白い猫


 真っ白な体で、彼女は生まれた。
 四人兄弟の一番最後に生まれた、真っ白い体の彼女。母親に一番良く似ている、彼女。他の兄弟たちよりも、ずっと小さい体で生まれた彼女。
 母親は、そんな彼女を心配して「さち」と名前をつけた。幸せになれるように。それだけを望んで。
 彼女には、父親がいなかった。母親が言う。
「父さんはね、少しだけ早く先に行ってしまったのよ」
 彼女が死というものを知るまでは、いつかきっと逢えるものだと信じていた。
 一年が過ぎて、他の兄弟は自分で食べ物を探して来ることが出来るようになる。彼女はまだ、母親に頼らなければ食べ物を得ることは出来なかった。
 彼女が「死」というものを知ったのは、その頃だった。

 静かに音もなく降る雨。冷たい、体の芯が凍りつくような寒い雨の夜。
 母親が、車にひかれた。
「さち」と母親が彼女を呼ぶ。その声は細くて、やっと聞こえる程度でしかなかった。
「さち、聞きなさい。これからは、全部自分で何とかしなくてはいけないのよ」
 動かない母親。後ろ足は潰れ、ひしゃげ、真っ赤な血が流れる雨に混じる。
 もう、二度と動くことはないだろう。幼い彼女にも、それくらいのことは分かった。
 車というのがどういうものなのか、母親から何度も聞かされていた。ヒトが乗る、早い乗り物。あれの通る場所は平らで広くて歩きやすいけれど、出来るだけ近寄らないようにしなさい、と。
 あれに当たると、「死ぬ」から。
 彼女はそう言われても、「死」が何なのか分からなかった。それでも、黙って頷いた。母親の言うことは、彼女にとって全てだったから。
 母親がこの日ここを通ろうとしたのは、二番目の兄さんのためだった。このところ続いた長い雨で体を壊したらしく、自分で食べ物を探すことが出来なかった。そして、母親が近くで探してきた食べ物は、すぐに吐いてしまう。少し遠くに行けば、ヒトが食べ物を置いていく場所がある。そう、この道を渡れば。
 さちは母親について行くと言った。母親も、反対はしなかった。
 先に車道に出た母親は、こうして車にひかれてしまった。
 眩しい光と、切り裂くような音。通り過ぎた後には、倒れこんで動けない母親の姿。さちは不思議と、何も考えられないでいた。
 ただ、母親の「最後の」言葉を聞く。
「貴女の父さんのところに、私も行くの。もうさちに何もしてあげられないけれど」
 瞼が、下りる。
「貴女に幸せがあるように、祈っているわ」
 雨は静かに降り続き、母親だったものを冷やしてゆく。

 さちはその様を朝になるまで眺めていた。安全な、少し離れた場所から。
 流れ出た血は全て洗い流され、赤い肉の断面と、白い体毛がまだらに混じり合う。時折通る車が、母親の体を踏み付ける。その度に少しずつ場所が動いたり、跳ねたり、千切れたり、ばらばらになったり、潰れたり、小さくなったり……
 雨は、降り続けていた。

 次の朝、二番目の兄さんも死んだ。眠ったまま、目を覚まさなかった。最後まで「苦しい」とは言わなかったのを、一番上の兄さんが褒めていた。
 さちはやっぱり、何も考えられなかった。
 ただ、はっきりと分かっていた。
 母さんも、二番目の兄さんも、「死」んでしまったのだ。父さんと同じように。
 もう、二度と逢うことはない。
 死んだ母さんはどこにも行けずに、ぐちゃぐちゃになってしまった。道に沁み一つ残せずに、なくなってしまった。
 死んだら、どこにも行けない。何も言えない。
 そして……
 死んだら、祈ることすら出来ないのだ。

