赤が好きだった。それも、出来るだけ濃くて鮮やかな赤が。
 秋の夕焼けのような、椿の花びらのような、そんな色。
 子供の頃からずっと、今でも変わらず、赤を愛している。

 珍しいよね、男の人なのに。
 僕の彼女はそう言って笑う。毒々しいくらいに赤い口紅を塗った唇で。
 おかげで私は気兼なく口紅使えるけど。たまにいるのよ、口紅が嫌いだって偏屈な男の人。もしかして私と付き合ってくれてるのは、この口紅のおかげなのかな?
 頬を桜色に染めて、僕の隣を歩く彼女。色白で、肌はきめ細やか。いつも湿っているように見える黒髪。
 そうだね。初めて見たときは赤が似合う人だなって思った。
 僕は続ける。
 でも、今はそれだけじゃないよ。
 見た目だけじゃなくて、今はちゃんと彼女のことが好きになっている。赤の良く似合う、僕の彼女。
 帰り道に待ち合わせすると、いつも夕暮れとかち合う。淡い藤色から金色に。そして、深い蒼。僕らの歩みに合わせて、空はその色を変える。
 今日も夕焼けが綺麗ね。なんだか寂しくなるよね、こういうの見てると。
 人もまばらな、表通りから外れた道。こっち側はビルが少ないから空が良く見える。お気に入りの帰り道。
 でも夕焼けの色って、赤じゃないよね。もしかして嫌い?
 そんなことないよ。好きだよ。
 彼女に嫌われたくない僕はそう言って微笑む。
 嫌われたくないから「でもこれはまだ偽物だけどね」とは言わない。幕が降りようとしているのに舞台にしがみついている三文役者。青い空のことだ。必要以上にしぶとい今日を、太陽は燃やして明日に場所を空ける。その一瞬の赤だけが本物の赤。紫色も朱色も金色も、本当の夕焼けじゃない。彼女には言わない。彼女は今日の連続で生きている人。昨日も明日も関係なく、精一杯に前を向いて。
 そんな彼女だから、僕は好きになってしまったのかもしれない。理由はまだはっきりしない。
 でも、やっぱり私は赤って聞くと血を思い浮かべちゃうかな? だって女だから。
 いたずらっぽい笑顔と赤い唇。
 もしかして血を見るのが好きとか言わないよね?
 まさかそんなことはないよ、と僕は笑う。
 血を見るのは、大好きなんだよ
 口には出さなかった。

 落ちた牡丹の花びらに蟻が群がる。子供の頃じっと眺めていた。飽きもせずに。
 祖母の家は田舎にあって、たくさんの種類の花が咲いた。椿、牡丹、木蓮。それと、石榴。
 熟れて爆ぜた石榴は、僕の中に強く焼き付いた。それに良く似たものを見たのは、十四歳の夏。
 汗を流しながら自転車をこいで走っていた。空気はまとわりつくように粘って、雨が降るよと言っているようだった。
 下り坂の真ん中辺りで、僕の目の前を何かが駆け抜けた。左から右へ。
 それはそのまま車道に飛び出して行った。
 鈍い衝撃音。悲鳴にも似た短い声。
 猫が飛び出して轢かれたんだと気付くまで、しばらくかかった。
 車は止まらず走り抜ける。僕は力一杯にブレーキを握る。振り返る。
 目に映ったのは爆ぜた石榴。それはもう猫ですらなく、生き物ですらなく、ただの肉塊。
 赤黒い断面が妙に鮮やかだった。
 血は流れ、雨は降り出す。

 それじゃあまた明日。
 僕がそう手を振ると彼女が寂しそうな顔をした。
 部屋に遊びに行って良い?
 彼女にしては珍しいわがまま。僕に対してはいつも何かを我慢しているような彼女。珍しい。
 少し散らかってるけど、それでいいならね。
 手を合わせて喜ぶ彼女。
 じゃあせっかくだから、ご飯作って上げるね。何が食べたい?
 任せるよ。
 それが一番難しいんだから。
 白い彼女の手を握ると、顔がぱっと赤くなった。
 やっぱり彼女には赤が似合う。他の誰よりも。

 ガラスの破片で手を切ったことがある。左手を、指から甲にかけてすっぱりと。今でも痕が残っている。
 周りは大騒ぎしていた。タオルでぐるぐる巻きにしたり、救急車を呼んだり。でも僕は不思議と焦ってはいなかった。流れる血の色を見て、安心していた。
 ああ、僕の中は赤いんだ。そう納得していた。
 それからの僕は、無理に赤を見たいとは思わなくなった。

