風の強い午後、その手紙は届いた。数日前に自殺した彼女からだった。 『これは、ラヴレターです』 見慣れた筆跡で、いつもよりも丁寧にそう書かれていた一行目。 手紙は長くて、とても長くて…… 僕は長い時間をかけて、その手紙を読んだ。 彼女は、数日前に自殺した。 『これは、ラヴレターです。私の恋人、貴方にだけ向けられたラヴレターです。 出会ってからとても長い時間、私たちは恋人ではありませんでしたね。 ただの、同級生でしたね。 貴方は気付いていなかったかもしれないけれど、私はずっと、一目見たときからずっと、貴方のことが好きでした。 背筋を真っ直ぐに伸ばして歩く貴方を、いつからかずっと目で追うようになっていました。 だから、貴方に話しかけられたとき、とてもどきどきしました。 ただの同級生から、友達に。ただの友達から、親しい友達に。長い、長い時間と、とてもたくさんの会話。たくさんの思い出。今こうして思い出すだけで、私は胸の中が温かくなるのです』 一枚目は、そこで終わっていた。僕はそこまでを三回読み返して、少し苦しくなった。 僕だって初めて見たときからずっと、彼女と恋人同士になりたいと思っていたのだから。 そして、やっと恋人同士になって、これからもっと深い関係になって、もっともっと長い時間を一緒に過ごせると思っていたのに…… 彼女は、死んでしまったのだ。 『私には、夢がありました。それはとても小さな、笑ってしまうくらいにささやかな夢です。 幸せになること。 それだけが、私の夢でした。 誰か、たった一人の人を愛して、愛してもらって、肩を寄せ合って生きていきたい。 雨の日は一つの傘で。寒い夜は一つのベッドで。 二人分の幸せを、感じたい。どんなに怖いことがあっても、それを忘れられるくらいに、幸せに。 私の肩を抱いてくれる手がある。そう想像するだけで、私はしびれるくらいに幸せになれました。 それは、貴方の手。まだ細くて白い手だけれど、きっとこれからたくましく強く、そして優しくなる、貴方の手。 貴方が「僕の恋人になって欲しい」と、頬を真っ赤にして言ったときのことを、私は忘れることが出来ません。 あの時、私がどれだけ幸せだったか。どんなに、泣いてしまいたかったか』 告白は、僕からだった。そういうことは男の役割だとずっと決めていたから。 僕にとって初めての恋人。初めての告白。初めての幸せ。 窓の外はまだ、風がとても強い。 『貴方と付き合うようになって、私はおかしなことに気付きました。 幸せは、薄れてしまうということです。 あの時、貴方から「恋人になって欲しい」と言われたとき、私は壊れそうなくらいに幸せでした。 でも、付き合うようになって、その一瞬の幸せが薄れてゆくのを感じました。 もちろん、楽しい思い出も幸せな思い出もたくさんあります。初めて一緒に見た映画のことを覚えていますか? 貴方は感動して泣いて、照れくさそうに笑っていました。 そんな貴方を見て感じた幸せも、だんだんと薄れてしまったのです。 幸せが普通になる。普通の気持ちと同じになる。 それは、私にとってとても怖いことでした』 便箋の端に、少し折れたような跡がある。 四枚目を手に取る。 『私は本当に貴方のことが好きです。大好きです。 他に何もいらないくらいに、好きなんです。 だから、この気持ちを分かってもらいたい。そう思ってこの手紙を書いています。 純粋な愛、というものについて考えたことはありますか? 私には、どれだけ考えても答えは分かりませんでした。 そもそも愛のカタチは人それぞれで、決まったカタチなんてないのだから。 だったら私は、私の愛のカタチを探そう。 私だけの、カタチで幸せになろう。そう決めたのです。 私はこれから、空を飛びます。もうすぐ夜が明けて、紫色と金色の真ん中の夜明けが来るでしょう。 その時に私は、誰もいない路地に飛ぶのです』 ラヴレターというよりも、これは遺書のようなものなのではないだろうか? 自殺の理由がこんなにも明確に書いてあるのだから。 五枚目を読みながら、僕はそんなことを思った。 『今日、貴方はキスをしてくれました。初めての、キス。 手を繋いで夕暮れの中を歩きました。すごく、すごくどきどきしました。 家について、一人になって、私は今日を振り返って思いました。 貴方のことを、今まで以上に好きになってしまった、と。 それはとても嬉しくて、胸が苦しい感覚でした。 これから私と貴方は、大人の恋人達がやっているようなことをするようになる。 もっと深く、お互いを求めて、そして与えるようになる。 そう思うだけで、幸せに押しつぶされそうな気になりました。 今までで、一番の幸せを感じることが出来ました。 だから私は、空を飛ぶのです。 地面にぶつかった私の体は大きく弾けて、黒いアスファルトを赤く染めるでしょう。 飛び散った私の欠片を全部集めることは出来ないでしょう。 朝日が完全に昇りきって、街が動き始めるまで、誰も気付かないでしょう。 太陽に照らされた私の中身は、どれがどの部位なのか判断することも出来ないでしょう。 だから私は飛ぶのです。 この幸せを、誰にも奪われないように。 この幸せを、薄れさせないように。 この幸せを、永遠にするために』 彼女は、とても細い指をしていた。いつも丁寧に手入れされた爪。淡い桜色のマニキュアが好きだった。 左手の小指には、僕がプレゼントした銀の指輪をしていた。二本の線が交差しているデザインの指輪だ。 その手が便箋を押さえ、ペンを持って、この手紙を書いた。 筆跡は荒れることなく、いつもと同じにゆっくり、一文字一文字をしっかり確かめるようにして書いたのが見て取れる。 『永遠にするために』 彼女の幸せは永遠になったのだろうか? 透き通った朝の光に内臓をさらした彼女は、幸せだったのだろうか? そして、最後の一枚。 『幸せにしてくれて、ありがとう。 幸せになってくれて、ありがとう。 だから私は空を飛びます。貴方のくれた気持ちを抱いて、空を飛ぶのです。 本当に、本当に大好きです。 だからこれは、ラヴレターです。 貴方の恋人である私から届く、最初で最後のラヴレターです。 悲しくなんてありません。とても幸せです。 死ぬことは怖くありません。それくらい幸せです。 大好きです。ありがとう。 これは、ラヴレターです』 数日前に自殺した彼女から届いたラヴレター。僕はそれを何度も読み返した。 そして便箋を綺麗にたたんで、封筒に戻す。封筒の中からは、かすかに彼女の香りがした。 消印は彼女が自殺した日。封筒の色は、彼女の好きだった空色。 僕は彼女からのラヴレターを机の一番奥にしまった。 死んでしまった恋人から届いた、遺書のようなラヴレター。 長い、とても長い手紙。 窓の外はもう暗い。夕暮れと夜の隙間の、うっすらと青い暗さ。 彼女は、幸せの中で、空を飛んだ。 『これは、ラヴレターです』 風の強い午後に届いたラヴレターは、今でも僕の机の一番奥に入っている。 |