プレゼント


 キミが望むから、僕は何でもプレゼントした。
 ダイヤの指輪も、駅に近いマンションも、赤いスポーツカーも、大きな犬も……
 働かなくても暮らせるほどのお金も、幸せで満たされた日々も、夢のような生活も……
 僕はキミにプレゼントした。
 でも、キミは僕に嘘を吐いていた。
 キミは僕を一番に愛していたんじゃなかったんだね?

 二人の部屋。僕と彼女のためだけの部屋。鍵を持っているのは僕と彼女だけ。
 僕はスーツのポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
 カチャリ。
 少しの抵抗と、軽い音。僕は扉を開き、中に入る。
 玄関は暗い。どの部屋も暗い。まるでそこが最後に行き着く所だと言うように、触れることすら出来そうな闇が在る。
 扉の外から差し込むかすかな光の帯だけが、日常との繋がり。
 後ろ手に扉を閉める。パタン。カチャリ。闇は完全に僕と、僕の周りを覆ってしまった。
 手探りで照明のスイッチを入れる。玄関から真っ直ぐに伸びる廊下に灯りが満ちる。白い粉が降るような灯りだ。でもそれは妄想。蛍光灯は何も降らせはしない。
 夜に舞う蝶ならば、その鱗粉ですら目映く輝くのだろうか?
 妄想を振り払うように、ネクタイを雑に緩める。革靴を脱ぎ、スリッパを履いて僕の部屋へと進む。
 僕の部屋は、入り口のすぐ左。反対側は浴室になっている。部屋で手早くスーツとシャツを脱ぎ、部屋着を着る。下着の替えを持って、そのまま浴室に。
 僕はいつも仕事から帰るとこうしてすぐに熱いシャワーを浴びる。
 彼女に会うときには、仕事の疲れと外の汚れを全部落としておきたいから。
 バスタオルで濡れた体を拭いて、洗いたての清潔な下着を着る。そして彼女が「良く似合うわ」と褒めてくれた部屋着を着る。
 次は、食事だ。

 キッチンは浴室の隣。つまり玄関から二部屋目にある。
 キッチンは明るい方が良いと彼女が言ったから、他の部屋よりも大きな蛍光灯がついている。
 手元には影が出来ないようになっているし、明るすぎて目が疲れることがないように工夫してもある。
 二人で使うには少し大き目の冷蔵庫からレタスとトマト、セロリとりんごを取り出す。コンロには水をたっぷり入れた鍋をかける。
 彼女はきっと眠っているだろう。ぐっすりと夢を見ているだろう。だから、僕一人の分を作れば良い。
 鍋の水が沸騰するまでの間、僕は良く研いである包丁で野菜を刻む。今日はサラダとスパゲッティーを作ろう。
 真っ赤なトマトに包丁を入れると、ずっという音を立てて刃が沈む。少し遅れてから思い出したように透明な汁が湧き出る。透明な汁に混じって、赤い粒が流れ出る。
 お湯が沸いたら、スパゲッティーを茹でよう。

 入浴と食事を済ませて、洗面所で歯も磨いた。髪の毛もちゃんと乾いたし、使った食器だって綺麗に洗った。
 キッチンの正面、僕の部屋の一つ奥は居間になっている。ソファーが向かい合うように二つと、その真ん中に綺麗な飴色をした木のテーブルがある。
 壁にかかった時計を見ると、二時を少し回った辺り。
 そろそろ彼女も目を覚ましただろうか?
 昨夜からずっと眠ったままだから、そろそろ目を覚ますはず。
 僕はソファーから立ち上がり、廊下の突き当たりにある彼女の部屋へと歩く。

