彼はいつも、狭い空を縫うようにして飛んでいた。 昔、彼のお爺さんのお爺さんの、そのまたお爺さんの代にはもっと空は広かったという。 広くて青い空を、彼のご先祖様は自由に飛びまわっていたらしい。 今彼が見上げている空は、灰色に濁っている。冷たい大きな石の塊で区切られた、晴れているのに濁った色の空。 彼はそんな空の中を、それでも自分の思う通りに飛び続けていた。 彼の友人は、皆揃って真っ黒だった。つやつやとした黒い翼は、白けた日差しに銀色に輝く。たくさんの友達が空を舞っている姿を見上げるのが大好きで、良く皆に置いていかれることがあった。 そんなとき、彼は大きな石の向こうにある、騒々しい場所を眺めて過ごした。 大きな体で地面を蹴り飛ばすようにして進む、たくさんのヒト。彼の友達とは違う、たくさんの色の羽に身を包んだ、飛べないイキモノ。 「あれはね、人間って言うんだ」 子供の頃、父さんがそう教えてくれた。そして、彼らと僕らとは違うのだと。 でも、人間は彼らにたくさんの食べ物を与えてくれる。この街の空に良く似た色の、半透明の袋に入った食べ物。ヒトがそれを与えてくれる限り、彼らは毎日心配事なく生きることが出来た。 ある夜、彼はいつものように狭い空をゆっくりと舞っていた。また友達に置いていかれてしまったのだ。 彼らの住処は、大きな石の上の、平らな場所。同じような場所がたくさんあって、同じような姿の人たちがたくさん住んでいる。彼より小さいもの、白いもの、素早いもの。そんなたくさんの人たちがいる。 彼は自分たちの住処を目指して、飛んでいた。 突然目の前がぱっと明るくなった。凄い速さで地面を進むカタマリ。彼は父さんに言われた言葉を思い出した。 「あれは、怖いイキモノだ。絶対に近づいてはいけないよ」 いつもなら、彼はそのイキモノがいるずっと上を飛んでいるはずだった。住む場所が違うなら、誰も彼を傷付けたりはしない。そういう世界だったから。 どうして…… その疑問が頭に浮かんだ途端、彼の翼をとても強い衝撃が襲った。 目の前が真っ白になって、体が引き千切られそうなほどの痛みが走る。 眩しい光の中、彼の体は黒い地面に叩きつけられて、一度だけ跳ねた。 彼らの住処では、彼の友達が身を寄せ合って眠っている。 いなくなるのはいつものこと。またふらっと戻ってくる。 誰もがそう思っていたから。 真夜中でも明るい世界。切り抜かれた空。灰色の青空。 濁った空気と、騒がしい音。 彼が目を醒ましたのは、明るくて暗い、狭くて苦しい場所だった。 「あ……」 何が起こったのだろう? 目の前が明るくなって、とても痛くて…… ゆっくりと目を開くと、暗い視界の中に真っ白なものが浮かび上がった。 「キミは……?」 無口な白いイキモノは、ガラスのような目を彼に向けるだけ。ちょこんと座って何もしようとしない。 「ああ、そうか。あのままあそこにいたら……」 たくさんの、凄い速さのカタマリに踏み付けられていただろう。 「助けてくれたんだね?」 薄っすらと輝くガラスの瞳が、彼を真っ直ぐに見詰めている。 かすれた声で、彼は続ける。 「ありがとう。でも、どうやら僕はこのまま死んじゃいそうだね」 力なく笑って、空を見上げた。冷たい大きな石で区切られた、夜空。 もう一度、飛びたかったな…… と、その白いふかふかとした姿のイキモノは立ち上がって、振り返って、歩き出した。 「待って……キミは……」 四本の足で歩くそのイキモノは、一度だけ振り返って、白い五本目の足をふらふらと揺らしながら光の方へと歩いて消えて行ってしまった。 そして、彼の意識はだんだんと薄れて…… 次に目を醒ましたときは、彼の住処にいた。 周りでは、彼の友達が心配そうに見下ろしていた。 「助けてもらったんだ」 そう言う彼に、友達は口を揃えて言った。 「それは猫って言うんだ。お前、食べられるかもしれなかったんだぞ」 「でも、そんな風には思えなかったんだ。なんだかとても……」 「とても?」 「寂しそうに見えたよ」 ビードロのような、あの目を忘れられなかった。 「猫さん、か……」 そして彼はなんとか以前のように飛べるようになった。 住処で横になっている間ずっと、あの真っ白な猫のことを考えていた。 元気になった彼は、一言お礼が言いたくて、あの猫を探して街を飛ぶ。 白いふさふさの毛を持った猫。灰色の街の中で、その姿はとても目立った。 猫は生まれたときからずっと一人で…… 獲物のいない街で、たった一人で必死に生きていた。 目立つというのは、猫の彼女にとって悪いことでしかなかった。 闇に隠れることも出来ないし、ヒトに見つかれば物を投げる的にされる。 彼女は、素早い動きを頼りに半透明の袋の中身を漁る。 そして、いつも思っていた。 「私もあんな風に、真っ黒だったら……」 そうすれば、闇に隠れることも出来るし、灰色の街に溶け込むことだって出来たかもしれない。 見上げる濁った空を、真っ黒い烏が飛び回る。 