終わらない夏の日


 夏が終わらなくなった日。
 ぼくらの住むまちでずっと夏が続くようになった日。
 うれしくて、どきどきして、ぼくは大好きなあのこの家まで走った。
 夏休みだからって、といつもぐちぐち言う母さんは、起きてこない。暑くて起きられないんだって。
 ぼくは冷蔵庫から麦茶を出して、ほんの少し砂糖を入れて、たくさん飲んだ。
 冷蔵庫の中には食べるものがたくさんあるけど、母さんがりょうりしないと食べられない。
 お腹がすいているけれど、ぼくはうれしかった。
 だって、夏は終わらないんだから。

 麦わら帽子をかぶって、あのこの家まで走ろう。
 ぼくらの住むまちは、とても坂道が多い。母さんはいつも車に乗って出かける。
 エアコンがないと暑くてダメなんだってさ。
 でもぼくは、汗を流しながら走る。
 太陽はとても暑くて、ねっしゃびょうにならないように気をつけないといけない。
 麦わら帽子は、お気に入り。
 だって、あのことおそろいの赤いリボンが巻いてあるんだから。

 昨日の夜、父さんが言った。
「もう、夏は終わらないらしい」
 ぼくは眠れなくて、いつもよりも遅くまで起きていた。
 暗い子供部屋から、とびらの隙間から、父さんの声を聴く。
 母さんは泣きそうな声でなにかを言った。父さんはなにもしゃべらない。
 でもぼくは、うれしかった。
 だって、夏が終わらないってことは、夏休みも終わらないってことでしょ?
 そしたら、毎日プールに行ったり友達と遊んだり、それと……
 大好きなあのこにだって、もっとあえるから。
 どきどきしながら、ぼくはベッドに飛び込んだ。
 明日から何をして遊ぼう?

 でも、父さんはその後すぐに家を出て行ってしまったんだ。

 商店街は、いつもにぎやか。たくさんの大人の人と、たくさんの車と、たくさんの自転車。
 なんでだろう。今日はなんで誰もいないんだろう?
 怖くなるくらい静かな商店街は、なんだかいつもよりも暑い気がした。
 きっと母さんと同じで、暑くて起きられないんだろうな。
 ぼくはこんなにも元気なのに。
 大きく手を振って、足を上げて、ぼくは走る。
 あのこの家は、坂道の上にある。

 長い長い坂道を、歩く。疲れたから歩いて上る。
 静かな坂道。上を見ると空は黒いくらい青くて、雲は落ちて来そうなくらい白かった。
 静かな坂道。ぼくの足音だけしか聞こえない。
 ぼくの足音に、お腹の音。
 もう喉はからからだったし、お腹もぺこぺこだった。
 そうだ、トマトを食べよう。
 大丈夫、ここの畑は友達の家の畑。それに、前も食べさせてもらったことがある。
 道を外れて、くさむらを飛び越えて、黒くてざらざらの土に足を乗せる。
 柔らかくて、やさしい土。
 真っ赤な色のトマトを三つ、ついでにキュウリを一つ。
 このまま食べちゃダメなんだ。ちゃんと洗わないとお腹こわすんだ。
 道の向こうには、沢が流れているから。
 土手を登ろうとして、トマトを一つ落としちゃった。
 これでトマトが二個。キュウリが一本。
 落ちたトマトは、アリとかが食べるはず。

 冷たい水の流れている、沢。
 くつをぬいで入る。
 びっくりするくらい冷たい水。
 ひざについた砂も、洗う。
 トマトもキュウリも洗う。
 きれいに、洗う。
 いただきます。
 キュウリにかじりつくと、口の中がきしきしになった。
 あんまりおいしくないや。やっぱり食べ物は母さんがりょうりしないとダメだね。
 でも、トマトは甘くておいしかったよ。

 汗でびしょびしょになった顔を、水でちゃんと洗った。
 麦わら帽子も、少しだけ濡らした。
 これでねっしゃびょうにはならないよね?
 あのこの家は、もうすぐそこだから。

