月の虹兎 前編     next


『あのね、月には本当に兎がいるんだよ』
 古い友人の言葉を思い出した。
 私は今、こうして月面に立っている。
 緑の生い茂る、水と光と酸素に満ちた月面に。
 踏み締める大地はサラリとしていて、砕けた珊瑚で出来た砂浜のよう。
 遠くに見えるのは、鬱蒼と茂る人参畑。高さ四メートルほどの緑の葉っぱが太陽の光を美味しそうに食べている。
 確かに月に兎はいた。でもそれは昔のこと。今では彼らに出会うことは出来ない。
 私は闇の向こうに青く光る地球を思い浮かべた。
 今、月面の兎は地球にいるのかもしれない。そうかもしれない。
 私は灰色の大地を人参畑目指して歩き出す。臼と杵を載せた荷車を引いて。
 今日は正月。明日も正月。餅つき屋である私は、忙しくも楽しい日々を送っている。
『月の兎に会えるとね、幸せになれるんだよ』
 古い、とても古い友人の言葉。でも、月に兎はもういない。月の兎に会えた私は幸せになった。
 月面の気弱な重力に逆らい、私は十メートルずつ飛び跳ねる。背後で臼と杵が擦れ合う音がする。
 人参畑までは、もうすぐだ。

「月には本当に兎がいるんだよ」と彼は言った。
 私達は真夜中の山道を、山頂に向かって歩いていた。当然のごとく、目の前には満月が浮かんでいる。銀色とも金色とも言えるような淡い光を放ち、夜空を蒼く照らしていた。
「でも、月面には酸素がないからすぐに死んでしまうんじゃないのかい?」と私が問い返す。
「死なないよ。だって、月の兎は酸素なんて必要ないから」
「じゃあ、どうやって生きてるんだい?」
「餅をついて、その餅を食べるんだよ」
「じゃあ、その餅の元であるもち米はどこから持ってくるんだい?」
「そんなことは知らない。でも、月の兎は餅があれば一生生きて行けるんだ」
「へぇ……」
 それはとても羨ましいと本心から思った。私達人間は、酸素の他にも食べ物が必要で、その上服や靴や宝石まで必要になる。餅だけで生きることの出来る兎を、羨ましいと思った。
「月の兎に会うと、幸せになれるんだ」
「でも、僕らは月に行けないじゃないか」
「でも、幸せになれるよ」
 友人の言うことはいつも中途半端で、きちっと終わることはなかった。こじつけが多いのも彼の言い回しの特徴だった。
 私はポケットから一粒のチョコレートを取り出すと、それを口に放り込んだ。トロリと甘いチョコレート。私は彼にも一粒手渡した。
「兎もチョコを食べるのかな?」
「多分ね」
 道はデコボコしていて歩き辛かったが、月の光は私達の足元を照らしてくれた。灯台の光のように。
 それなら、私達が目指すべき場所は、月面だったのではないだろうか?そして、そこで兎と会うのだ。

「こんにちは、兎さん」
「こんばんは、人間さん」
「貴方に会うと幸せになれるそうですね?」
「私は幸せにはなれませんがね」
「貴方は餅しか食べないんですって?」
「餅しか食べる物が無いんですよ」
「じゃあ、私が何か違うものをあげましょう」
 私のポケットには、一本の人参。綺麗に洗ってはあるが、とても貧相で、食べるのが可哀想にも思える。でも、兎は私よりもずっと小さいので、丁度良いかもしれない。
「さあどうぞ」
「これは何ですか?」
「人参です。お好きでしょう?」
「それは地球の兎の話では?ここは月です。人参なんてありません」
「人参は無いのに、餅はあるんですか?」
「餅しか無いんですよ」
 兎は小さな肩を器用に竦めて見せる。私は内心で小さく拍手をして、人参を一口かじった。
「おいしいですよ」
「へぇ……」
 生のままかじる人参は、少し土の味がした。懐かしい匂いがした。暫く噛んでいると、甘味が口中に広がって、土の匂いと混ざり合った。
「どうです?一口」
「いや、私はこれで」
 兎が取り出したのは、臼と杵。それと木綿の布に包まれたもち米。もち米は蒸かしたてのようで、真っ白な蒸気がもうもうと上がっている。噴火している火山を思い出す。
「これからつくんですか?」
「ええ。すぐですよ」
「それなら、私も手伝いましょう」
「助かります。では、私がひっくり返しますから、貴方は杵を振り下ろして下さい」
 そして、私達は餅つきを始めるのだ。冷たい光を放つ月面で。