 部屋に来るというのは、つまりはそういうことだ。楽しく夕食を食べてさよならじゃない。
 灯りを消した部屋の中に、二人の荒らい息遣いが静かに響く。別にやましいことをしている訳じゃないのに、小声になってしまう。扇情的な言い回しと生々しい音。
 久し振りだから痛かった、と彼女が照れながら言った。もちろん僕だって久し振りだった。
 でもなんだか嬉しいね。今までで一番嬉しかったよ。
 白いシーツに溶け込むような彼女の白い背中。灯りをつけて僕は服を着る。
 やだ、どうしよう。ティッシュある? 落ちるかなこれ。
 顔を真っ赤にして服も着ずに彼女はシーツをこする。乱れたシーツについた、赤い染み。
 やだな、血が出るなんて。あんまり経験ないからかな? 初めてのときは血なんて出なかったのに。
 その鮮やかな赤は、僕の中の何かを強く刺激した。

 彼女が帰った後に布団をめくって見ると、その染みは黒く変わってしまっていた。
 僕は無性にトマトが食べたくなったけれど、近くに深夜営業のスーパーがないので諦めた。
 朝起きるとその衝動は消えていた。

 何日か過ぎて、僕は彼女に服をプレゼントした。黒い服だ。
 赤じゃないんだねと言いながらも、とても嬉しそうだった。
 黒も良く似合っていた。

 月の無い夜だった。眠れずに寝返りを繰り返す。最近は彼女も赤い口紅をつけなくなっている。控え目な桃色の口紅がお気に入りになったらしい。
 確かにそれは彼女にとても似合っている。控え目な性格の彼女に似合っている。
 でもその色は赤じゃないんだ。
 黒い服に桃色の口紅。僕の頭に浮かぶ赤は、一層鮮やかに濃くなる。
 その夜僕は久し振りに手首を切った。

 僕の中が赤いのを忘れそうになったり、本当の赤が見たくて我慢出来なくなったとき、手首を切る。出来るだけ目立たないところを、傷が残らない程度に浅く切る。
 自殺が目的じゃない。ただ、僕の中の色を確かめるための行為だ。
 浴室でカッターを手首に当てて、さっと横に引く。引きつるような痛みは一瞬。すぐに熱く脈打つ。
 ああこの色だ本物の鮮やかな純粋な美しい綺麗な色だ。
 夢心地で手首をかざし、ゆっくりと細く流れる一筋の血を見詰め続ける。
 窓の外は星も見えないくらいの、凍りついた黒だった。

 次の夜、また彼女が部屋にやって来た。僕の顔色が悪いのを見て心配になったらしい。
 どうやら昨夜は少し血を流し過ぎたようだ。確かに足元がおぼつかない。
 疲れてるのよきっとそうだまたご飯作ってあげるねお肉とか食べてゆっくり眠ればすぐ元気になるよ。
 久し振りに赤い口紅をつけた彼女はそう言って柔らかく笑う。僕の手首に巻かれた包帯には気付かなかった。
 彼女が料理している間、僕は窓から外を眺めていた。蒼い空がだんだんと黒に食われていく様を眺めていた。
 お肉の焼き方はどうする? ミディアム? ウェルダン? やっばりレア?
 僕はしっかり火を通してくれるように頼む。
 赤は好きでも、血が好きな訳じゃないのね。少し安心したわ。
 そんなことないよ。
 笑う。
 動物の血は人の血と色が違うんだよ。それに血は好きじゃない。血の色が赤だから好きなんだ。
 油の爆ぜる音で彼女には聞えない。僕の本心は届かない。
 食事を済ませると、確かに元気が戻ってきた。