 兄弟三人だけになってしまった彼女たちは、それまで暮らしていた場所を離れることにした。

 途中、片方の目が潰れている人に出逢った。
「アンタたち、どこに行くんだい?」
 やせ細り、年老いた人。しっぽだけが妙に太くて短かった。
 一番上の兄さんが「どこか、落ち着ける場所まで」と答えた。
「落ち着ける場所?」
 鼻で笑い、片目の老人が言う。
「どこに行っても、俺たちは落ち着けやしねぇよ。見てみろよ、この目を。人間に石を投げつけられたのさ。それも生まれてすぐに、だ。それから俺はずっと、この年になるまで、世界を半分しか見ねぇで生きてきた」
 老人の潰れた目に、虫が寄ってきて、離れた。
「だがな、半分だけで良かったと思ってるよ。全部見えてたら、とっくにおかしくなっちまってる」
 さちは、「私は全部見えているけれど、それほどおかしいとも思わない」と言おうとして、止めた。何だかそれがとても見当外れの言葉のような気がしたから。
 三番目の兄さんは、黙ったまま。この兄さんは、とても無口なのだ。さちはこの兄さんが兄弟の中で一番好きだった。一人で丸くなって眠っていると、いつも隣に来てくれたから。寒い夜も、風の強い夜も。
「狂ってんだよ。この世界は。人間だけが生きるために用意された世界みてぇもんだ。俺たちにゃ居場所なんて始めっからねぇ。ひい爺さんの時代はまだマシだったらしいけどな」
 遠くの道で、騒がしい音を立てて車が走り抜けて行った。
「落ち着くよりも、上手くやることを覚えな。人間に見つからないようにして、やつらの餌を奪う方がよっぽど賢い」
 片目の老人は、そう言い残して路地に消えて行った。
 三人は、というより一番上の兄は、しばらくこの辺りで暮らそうと決めた。
 片目の、見るからに動きの鈍い老人が生きていられるなら、安心だと思って。

 さちはその日から、自分の食べ物を自分で探すようになった。
 食べなければ、死んでしまうのだ。二番目の兄さんが眠ったまま冷たくなっていたように。
 上手く食べ物が見つけられた日は、寝場所にしている草むらで小さくなって眠った。
 食べ物の見つからなかった日は、二番目の兄さんのことを思い出そうとした。思い出そうとして、何も思い出せないことに少し驚いた。それから、お腹が空いてふらふらとするので、適当な場所で眠った。
 母親のことは、忘れられなかった。
 何度も車に踏まれ、雨に洗い流され、なくなっていく母親。赤が白に、白が赤に。そして、灰色から黒に。
 車の通る場所には、絶対に近付かないようにしようと繰り返し思った。

 日差しが温かくなってきた頃に、三番目の兄さんが寝場所に帰ってこなくなった。
 ときどき戻らない日があるのは、さちも同じだった。一番上の兄さんも、だ。
 でも、一週間も戻らないのは初めてだった。
「さち」
 一番上の兄さんは、静かに言った。
「僕は探してくる。いいかい、ここからあまり遠くに行かないでくれよ」
 そう言って、草むらから出て行った。

 数日経っても、戻っては来なかった。

 寒い夜、一人で眠る。
 いつも隣で眠ってくれた、大好きな兄さんはいない。食べ物を取ってくれる母さんもいない。
 彼女は、生まれて初めて本当に「ひとりぼっち」になってしまった。

