僕らの青年期〜雫 第一話     next


 僕らは結局のトコロ、何がしたかったのだろう?
 同じことを何度も繰り返し、同じ場所で何度も同じステップを踏んで、それでどこへ辿り着きたかったのだろう?
 今になっても分からないし、多分それは永遠に分かることなんてない類のことなのだろうと思う。
 でも、だからこそ……
 僕は考える。あの頃の出来事を。
 あの冬の終わりに始まった、穏やかじゃないのにどこか落ち着くような、そんな日々の出来事。
 青春が過ぎ去った後の、送れて届いた誕生日プレゼントのような、そんな日々の贈り物。
 方向性がはっきりと定まらないまま迷走した、僕と僕の車の話。
 それと――
 雫、という名前の、腐れ縁の女との話だ。
 何がしたかったのか、という疑問をぶつけたいと思う唯一の相手。僕以外にあの日々を知る唯一の相手。
 この話は、青春が過ぎた後の、それでも青春にしがみついていたかった、僕と雫との話だ。

「ほら、行くよ!」
 と、雫がいった。活動的なショートカット、というが、それは場合によってはただ鬱陶しいだけでしかない。むしろこの女の場合は、多少髪でも伸ばした方が活動的過ぎる性格を緩和出来て良いかもしれない。それはそれでまた鬱陶しいだろうが。
 この女、と言った。そうだ。雫は女だ。とはいえ、俺の恋人じゃない。俺にだって選ぶ権利はある。
 まぁ、この場合はその選ぶ権利云々を語ろうにも相手が悪い訳だが。
「お前な、行くって言ったって……あてはあるのかよ?」
 開いていた文庫本を閉じ、顔を上げた。見慣れた俺の部屋。目立つ物といえば本棚と簡単な書き物をするための机しかない、機能的に整理された部屋。床に置かれた二つのクッションは、雫が買って来た物だ。当然俺の金で。いつもの通りの気紛れで、いつもの通りのわがままを、いつもの通りに押し通す。それが俺の前にいる女、雫のスタイル。少なくとも俺はそう思っている。
「ない」
「ないってな……」
 話にもならない。なりようがない。結局思い付きだけで突っ走っているだけなのだから。
「こんな退屈な部屋にいたら退屈な人間になっちゃうじゃない。いいから行くわよ」
 文庫本に栞をさして閉じ、枕元に置く。寝転がっていた体を起こして、あぐらをかいて仁王立ちしている雫と向かい合う。
「あのな……」
 どう言えばこの女を説き伏せることが出来るだろう。軽く頭でも抱えてしまいたくなるような衝動にかられて、俺は大きく深呼吸をした。煙草の匂いしかしなかった。
「俺は退屈じゃないし、特に出掛けたい場所も無い。欲しいものもこれといってないし、なにより出掛けるには少し疲れてる。分かったか? どっか行きたいなら一人で行ってくれ。頼むから」
「あんさぁ……」
 雫はぼりぼりと頭をかいた。女らしい仕草ってのは何だろう、と少し疑問が涌いたが、今更この女にそんな繊細なものを求めても仕方ない。
「そんな風に言われると余計外の空気吸いたくなるんだけど?」
 話にならない。
「ほら、いいから行くよ!」
 どうせどこに行くにしたって、俺の車で俺の運転なのだ。

 この果てしなく自己中心的で、押しばかり強くて、女らしさをどこかで根こそぎ置き忘れてきた女、雫と俺が初めて会ったのは、確か大学時代の飲み会でのことだったように思う。折角だ。この際いつ俺の人生にけちが付き始めたのかはっきり思い出しておこう。
 俺が通っていた大学は、金さえ出せば誰でも入れる類の所だった。家はそれほど裕福ではないが、たった一人の息子を大学にやるくらいの金はあった。少し寂れた感じの街と、寂れた感じの三流私立大学。俺にはお似合いかもしれない、と皮肉に思っていた。
 そんな寂れた大学でも、一人前に飲み会くらいはある。
 お義理と付き合いで顔を出した席だったはずだ。俺が自分から進んで飲み会の席に顔を出すことなんてまず有り得ないのだから。そもそも俺は騒いで飲む酒が嫌いだし、疲れる遊びだって嫌いだ。おかしな騒ぎ方をして翌日に疲れとか、酔いとかを残すくらいだったら、一人で部屋に篭って缶ビールでも開けている。
 で、その席に雫はいた。適当な自己紹介と、適当に場を盛り下げない程度の話題。その中で、あの女だけは本気で楽しんでいたように見えた。意識して見ていた訳じゃない。ただ目に入ってきただけだ。
 興味を持った訳じゃない。ただ、「ああ、こういうヤツもいるんだな」と他人事のように思っただけだ。
 翌朝、自分の部屋で目を覚ますと、何故か隣にあの女が寝ていた。一応服は着ていたし、間違いは無かったはずだ。いくら酔ってしまったとはいえ、そこまで俺は堕ちてはいない。焦るのも居直るのも違う気がして、とりあえず彼女を起こした。そこで初めて俺は彼女の名前を覚えた。
『雫』
 儚げな趣のある名前なのに、そう名乗った彼女は寝癖と二日酔いで酷い顔をしていた。メイクだって落としてはないなかった。
 そう、あれは丁度春の始めの頃。長い長い冬が終わった頃だったはずだ。
 それから何年も、雫との縁は切れずにいる。不思議なことに……