 こんな日に彼女を抱くべきじゃないと思っていたけれど、どうしても逆らえない流れのようなものがある。
 薄暗い部屋の、窓際に置いたベッドの上で彼女はゆっくりと服を脱ぐ。
 夜と同じ色の服を。肌はいつものように白い。目がくらむくらいに白い。
 その色は何に似ているだろう? 雪? 真夏の雲? 洗いたてのシーツ?
 もっとぴったりのものがある。夜が溶ける瞬間の空の色だ。
 彼女は服を全部脱ぐと、音を立てずに横になった。
 また血が出るかもしれないから、ゆっくりね。
 細い両手を開いて伸ばす。吸い込まれるようにキスをする。赤い唇に舌を這わせる。
 車の走り抜ける音が窓の外から聞こえる。ヘッドライトが部屋の中を一瞬照らす。
 彼女の体はとても白くて、口の中は赤かった。
 見間違いだ見えるはずがないじゃないか彼女の中も赤いんだ口紅の色が目に焼き付いただけだ止めろ何を考えてるんだ彼女の中の赤を見たい白い肌には赤が似合う彼女は僕とは違うんだ優しくて穏やかで春の午後のようで夕暮れでも月のない夜でもなくて眩しくて白くて、だから……
 赤クシたイ。
 汗が体を濡らす。彼女は僕の下で目を閉じている。僕の背中に手が回る。細く彼女が目を開ける。
 なんだか辛そうだよ? 平気? どうしたの?
 僕は唇を重ねてから答える。
 大丈夫。少し嫌なことを思い出しただけ。

 中学校の美術の授業で、一色だけを使って絵を描くというのがあった。
 風景でも静物でも人物でも、何でも良いと。
 同級生はみんな楽しそうに絵を描いていた。悩みながら、騒ぎながら。
 僕は好きな子を描きたかった。でも、モデルになって欲しいとは言い出せなかった。
 誰が真っ赤な姿の自分を見て喜ぶだろう? 気味悪がられるか嫌われるかするのがオチだ。
 僕は仕方なく黒一色を使って自画像を描いた。版画のようにはっきりとした感じで。
 先生には誉められたけれど、僕はその絵を後で破り捨てた。
 その頃にはもう分かっていたのかもしれない。
 僕は、満足出来ない。

 この子のことが好きだったのね。今でもまだ好きだったりする?
 どうかな? 覚えてないな。
 服を一枚羽織っただけの格好で、ベッドに並んで卒業アルバムを開く。
 とても頭の良い子で、少し変わっていたから友達はあまり多くなかったんだ。
 まるで今の貴方みたいね。
 僕は普通だよ、頭は悪いけど。
 いつもそう答えている。変わってるよね、と言われるのが怖かった。変わっていると認めてしまうのも。
 彼女の知らないたくさんのシーン。今とは違う僕が写っているページ。彼女はとても優しい目でそれを見ている。 部活は? やってなかった。これは? 球技大会で敢闘賞をもらったとき。足首を捻挫してノートとボールペンと賞状をもらった。
 ごめんね無理言って、と彼女が微笑む。貴方がどんな子供だったのか知りたかったから。
 今と変わらないよ。
 でも、と心の中で付け加える。今は、ひとつだけ見たいものがある。
 今まで見たこともないような、震えるような赤を。

 そして彼女は僕のベッドで寝息を立てる。

 僕の両親は普通の人たちだ。
 僕がこうして自分の衝動に逆らわずにいる今も、実家の寝室で普通に夢を見ているはずだ。
 もしかしたらその夢には僕が出ているかもしれない。
 何の罪もない、平和な人たちだ。
 どうしてこんなことを今になって考えてしまうのだろう?
 一つ言い残すなら、貴方たちのせいじゃないと言いたい。僕がこうなったのも、これからやろうとすることも、全部僕が選んだことだ。理由はないけれど、他の誰に責任を押し付けるような真似はしない。
 そして、彼女。
 真っ白なシーツに包まれて幸せそうな寝顔を浮かべている彼女。
 僕の大好きな、僕の恋人。
 何と言えば良いのか分からないけれど、謝りたくはない。僕は間違っているかもしれないけれど、お礼を言いたい。僕が何を望んでいたのか、気付かせてくれたんだから。
 僕のたったひとつの望み。
 一番大好きな人を、赤で染めてみたい。