 ある日、いつものように食べ物を探していると、あの片目の老人と出会った。
「ああ、アンタかい」
 さちは黙って頭を下げた。
「アンタ、平気だったんだな」
 老人の声は、心なしか疲れているようだった。
「この辺り、急にお仲間が減ったような気がしないか?」
 わからない、とさちが答える。
「人間だよ。保健所ってヤツだ。みんな捕まえて、連れてっちまった。知ってるんだ、俺は。やつらに捕まったら、もう戻ってこれねぇ」
 それは死ぬから? と尋ねる。
「随分と冷たい言い方だな……でもまあ、その通りだ。狭い箱の中に入れられて、まとめて殺されるんだってよ。中には別の場所に連れてかれるやつもいるらしいが……結局は人間に殺されることになるんだろうなあ……」
 もしかして、とさちは思った。二人の兄さんも、その保健所とやらに連れていかれてしまったのかもしれない、と。
 さちがそう訊くと、「違うよ」と老人が答えた。
「アンタの兄貴……どっちか分からんが、一人は人間にその場で叩き殺された。運が悪かったのさ。知らずに入り込んだ場所に、荒っぽい人間がいたんだ」
 さちはやっぱり、何も考えられなかった。彼の話を黙って聞き続ける。
「ひどく大きな声を上げて、何度も、何度も叩いたんだとよ。たまたま見てた仲間がいて、俺は話を聞いたんだが……運が悪かったんだ。いつもはその人間、出てこないんだがなあ……」
 人間は何を言っていたのか、とさちが言う。
「分からねぇよ」と老人は答えた。とても寂しそうな声で。
「もしかしたら、俺たちよりも人間たちの方がずっと狂ってるのかもなぁ……」
 死んだら、なくなるのに。私たちも、そして多分、人間も。
「それを分かってるのか分かってないのか……世界は人間のものなのに、何が不満なんだかな……」
 もう一人の兄さんを、知ってる? さちのその言葉に、老人は顔を伏せた。
「犬さ。俺たちよりもずっと大きくて、凶暴で、速くて、鋭い牙を持った連中だ。狙われたら、お終いだよ」
 さちはこれで、自分がひとりぼっちなのだと改めて知った。
 でも、何も考えられない。
 ありがとう、とお礼を言って振り返り、歩き出す。
「お嬢ちゃんよ。アンタは上手くやりなよ」
 片目の老人は、さちと反対側に歩き出した。

 さち。それが彼女の名前だった。でも、もう誰もその名前を呼んでくれない。知りもしない。
 いつしか彼女は自分の名前も忘れ、ただ毎日を生きていた。
 二つの季節が流れて、また寒い夜が続くようになった。
 金色の大きな満月が、彼女の白い体を照らす。

 最初に、母さんが死んだ。車にひかれて死んだ。
 眠ったまま目を覚まさなかった二番目の兄さん。名前は、思い出せない。
 三番目の兄さんは、知らないところで知らない人間に殺された。いつも隣で眠ってくれた、大好きな兄さんだった。
 一番上の兄さん。犬に狙われて、死んだ。どんな思いをして、死んだのだろう?
 さちは時々考えようとする。死んでいった家族たちのことを。
 でも、どうしてか何も考えられないのだった。

 そして、彼女にもその順番が回ってこようとしていた。
 皮肉なことに、死に方まで母親とそっくりになりそうだった。
 目の前が真っ白になって、何も見えなくなる。だんだんと大きくなる音に、体が固まって動かない。
 鈍い衝撃。喉から洩れる声。かすれた、悲鳴。
 逃げ出そうとしたけれど、体は動かなかった。胸の辺りから、何かが抜け出していくのを感じる。一瞬だけ体が熱くなって、急に寒くなった。痛みも一瞬で、その後はただ無感覚になった。
 声も、出そうにない。
(ああ、そうか……)
 彼女は、この瞬間にやっと気付いた。
 何でみんなが死んだとき、何も考えられなかったのか、分かった。
(怖かったんだ……)
 ぼろくずのように、だんだんとなくなっていく母親の姿。考えてしまえば、怖くて気が狂ってしまったかもしれない。
 生きていれば、いつかああなる日が来るのだから。
 現に彼女以外の家族はみんな、死んで消えてしまった。
 さち自身も、もうすぐ消えるだろう。
(怖かった……それから、苦しかったよお母さん。自分で一生懸命頑張って、全部自分でやって……なのに、こうして死ぬんだって知ってたんだもん。哀しいよね。ひとりぼっちだったから、ずっと寂しかったよ……寒い夜だって、雨の降る朝だって、ずっとひとりぼっちで……誰かに助けてもらいたかったのに、助けてくれる人なんていなかったよ……)
 その気持ちの名前を、さちは知らない。
 絶望と、それはそう呼ばれている。
 彼女は生まれたときから、絶望していた。そんな彼女が家族の中で一番長生きしてしまったというのも、また皮肉な話かもしれない。
(でもこれで、なくなるんだね……)
 思い出すのは、母親の声。
『貴女に幸せがあるように、祈っているわ』
 その祈りすらも、なくなって……
 さちは、ゆっくりと瞼を閉じた。
 もう、生きている間に思っていた全てのことは終わるのだと、信じて。
 閉じた瞼が、真っ白に霞んで……

