大好きな人


 好きな人がいました。
 彼はとても素敵な人で、私は当たり前のように彼を好きになっていました。
 どこが素敵なのか、それを伝えようとしても言葉がありません。
 私にとって、彼が全てでした。本当に、大好きだったんです。
 ある日、彼は私の隣から居なくなってしまいました。
 私は悲しくて、1週間と五時間泣き続けました。
 兎とお岩さんを足しっぱなしにしたような瞼になって、私は毎日を無駄に過ごしていました。
そして、二年経ってやっと気付きました。
 そうです。居なくなってしまったのなら、追い掛ければ良いのです。
 追いかけて、探し出して、また彼の隣に戻れば良いのです。
 私は、白いスニーカーと手袋とマフラーを買って、小さなスーツケースを片手に出かけました。
 彼を探す旅に。

 ……そして、私はこの街に辿り着いた。
 人込みの喧騒と、濁った色の空。不味い空気に、渇いた顔の人達。もう何日も口をきいていないような気になる、そんな街。
 彼は、この街にいるらしい。彼の友人から聞いた、確かな情報だ。
 どうして彼は私の前から姿を消したのだろうか?その答えだけでも欲しかった。
 そういう理由もあったけれど、もっと重要なことは『私が彼に会いたかった』ということ。
 他の理由は、きっとそれよりも安い。だから、私は難しいことを考えない。考えなくても良い。
 ただ、彼の働いている場所に足を運べば良いだけ。
 昼下がりなのに、既に太陽は夕暮れの色をしている。
 私は、そんな街並みを歩く。黒く汚れたスニーカーで。

 薄汚れた路地の入り口。清潔な通りの出口。二つの通りの狭間にその店はあった。
 “time”という店名が銀色のカッティングシートで表記されている。
 新しいはずなのに、懐かしい。そんな雰囲気のする喫茶店。
 カランカラン……
 レトロな感じのベルが店内に響く。扉の向こうに広がったのは、ありふれた景観。
 どこにでもある喫茶店。だからこそ落ち着く。
 彼は、ここで働いているらしい。
 私は出来る限り自然を装って(席を選ぶような素振りで)、店内を見まわした。
 窓際の向かい席が四つ。二つは埋まっている。カウンター席がニ、四……十一。埋まっているのは二つ。空いているとも混んでいるともいえない状況だろう。
 それよりも、重要なのは店員……
 彼の姿は見当たらない。
 どうやら、まだ出勤していないようだ。もしかしたら今日は休みなのかもしれない。
 それならそれで構わない。どうせ暫くこの街に居座るつもりで出て来たのだから。
 荷物は駅前のコインロッカーに預けてある。寝起きする場所は、適当なビジネスホテルでも借りれば良い。そして、お金が無くなったら戻れば……
 窓際の席に座る。ゆったりとした間隔が心地良い。ソファーの柔らかさも丁度良い。
 私はテーブルの上に置かれた手書きのメニューを見る。
 喫茶店といえばコーヒーが相場。でも私はあの苦くて黒い液体は好きじゃない。紅茶にしよう。
 目的が彼に会うことでも、お茶を飲むのは悪いことじゃない。お冷とお絞りを持ってきた無口で無愛想なマスターにオーダーすると、私は暫くボーっとすることにした。

 好きな人がいました。
 彼はとても優しい人でした。
 私は彼の腕に抱かれ、幾つもの夜を過ごし、幾つもの夢を見ました。
 彼の隣に居る時、私はとても幸せでした。
 今、私は彼と再会するために、この街に来ました。
 住み慣れた町を一人で離れるのは、とても勇気が必要でした。
 でも、彼に会えるのなら、私はいくらでも勇気が出るのです。
 彼は私に気付くでしょうか?私を見てどんな反応をするでしょうか?
 それを考えるだけで、心が弾みます。
 離れていたニ年。私は大人になりました。前よりもずっと綺麗になったはずです。
 彼は、喜んでくれるでしょうか?
 私は、彼を待っています。