「でも……」
 私は友人に話し掛けた。
「チョコを食べるのならチョコも作るのかな?」
「チョコはもらうんだよ」
「誰に?」
「旅人にだよ」
「月面に旅人なんているかな?」
「旅人だからね、この宇宙のどこにでもいるさ。それに、旅の必需品だからね、チョコは」
「甘いしね」
「うん、甘い。もう一つくれる?」
「はい」
「どうも」
 私達は暫く月面の兎を忘れてチョコを食べた。虫歯が酷く痛んだ。

「兎さん、昨日はどうも」
「やあ、人間さん。今日はどういったご用件で?」
「貴方達は一体どこから来たんですか?」
「私達はね、地球から来たんですよ」
「貴方達は一体どこに行くんですか?」
「私達はね、地球に行くんですよ」
「つまり……」
 私は兎の話をまとめた。
「月の兎は地球から来て、月で餅をついて、地球に戻るわけですね?」
「まあ、個人差はありますが大体はそうですね」
「じゃあ、違う兎もいるんですか?」
「そりゃあ当然でしょう。人間だって違う場所から来て、違う場所に行く人がいるでしょう?同じですよ」
「それは失礼」
 兎は気を悪くしたのか、ほっぺたを膨らませた。
「お詫びに、どうです?チョコでも」
「貴方は旅人ですか?」
「そうとも言えるし、そうでもないとも言えますね」
「はっきりして下さいよ。月の兎は旅人以外の人間からチョコを貰ってはいけない決まりになっているんですから。もし違う人間から貰うと……」
「どうなるんですか?」
「悲しくなるんですよ」
「それは大変ですね」
「ねぇ……」
 なんだかんだ言って、兎はチョコを頬張る。膨れた頬の中に、甘い味が広がっているのだろう。
「で、行く場所の話ですね」
「ええ」
「あそこの兎が見えますか?」
「あの金色に光っている兎ですか?」
「その隣の、緑の兎ですよ」
「ああ、彼ですね」
「そう。彼はこれからさそり座まで行きます」
「何をしに?」
「針治療を習いにです」
「ああ、あそこは針で有名ですからね。すると、あそこの茶色の兎はさしずめ土星で陶芸ですか?」
「分かって来ましたね。ちなみに銀色の彼は水星まで行って帰ってくるだけです」
「そりゃまたどうして?あそこは日本舞踊のメッカじゃないですか。勿体無い」
「いや、彼はマラソンランナーだから良いのですよ。その前は冥王星まで行って、帰って来ました」
「大変ですね」
「一番大変なのは、私ですよ」
 胸を張り、兎が言った。私と話をしている兎は、小さくて、丸くて、色は虹色をしている。
「どこまで行くんですか?」
「ハレー彗星です」
「それは大変だ。彼はいつもいつも走り回っているから」
「ええ。ですから、近くを通りがかるまで月で待機しているという訳です」
「それは……」
 チョコを食べる。兎にも、一つ。
「とても大変だ」
「でしょう?」
 虹色の兎は枕に頭を預け、横になった。
「果報は寝て待てって奴ですね」欠伸をした。「ところで……」
「何でしょう?」と私。
「貴方はどこへ行くんですか?」
「私はここが目的地ですからね」
「お手軽な旅ですね。退屈じゃありませんか?」
「いや、寝ているよりは楽しいですよ」
「それは結構」
 兎は夢を見る。ハレー彗星の尾に絡めとられ、どこか遠くへ行ってしまう夢を。
 私はポケットを探したが、チョコは終わったようだった。
 仕方なく、朝食の残りのスクランブルエッグを暖めて食べた。トマトケチャップは地球の味がした。