 左手だけでシーツをめくる。深く眠っている彼女は、目を覚まさない。
 白い首筋。白い胸元。桜色のシャツから伸びる白い両手は、お腹の上の辺りに載っている。
 白い下腹部と、白の下着。足は白いだけじゃなくて、見ていると吸い寄せられそうなくらい滑らかなラインで横たわっている。まるでそれ自体が一個の芸術作品のような姿。羽のない天使が夢を見ているようにすら見える。
 でも、これはまだ半分だ。僕が見たいのは、本当の姿。色。
 しばらくそのまま、彼女を見下ろす。名残り惜しむように。
 さよならだからこれでさよならだから終わりだから最後だからお終いだから。
 絹のシャツのボタンを外し、ゆっくりと開く。呼吸に合わせて上下する小さな乳房。
 触れてその柔らかさを感じたい。
 もう、どうしたの?
 寝惚けた声。彼女が目を覚ましてしまった。
 もう一回したくなったの?
 子供を寝かしつけるような声で言う。
 でもまた明日ね。今日は少し疲れ過ぎたもの。
 細いかすれ声。顔の上に腕を載せる。
 おやすみなさい。また明日ね。
 胸元をはだけたまま、彼女は再び眠りにつこうとした。
 でもね、明日なんて来ないんだよ。
 僕は右手に持っていたナイフを、降り下ろした。

 どうして?
 彼女は意外に冷静だった。僕は何も答えない。
 ただ目を細めて彼女の姿を見下ろすだけ。
 真っ白な体に、真っ赤な化粧をした彼女。
 やっぱり赤が似合う他の誰よりずっと。
 肉の断面より命の輝きを放つ、どんな花びらより鮮やかな、夕焼けよりも震える、炎よりも力強い、赤。僕の一番好きな、流れる血の色。
 赤。
 どうして?
 かすれる声で力なく彼女が問う。僕は答えられない。
 あまりに美しい彼女。この光景はきっと、僕の人生と等価。
 でもね、いつか貴方はきっとこうすると思ってたのよ。
 彼女の指先が僕の首筋に触れる。流れ続ける血は、彼女の白い肌を染め続けている。こうしている今も。
 だってね、貴方の笑顔が少しずつ透明になっていたんだもの。私には分かるわ。他の誰にも分からなくても。
 掌からナイフが落ちた。音が部屋に木霊する。
 もしかしたら、私も見たかったのかもね。貴方の望む光景を。
 彼女の指が滑り落ちた。シーツにまで血が染み込んで、視界の全てが赤になった。薄闇の中でもはっきり分かる、偽りも混じりものもない赤に。
 僕は微笑む。彼女の澄んだ瞳を見詰めて。
 彼女の目に写る僕。真っ赤に染まった笑う僕。彼女も微笑む。
 細い首筋も柔らかな乳房もくびれた腰も芝生のような陰毛も艶めかしい四肢も全て、血の化粧をまとっている。
 やっぱり私は、貴方のことを愛して良かったわ。
 僕もだよと答えたかったけれど、喉から漏れたのは風のような音だけだった。
 赤い景色がかき乱れ、僕は床に崩れ落ちた。
 もう痛みもない。

 遠のく意識の中で彼女の声が響く。
 貴方の見たかったものは見れたから、今度は私にも見せてね。
 色はもう失われた。モノクロームのシーンがコマ送りのように進む。
 私が見たかったのはね……
 立ち上がった彼女は落ちていたナイフに手を伸ばす。
 見たかったのは、本当の貴方よ。
 降り下ろされた刃は、僕の胸に突き刺さった。そのままゆっくりと刃は滑ってゆく。
 貴方の中身は、偽りようがないものね。
 ああ、そうか。僕は分かった。
 引きずり出された僕の臓器を口に運ぶ彼女を見てやっと気付いた。
 どうして彼女に赤が似合うのか、分かった。
 その答えがカタチになる前に、僕の意識は完全に途切れた。

 そして私は最後に、彼の性器を噛み千切る。
 それは今までで一番固く、大きく、熱い。体の芯を痺れが駆け抜けた。
 鉛のような味、震えるようなぬめり、恍惚の笑み。
 愛してるわ。
 最後にそう言って、空っぽになった彼の上に覆い被さる。
 赤が黒になって、虚ろになった。
 そして、冷たくなり始めた彼と唇を重ねて、私の意識も、闇に閉ざされた。

 隣室の住人が異変に気付き、合い鍵で部屋に入ると、二人分の腐乱死体が転がっていた。
 警察は殺人事件なのか自殺なのか心中なのか扱いかねた。
 死体の損傷が激しく、また腐敗が進んでおり、検死すら出来なかったから。
 部屋の中、特にベッドの周辺は一面赤黒く染まっていた。二人分の血液で。
 結局、それぞれ別々の自殺ということで解決された。
 部屋には、二人分の遺書が残されていたから。


inserted by FC2 system inserted by FC2 system