 一つ、誤解を招くことのないように言っておくなら、俺と雫は付き合ってはいない。そういう関係になったこともない。俺は俺で根っから恋愛欲というものが薄いし、雫は身近にいる俺に手を出すまでもなく、同じ学部(俺とは別の学部だった)の男や、同じサークルの男と付き合ったり、遊び回ったりしていた。
 つまり、俺達は互いに良くも悪くも恋愛対象外同士という訳だ。
 そんな訳で、大学を卒業し、それぞれ就職をした今でも俺達の恋愛っけのない付き合いは続いているのだが……
 数日前、雫が男と別れた。
 それが今回の出来事の起因だ。

(なんかなぁ……)
 疑問というか、腑に落ちないものを感じながら、冬の終わりの夜を走る。車内は暖房のおかげで暖かい。脇目に見える街路樹は全ての葉を落とし、もうすぐ訪れる春を待っているように見える。少しだけ下がっている窓から入り込む風はとても冷たくて、それがまた気持ち良い。
 適度な速度で流れてゆく街の光と、すれ違う車のヘッドライトを見送りながら、シフトのアップダウンを繰り返す。乗り慣れた車と、走り慣れた道。雫のせいでこの時間のドライブにも慣れてしまった。
 時刻は深夜をとうに過ぎている。どこか店に入るにしても、なにかをして遊ぶにしても、もう場所は限られてしまっている。増してや外はまだ寒い。適当な場所に車を止めて歩き回るなんて風邪をひきそうなことはしたくない。これでも一応は社会人の端くれなのだから。
 軽く陰気な俺と相対するように、雫は一人で楽しそうにしている。何を考えているのかは知らないし、興味もないが、今にも鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気がある。
「で、どうするんだ? どこ行けばいいんだよ?」
「うるさいわね。黙って前見て運転しなよ」
 怒られた。なんてヤツだ。このまま車をぐるりと回して部屋に戻りたい衝動にかられる。が、そんなことをすれば後々までこの女は怒り続けるだろう。そしてしばらくは俺に当り散らすのだ。怒っているなら俺の部屋以外の場所で怒れば良いのに。
 俺は諦め、大人しく車を走らせることに専念することにした。
 赤信号で、車を止めた。整ったアイドリング音が腰にまで響く。暖房が少し強くなって、ヘッドライトが一瞬だけ薄暗くなってすぐに戻った。
(そういえば……)
 ふと、気付いた。前にもこんなことがあった、と。
 いや、雫のわがままで深夜のドライブに連れ出されるのはしょっちゅうだけれど、でも、この今の雰囲気はいつか……
「……え」
「は?」
「前。信号青になってる」
「ああ、はいはい」
 呆けていた恥ずかしさも手伝って、焦るようにして車を前へ。この時間になればもう急かしてくるような後続車もないのに。すれ違う対向車といえば長距離のトラックくらいのものなのに。
 そんな、完全に逃げ場の無い夜に、俺と雫は紛れ込んでしまっている。
 こんなことは、前にもあった。どことなく陽気で能天気な雫と、鬱になって車を運転する俺――
 あれは、何年か前の夏の出来事だったはずだ。