 フローリングの床とスリッパが擦れる音が、やけに大きく響いている気がする。
 コンコン。
 彼女の部屋を開ける前には、まずノックをすることになっている。
 少し待って返事がないので、もう一度。
 コンコン……コンコン……
「入るよ?」
 もしかしたら眠っているかもしれないけれど、それでも僕は扉を開けた。眠る前には、やっぱり彼女の顔を見ておきたいから。
 音もなく開いた扉の向こうはやはり真っ暗だった。きっとまだ眠っているんだろう。僕の両脇をすりぬけて差し込む光が、彼女の眠るベッドをかすかに浮かび上がらせている。
 一歩部屋に入って、扉を閉めた。また、完全な暗黒がそこに訪れた。それと、時計の針が時を刻む音すら聞こえるような、静寂が。
 彼女のベッドは、すぐ隣に大きな窓がある。昼間ならそこから街が見下ろせる窓。彼女はこの窓が気に入って、この部屋を選んだ。夕暮れになると朱色に染まる並木道がとても綺麗に見える窓。
 僕は目を閉じて、五歩進んだ。五歩、入り口から彼女のベッドまでの距離だ。手を少し伸ばすと、ふわっとした布団の感触があった。
 僕はベッドの縁に、丁度彼女に背を向けるようにして腰を下ろした。
「ねぇ、本当は起きてるんだろう?」
 返事はない。多分、彼女は怒っているのだろう。でも、僕だってとても深く傷付いたんだ。
 彼女が、僕の他にも男を作っていたことで。
「今日はちゃんと話をしようと思うんだ。僕らにはやっぱり、こうしてゆっくり話す時間が必要だよね?」
 やっぱり返事はない。でもきっと聞いているはずだ。僕は独り言のように続ける。
「キミが僕以外の男と付き合いたいっていうのなら、そうすれば良いさ。でもね、あの男は止めておいた方が良いよ。僕が会いに行っただけで逃げ出すような男だもの」
 そう。今日僕は彼女の浮気相手に会ってきた。だから帰りがこんな時間になってしまったのだ。
「キミにはもう二度と近寄らないってさ。僕は勝手なことをしたかな? でもね、僕はちゃんと話をして、彼がキミを幸せに出来るなら潔く身を引こうと思ってたんだよ」
 まだ、返事はない。分厚い遮光カーテンは街の光をこの部屋に入れはしない。
 僕は大きく溜め息を吐いて、膝の上で手を組んだ。
「キミだけじゃなくて、僕も傷付いたってことを分かって欲しいんだ。だってそうじゃないか? 僕はキミだけを愛しているし、キミが望むことなら何だってしてあげたんだから。だからキミが――」
 そこまで言って、僕は頭を軽く振った。
「キミが望む物なら何だって買ってあげたじゃないか。このマンションだってそうだし、このベッドだってそうだ。服だって何着買ってあげたか分からないし、アクセサリーだって一生分買ってあげた。お金だってあげた。それなのにキミは……」
 昨夜のことを思い出した。昨夜の彼女の台詞を思い出した。
「キミは、僕の命まで欲しがるなんて」

 昨夜、僕が帰るとキミはあの男とベッドにいた。僕が何かを言おうとして立ち尽くしていると、キミはこう言った。
「アンタなんてもう用済みなのよ!」
 僕は何も言えずに、取り乱して泣き叫ぶキミを見ていた。
 長い髪を振り乱して涙を流すキミを綺麗だと思ってしまった。
 彼女は混乱していた。それも、とても酷く混乱していた。
 キッチンから包丁を持ち出して、両手で腹の辺りに構えた。刃先は僕を真っ直ぐに向いていた。
「アンタがいなけりゃ、何だって上手く行ったのに!」
 キミは、ずっと僕に嘘を吐いていたんだね?
 僕のことだけを愛しているって言っていたのに……

「こうして落ちついたキミと話していると、たくさんのことを思い出すよ」
 きっと彼女は今でも混乱しているだろう。でも、もう包丁を持ち出したりはしないはずだ。絶対に。
「やっぱり、僕らはすれ違いが多かったのかもしれないね。僕はいつも仕事で家を開けていたし、キミはずっと家にこもりっぱなしだったし。仕事は辞めることにしたよ。しばらくは大変かもしれないけれど、それでもやっぱりキミと一緒にいる時間の方が大切だから」
 少しだけ振り返り、手を伸ばす。彼女の艶やかな黒髪に手を触れる。いつもと同じ、さらりとした手触りが指先に伝わってくる。僕の大好きな彼女の黒髪。
「キミが僕の命を欲しがったのは、正直とてもショックだったよ。でも、僕はちゃんとあげただろう? 僕にとって命よりも大切なものを」
 彼女の頬に触れる。きめ細かい肌は、彼女の自慢の一つ。指先に伝わるのは――
 冷たさと、固さ。
「キミの命を、さ」

 真っ暗な部屋の中で、男は女の遺体を抱く。
 ベッドはきしみを上げ、シーツは激しく波打つ。
 女の目は虚空を見詰め、動くことはない。
 胸からへその辺りにかけて、真っ直ぐに一本線が入っている。
 男は一心不乱に女の遺体を抱く。
 そしてその線に手を突き刺して……
 黒く固まり、動かなくなった心臓を強引に引き出した。
 血管ごと、力任せに引きずり出した。
 そしてそれを女の顔の上に掲げて――

「ほら、これをプレゼントするよ。僕の命よりも大切な、キミの命を」

 やがて朝が来て、浮気相手の男の通報で警察が踏み込むまで、二人だけの時間は続いた。


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