 坂道の途中で、聞こえた。
 放送。
「……は、直ちに指定の避難……一時間でこ……閉鎖……殺菌……」
 むずかしくて分からない。
 誰かに呼ばれた気がして振り向いても、誰もいない。
 あれ? あんな所に壁なんてあったっけ?
 高い、高い壁だな。
 見たこともないくらい高くて、長くて……
 灰色。

 眩しくて目がくらくらする。
 黒い道の向こうがゆれている。
 知ってるんだ。これ、陽炎っていうんだ。
 本当に水が流れてるんじゃないんだよね?
 あごの先から汗が落ちて、ひざに当たった。
 疲れたけど、走り出そう。

 空の青さが黒くて、なんだか怖くなった。
 太陽がまぶしくて、ふらふらになった。
 暑いなぁ……
 これが、もうしょって言うんだね。
 でもぼく、夏が好きだからいいんだ。
 だって、あのこを誘ってプールに行くんだから。
 あのこの母さんはやさしくて、ぼくにいつもジュースをくれる。
 この前は、ケーキもくれた。
 笑うと、あのこと同じえくぼが出来るんだ。
 あ、でもぼく水着持ってきてないや。
 いっか。明日プールに行こうね、って言うだけでも。
 だって、夏は終わらないんだから。

 あのこの家の前で、大きな声で名前を呼ぶ。
 何回呼んでも誰も返事してくれない。
 いつもなら大きな犬が飛びついてくるはずなのに。
 おかしいな? あのこも暑くて起きられないのかな?
 起してあげようかな。せっかく夏休みが続くんだし。
 でもいいや。明日でも。
 今日の夜になったら母さんに電話してもらって、明日の約束しよう。
「一緒に、プールに行こうね」って。
 夜になったら、きっとみんな起きるよね?

「あと三十分でこの区画の閉鎖が終了します」
「許可証を発行された方は速やかに指定の避難経路を使い」
「閉鎖が終了し次第、この区画は殺菌さ」
「この放送を聞いている未発症者の方は速やかに」
「速やかに」
「閉鎖」
「殺菌」
「終了しま」
「す」

 遠くの空に、白いにゅうどう雲が見えるから、きっと今日は夕立が降るね。
 そろそろお昼だから、家に帰ろう。
 母さんがご飯を用意してくれてるから。
 そしたらどうしようかな?
 友達と一緒に、ゲームして遊ぼうかな?
 でも
 どうして誰も起きてこないんだろう?

「C2地区の閉鎖が終了しました。この放送を聞いている未発症者の方々がもしいるのなら、後五分以内に最寄のシェルターから地下通路を通り、当局の管理官に保護を求めて下さい。これが最後の放送です。これを聞いて動ける方がいるなら! 早く! 早く早く早く早く早く! 速く逃げて! 逃げ遅れた人ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 冷蔵庫にあったアイス。ひとりで全部食べちゃった。
 だって母さんはまだ起きてこないんだもん。
 お腹すいたけど、りょうり出来ないし……
「母さん、お母さん」
 部屋は扉が開かないし。
 しょうがないな。テレビでも見ようっと。
 ……あれ、なんで全部同じばんぐみなんだろ。
 ニュースかな? おじさんがむずかしい顔してなにか言ってる。

「……に汚染されたC2地区の閉鎖は滞りなく終了し、ただ今から殺菌作業が始まるとのことです。この殺菌作業の成否によっては、他の汚染指定地区、A5地区、D3地区、Fの1から8地区まで一両日中に殺菌作業が行われるとのこと、関係者は作業の進行を見守っています。この殺菌作業においては、軽度の発症者は切り捨てることになる、と人権擁護団体から再三の抗議もありました。もしも犠牲になる方がいるとすれば、それは大げさではなく人類のための」

 むずかしくて分からないや。

 テレビを消して、ぼくは家を出た。
 あのこの家まで走った日。
 夏が終わらなくなった日。
 そろそろみんな起きたかな?
 さあ、遊びに行こう。


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