 夕暮れが近付いてきた。もう、今日が終わってしまう。
 さすがに紅茶一杯で閉店まで粘る根性は無いので、ホットケーキを頼んだり、紅茶をお代わりしたり、持ってきた文庫本を読んだりして時間を潰した。
 今日は閉店までいよう。そう決めていたから。
 店内にいるお客は、私以外は皆入れ替わった。無口なマスターは、途切れることのないお客の注文を黙々とこなす。その仕草が何だか格好良く見えた。
 きっと、彼もあのマスターのように黙々と仕事に打ち込んでいるのだろう。その光景を思い浮かべるだけで、私は退屈を感じることはなかった。
 路地に面した大きなガラス窓に、夕日が写る。ビルの谷間にゆっくりと沈んでゆく、金色の夕焼け。
 物悲しさよりも力強さを感じさせてくれる、今日の終わり。
 彼はいつになったらやってくるのだろうか?それとも今日は来ないのだろうか?
 もう少し、この席で待っていよう。
 文庫本を閉じて、無口なマスターに紅茶のおかわりを頼んだ。

 カランカラン……
男「マスター、おはようございます!」
マスター「……ああ」
男「今日は同伴っぽい感じで客連れて来ました!」
マスター「……見れば分かる」
女1「あははっ!」
女2「どうもー、お客でーす!」
マスター「いらっしゃい」
男「んじゃ、その辺の席に座ってて。俺着替えてくるわ!」
主人公「浩司君!」
男 改め 浩司「……うわっ!恭子さん!」
主人公 改め 恭子「ちょっと、どういうことよ!」
浩司「わー、待って待って!俺の話を聞いて!違うんだ!この娘達は別に……」
女1「別に、何?」
浩司「いや、その……ははは……」
恭子「笑って誤魔化せる場面だと思う?」
女2「ねー、浩司。この年増誰よ?」
恭子「年増ぁ?」
浩司「わ、待て。お前謝れ!早く!」
女1「だって、もうおばさんじゃん。おばさんは帰って内職でもしてれば?」
女2「あはは!」
恭子「浩司君?これは一体どういうことなのか説明してくれるわよね?」
浩司「……最悪だ……」
マスター「…………」
浩司「お前ら帰れ!今日はここまで!」
女2「えー?どうしてよ?」
女1「仕事終わってからも遊ぶって言ってたじゃん?」
浩司「あー、それはまた今度な。取り敢えず今日は帰ってくれ!頼む!この通りだ!」
女1「分かったわよ……」
女2「またシてね!」
 カランカラン……
浩司「ああ、余計なことを……」
恭子「で、どういうことなのかしら?」
浩司「恭子さん、どうしてここに?」
恭子「どうしても何も、浩司君を探して来たのよ!せっかく出て来たのに、随分楽しそうな毎日を送っているじゃない?」
浩司「それは、その、何と申しましょうか……」
恭子「良いわ。それは後でじっくり聞かせてもらうから」
浩司「じっくり、ですか……」
恭子「仕事なんでしょ?見てるからしっかり働きなさいよ」
浩司「はいぃ……」

 どうしたことでしょう。
 私の好きな人は、変わってしまったのでしょうか?
 私と一緒にいたときの彼は、あんな風に複数の女性をはべらせて歩くような人ではありませんでした。
 それなのに……
 私は悔しくて、悲しくて、涙も出ません。今ほど彼より早く生まれたことを後悔したことはありません。
 若い女のコは、私を物珍しそうに見ていました。彼は、私のことを何も説明しようとはしませんでした。
 彼に裏切られたような、そんな気分です。
 私は彼が大好きで、他には何も必要ありませんでした。それなのに、彼は違ったのでしょうか?
 私は、彼を許せないと思います。

