破滅願望


 どうでも良い。何でも良い。
 どうなってしまっても、構わない。
 そう考えるのは、俺のどこかが壊れてしまっているからなのだろう。
 今日も、半分閉じたような瞳で、街を見て歩く。

 夜の街を歩いていると、俺はいつでもこう思う。
『誰か、俺を殺してくれ』と。
 自殺願望はない。そこまで堕ちてはいない。
 ただ、誰かに殺されてしまうのなら納得出来る気がする。
 死ぬのなら、抗えないような絶対の死が良い。
 そう思って、俺は今夜も街を歩く。

 この街は、どこかがおかしい。
 夜の裏通りといえば暴力と混沌が支配する、恐怖の舞台のはずだ。
 それなのに、こんなにも――
 落ちついている、自分がいる。
 瞳は半眼のまま、俺はそれでも、夜の街で安堵している自分を実感する。
 この気持ちは、酩酊のせいではない。
 この街の、夜のせいだ。
 肌寒いほどの夜風に身を縮ませ、俺は“clock”というシケた店へと滑り込んだ。

 革ジャンを脱ぎ捨てるようにして椅子にかけ、カウンター席に座る。
「ジンライム。氷はいらない」
 これくらい強いアルコールでないと、酔えない。
 酔わないと、俺は正気ではいられない。
 いつでも、俺の背中には一つの感情が張りついている。
 それは、死の恐怖。
 絶対的な死に直面した者が背負う、逃げ出したくなるような恐怖。
 逃げ場なんてどこにもないのに、逃げたくなっている俺。
 情けなくて、涙も出ない。
 だから酔う。逃げ出すために。
 恐怖から、目を逸らすために。
「ジンは何が良い?」
「ボンペイサファイア」
 聞くまでも無いだろう。マティーニを作るには向かない癖の強い酒だが、ライムを絞ることで嫌味が無くなる。
 ジンは、ボンペイサファイアが良い。ゴードンやヘンリーでも良いが、やはり癖は強いに限る。
 そうでなくては、酒を飲んでいる実感がしないから。
 セブンスターに火をつけ、俺はバーテンの動きを目で追った。
 酔っている瞳では、その動きは恐ろしく早く感じた。