 私と友人はまた歩き出した。
「月の兎はどうして人参を食べなかったのかな?」
「多分、美味しそうに見えなかったからだと思うよ」
「チョコは美味しそう?」
「美味しいしね」
「そうだね」
 だったら兎も一度人参を食べて見れば良いのだ。きっと気に入る。
「きっと食べないよ。でも、人参の葉っぱの方は好きになると思う。緑で綺麗だからね」
「じゃあ、僕は人参の種を彼らに渡そうと思う」
「良い考えだね。月は栄養が豊富だから、すくすく育つよ」
「二十センチくらい?」
「それじゃあ普通じゃないか。もっと、何メートルにもなるさ」
「それで、人参の森が出来るわけだね」
「お腹が空いたら、ちょっと掘るだけで人参が食べ放題。まぁ、すぐに飽きると思うけどね」
「でも大変だよ。人参で森が出来たら満月が緑色になってしまう」
「楽しいじゃないか」
「それに、人参で森なら、桜だったらどうなるんだろうか?」
「考えてもみなかったよ。君は時々素晴らしく冴えているね」
「どうも」
「多分ね、小さい桜が出来ると思うよ」
「栄養が豊富なのに?」
「そう。で、小さい桜がシャボン玉の中に入って月を巡るんだよ。ピンク色の花びらを散しながらね」
「綺麗だろうね」
「でも、その花びらの後始末をするのは君だぜ?桜を持ち込んだのは君なんだから、責任を取らないと」
「業者に委託するさ」
「君は本当に賢いよ」

 今日の餅つきも、何とか終わった。集落一つ分の餅を一人でつくというのはとても骨が折れる。
 でも、私は兎から直に餅つきを教わった宇宙でたった一人の人間だから、頑張らなくてはならない。
 月面で餅をつけるのは、今や私しかいないのだ。それ以外には、遠く地球から機械でついた餅を運んで来なくてはならない。
 あの虹色の兎は、今どの辺りにいるだろう?
 ローマだろうか?チョモランマだろうか?万里の長城だろうか?それとも、どこか私の知らない退屈な場所で居眠りでもしているのだろうか?
 ギアナ高地にいる世界一古い蛙のことを思い出した。進化する必要がないから、いつまで経っても古いまんまなのだそうだ。
 あの兎も、いつまで経っても居眠りしているのだろうか?
 いつまで経っても、虹色のままなのだろうか?

「どうして兎さんは跳ねるのですか?」
 私は何となく、そう訊いてみた。別にちゃんとした答えが欲しかったわけではなく、ただ兎ともっと親密になりたかっただけだった。
「それは……なんと言うか、とても話しづらい部分が多い。私にとって飛び跳ねるということは、とても苦い思い出を呼び覚ます行為でもあるのです」
 兎はそう言いながらも、嘘のような白さをした餅を食べている。私も餅を食べたくなった。代わりにポケットに入っていたハッカの飴を口に放り込んだ。
「話してくれますか?」
「……ま、良いでしょう。その代わり、一つだけ覚えておいて欲しいことがあります」
「何です?」
「兎は、実は跳ねてはいない。飛び跳ねているのです」
 私にとってはどちらも同じだが、彼らには彼らのこだわりがあるのだろう。ハッカのすっとした香りが私に余裕を与えてくれた。
「ええ、分かりました。それでは、どうして飛び跳ねているのか教えてもらえますか?」
「分かりました」
 満足げに頷き、神妙な面持ちで語り出した。
「苦い思い出です。そして、哲学的な問題に発展してしまうかもしれない。地球には幾人も偉い学者がいるそうですが、彼らがさじを投げてしまうほどにね」
「人間には解くことのできない難問、という訳ですか?」
「落ち着いて話しましょう。聞いてください。そうですね……アメンボを知っていますか?」
「水溜りの上を滑るようにして進む虫ですね?実に楽しそうに滑っている」
「彼らは、どこから来るのでしょうね?」
 教師が生徒に出題をする時のように勿体つけ、兎は言う。
「虫ですから、どこか遠くから飛んでくるのではないですか?」
「正解です。そして、同時に非常に的外れでもある」
「どういうことです」
 私は彼のいうことが理解出来ない。
「雨が降り、雨は水溜りを作る」「はい」
「その時には、もうアメンボはそこにいるのです」「はあ」
「どうして?どうやって?彼らは敢えて水溜りというカオスの中に足を踏み込むのか!それは……」「それは?」
「私達が飛び跳ねているからです」
「苦いですか?」
「ええ、とても苦いですね。そりゃあ苦虫を煮詰めて作ったエキス並に」
 私は懐からメモ帳を取り出し、そこに一行書き加えた。
『月の兎は、人をからかうのが好き』