「恭子さん、どうして突然出て来たのさ?」
「恋人がわざわざ会いに来たのにそういうこと言うの?」
「怒らないでくれ……」
 “time”の制服に着替えた浩司君は、少し大人になったように見える。背も伸びたかな?
 相変わらず、お客は少ない。マスターも浩司君を怒ろうとしないで、ただ音楽を聞いているだけ。
 店内の雰囲気はとても穏やかで、良い感じなのに、どうして私だけがこんなにギスギスしているのだろう?
(いや、理由ははっきりしてるけどね)
「逃げるようにいなくなったと思ったら、堂々と浮気?私がそんなこと許すと思ったの?」
「違うんだよ。俺には俺なりの考えが……」
「じゃ、それ聞かせて」
「う……」
 焦っているのか、気まずいのか、おろおろとしているのが浩司君らしい。
 私は、それが妙におかしかった。彼は、変わっていなかったから。
「ふふっ、冗談よ。良いわ、浮気の一回や二回、大目に見ます」
「ホント?じゃあ……」
「でも、許さないけどね」
「ううぅ……」
 紅茶のお代わりを淹れてくれる、浩司君。慣れた手つきが大人の雰囲気を醸し出している。細い指も、白い肌も、綺麗な爪も、何も変わらない……
「せっかくまた会えたのに、喧嘩なんてしたくないのよ。分かってくれる?」
「うん、分かるよ」
「会えて嬉しい?」
「そりゃあ嬉しいよ!」
「そう?」
「うん!昔の恋人が会いに来てくれたのに、嬉しくない男なんていないよ!」
 ちょっと待て。昔の恋人?それじゃあ、今はどうなのよ?
 カップを握っている手が微妙に震えているのに気付かないのか、浩司君はさも嬉しそうに言い募る。
「恭子さん、綺麗になったね!大人の女って感じだよ!さっきの奴らよりずっと魅力的だよ!」
 比較対照が、よりによってさっきの女達?大人の女って、もう若くないってこと?
 こめかみにまで痙攣が移動した。
「きっと素敵な人と結婚したんだね!幸せそうに見えるよ!」
「ふざけないでよ!」
 バァン!
「私がフケたですって?浩司君がいつまでもふらふらしてるからじゃない!それに結婚?貴方以外の男とは手を繋いだこともないのに?私を捨てて女遊びして暮らして、何面白いこと言ってるのよ!」
「ちょ、恭子さん。首は、首は……」
「アンタが急にいなくなるから、私は五歳はフケたわよ!アンタ以外の男なんてイモにしか見えないし、この歳になっちゃえば誰ももらってくれないわよ!」
「ごめんごめん、だから首は……」
「いっそ死になさい!死んで私に詫びるのよ!そして私はアンタのことなんて忘れて老後を猫と縁側で過ごす!」
「具体的だけど凄い飛躍してるし。分かったら、分かったから……」
「はあ、はあ、はあ……」
 一瞬で怒髪天をついたのは、とても久しぶりだ。おかげで少しだけすっきりした。
 青くなった浩司君を解放すると、凝り固まった指を揉み解した。
「全く、余計な体力使わせて」
「死ぬから、死んじゃうから」
 男なのにあれくらいで涙ぐむなんて情けない。ちょっと本気で殺すつもりで首締めただけなのに。
 でも……
 どうしてだろう?こうして少し浩司君と話しただけで、今までの暗い気持ちがどこかに行ってしまった。
 やっぱり、私は浩司君が好きだ。
 胸一杯に広がる、愛情。こんなにも溢れそうなのに……
「マジで、殺されるかと思った」
 何で当の本人がこんな男なんだか……
「ねえ、今夜泊めてくれる?」
「え?日帰りじゃないの?」
「何?嫌なの?死ヌ?」
「やった!恭子さんが俺の部屋に泊まってくれる!嬉しいな!」
 掌を返したように喜ばれると、それはそれでムカつく。
 じー、と重い視線で睨みつけると、面白いようにおたおたした。
「ちょっと、もう首は止めて!死ぬから、ホントに!」
「何もしやしないわよ」
 クスッ
 小さく笑みが洩れた。久しぶりに笑っている自分に気付く。
「取り敢えず、仕事が終わるまでいさせて?ダメ?」
「……そんなカワイく言われちゃ、断れないよ」
「ふふっ」
 まだ、彼は私のことを想っていてくれるのだろうか?
 それを、暫く眺めて確認しよう。

 良かったです。彼は変わってはいませんでした。
 ただ、こうして彼の働く姿を見ていると、少しだけ悲しくなります。寂しくなります。
 彼は変わらずに、それでも立派な大人になりました。うっとりするくらい、素敵になりました。
 私は彼のことを想っていただけで、何も変わっていません。
 そう、何も変わっていないのです。
 彼のコーヒーを淹れる手付きが、とても慣れていることに気がついて、私は時の流れに気付きました。
 何も言わないマスターは、彼を信頼しているように見えます。
 この不思議な街で、彼は自分の居場所と役柄を手にいれていたのです。
 ……私は、寂しくて、悔しくて、彼に抱き締めてもらいたくなりました。
 大人の抱擁をして欲しくなりました。

