終わらない夜


 部屋の片隅に、絵が置いてある。
 どんな絵なのか、持ち主の俺にすら見えないよう、しっかりと布で覆ってある。
 白い布は、脂と埃で変色してしまっている。変色してまで、絵を守りつづける布に、俺は同情する。
 ベッドの縁に腰掛け、缶ビールをあおりながら思う。
 今夜も、どうやら眠れそうにない。

 朝はいつ来るのだろう?
 そんなことを考えてみる。
 太陽は規則正しく昇り、そして沈む。子供でも知っていることだ。
 それでも、俺にとっての朝はまだ訪れない。
 ただ太陽が昇っただけでは、夜は終わらない。
 詭弁だ。誰に言われるまでもなく分かっている。
 子供の理屈と同じで、道理も通っていないし、また意味も分からない。
 朝はまだ来ない。
 太陽が昇り、空が明るくなったとしても……

 この街に流れ着いたのは、三ヶ月ほど前のことだったと思う。
 持ち物と言えば、変色した布に包まれた絵だけ。
 そんな俺を受け入れてくれた、この街。
 部屋を用意してくれたのは、相談屋という義手の男だった。
「ルールさえ守ってくれれば、何でも用意する」
 そう言って、手始めにこの部屋を用意してくれた。
 まるで足長おじさんのようだ。もしくは魔法使い。
 御伽噺などでは、この後には酷いオチが待っている。そして、教訓を読み手に与える。
 俺の人生そのものが物語だとしたら、一体どんな教訓が得られるだろう?
 読み手は一体誰なのだろう?
 相談屋が次に用意してくれたのは、仕事だった。だが、俺はそれを断った。
 金はある。毎日の酒代には困らない程度の金は。
 それに、仕事をするということがどういうことなのか、俺は全く分からない。
 昔のことを思い出すのは嫌だが、俺は今まで仕事ということをしたことがない。
 金に困ったことはあったが、それも一時のことだった。喉元過ぎれば、という奴だ。
 だから俺はこうして部屋の中で生きている。
 この、ヤサシイ街の中に生きている。

 目を開けると、いつものように真っ暗だった。
 時計がないのではっきりとは分からないが、多分夜八時といったところだろう。
 ダルい頭と体をベッドから引き剥がし、浴室まで歩いた。

 街に出ると、通りはそれなりに込み合っていた。
 これから飲む店を決める奴、早くも二軒目に入ろうとしている奴、疲れた顔で家路を急ぐ奴、様々だ。
 俺は、いつもと同じ店を選ぶ。といっても、バーやスナックなどではない。ただの酒屋だ。
 人との接点をぎりぎりまで断ちたい。
 そう思ってしまうのは、ただ臆病なだけなのだろうか?
 この街は、そんな俺にもヤサシイのに……
 一晩分の酒と、適当な食料を買い込むと、逃げるようにして部屋まで戻った。

 そして、部屋の隅を睨みながら、今夜もまた酒をあおる。

 愛した女がいた。
 人生で最良の日々だった。掛け値無しにそう言える。
 そんな日々も、あっけなく終わる。そういうものだ。
 思い出すのは、彼女の最後の姿――

 部屋の隅に置かれた絵。
 過去を封じ込めた石碑のような絵。
 描かれているのは、彼女の姿。
 描いたのは、俺。
 だから分かる。どんな絵なのか。
 あれは……
 最高と、最悪の絵だ。

 彼女をモデルにして描いた絵は全部で十三点あった。
 俺の手元に残されたもの以外は全て、どこかの物好きが法外な値段で買い上げていった。
 そのおかげで俺はこうして働きもせずに酒を飲むことが出来る。ありがたいことだ。
 彼女について思い出すとき、俺はいつも痛みに苛まれる。
 記憶と、意識と、頭の痛みに。
 時には吐き気をもよおすことだってある。そのまま気を失ってしまうことも。
 それほど、俺にとっての彼女は大切で重要で、絶対の存在だった。
 そんな彼女も、殺されてしまった。

 猟奇殺人犯。ただそれだけの単語。
 俺は、その単語を憎む。
 彼女を奪ったからではない。
 俺から、憎しみを奪ったからだ。

 あの日、彼女から「仕事で遅くなる」という連絡があった。
 俺は一人で二人分の夕食を平らげ、いつものようにカンバスに向かっていた。
 彼女は帰らず、俺は眠らずに朝を迎えた。
 ただ、それは朝ではなかった。
 俺にとっては、夜のなお深い時間になってしまった。

 警察から連絡が入ったのは、翌日の昼過ぎだった。
 急いで警察署に向かうと、簡単にこう言われた。
「奥さんは、死にました」
 死にました。包み隠すことのない、そのままの言葉。その分、直接に伝わる言葉。
 彼女の遺体は、綺麗に洗われた後だった。
「通り魔による暴行です」
「直接の死因は出血とショックです」
「奥さんは、舌を噛み切っていました」
「通り魔は、奥さんの死体を暴行したようです。局部の傷に生活反応はありませんでした」
「女性の力で舌を噛み切るというのは、容易なことではありません」
「何度も何度も、舌を噛んだようです」
「通り魔に、必死に抵抗をしながら」
 初老の警官の言葉なんて、頭には入らなかった。
 ただ、彼女は死んだのだ。
 恐怖と絶望の中でも、俺以外の男に触れられることを許さずに。