 仕事はしている。運び仕事だ。
 遅くなったが、俺の名前を言っておかなくてはならないだろう。
 俺の名前はサトル。歳は二十一だ。
 この街の相談屋に雇われて運び仕事をしている男の内の一人だ。
 もちろん、拳銃くらいは持っている。
 この街は確かに自由で、安全な街だが、不測の事態というのはいつでも足元に忍び寄る。
 逃げ出すことにばかり気を取られていては、生き残ることは出来ない。
 特に、俺のような死ぬことを求めている男は。
 “clock”では三杯のジンライムを飲んだ。美味いとは思わない。ジンライムなんて単純なものに、それほど差が出るはずはない。
 ただ、あの店だけは特別な店だ。
 カウンターの端に座っている、陰気な男が気になった。いつものことだ。
 俺は思う。
 あの男なら、俺をコロシてくれるだろう、と。
 だが、そうはならないことを知っている。
 あの男は、絶望にとり付かれている。
 あの瞳をしている男は、何も出来ないことを俺は知っている。
 革ジャンの前を合わせ、夜気の寒さから身を守る俺。
 街灯の下には、一人の女が立っている。珍しいことじゃない。ただの街娼だ。
 他の街ではあり得ないことだとしても、この街では特に珍しくはない。
 他の街の常識は、この街には当てはまらない。
 ここは、そういう街だ。
「よう」
「何よ。アンタとはもう二度としないって言ったでしょ?」
 生意気な女だ。ただの娼婦風情のくせに客は選びやがる。
 ドロドロになった頭には、理性なんて存在しない。
「ヤりたいんだよ。金はあるし、俺は客だ。何か問題があるか?」
「あるわね。女を道具にしか見えない男には誰も抱かれたいとは思わない。帰ってそのまま寝れば良いじゃない」
 奥歯を噛む。苛立った時の癖だ。直そうと思ったことはない、俺の個性にも似た癖。
「たかが女のクセしやがって、一人前に男を選ぶのか?ふざけるな!俺は、お前を、壊したいんだよ!」
 女の顔が面白いように変わった。冷静だった顔に血が昇り、真っ赤になる。
 街灯の下でもはっきりと分かるくらいに、真っ赤な頬。
 ……キスでもすれば気が変わるだろうか?
 安易な思いつきは、女の張り手で吹き飛んだ。
 夜の裏路地に乾いた音が響いて、消えた。
 頬が熱い。左目だけが涙ぐんでいる。
「ふざけるな!アタシはね、アタシが抱きたいと思った男としか寝ないんだよ!昔のアンタは今より多少はマシだったよ、そりゃあね。だから寝たんだ。でもね、ただビクビクオドオドしてる男には興味は無いんだよ!それを乗り越えてから顔出しな!」
 打たれた頬を押え、俺は女を睨む。
「上等だ。ここで犯してやる!」
 伸ばした手は、女に届くことはなかった。
 気が付けば俺はアスファルトに寝ている。背中が大きく脈打つ。
 転ばされた。そう気付いたのは、女の声を聞いてからだった。
「ケイ!」
「悪いな、坊や。今夜は俺がこの女を買う」
 声も出ず、立てず、俺は苦悶の表情を浮かべる。
 恐ろしいと、本心から思った。
 街娼のもので無い声は、“clock”にいた絶望の男だった。
「夜に騒ぐのは、マナーに反する」
 投げ捨てられた言葉は、俺の体のあちこちに突き刺さった。
 立ち上がることと、痛みにのたうち回ることを禁じられたような気がした。
 冷たいアスファルトに寝転び、呼吸を整えようとする。
 見えたのは、満月。金色に輝く満月。
 涙ぐんだ視界に収まった月は、俺の最後を暗示しているようだった。
『冷たく、誰にも見られない場所で、孤独の内に朽ちて行く』
 そんな言葉が脳裏に浮かんで、すぐに消えた。


 俺が死を知ったのは、二年前のことだ。
 思い出しても下らない。ため息も出ないほどに。
 自分の中の正義なんてものに拘った俺は、黒服の男達に囲まれ、死なない程度に殴られた。
 意識を失った俺が目を覚ましたのは、浮遊感。次に衝撃と焼けるような痛み。そして寒さ。
 雪がちらつき始めた時期のことだった。俺は山道から崖下に投げ捨てられた。
 思い出すのは、死の恐怖とどう足掻いても助からないという絶望。
 こうして生きているのは、呪いとしか思えない。
 全身に負った痕の消えない傷と、震えるような恐怖。それを手に入れた。
 絶望は、俺も知っている。ケイと呼ばれたあの男だけが知っている訳じゃない。
 誰でも絶望くらいする。それは分かっている。
 死の恐怖を、あの男は知っているのだろうか?
 あの男は、俺をコロシてくれるのだろうか?
 ケイ。その名前を俺は記憶に深く刻み込んだ。
 あの男が、俺をコロスべき男だ。

 シャワーは冷たいものが良い。別に拘りがある訳じゃない。ただ、震えているのを冷たいシャワーのせいに出来るから。
 毎晩、悪夢に苛まれる。
 だから俺は女を抱きたかった。
 女を抱いた心地よい疲れの中で、夢も見ないで眠りたかった。
 蛇口を閉め、脱衣所からバスタオルとタバコを取る。
 頭からバスタオルを被り、タバコをくわえて火をつける。
 湿った空気に混じって消える、紫煙。
 涙の滲んだ視界でそれだけをじっと見つめていた。

 夜が来た。夜が、本来の時間を連れて来た。
 懐の中には拳銃が入っている。
 重い、鉄の塊。死を連れてくるただの道具。
 “clock”の前で、俺はケイと呼ばれた絶望の男を待った。