「ちょっと待ってて。今着替えてくるから」
「はい」
 閉店間際、そう言って彼はカウンターの奥に消えていった。マスターと何か話していたから、早く上がらせてもらったのだろう。客足も引いたし。
 私は飲み物で張ったお腹を押えた。
(ちょっと太ったかな?)
 若い娘に笑われたショックがまだ残っているのか、少し自信喪失気味だ。
 ……今晩、それを確認してやろう。
 夜の街はその不思議な雰囲気をもっと強くしていた。何をしても許されるような、それでも何もしたくなくなるような、そんな矛盾した空気。どうして浩司君はこの街に落ち着いたのだろうか?
(また一つ、訊きたいことが出来たわね)
 本当に訊きたいことは、もっと別のこと。でも、それは本当に知りたいことだから、タイミングを計らなくてはならない。そうでないと、軽く流されてしまうだろうから。
 変わっていない彼の姿と、変わってしまったのかもしれない部分。その両方が私を不安にさせる。
(こんなに好きなのに、ね)
 シュガーポットに話しかけても、当然答えはない。でも、ちょっとは気が楽になった。
 マスターは、何も言わずにレジのお金を数えている。
「お待たせ恭子さん。どこかに寄って夕ご飯食べて行こうか?」
「……あのね、貴方を待ってる間にお腹たぷたぷになっちゃったわよ」
「あー……ごめん。でも、折角出て来たんだから、デートしようよ」
 全く、いつの間に女の喜ぶ台詞を覚えたんだか……。そんな風に言われれば、断る訳にはいかないじゃない。
「良いわ。折角浩司君がご馳走してくれるんだから、美味しいお店に行きましょう?」
「ま、それくらいは覚悟してたよ。お酒、飲むでしょ?」
「ちょっとだけね。もしかして貴方も飲むの?」
「まあ、少しは……」
 また、寂しくなった。そうだ。彼は私から離れている間に二十歳を越えたんだった。
「さ、行こう!」
 座っている私に、ごく普通な感じで手が差し伸べられた。私はその手に引かれ、席を立つ。と、そのまま彼の左側に身体を寄せ、ぴったりと腕を組んだ。胸を押しつけるようにして。
「エスコート、しっかりね」
「任せてよ!」
 右上に見える、彼の笑顔。成長しているのに、どこか子供っぽい。
 彼はマスターに「お先です!」と挨拶して、店を出た。当然、私も離れない。
 もう、離さない。

 この時をどれほど夢見たことでしょう。大人になった彼と夜の街を歩き、素敵なお店でディナーをとる。グラスを傾け、その日に起きた他愛のないことを語らう。
 たったそれだけのことが、私の夢だったのです。
 もちろん、彼とずっと一緒にいることが私の望みです。でも、女の子はいつでも夢を見ているから。
 きらきらと輝く光の下で、大好きな人に抱き締められ、「好きだよ」と優しく微笑んで欲しい。
 こんな歳になっても、私はその夢を諦めずにいるのです。可笑しいでしょうか?
 でも、女の子はいつまでも、夢を見ているのです。

