僕らの青年期〜音     next


1.

 駅前の並木道から一本外れた、薄暗くて湿っぽい通り。学生の頃は、「ドブ川通り」とか呼んだ道だ。気取った標識で、正式名称が書かれている。
「メロディ通り」
 誰もそんな中途半端に洒落っけのある呼び名じゃあ呼ばない。駅までの抜け道として、思い出したように車が通る程度の道だ。地元の学生ですら好き好んでは通らない。
 駅前通りを飾る背の高いビルと、何年も放置されたままの廃工場に挟まれた、一日中日の当たらない場所。通り過ぎる風ですら、顔をしかめているような気分がする。
 そんな「ドブ川通り」にも、ちゃんと店はある。
 店の名前は「輪舞」。ロンド、という気取った名前の店だけれど、ただの喫茶店だ。それも、いつ潰れてもおかしくないような類の喫茶店。
 でも、どんな店にだって常連客はいる。
 僕がその「輪舞」唯一の常連客――音さんと出会ったのは、夏の終わりの近づいた妙に蒸し暑い夜だった。

 音(おと)、というのはあだ名だった。本名で呼ばれるのを嫌っていたらしい。僕が音さんの本名を知るのは、随分後のことになる。
 おとさん。ちょっと聞いた分には「おとうさん」とも聞き取れる。まあ、格好良いあだ名じゃないだろう。
 でも、僕は彼のことを音さんと呼んだ。
「音さん」と彼の顔色を伺いながら名前を呼ぶと、顔をこっちに向けるでもなく、ただ「どうした?」と答えてくれた。彼と出会ってしばらくしてから知ることになるのだけれど、それはとても珍しいことなのだという。
「アイツな、返事するのも会話するのも面倒なんだってよ」
 マスターが、そう言った。だから、僕の声にだけ返事をするのはとても珍しいことだと。
 そして、僕はそれを知ってから音さんのことを少しだけ身近に感じることが出来た。
 いつもカウンターの一番奥に座って、何をするでもなくじっとしている音さん。気紛れに本を読んだりすることもあるけれど、一番長いのは何もしない時間だったはずだ。無精ひげを生やして、艶のないライダースのジャケットを着ている。履いているジーンズはビンテージ物らしいけれど、所々に解れがある。靴は当然エンジニア・ブーツだ。聞いた話によると、一年を通してこのスタイルだという。夏場に見れば暑苦しいし、冬場に見ても暖かそうには見えない。社会不適応者という表現が一番正しいのかもしれない。
 でも、そんな音さんは、僕の心の中に何故か入り込んで来たんだ。

 高校を卒業して、就職を選んだ僕。就職先は、隣町の駅から少しバスで行った先にあるプラスチック部品の工場だった。
 仕事に関しては、あまり言うことはない。毎日同じことの繰り返しで、平穏だけれど面白みのない仕事だ。でも、学生時代からこういう退屈さには慣れていたから、特に不満もなかった。毎朝七時に目を醒まして、軽く朝食を取って駅まで。電車で隣町の駅まで行って、バスで十分。仕事が終わると大抵は真っ直ぐ家に帰る。時々は同僚や先輩、学生時代の友人と遊びに出ることもある。その繰り返しだ。
 夏の連休を友人との海水浴に使った僕は、あっという間にいつも通りの日常に引き戻された。日焼けの跡だけが「確かに夏はあったんだよ」という証明。もっとも、仕事中にTシャツを湿らせる汗の量はまだ減らなかったけれど。
 夜風が虫の声を運んで、朝晩だけはかすかに秋の匂いが届く。
 そんなある日、一本の電話があった。