 空気の味が変わり始めた頃、ケイが姿を現した。
 物陰から路地に滑り出し、懐から拳銃を取り出す。
 何も言わなくて良い。何も考えなくて良い。
 引き金を引くだけで良い。
 ケイが死んだとしても、それはそれで構わないだろう。どうせ奴も絶望している類の人種だ。いつでも死を受け入れる準備は出来ている。
 さあ……
 振り返って、その手で……
 俺ヲ、殺シテクレ
「止めろ。そんな物じゃあ俺は殺せない」
 背中がそう言った。ケイの背中がそう語った。
「死ぬさ。これは、絶対の死を教えてくれる便利な道具だ」
「俺は、死なない。お前じゃあ俺は殺せない」
「どうでも良いさ。死ぬなら死ぬし、死なないならそれで良い」
 一歩だけ踏み出し、指に力をかける。
 後数ミリ引き金を絞るだけで、ケイは死ぬ。
「どうして、俺を狙う?」
 もっともな質問だが、同時に的外れでもある。
「お前は、俺を殺せるだろう?」
「だから俺を殺すのか?」
 ケイがタバコに火をつけた。大きく吐き出して、下を見る。とても凄惨な背中だ。
「俺は、誰も殺せない」
「なら死ねよ」
 ダァァン!
 割と地味な発砲音が夜の路地に響く。
 ケイは、俺の目の前にいなかった。
 背中が泡立つ。
 ああ、もうすぐ……
 俺は、死ぬことが出来る。
 薄れ行く意識は、死の恐怖や絶望ではなく、歓喜に打ち震えていた。

「……出て来い、相談屋」
 さして面白くもなさそうに、ケイと呼ばれた男が呟いた。足元には、一丁の拳銃と一人の男。
「随分とあっけなく終わったな」
「長引かせれば、夜の雰囲気を損なう気がしたんでね」
「そりゃ結構」
 コツコツと足音を立て、細い路地から痩身の男が姿を現した。左手で右手を揉み解すような仕草をして。
「この男はお前の部下じゃないのか?」
 相談屋の方を見もせずに、ケイは懐から取り出した煙草を咥える。街灯の下、ジッポーの炎がほのかに朱色に輝いた。
「部下の不始末は、上司が取るものじゃないのか?」
「まあ、普通はそうだろうな。けどな、この街じゃあ『普通』なんて言葉は無意味だ。個人の不始末は個人の裁量で取ってもらうさ」
「勝手なことだな」
「そう言うな。これも一つの秩序だと思えば気にもならない」
「それこそ勝手な言い分だ」
 相談屋は小さく肩を竦めて見せた。ケイはそっちを見ようともしない。
 紫の煙が一筋、夜空に飲まれて消えた。
「それで、ケイはこいつをどうしたい?」
「どうもしない。俺は帰って飲みなおす。久し振りにまともに動いたら酔いが覚めた」
「そうか」
 相談屋がサトルを見下ろす。とても暖かな視線で。
「こいつも不器用な奴なんだ。自分がどうすれば良いのか分かっていない」
「知ってるさ。この街にいる奴らはそんなのばかりだ」
「だからこそ、この街にいるべきなんだ。こいつもいつかそれに気付くさ」
「それまで俺はこの男に命を狙われるのか?」
「ケイなら相手にもならないだろう?」
「面倒なだけでも充分に厄介だ」
 カツ
 踵を鳴らし、ケイが背中を向ける。足元に投げ捨てた煙草を踏みつけ、今度は足音も立てずに歩き出す。
「ケイ!お前はどうするんだ?」
 相談屋の投げかけた問いは、酷く抽象的だった。
 ケイは足を止め、夜空を仰ぎ、
「俺のことはどうでも良い」
 とだけ答え、また歩き出した。振り返ることはなかった。
 その場に取り残された相談屋は、倒れているサトルを起こそうか、それとも起きるまで待とうか迷い、結局起こすことにして腰を下ろした。
 朝までは、まだ少し時間があった。

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