 彼女は、妊娠していた。司法解剖の結果だった。
 俺は、そんなことすら彼女の口から聞くことが出来なかった。
 犯人は特定出来ていると、警察官は言った。
 俺は犯人逮捕の時を待ちながら、彼女の帰らない家でひたすらに絵筆を持ち、カンバスに走らせていた。
 数日後、警察から入った連絡は犯人逮捕の報ではなかった。
「犯人が、遺体で発見されました」
 俺は――
 憎しみの矛先を失ってしまった。

 絵筆を取りながら頭に描き続けていた、怨嗟の言葉。呪詛。
 それらの全ては吐き出されることなく、俺の中に留まっていた。
「犯人は、連続猟奇殺人犯に殺されたようです。今までと同じ手口です」
 だから何だ?
 俺の中で膨れ上がった憎しみは、どこに投げ出せば良い?
 酒を覚えたのも、この時期だった。

 酔いが回り始めると、俺は部屋の隅まで歩く。
 足取りは重く、それでもしっかりとはしていない。
 世界が回るような酩酊感。自分の殻がふやけたような錯覚。
 手を伸ばす。変色した布に。
 いつものように、俺はその布を剥ぎ取ろうとして、止める。
 いつもと違ったのは、涙が流れ出したことだけだった。

 絵を描こう。憎しみの全てをカンバスに刻もう。
 そして、この一枚を俺の最後の作品にしよう。
 完成したら、焼き捨てて、俺も死のう。
 そう決めて、俺は絵筆を取った。
 一番使った色は、赤だった。

 完成した絵を見下ろして、俺は笑った。
 笑いながら泣いて、こう思った。
「どうして今までで一番の傑作になるんだ?」
 憎しみが、最も強固な感情だと気付き、俺は狂喜した。
 彼女の死体を描いた絵。
 仰向けに横たわり、投げ出されたままの四肢。
 薄く開いた口からあふれ出た血液は、全身を這い上がる。
 瞳に光はなく、顔は絶望と恐怖に凍り付いている。
 乱れた長い黒髪は赤く染まり、血液と頭髪の境界を曖昧にする。
 光の当たらない、酷く孤独な場所で打ち捨てられた彼女の姿。
 どんなイメージよりも鮮明に描き出された、俺の最高傑作。
 どうして焼き捨てることが出来るだろう?
 その絵は、今でも俺の手元に残されている。

 煙草の煙が目に染みて、目の前が滲んだ。
 窓の外では街の明かりが煌煌と輝いている。時々、人の話し声も聞こえてくる。
 その度に俺は、現実に引き戻されてしまう。
 彼女のいない、絶望しか残されていない現実に――

 猟奇殺人犯はあっけなく見つかった。
 二十五人を殺した後、自ら命を絶った。それまでと同じ手口で。
 喉をナイフで裂き、腹を開いて内臓を全て摘出する。取り出した内臓は、被害者の口に詰め込む。
 こうして俺が彼女を失った件はあっけなく幕を下ろした。
 あの警察官は、また違う犯罪者を追っていることだろう。

 彼女の最後を描いた絵を持って、俺は現実から逃げ出した。
 そして、この街に流れ着いた。
 俺の手元にあるのは、彼女の絵。
 彼女の最後を描いた絵と、出会った日の彼女を描いた絵だけ。

 照れたように笑う女だった。
 初めて見たのは、高校の入学式。自己紹介をする姿を見て、一目で恋をした。
 思春期の俺は酷く内気で気弱だったが、恋心を抑えることが出来ず、彼女に想いを告げた。
 一生懸命に描いた、彼女の絵と共に。
 そして彼女は俺の恋人になり、高校卒業と同時に二人は夫婦になった。
 プロの絵描きになれたのは、幸運としか言えなかった。
 それを言えば俺の人生の大半は幸運で済まされてしまうだろう。
 彼女を手に入れ、夢を叶え、幸せな生活を送っていたのだから。
 例えそれが一時の幻だったとしても……

 笑顔を浮かべる彼女と、冷たく固まってしまった彼女。
 俺の手元に残っているのは、彼女だけだ。

 夜。
 俺は夜の中で生きている。
 太陽を最後に見たのはいつのことだっただろうか?
 光を恐れるように生きている、俺。理由は分かっている。
 光は、彼女の笑顔を思い出させるから。
 夜の闇は良い。何も見なくて済む。
 ただそこにある黒にだけ身を委ねれば良い。
 それだけで、全てに蓋をすることが出来る。
 俺に朝は来ない。
 彼女を失ってしまった俺には、二度と朝は訪れない。
 もう、絵筆を取ることもないだろう。
 いつか、部屋の隅にある二枚の絵を焼き捨てる日が来るなら……
 その時は、俺が死ぬときだ。

感想を書き込む inserted by FC2 system