「見つけた!」 烏の彼は、猫の彼女を見つけた。黒い道で、あの白い姿は簡単に見つかる。 すいっと翼をしまいながら降りて、声をかける。 「こんにちは、猫さん。あの時はありがとう」 にこにこと笑う烏に、猫は何も答えない。 「おかげでまた、こうして飛ぶことが出来ました。どれだけお礼を言っても足りません」 猫の彼女は何も言わないで、首を横に振った。 そして、この間のようにふいっと歩き出してしまう。 「待って……!」 ちょこちょこと跳ねて歩く烏を置き去るように、白い猫は路地に消えてしまった。 「猫さん……」 取り残された烏は、俯いたまま翼を二、三度羽ばたかせた。 「どうしてあの猫さんは、僕の声を聴いてくれないんだろう?」 まだ辺りが薄暗い、夜明けのすぐ後。彼は彼の友達に問いかけた。 「当たり前じゃないか。僕らと彼らは、違うんだから」 何をつまらないことを、というような口調。彼は少し寂しくなった。 「僕はお礼をしたいんだ。助けてもらったんだ」 「もうそのことは忘れろよ」 でも、あの哀しそうに光る目を忘れられないんだ。僕らと正反対の、真っ白な姿も。 友達の烏は空へと昇っていく。光を照り返すその姿が、今までよりずっと綺麗に見えた。 「もしも、僕もあの猫さんみたいに白かったら……」 でも、どうすれば真っ黒な翼を白くすることが出来るのか、彼には分からなかった。 猫はまた、ヒトに蹴り飛ばされた。お腹の辺りが酷く痛むけれど、逃げなくてはいけない。真っ白な毛に灰色の埃をまとわせて、出来る限り遠くまで駆ける。 幾つもの路地を抜け、ヒトでは入り込めないような場所に。 そして、猫はそこで倒れた。 倒れた猫の上、大きな四角い石の塊の上を、何匹もの烏が飛び行く。 静かな夜の中、彼は一人で風を浴びていた。 見上げた夜空には、月が浮かんでいた。 「そうだ、もしかして……」 この月の銀色の光の下なら、僕も猫さんも同じ色に見えるかもしれない。 そうすればきっと、話が出来る。 大きく翼を広げて、彼は月夜に飛び出した。 真っ白な体の、ガラスのような目をした猫を探して。 倒れていた猫は、目を醒ました。 騒々しい街の裏側のような場所。珍しく、とても静かだった。 動かない体と、口の中に広がる血の匂い。 「ああ……私はきっと……」 もう、助からないのだろう。 とてもお腹が空いていた。何かを食べなくてはいけない。何か食べ物を口に入れれば、きっとまた前のように動けるようになる。ネズミでも何でも良い。何かを、食べて…… でも、手足はほんの少しすら動かない。目の前は霞んで見える。 ゆっくりと目を閉じよう。痛みはもう、ない。 多分、このままゆっくりと終わるから…… 彼がそんな猫を見つけたのは、月が空の真ん中を照らしている頃だった。 「猫さん」 ふわりと舞い降りた、黒い烏。銀色の月光を浴びて、虹色に輝いている。 「眠っているのですか?」 くちばしの先で軽く突くと、猫はゆっくりと目を開いた。 猫の白い体にも、月の光が降り注ぐ。 「貴方は……」 「猫さんに助けてもらった烏です。おかげでこうして元気に飛べるようになりました。お礼がしたいのです。何かして欲しいことはありませんか?」 「私は……」 猫の声はかすれて、聞き取ることが出来なかった。良く見ると、お腹の辺りがじんわりと赤く、茶色くなっている。 「血が……」 傷跡は深いらしく、血はまだ流れ続けている。 「何か……食べるものを……」 辛そうに目を閉じて、猫は必死にその言葉を搾り出した。 「分かりました。すぐに何か探してきます」 銀色の光の下、月の方向を目指して烏が舞い上がった。 その姿が、猫の目に焼きついた。 猫の彼女は、烏の彼が飛び去るのをじっと見上げていた。 物音一つ立てずに、彼は空に舞い上がった。 ああ、あの翼があれば…… いつも見上げるだけだった空に、溶け込むことも出来るのに…… 冷たくなり始めた手足を強引に動かして、猫は立ち上がった。 彼が戻ってきたとき、猫は隅っこで目を輝かせて待っていた。 彼のくちばしの先には、半透明の袋から抜き出した食べ物が挟まれている。 とんとん、と跳ねて歩き、猫の前にそれを下ろす。 「これを食べて、元気になって下さい。僕はもっと貴方とお話がしてみたいのです」 猫はすっと体を起こして…… 烏の首筋に、飛びついた。 鋭い牙が、烏の肉に深く突き刺さった。 「……どうしてですか?」 彼は一切抵抗せずに、自分の上に乗っている猫を見上げる。 その向こうに、まん丸の月がぼんやりと浮かんでいる。 「黒い羽があれば、私にもあれば……」 抵抗しない彼に、猫の彼女は更に牙を突き立てる。 流れ出る血は、黒い羽を赤く染める。 「僕は貴方のような、白い体が欲しかった。そうすればもっと、貴方と一緒に……」 猫の体は返り血で赤く染まる。 彼の意識はそこで途切れ、猫もそこで力尽きた。 月は建物の向こうに沈み、流れ出る血は黒く固まる。 やがて朝日が、二人の亡骸を等しく金色に染めた。 |