 友人が言った。
「どうして兎が餅しか食べないのか、知りたいかい?」
「そりゃあね。餅しかないから、じゃあ納得出来ないよ」
「よし、それじゃあ話してあげるよ。いいかい、話すよ?」
「ああ、良いよ」
 友人は夜の空気を吸い込むと、口笛を吹いた。時々音程が外れたが、それは「お正月」という歌だった。誰もが聞き覚えのある曲だ。
「と、言うわけさ」
「話してないじゃないか」
「君も鈍いね。だから、お正月なんだよ」
「つまり?」
「月ではね、一年の内三百四十一日、お正月なんだ。だから、お祝いの餅がずっと必要になる。そうすると、面倒だから残りの二十四日も餅しか食べようとしない」
 もう幾つ寝ると、お正月。私は餅が食べたくなった。
「でも、お正月なら他にもおせち料理があるじゃないか」
「おせちは作るのが大変だからね。誰も作れないんだよ。兎は案外不器用だから」
「そうなんだ」
 私は針治療を習いにさそり座まで旅立った緑の兎を思い浮かべた。
 彼は不器用ながらも必死に針を教わっているのだろう。頑張って欲しい。
 そして、免許皆伝になった暁には、是非私の肩こりを治してもらいたいものだ。

 餅をつくのは、とても肩がこる。それはそれは、こる。
 私はいつも寝る前に、肩に紅茶の葉を張って寝なくてはならない。そうでないと肩から不思議な光が溢れるから。
 この光に触れると、大抵の物がピカピカになってしまう。一度、紙やすりがピカピカになってとても難儀した覚えがある。
 この「肩に紅茶の葉を張る」ということを教えてくれたのは、実はあの虹色の兎だった。
 彼は言った。
「紅茶の葉は赤いから、光の色も赤くなる」と。
 つまり、赤い光ならピカピカにはならないのだ。
「でも、フニフニにはなるかもしれないけどね」
 ピカピカかフニフニか。それが問題。
 きっと違う兎に聞けば、違う方法を教えてくれるだろう。
「壷を置くと光が壷色になるから、カトカトになる」とか、「マリモは止めておいた方が良い。あれはモコモコ増えるから」とか、きっと様々なのだろう。
 でも、私は虹色の兎としか話が出来なかったので、仕方なく紅茶の葉を張り、朝になるとフニフニのトーストを口に運んでいる。月面とは不思議な場所だ。

 不思議と言えば、人参畑だ。
 月に兎はいないと言ったが、ここにはまだ兎がいる。
 正確に言うと、兎の姿をした何かがいる。
 私は彼らが本当は雀だと踏んでいる。朝になるとチュンチュン鳴くからだ。もしかしたら雲雀かもしれない。椋鳥かもしれない。同じことだ。
 その偽兎は、人参畑の管理をしている。雑草を刈り、如雨露で水を捲き、時には人参に話しかけたりもしている。
 彼らは私の友人だ。良くポトフを御馳走になった。もちろん人参がたくさん入ったポトフだ。
「本当はジャガイモがもっと欲しいんだけど」といつも愚痴っている。月ではジャガイモは貴重品なのだ。
 それというのも、ジャガイモを独占している会社があるせいだ。彼らの社屋はジャガイモの皮で出来ている。
 ジャガイモ畑にはドーベルマンが二匹いて、いつも目を光らせている。昼間は赤く、夜は白く。一度ドーベルマンと話をしたことがあるが、あれは駄目だ。まるで話が通じない。
 例えば、私が映画の話をしているというのに、返って来る答えは野球の試合の結果といった具合だ。私は共通の話題の無い相手との会話が如何に難解であるかを初めて実感した。
 そんなこんなで、ジャガイモは貴重品だ。手に入れるためには物々交換しかないのだが、ジャガイモ一個につき、だいたい人参が二本と四分の一くらいのレートになる。
 当然のことながら、月のジャガイモなので大きい。くりぬけば、中でサミットが開ける程度には大きい。サッカーの試合も出来るかもしれない。災害の時には避難所としても利用出来るだろう。今度提案してみるのも良いかもしれない。
「貴方のついた餅は、いつも美味しい」と偽兎は言う。私は気を良くして、三日分の餅を与える。すると、彼らは七輪を取り出して、炭火で焼くのだ。
「この膨らみ方は、機械でついた餅には真似出来ませんよ」
 餅は冗談のように膨らむ。人参の森の天辺に届きそうなまでに。
 何度も言うが、月は栄養が豊富だ。当然餅も美味しい。私達は日が暮れるまでその餅を焼いて食べる。仕事は仕事、餅は餅屋。私は餅つき屋。
 今日も人参畑から細い煙が宇宙に伸びて行く。