「素敵なお店だったわね。お料理もお酒も美味しかったし、雰囲気も上品だったし」
 夕食を終えて、彼と通りを歩く。夜はすっかり更けて、通りを歩いているのは物静かな空気を纏った人だけ。こうして見てみると、この街も悪くないと思う。少し酔っているかもしれない。
「でしょ?結構評判良いんだよね、あの店」
 “moon”という名前の店だった。地下に下りる階段を指差されたときは本当に困ったけれど、店内はシックな感じにまとめられていて、素敵だった。
「あの歌手、凄かったわねー。こんな街で歌ってるのがもったいないくらい」
 失言だったかもしれない。彼は私を見下ろして、静かに微笑んでいる。
 その微笑が、とても寂しい……
「この街はね……」
 ふっと風が吹いたような気がした。空気が流れたような、言葉の重みが増したような雰囲気。
 彼がそうさせたと気付くまでに、暫く時間がかかってしまった。
「この街は、優しいんだ。どんな過去を持っていても受け入れてくれる。皆が皆を傷付けないように気を配って生活している。本当に、優しい街なんだよ」
 私を見下ろす視線が、とても優しくなっている。
(ああ、そうか……)
 彼の雰囲気は、この街の雰囲気と同じなんだ……
「ねぇ、浩司君はずっとこの街にいるつもりなの?」
「どうかな……でも、暫くはいたいと思ってるよ。そう……傷が癒えるまではね」
「……どういうこと?」
「僕はね、恭子さん」
 気が付くと、彼は私の前に立っていた。いつの間に私の腕から離れたのだろう?
 思えばあの時もこうだった。気が付けば浩司君は私の隣にはいなかった。二年間、私は彼のいない右側に視線を巡らせては、優しい微笑みを思い出していた。
 いやだ。こんな距離は、恐い。
 でも、距離を埋めようとしても足は前に進んでくれない。震えているのは、夜の寒さのせいじゃない。
「僕はね、貴女に相応しい男になりたかったんだ。でも、あの町にいたんじゃあいつまで経っても無理だと思ったんだ」
 何か言うべきだ。分かっているのに、声が出てくれない。
 彼の台詞が、私を釘付けにしている。
 街灯に照らされた、肩のライン。いつの間にあんなに逞しく広くなったのだろう?
 完全に大人の顔。何を見て、何を考えて二年間を過ごして来たのだろう?
 この距離は、二年分の距離。出会って数時間ではまだ埋めることは出来ない。
「あの町を出れば恭子さんを傷付けることは分かってたんだ。でも、僕はもっと良い男になりたかった。恭子さん、お見合いするって言ってたでしょ?それで結婚しても構わないと思ってたんだ」
 彼が私達の町を離れる少し前に、私にお見合いの話が持ち上がった。相手は代議士のお孫さんで、エリートだった。止めようともしない浩司君に対する当て付けで、お見合いを受けた。でも、それははっきりと断ったのに……
「結婚しても、絶対に恭子さんを取り戻せるくらいに、良い男になろうと思ってたんだ。例え十年かかってもね」
(そんなに待たされたら、皺だらけのおばちゃんになっちゃうわよ)
 思っても、口に出せない。彼の姿がとても素敵だから。
 今が、夢のようだから。
「だから黙って出て来たんだよ。でも、時々恭子さんの哀しむ顔を想像して、苦しくなった。戻りたくなったよ。それが僕の傷」
 胸に手を添え、上等の詩を吟じるように言葉を紡ぐ。
「どうして逢いに来たのさ。まだ、僕は途中なのに」
「そんなことない!」
 タッ
 二年分の距離を埋めるために、今一歩を踏み出した。彼の胸に飛び込み、涙を堪える。
 こんなにも、こんなにも私は愛されていた。それに気付かないで、一人で目を腫らして、恨み言を言って、自暴自棄になって……
(バカね、私……)
「そんなことない。もう、充分立派な男の人よ」
 彼の胸に抱かれて、こんなにも安心出来る場所があったということを改めて思い出した。
 聞こえる鼓動は、お酒のせいじゃないだろう。
「それに、浩司君一つ大事なことを忘れてるわ」
 顔を上げる。すぐそこにある彼の顔を全部、視界に納めるために。
「私も、貴方と一緒に歩いて行きたいと思ってるのよ?だからお願い……」
 彼の手が頬に触れた。嬉しい。嬉しくて、泣いてしまいそうだ。
「私も、一緒にいさせて」
 そして、街灯の下で私達は二年ぶりのキスをした。

 キスをしてから、二人の間に沈黙が降りた。でも、その沈黙はとても心地良かった。
 繋いでいる掌だけが会話を交しているような、そんな沈黙。初めての経験なのに、なんだか懐かしいような気持ち。
 多分、ずっと昔、子供の頃はこうだったのだろう。どんな飾った言葉も必要なくて、ただ一緒にいるだけで満たされた、そんな時期の気持ちに戻っている。
 何故か二人共早足になっているのは、きっと……

 パタン
「ちょっと待ってて、今電気点けるから」
 タタタタ……パチ
「…………」
「さ、上がって」
「おじゃまします」
 彼の部屋は、綺麗に整理されていた。実は大雑把な性格の割に、彼は綺麗好きだったりする。
(それも私のせいなんだけどね)
 靴を揃えて脱いで、ひんやりした部屋に上がりこむ。2DKの部屋は、あちこちに風景写真が張られていて、ここじゃないどこかにいるような気がする。写真という小さな窓の向こうに広がるのは、青い海だったり、白い砂浜だったり、西洋の古城だったり、レンガで作られた橋だったり……
 観光地のカイドブックでしか見たことのないような写真が沢山張られている。
「ねぇ、いつのまにこんな写真取ったの?」
「うん。この街に落ち着いてから、実はまだ三ヶ月くらいしか経ってないんだ。それで、その前はカメラ片手にあちこち旅してた」
「一人で?」
「もちろん。言葉も通じなくて大変だったよ」
「すごいわね……」
 どうしよう。この部屋に来て、また彼との距離が開いてしまったような気になった。
「はい、コーヒー」
「あ、ありがと」
 湯気を上げるカップを受け取り、両手で持つ。私は猫舌だから熱いものは飲めない。
「それ、そんなに熱くないよ」
 彼がコクンと大きく一口飲んで、言った。コーヒーはあまり好きじゃないけど、気持ちを落ち着けるには良いかもしれない。折角浩司君が淹れてくれたのだから、飲んでみよう。……本当だ、少し熱いけど、私でも飲める。それに、あまり苦くない。広がった距離が、また縮まった。
 多分、私達はこれからもずっとこういう時間を過ごすのだろう。何となく、そう思った。
 近付いて、離れて、また近付く。お互いがお互いを想っているから、完全に離れてしまうことはない。
 私達は少しの時間、黙ってコーヒーを飲んでいた。蛍光灯に照らされた風景を見て、彼の顔を見て、部屋を見て、コーヒーを飲む。カップが空になると、私達はまたキスをした。コーヒー味のキス。大人のキス。
 彼のベッドは、お日様の匂いがした。