 その夜は雨が降っていた。重苦しいような雨で、路面がきらきらと光っていた。ワイパーが行き来する数は少なくて、夏なのに暖房を入れようか迷うくらいに寒い夜だった。
 確か、俺が免許を取って車を買った年の夏の出来事だったはずだ。段々と思い出してきた。そうだ。ぎこちないハンドルワークとクラッチワークで、体に慣れないシートベルトで、俺は夜の街を流したんだ。
 隣に乗っていたのは、雫。車で出かけるということがあまりなかったらしく、終始はしゃいでいた。俺は俺で、人を乗せて運転するという重責に慣れずに、妙に疲れてしまったのを覚えている。まだ俺達が若かった頃、何も知らなかった頃のささいな記憶だ。
 で、その晩は陰気な雨の中を、街外れの高台までドライブしたはずだ。夜景が見たい。そう、雫が唐突に言い出したから。もちろん、その夜は天気のせいで夜景なんて見えやしなかった。ただ疲れ果てて部屋に帰っただけだ。教訓も収穫もない、ただそれだけの夜――

(……行ってみるか)
 いたずら心を刺激された。なんとなく雫をかまっているような気になって、一番手近な角を山側に折れる。
 急な方向転換を疑問に思ったのか、雫は少しだけ眉根を寄せたようだった。でも何も言ってこない。どうせ雫本人にだってどこに行きたい、という要望はないのだ。だったら俺の好きにさせてもらおう。
 街の明かりを背負うように道を選び、数度角を曲がり、煙草を二本吸って、高台へと続く峠道の入り口へと至った。
 時計を見ると、明日の仕事に差し支える時間だった。

 ゴトン
 峠道の入り口には、忘れかけられた自販機がある。僕はそこに車を止め、缶コーヒーを二本買った。
「はいよ」
「ん」
 色気も何も無い仕草で、差し出された缶コーヒーを受け取る雫。色気だけでなく、礼の一つもない。
 カコッ
 小気味良い音が二つ、車内に響いた。
「で、だ」
「何よ?」
「実は夜景でも見せてやろうと思っていたんだが……」
「へぇ、アンタにしては気が効いてるじゃない」
「実はもう帰りたい」
「いいよ」
「何が?」
「だから、夜景でも見るっていうのには賛成してあげる」
「帰りたいんだよ。明日も朝早いし、寝不足で仕事に出るのは俺の流儀に反する」
「知ってるわよ。何度も聞いたし」
「……そうかい」
 諦めた。もっとも目的地がすぐそこ、という所で部屋に帰って寝るというのも寝覚めが悪そうだったので、雫の意見には概ね賛成だが。
 半分くらい飲んだ缶コーヒーをドリンクホルダーに挿して、再び車を走り出させる。不思議なもので、目的地がはっきりとしているドライブというのは、次から次へと考え事が浮かんでくる。運転に集中しなくてはいけないはずなのに、どうしても他のことに頭が向いてしまうのだ。
 考えていたのは、昔のこと。雫と二人で初めてこの峠道を上った頃のこと。ヘッドライトが照らすワインディングを必死に睨みつけ、額に汗まで浮かべて運転したような覚えがある。雫はそんな俺を笑って、大声で笑って――
(雫、か……)
 今も助手席に座る雫は、楽しそうに窓の外を眺めている。俺の方は絶対に見ない。時々思いついたように缶コーヒーを口に運んで、その度に衣擦れの音が聞こえる。カーステレオはつけていないから、そんな小さな音まで聞こえる。
 唸りを上げるエンジンは、俺達二人を運ぶために息を切らせているように思える。でも、そんな音すらも静かに聞こえるような、そんな夜だ。
 一つ、思い出したことがある。あの夏の夜の後の出来事だ。
 あの頃、雫には恋人がいた。どんな男だったかは良く知らない。雫が付き合ってきた男について、俺は驚くほど何も知らない。
 確かそのとき付き合っていた男は、俺と雫がドライブに出たことを聞かされて、腹を立てたとか。それが原因で別れることになったとか……
 そんな話を、誰かから聞かされた。
(まあ、今となっちゃどうでも良いことだな)
 結局最後まで雫の隣にいたのは、俺だったということだ。溜め息も出やしない。
 この先――
 俺はどうするのだろう? 俺達はどうなるのだろう? そんなことがふと浮かんだ。そしてすぐ消えた。
 峠道は終わりに近付き、目指していた高台はすぐそこにある。
 街の光を見下ろすことの出来る高台。今晩は幸い良い天気だ。原色の光が彩る街を、遠くまで見通すことが出来る。

