだろう。
 この初老の父親は、娘の友人になるかもしれない俺に、前もって何かを言っておきたいだけなのだろうから。
「春香、という名前は儂が付けた。そのままの意味だよ。春の香り。真冬の寒さの後に訪れる、暖かな日差しの匂い。
 儂がまだ若かった頃、しばらくこの村を離れていたことがあった。真冬のことだったよ。春が恋しくて、いつも遠くの空を眺めていた。時代は変わり始め、迷走していた。信じられないかもしれんが、儂は腰に刀を差して町辻を駆けていたんじゃよ」
 時代が移ろってから、まだそれほど歳月が流れた訳じゃあない。俺は変わった後に生まれた若造だ。でも、まだ世の中には時代を変えた人達、時代に変えられてしまった人達がたくさん残っている。
「何度も命のやりとりをした。それでも、儂は必死になって生き延びた。それは、この村に妻を残していたからじゃ」
「…………」
「見ての通り、この村は貧しくてな。今はそうでもないが、当時は飢えて死ぬ者までいた。儂は、数名の同志を連れてこの村から都に出た。妻を飢えさせる訳にはいかなかった。妻は、妊娠していたからな」
 少しだけ、田中氏の目が哀しげに揺れたのを、俺は見逃さなかった。見て、見なければ良かったと後悔した。俺はもう、田中氏の話に飲まれてしまっている。
「真冬の凍える雪の中でも、儂らは生き延びた。待っていた春が訪れ、村に戻ると、妻は死んでいた。病に倒れ、そのまま息を引き取ったという話だったよ」
 あまりに重い話のせいで、俺の頭は押し潰されてしまいそうになっていた。たくさんの考えが、感情が頭の中でぐるぐると回っている。
 田中氏は、当時どれだけの覚悟をしてこの村を離れたのだろう? 大切な妻と、生まれてくる子供を残して。
 田中氏の奥さんは、どんな気持ちで待っていたのだろう? 死ぬ間際に、何を思ったのだろう?
 俺の生きているこの時代にはありえないような話。現実味の無い話だが、それだけに染み入るものがある。
 そういう苦しみを乗り越えた後の時代に、俺達は生きているのだ。
「それから色々あってこの村を纏めるという大役に就き、春香を引き取って今に至る訳だが――」
 随分話が飛んだものだ。軽く三十年分以上は飛んでいるだろう。
「抜き身の刀を手にして幾度も幾度も命の駆け引きをした頃の癖というのは、なかなか抜けぬものでな。儂は、初めて会う人間を斬って良い人間と斬ってはいけない人間に分ける癖がある。いざという時のための覚悟を、初めに済ませておく訳だな」
 ……なんだか、哀しい話が一転して、血生臭い話になっている気がする。
「斬ることはためらわん。斬らねばこっちが殺されてしまう。だが、儂よりも生きるべき人間というのは、往々にしているものでな。そういう人間には、絶対に刀を向けることはしなかった。おかげでこうして無傷で生きている」
「はあ……」
 怖いとまでは思わないが、どうも少し話がおかしな方向へと向かっているようだ。口の中が渇き、喉が水分を求めている。
(……お茶があるだろうが)
 自分に向かって呆れながら、大きく一口。ごくり、と飲み下す音がやけに大きく聞こえた。
「初めて葉生君を見たとき、儂は『この男は斬っても良い』と思った」
「…………」
「人の命の価値を測っている訳じゃあない。儂が生きるべきか、それとも相手が生きるべきかを見極めているだけだ。悪いが、君と殺し合うことになったなら、儂は迷わず君を切るだろう。そう、思ったよ」
 何も答えられずに、口を固く結ぶ。
(まさか、殺されはしないよな……?)
 背筋を冷たいものが流れた。冗談じゃない。
 そんな俺を見て、田中氏は溜め息を吐いた。
「だがなぁ……今の君はもう斬れんなぁ……」
 溜息混じりに、それでもどこか楽しげに言っている。
「……あの、それはどうしてでしょうか?」
 無意味な問いかけだ、とどこかで分かっていた。多分、答えてはくれないだろう。でも、たった数時間で俺がどう変わったのか、それを少しだけでも教えて欲しかった。
 今の俺の、確たる裏づけが欲しかった。
「んん? 簡単なことじゃよ。儂も人の親だ、ということだな」
 片眉を上げ、からかような表情で、そう言われた。
(ったく、本当に血が繋がってないのかよ?)
 そう思えるほど、田中氏と春香は似ている。良く、似ている。
「だから、そんな葉生君に一つだけ頼みがある」
 唐突な申し出だ。どうも田中氏の話の流れは、俺の予想と外れて行く。
「信じてやってくれ」
「……は?」
「信じてやってくれ。それだけで良い。後のことは君が自分で決めてくれれば良い」
 何のことを言っているのか全く分からない。具体的なことに触れずに話を進めるところまで、この親子は似ている。
 でも、田中氏の口調は本気で――
「はい」
 俺は、そう答えるしか出来なかった。
 信じること。俺は、自分に強く言い聞かせた。

 会話が終わるのを待っていたかのように、春香が部屋に来た。夕食の準備が出来たということだった。量を作りすぎたので一人では運べないというので、俺が運ぶのを手伝った。三人で食べるには、多過ぎる量だ。
「あー……この量はちょっと……」
 多過ぎないか? と言おうとすると、
「足りないならまだありますよ?」
 と返された。どうも春香は何か勘違いをしているらしい。
 俺は、決して大食漢ではないのだ。

 またも必要以上の満腹感に耐えながら、与えられた部屋で横になっていた。ぼんやりとしたまま、何も考えない。食後は頭に血が回らないものだ。
 畳の匂いに包まれながら、虫の声を聴いていると、春香が「お風呂の支度、出来ましたよ」と言ってきた。そこで初めて気付いた。自分の汗臭さに。
 うろ覚えなまま、一人で廊下を進み、なんとか風呂場に辿り着いた。脱衣所には、藍色に染められた麻の服が置いてあった。多分、これを着ても良いということなのだろう。使われた跡のない、それでも新しくはない、麻の服。風呂上りに袖を通すと、妙に着心地が良かった。多分、ヒノキの湯船なんて珍しいものに入れたことが、そう感じさせたのだろう。
 湯上りのほてりをそのままに、庭に面した廊下を歩く。夜気にさらされた肌は徐々に熱を落ち着かせ、部屋に着く頃には眠気を誘うくらいの、丁度良い温かさになっていた。
 障子戸を開けると、部屋の真ん中に布団が敷いてあった。多分、春香が準備してくれたのだろう。当の本人はもういない。心の中だけで、春香に礼を言う。倒れるように布団に寝転び、大きく息を吸う。春香の匂いが、ほんの少しだけ残っていた。
 俺の妹。新しい家族。短い間だけの兄妹。金色に染まった、白い服の黒髪の少女。本気で哀しんでいた悲痛な声。祈りにも似たささやかな願いと望み。細い肩。小さな背中。海の匂い。空の青さ。田中氏のこと。信じる。信じてやってくれ――
 一日の出来事が渦のように回り、混じり合って遠くなる。
 柔らかな布団で、静かに眠りについた。
(おやすみ、春香)
 心の中で一人で呟いて。
 その夜は、夢も見なかった。


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