 優しい手付き。温かい肌。懐かしい匂い。大好きな声。私は今、彼に抱かれています。
 一回彼の唇が触れる度に、波紋のような刺激が走ります。私は声を堪えて、彼に身体を委ねています。
 されるままに、したいように、私達は肌を合わせています。目の前が真っ白になっても、彼の姿だけは見失わないように、しっかりと手を繋いで……
 コーヒーとお日様と、彼の匂い。だんだんと遠くなって行きます。
 そして、彼がどんどん近くなって……
 私は、彼と一つになりました。

 久しぶりだったから、身体のあちこちが痛い。もちろん久しぶりということは二年振りということ。私は彼以外には指一本触れさせなかったのだから。
 汗が渇いて、少し寒い。だから彼に肩を抱いてもらった。シーツに包まって、彼の鼓動に耳を傾ける。
 トクン、トクンという心地良い音が、私を赤ちゃんに戻してくれる。
(子供……欲しいな……)
 そうすれば、彼が仕事に行ってしまっても寂しくは無い。大変なのは分かっている。でも、それよりもずっと幸せになれるだろう。幸せを味わっていられるだろう。
「ねぇ、浩司君は私達の町に戻る気ある?」
「んー……もう少し、この街にいるよ。ここにいれば、もっと良い男になれる気がするから」
「浮気はダメよ」
「ははっ、もうしないって。それに、彼女達だって知ってるよ。僕にはたった一人の大好きな人がいるってね」
「……寝たの?」
「……一回だけ」
「嘘。ゴミ箱に使用済みのゴムが大量にあったわよ」
「違うんだ!あれはその……!」
「嘘よ。誰がゴミ箱なんて見るのよ?」
「あ、あの、その……ごめん!もうしないから許して!」
「二年、か……」
 彼の胸に頬を押しつける。
「二年だもんね。仕方ないよね……」
「……恭子さん、怒ってる?」
「ううん。ただ、悲しくなっただけ」
 私の髪に分け入る彼の指。優しくて、可愛くて、愛しくて、どうにかなってしまいそう。
 怒るなんて、できっこない。
「私、この街に住むわ。もちろん貴方と一緒に」
「本気で?」
「もちろん」
「……でも、荷物とか持って来なくて良いの?」
「そんなもの取りに戻ったら、どうせ浩司君逃げるもの。もうずっとここにいます」
「参ったな。みーんなお見通しなんだね」
「浩司君、分かってないわ」
 シーツから飛び出す。彼の瞳を真っ直ぐに見詰めて、私は彼の間違いを指摘する。
「貴方が良い男になりたいのは分かるけど、私の側にいてくれなきゃ何の意味もないわよ。良い男になるんだったら、私の側で、私のためだけに良い男になってよ」
 驚いた顔をして、そして、笑ってくれた。私も笑う。
「そしたら、私だって良い女になるわ。貴方の側で、貴方のためだけに。二人で一緒に素敵になれば、それで問題ないじゃない?」
 離れる必要はない。互いを思い遣るなら、互いの側から離れてはいけない。
 一緒にいることが、一番重要なのだから。
「そうだね。じゃあ、僕は恭子さんのためだけの良い男になるよ。だから、ずっと側で見てて」
「うん。どんどん素敵になってね。私はそれを見て、もっと貴方を好きになるから」
 額を合わせて、微笑み合う。そう、まるで子供のように。
 今、世界は私達を中心に回り出す。どんな偉人も賢者も政治家も、ただのエキストラ。
 二人だけの時間を、私達は生きる。
 私と、私の大好きな人と二人で……

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