 意識が戻って目を開くと、そこは白い場所だった。
(死んだのに、何もなくなったはずなのに……)
 体は動かないけれど、目は見える。呼吸も出来る。一度試しに鳴いてみると、ちゃんと声も出た。
 と、目の前に人間の顔が見えた。何かを持っている、白い格好をした人間。逃げようとした。彼女の兄さんのように、叩き殺されてしまうから。
 でも、と考える。もう、どうでも良い、と。今はこうして生きているかもしれないけれど、どうせまたいつか死ぬのだ。そして今度こそ、どうにもならないくらいはっきりと、死は彼女を捕まえるだろう。それならここで死んでしまっても構わない。そう思って、さちはまた目を閉じた。
 眠れば、夢を見ることが出来る。それだけが、生きている意味だから。

 その日見た夢は、静かな夢だった。
 ふわふわと、空を飛んでいる夢。体を動かして、ゆっくりと空を飛んでいる夢。
 これは何だろう? と考える。
 少し考えて、分かった。
 これは、蝶だ。
 家族みんなが揃っていた頃に追いかけて遊んだ、小さな蝶だ。
 白い羽だったり、黒い羽だったり、黄色い羽だったり、たくさんの色があったり……
 私たちはその蝶に手を伸ばして、届かなくて……
 蝶は、私たちのように怖かったり苦しかったり寂しかったり哀しかったり……絶望したりしないのかな?
 音も立てずに、さちは夢の中を舞う。

 目を覚ましたさちの前に、人間の顔があった。どうやらさっきと違う人間のようだ。場所も違うらしい。さっきよりもずっと広い場所だ。ぽかぽかと暖かいのは、太陽の光に当たっているからだろう。でも、この季節にこんなにも暖かいなんて……
 小さく体を丸めたさちを見下ろすのは、一人の少女。ほっとしたような、嬉しいのに泣きそうな顔をして彼女をじっと見ている。
 口を開き、閉じた。さちには分からないけれど、「良かった、元気になって」と言ったのだった。
 さちは立ち上がり、歩き出す。でも、どこに行けば良いのか分からなかった。そして、どこにも行く場所がないことに気付いて、すぐに足を止めた。
 と、目の前に小さなお皿が置かれる。おいしそうな匂いのする白いものと、赤いもの。匂いにつられて、さちは口をつけた。ひどく久し振りにものを食べる気がした。
「もう心配はいらないからね。これからずっと、ここにいていいからね」
 少女はそう言ったけれど、さちは何も分からない。分からないまま、ただミルクを飲み、キャットフードを食べ続ける。

 家族を失い、車にひかれた猫は、こうして飼い猫になった。
 でも……

「かすみ」
 真っ白な彼女につけられた名前。それが何をするのか本人には分からなかったけれど、今はそれが彼女の名前らしい。返事をすると、背中を撫でてくれたり食べ物をくれたりする。
 もう、さちはさちじゃあなくなった。
 その名前は、誰も知らない。本人も覚えていない。
 怖くもない。苦しくもない。哀しくもない。寂しくもない。でも……
 彼女には分かっていた。
 それでもやっぱり、いつかは死んでなくなる日が来るのだ、と。
 せめてそのときだけは――
 もう一度、この部屋の外に出たいと思っている。


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