月の桜の話を、僕は彼から聞かされた。
「月に桜を持ち込んだとする。まず最初に驚くことは、小さな木が育つことだね」
 小さな木。私はその姿を想像してみた。だいたい掌くらいの大きさだろうか。
「一粒のさくらんぼを埋めると、十分後に一本生える」
 灰色の大地からにょっきりと生える、一本の小さな木。どことなく物悲しいものがある。
「その十分後に花が咲いて、五分で散る。その五分後に実がなって、また十分後に木が生える。こうして月面には桜の絨毯が出来る訳だね」
「ちょっと待ってくれ。それじゃあすぐに月面が桜で一杯になるじゃないか」
「そうはならないよ。一粒の地球のさくらんぼからは、クレーター一つ分の桜しか出来ないし、月で生まれた桜は飽きっぽいから増えるのにもすぐ飽きるから」
「それなら安心だね」
「クレーター一杯に広がった桜の絨毯は、その内シャボン玉に包まれる」
「そのシャボン玉はどこから来るんだい?」
「職人が一つ一つ手作りしているんだよ。やっぱり機械で作ると色艶が悪いから、手作りに限る」
「それじゃあ、どうやって桜はシャボン玉の中に入るんだい?」
「シャボン玉が迎えに行くんだよ。桜に呼ばれてね。何もおかしなことはないだろう?」
「とても素敵な光景だろうね。ピンクの花びらを写した虹色のシャボン玉が幾つも幾つも降り注ぐ。その中に桜を包んで、シャボン玉はピンクに輝く」
「そこに太陽が昇るわけだ。灰色の月面も、その時だけは歓喜に満ちている」
「素敵だろうね……」
「きっと、この地球で見られるどんな物事よりも綺麗だと思うよ」
「モナリザよりも?」「アフロディテよりもね」
 私達はしばらく、月面の桜について思いを馳せた。
「風が吹く」
 突然、友人は話を始めた。「風?」
「太陽から降り注ぐ風だよ。月を一周してから地球に届く風。南極の端からエアーズロックを通って、グランドキャニオンを削って、ロシアの平原を冷やして、北極で眠る風」
「太陽からの贈り物のことだね?」
「そうとも言うね。それで、その風は月面を回る。当然のことながら、桜のシャボン玉は風にしがみ付くね。何故って?彼らも生来の旅人だからね」
「なんだか旅人だらけだね」
「実際そうなんだろうね。この世界は旅人で出来ているようなものだよ。僕も旅人、君も旅人、この銀河も旅人」
「悪くないね」
「それで、月面中に桜は散らばる。適当に増えたり、そのまま宇宙の果てまで飛んで行ったりする。宇宙の果てまで行った桜はそこで増えるかもしれないし、増えないかもしれない。桜でいることを止めるかもしれない。今度は蜜柑の木になるかもしれない」
「それでもシャボン玉は割れない?」
「職人を馬鹿にしない方が良いよ。彼らは命を削って一つの物を作るんだ。作られた物にだって命が宿る。左甚五郎の猫の話をしっているだろう?同じだよ」
「それで、桜はどこに行くんだい?」
「地球に来るのもいるし、月を回り続けるのもいる。でも、一番多いのはオルゴールの中に入る桜だね」
「オルゴール?」
「誰もの夢に出て来る、オルゴールに入るんだ。夢の音楽と映像を担当する。こうして世界は桜の夢で満ちるわけだよ」
「素敵だ。いつか僕は月にさくらんぼを持って行こうと思うよ」
「でも、桜の花びらは君が片付けなよ」
「分かってる。業者に頼むさ」
「早めに頼んだ方が良い。広がるとあちこちから苦情が来るからね」
「そうだね」

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