『なあ、今日暇か?』
 挨拶もろくにしないで不躾にそう訊いてきたのは、高校時代の知人。友人じゃあない。ただ顔と名前が一致しているというだけの知人だ。どうして僕に電話をしてきたのか、さっぱり分からなかった。
「まあ、暇だけど……」
『そうかそうか。じゃあよ、駅前の居酒屋で飲んでるからお前も来いよ』
 確かに注意して聞くと、電話の向こうは騒々しい感じだった。舌足らずで乱雑な声は、アルコールのせいだろう。
「いや、僕は酒飲まないから」
 そもそも僕らはまだ未成年じゃないか。未成年の飲酒がどうこうとか頭の固いことは言わないけれど、それを他人にまで強要するのは良くない。
『じゃああれだ、飲まなくても良いから顔だけでも出せって』
 どうも胡散臭い感じがする。どうして学生時代に遊んだこともないような奴をわざわざ、それも今になって誘うのだろう?
 それに、電話先の知人――名前は鈴木。ありふれた名前で覚えやすい――は、あまり良い噂を聞かない。
「悪いけど、今日は無理なんだ。明日も仕事があるし」
 ため息をついて、受話器を右耳から左耳に移して言った。
『んだよそれ……』
 電話の向こうで凄まれても別に何とも思わない。壁にかかっている時計は、午後十一時を少し回った辺り。そろそろ寝るには良い時間だ。
「それじゃあ」と切り上げて眠ろうとすると、その鈴木は慌てて言ってきた。
『ならよ、今度の金曜の夜なら空いてるだろ? その日に飲もうぜ』
 空いてるだろ、と断定されて少し腹が立ったけれど、その通りだった。
「分かった。それじゃあ今度の金曜に」
『場所はここな。駅前の居酒屋きんぴん。俺早目に来て待ってるからよ、ゆっくり来てくれや』
 急に上機嫌になって、強引に決めてきた。もうため息も出ない。
 これも付き合いだと思って諦めよう。そう考えて「分かった」とだけ返事をして電話を切った。