 適当な場所に車を停め、エンジンを切った。夜の静けさが四方から俺の車を取り囲む。暖房が切れたせいで、だんだんと車内の温度が下がり始める。ここまで俺達を運んでくれた車が、束の間の休息に肩をほぐしているような音が聞こえる。
(静かで良い夜だな)
 そんなことを思い、煙草に火をつける。指二本分くらい開けた窓から、一筋の白い煙が夜に溶ける。
 雫は缶コーヒーの残りを流し込み、黙ってフロントガラスの向こうに広がる人工の星原に目を向けている。この女が黙っているというのは珍しい。得に何の文句も口にせずにいるのは。そういうことも含めて、静かで良い夜だと俺は思った。明日の朝の憂鬱さも、今は考えないでおこう。

 どれくらいの間、そこでただ夜を眺めていただろう? 寒くなってきたのでエンジンをかけ、暖房を入れた。部屋を出るときに持ち出した吸い掛けの煙草は、既に残りが少なくなっている。缶コーヒーは冷え切り、デジタル時計の示す時刻は絶望的な時間になっていた。新聞配達もそろそろ中盤にさしかかるくらいの時間だ。
 突然、雫が口を開いた。開いた、とは言っても、何か台詞を口にした訳じゃない。ただ、何かを言おうとして止めたような感じだった。空き缶を掌でもてあそびながら、その視線を泳がせている。せっかくの夜景も目に入ってはいなく、隣に座っている俺の姿ですら視界に入っていないように見える。
 俺は、ちょっとした違和感を感じていた。俺の知っている雫は、こんな仕草はしない。何かを考えるよりも早く行動に移し、そしてそれが間違っていたとしても力ずくで押し通す女。それが雫だったはずだ。それなのに、こんな風に――なんというか、儚げな素振りをされると、こっちのペースが乱れてしまう。安定したエンジン音にかぶさるようにして、俺の心臓の音が少し大きくなった。
 数秒、だったはずだ。雫が初めに何かを言おうとしてから。たった呼吸数回分の空白。それだけだった。その間に、俺の頭の中はぐるぐると回転していた。
 初めて雫を見た飲み会でのことと、それから雫が俺の部屋に入り浸るようになったこと。他愛の無い会話の積み重ねと、派手な口喧嘩。雫は男と別れる度に酒を買い込んできては俺の部屋で一人、酒盛りをしていた気がする。俺は自棄酒を飲む雫を横目に、一人で本を読んでいた。そんな時……雫は俺の部屋で、一体何を考えていたのだろうか? 黙って呆れ顔で本を読み続ける俺を見て、何を思っていたのだろうか?
 汗が流れた気がした。暖房が効きすぎた訳じゃない。多分、これは緊張に耐えられない俺の弱さでしかない。
(何を緊張しているんだ? 相手はいつもの雫じゃないか?)
 でも、そう簡単に流せるような雰囲気じゃなくなっていた。喉を滑り落ちる唾液の音すら、生々しく響く。
「――――」
 雫が、何かを言った。聞き取れなかった。「どうした?」と聞き返すのも間抜けな気がして、視線だけで問いかける。暗い車内でその視線が届いているのかは疑問だったが。
 そう、車内は暗いはずだ。それなのに――
 俺には、はっきりと雫の表情が見て取れた。今まで一度も見たことのない表情だった。
 真剣で、真っ直ぐで、でも頼り無くすがり付くような、そんな表情。白い頬は朱に染まり、潤んだ目は揺れている。街の灯りを吸い込んで、ほのかな光を帯びている。雫の唇が少し開いて、ゆっくりと夜の空気を吸う。首の辺りできらりと小さく何かが光った。ネックレスか何かだろうか?
「だから――」
 擦れるような、か細い声。間違いなく、女の声だ。いつも明け透けで言いたいことを大雑把に言っていた雫とは別人のような声だ。
(違う)
 そうじゃない。もしかしたら、俺はずっと勘違いしていたのかもしれない。ふと、そんなことが脳裏を過ぎった。考えるまでもない。雫だって女なんだ。俺とは違う、女なんだ。数年、腐れ縁が続いて何か大事な感覚が麻痺していたのかもしれない。
 音が聞こえた。俺の頭の中だけで響く小さな音が。
「私と、結婚してよ」
 それは……
 どんなに恋愛欲が薄い俺にも、はっきりと分かった。
 目眩がした。心臓が飛び跳ねて暴れた。足元がぐらりと揺れた。背筋を、汗が伝って落ちた。そんな気がした。
 俺は、なんと答えればいいのだろうか?
 渇いた喉が張り付いて、熱い痛みが走った。

 結局、その夜は雫の問いに答えることが出来なかった。俺には何がどうなっているのか分からなかったから。
 それに、何が正解なのかも分からなかったから。

 そして、雫が俺の部屋に顔を出さなくなった。連絡も付かなくなっていた。


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