死化粧

 今朝、ホームルームで担任が言った。
 彼女が死んだ、と。
 教室中はざわめき、泣き出す女子までいた。
 彼女は目立たないタイプの子で、俺は彼女の顔を思い出せない。話したこともなかった。
 放課後までに立った噂は、吐き気がするような内容のものだった。
『あの子は、自殺したんだってさ』

 彼女の葬儀の日、クラスの代表者数名と担任、それと教頭が参列した。
 俺も、その場にいた。

 その日は空気が酷く乾いていたのを覚えている。

 参列者はそう多くはなかった。親類、近所の人、それと俺達だけ。彼女には親友がいなかった。泣いてくれる人は、上辺だけの『トモダチ』しかいない。
 俺は、彼女が誰かと一緒に談笑していた所を見たことがない。
 彼女は目立たなくて、あまりぱっとしないタイプの子だった。

 でも、死んでしまった後の彼女は、何故かとても美しく見えた。

 棺にすっぽりと収まった小さな身体と、化粧を施された彼女の顔。自殺、というのはただの噂だと思った。自殺者の遺体が、ここまで穏やかな表情でいられるだろうか?
 俺は、彼女の遺体に一目惚れをしてしまった。
 背筋を冷たい汗が流れて、血の気が引き、肩が小さく震えた。
 その数時間後、彼女の遺体は火葬場で灰になった。
 残った骨の欠片を、参列者全員で骨壷に収めた。

 次の日から、また普通の毎日が始まった。
 数日の間、彼女の席の上には花瓶に活けられた菊の花が飾られていた。でも、気がつけばそれもなくなっていた。
 誰も、彼女が死んだということを気に留めていないようだった。
 俺は、それがとても悔しかった。
 彼女の遺体に恋をしてしまった俺は、どうして良いのか分からなくなっていた。

 思い出すのは、あの真っ白な顔。穏やかな顔。美しい目鼻立ちの、死んでいる彼女。
 生きている彼女はぱっとしなかったが、死んだ後の彼女は俺の心を捉えた。

 四十九日が過ぎる前に、俺は彼女の家を一人で訪ねた。
『彼女のことがずっと好きだったけれど、言い出すことが出来なかった』
 そんな様な嘘をついて。
 彼女の両親は必要以上に俺をもてなしてくれ、そこで俺は、あの噂が本当だということを知らされた。
 彼女は、自殺したのだった。

 遺書があったらしい。短く一つだけ文が書いてあったそうだ。
『もう生きていても仕方ないので、死にます』
 それだけだったそうだ。
 彼女の両親は、静かに泣いていた。でも――
 彼女が生きている内に、何かしてやったのだろうか?
 怒りとは違う苛立ちが湧き上がり、俺はこの両親を軽蔑するようになった。
 
 死因は、不明だという。
 首吊りでも手首を切った訳でもない。溺死でも窒息死でも、薬物を使っての自殺でもない。ガス管を咥えてもいないし、線路に飛び込んだ訳でもない。
 遺体はとても綺麗で、ただ心臓が止まっただけ、という状態だったらしい。
 発見されたのは、繁華街の外れだったそうだ。
 彼女の遺体には傷一つなく、乱暴をされた痕跡もなかった。
 司法解剖は、断ったらしい。

 彼女の両親は、彼女が死んでしまったことを嘆きはしても、彼女が死んだ原因とかには興味が無いようだった。
 彼女の家を出て、俺は道に唾を吐いた。

 学年が一つ上がり、クラスの面々が変わった。
 それでも俺はまだ、彼女の死に顔に恋をしたままだった。
 絶望的な恋だ。なにしろ、相手はもう墓の下にいるのだから。
 彼女が何を見て、どうして死んだのか、そういうことはどうでも良かった。
 ただ、あの冷たくなった彼女が、欲しかった。
 俺は毎日同じ夢を見た。
 冷たくなった彼女が棺から這い出し、俺に抱きついてくる夢だ。
 その両手は冷たく、身体は既に硬くなってしまっている。表情は変わることがない。
 開いた瞼の奥に、光はない。
 俺は彼女を愛撫し、彼女は俺にキスをする。いつもそこで目が醒める。
 酷く生々しい夢に、初めての朝は身動き一つ取れなかった。学校を休み、丸一日ベッドの上で震えていた。
 何てことだ……
 俺は、彼女に恋をしてしまっているのだ。
 それも、多分、俺の人生で一番本気な恋を――

 彼女の最後の気持ちを知りたいと思うようになったのは、その夢に慣れてしまった時期だった。
 その夢を見るために毎日を過ごすようになった時期だった。
 俺はもう、とっくに壊れていたのかもしれない。

 夜の繁華街はうるさいだけだ。
 原色の明かりと、流行の歌で彩られたドブの匂いのする場所。
 反吐が出る。
 こんな場所で、あの美しい彼女が見つけられたと思うと、酷く切なくなった。
 彼女は、もっと綺麗な場所で死ぬべきだったのだ。
 路地の隅に腰を下ろして、行き交う人の流れを眺めていた。
 彼女の遺体が発見されたのは、この路地。今俺が座っている辺りだ。
『もう生きていても仕方ないので、死にます』
 そう書き残した彼女の気持ちが、まだ分からない。

 彼女の顔を思い出しながら、俺はそこで時間が過ぎるのを我慢していた。
 死んだ人を愛した俺は、どうすれば良いのだろうか?
 決して叶わない望みを持ち続けて、壊れかけたまま生きれば良いのだろうか?
 見れば見るほどに、価値の無い人々。下らない、ドブの匂いを纏った人々。
 線香の匂いの漂っていた、あの葬儀の日を思い出した。
 ああ、そうか……
 彼女は、きっとこんな気持ちだったのだろう。

 どれだけ望んでも、叶わない世界なら……
 諦めて、死んでしまうしかない。

 そう思った時、空を見上げると、紫色に染まっていた。
 ビルの谷間から昇る太陽。それを見て、分かった。
 彼女がここを死に場所に選んだのは、この太陽だけが唯一、この腐れた世界で美しいものだったからだ。
 新しい一日を告げる太陽を見て微笑み、ポケットからナイフを取り出して、手首を縦に裂いた。真っ赤な血液が、驚くくらい大量に流れ出す。
 晴れ晴れしい気持ちで、もう一度手首を裂く。もう一度、今度は突き刺すようにして。
 筋に当たってそれるナイフ。骨らしき固さを手に伝えてくるナイフ。肉の柔らかさと、人間の弱さを教えてくれる刃。
 何度も、何度も突き刺した。痛みはやがて薄れ、視界が狭まって行く。
『もう生きていても仕方ないので、死にます』
 彼女の気持ちが、よく分かった。彼女のいない世界なんて、もういらない。
 そして、遠のく意識の隅で思った。
 俺の遺体を見て、誰か俺を愛してくれる奴はいるだろうか、と。
 最後に俺は、ナイフで心臓を突き刺して、そして――

 死化粧を施された彼女はとても美しくて、僕は一目で恋に堕ちてしまった。
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