 そして、金曜日の仕事が終わった。

 この鈴木という名前の男は、あまり良くない噂があった。良くないというか、はっきりと悪い噂だ。
 分かりやすく言うと、嘘つき、裏切り者、見栄っ張り、でしゃばり、強引、乱暴……
 つまりは、そういう奴だ。知人に必ず一人はいるけれど、自分から望んで顔を合わせたくないような人種。トラブルが大好きで、何かと揉め事を起こしたがる。
 こうして顔をつき合わせている理由が全く分からない。どうしてきっぱりと断らなかったのだろう?
「なんだよ、お前飲まないのかよ」
「苦手なんだ」
 ウーロン茶と、軽い食事を頼んだ。鈴木はもう何杯目かのジョッキを空にしている。テーブルの上には揚げ物や串焼きのカスが汚らしく散らばっている。僕は何も言わず、使い終わったおしぼりで自分の前だけ綺麗に拭いた。
 居酒屋きんぴん。駅前にある居酒屋の中でも一番安くてうるさい所だ。僕は酒を飲まないけれど、職場の先輩と一度だけここに来たことがある。旨いものも不味いものもないような、騒げるだけが取り柄の店だったと思う。僕の好きなタイプの店じゃあない。
「いや、久し振りだなぁ……」と前置きをして、にやにやといやらしい笑いを浮かべながらあれこれと話かけてくる。どれもこれも僕の興味を引かないような話題だった。
「誰と誰が結婚して」とか「誰それが誰それと揉めて」とか「誰かが捕まって」とか。
 なんというか、僕と住む世界が完全に違うのだなとはっきり分かった。この男の中では、名前を知っている人間のゴシップな話が一番ホットな話題なのだろう。なんて嫌らしい男だ。
 適当に相槌を打っていると、僕の頼んだ料理が運ばれてきた。これを食べたらさっさと帰ろうと思った頃に、鈴木が急に言い出した。
「それでさ、ちょっと相談に乗って欲しいんだけどよ」
 テーブルの上に乗った皿を腕で強引に押しのけて、身を乗り出してきた。食器同士がぶつかり合う高い音が耳障りに響いた。もっとも、周りはそれ以上に騒がしい音で溢れているけれど。
「金、あるだろ? ちょっと工面してくれよ」
 工面、という言い回しがまたいやらしい。貸してくれ、じゃない。要するに、今日の呼び出しの意図はそれだったのだろう。
 僕が箸を止めてじっと顔を見ると、鈴木は目を反らしてあれこれと言い訳を並べ立てた。
「いや、今の女がガキ孕んじまってよ。俺も今働いてねぇし、親には言い出せねぇしさ。堕ろす金、十五万でいいからよ」
 勝手な言い分だ。物凄く身勝手な言い分だ。お金が必要なのなら働けば良いし、少しでも何とかしようという姿勢くらい見せたらどうなのだろう。少なくとも他人に頼ろうとするなら、居酒屋で飲んだくれている場合じゃないはずだ。
「悪いけど、僕はそんなお金ないから」
 出来る限り平静にそう言うと、鈴木は何故か語気を荒立てた。
「何だよそれはよ! ツレが困ってるっつってんだろ! 金くらい用意しろよ!」
 とんでもない言い草に、反論は幾つも思いついた。僕は君の友達じゃないし、返ってくる当てのないお金を貸すつもりはない。それに、それが人にものを頼む態度なのか。
 それらの全てを我慢して、一言だけ返した。
「他当たってくれるかな?」
 気分が悪い。折角の週末の始まりにケチがついてしまった。僕は伝票を持って、席を立った。仕方ないから授業料だと思ってここの払いくらいは持ってやろうじゃないか。でも、それ以上は何一つだってしてやるもんか。
「おい待てよ!」
 テーブルとテーブルの間の、狭い通路。僕は足早にその通路を進んで、出入り口の脇にあるレジまで行った。その間、ずっと後ろから鈴木ががなり立てている。当然、他の客席の視線は僕らに集まっている。
 財布の中から万札を出して伝票と一緒に置いて、そのまま店を出た。店員の「あ、ありがとうございました……」という声と一緒に扉が閉まる。
 外に出ると冷房が効いていた店内とは違って、むわっとした熱気が肌にまとわりついてきた。夕暮れは過ぎて、外はだんだんと薄闇色になっている。街灯の明るさもだんだんと目に付くような、そんな時間だった。
「おい、ふざけんなよてめぇ!」
 いい加減鬱陶しいので、少し歩いた辺りで足を止めて振り返った。
「あのね、どれだけ無茶なこと言ってるか考えてみれば? やってることは恐喝と同じじゃないか」
「んだと……この俺がこんだけ頭下げて頼んでんじゃねぇか……」
 酔いも手伝っているのだろう、顔を真っ赤にして僕を睨みつけてくれる。でも、頭にきているのは僕も同じだ。
「子供じゃないんだから自分でやったことの責任くらい自分で取ってくれよ」
「てっ……めぇ……!」
 通行人が、ちらちらとこっちを伺っては歩いて行く。大方酔っ払い同士の喧嘩だとでも思っているのだろう。誰も何も口出ししてこない。
「今後一切、僕には関わらないでくれよ」
 僕を睨む目を、真っ直ぐに睨み返して、はっきりとそう言った。
「調子こいてんじゃねぇよ! オイ!」
 殴られた、と分かったのは揺れた視界が戻って、やけにアスファルトが近く見えたからだった。殴り倒されたのだろう。しばらくして左の頬を焼けるような痛みが襲ってきた。口の中には鉄の匂いがする。左半分だけ感覚のなくなった顔を強引に引き上げて、鈴木を睨みつける。
「我侭言って、それが通らなかったら殴るのかよ! まるっきり子供じゃないか!」
「っせんだよ! てめぇは黙って金用意すりゃいんだよ!」
 鈴木が足を上げた。不吉な予感に手足を引き寄せて、体を丸める。
 背中を二度、三度と蹴りつけられた。喉から空気が洩れて、呼吸が上手く出来ない。
「俺のやることに文句つけんじゃねぇ! てめぇは俺に黙って従ってりゃいいんだよ!」
 荒い息と、筋の通らない叫び。反論したいのに、声が出ない。
 何度も、何度も蹴られて、踏み付けられて、だんだんと音が遠くなる。僕に暴力を振るっている奴が何を言っているのか、通行人がどんな悲鳴を上げているのか、それすら聞き取れなくなって……
 急に、衝撃が無くなった。
 いつの間にか胃の中の物を戻してしまっていたらしく、僕は激しく咳き込んでいた。涙がだらだらとこぼれて、鼻の奥がじんとする。アスファルトは冷たくて、蹴られて熱を持った背中を冷やすには丁度良かった。仰向けになって、呼吸を整える。
「おい、立てるか?」
 その声に――
 静かに響いて、「全てがどうでも良い」というような無常さすら感じられるような無感情な、それでも何故か耳に強く残るようなその声。
 僕は目を開けて、街灯の明かりを背負うようにして立つ人影を見上げた。
 涙で滲んだ視界に、それはまるで……こういうと冗談にしか聞こえないかもしれないけれど……
 天使のように、写っていたんだ。

 それが、僕と音さんとが始めて出会った出来事だった。

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