風景と、思い出と……


 空が青い。
 昼下がりの街並みは、とても優しく俺の瞳に写る。
行き交う人達の表情も、その全てが笑顔に見えてしまう。
風は無く、柔らかな暖かさが眠気を誘ってくれる。
そんな陽気の街並みを何気なく散策すれば、あの時のことを思い出す。
 苦痛と、苦悩と、絶望と、悲嘆。それでも……
 今は、幸せだ。
 そして、この人生が面白くもある。
 正直、こんな時間に身を委ねることになるとは、考えてもみなかった。
 あの日。あの場所。そして、
 あの人。
 口の端が、意識せずに上がる。とても薄い笑み。
 通りに溢れる誰もが気にも留めない、そんな幸せの笑み。
 日差しがビルのガラスに反射し、俺の目を細くさせる。
 それすらも、何気ない日常の一コマすらも、幸せを実感させてくれる。
 今日のこの日に感謝する。
 昔なら、こんな気分の時にはタバコに火をつけていた。
 現在は休煙中だ。禁煙は出来ない。
 あの人との約束だから。
 あの人=彼女。
 今日の日差しよりも一回り程眩しい、彼女。
 俺の、恋人。
 思い出すのは、あの風の強い日の草原での出来事。
 俺の故郷での出来事――
 
 人生がつまらなかった。
 そして、自分が好きになれなかった。
 未来は闇に閉ざされ、過去は痛みしか俺に与えてはくれない。
 現在は、論外だった。
そんな時、ふと気になっていた場所を思い出した。
 絵に描いたような草原と、胸のスッとするような美味い空気。
 空は近く、でも遠くまで見渡せる、そんな場所。
 面白味のない景色。それこそどこにでもありそうな、つまらない景色。
 でも、それが欲しかった。
 少しだけ、疲れていたのかもしれない。ただ、それだけだったのかもしれない。
 普段なら、故郷のことを思い出したりはしない。そんな、不毛なことはしない。
 でも、何故か思い出してしまった。
 一度思い出してしまえば、もう止めることは出来ずに、俺は帰郷することを決めた。
 つまらない現状を、打破するための切っ掛けなんて、期待もしていなかった。

 今、ここにいる。
(五年……いや、もっとか……ここも変わったな……)
 穏やかな風と、暖かな日差しは変わってはいなかったが、空が青くなかった。
 昔はもっと、真っ青だったような気がして、寂しくなった。
 蒼穹には闇が存在している。そんなことを本能的に感じることの出来る青さが失われていた。
 記憶が改竄されていたのか、実際の年月が空から青を奪ってしまったのか。
 分からない。
(年を取るってことか……)
 白濁とした青空に、紫煙を混じらせる。年を取った、か……
 草の上に直に腰を下ろし、しばらく空を見上げている。
 何を思うでもなく。ただ、空を見る。
 都会では味わえない、贅沢な時間。
(何が悪かったんだろうな……)
考えてしまった。思い返す。つまらない、いや、つまらなくしてしまった人生のことを。
 昔のことばかりを思い出し、今の自分と照らし合わせる。
 あまりの落差と、それに伴なう記憶の痛みに、気が遠くなる。
(年を取るってことさ……)
 皮肉な笑みがこぼれる。そんな笑い方でも、久しぶりの笑顔だ。
 安っぽいが、丁度良いだろう。
 もう一本、タバコに火をつけ、今度はもっとゆっくり吸う。
 ゆっくり吸って、ゆっくり吐いた。
 思えば、何時から俺は喫煙者になっていたのか?
 それすら、思い出のなかの出来事になっている。
太陽は、真上まで昇ってきていた。
 後は下るだけだ。

 俺の生まれ育った町には、何もなかった。つまり、都会にあるような娯楽や享楽は。
 それでも、他のどこにも負けないものがあった。
 それは、青い海と空。
 嫌いじゃあなかった筈だ。
 重要なのは、好きになれなかったこと。
 海があるからといって、夏になれば海水浴客が訪れる訳でもなし。
 空があるからといって、天使がいる訳でもなし。
 そんな取り柄のない町だった。
 ……もしかしたら、俺自身と重ね合わせていたのかもしれない。
 今だからこそ思える。そう、素直に。
 違うか。素直じゃないから、そう思えるんだ。
 都会の生活で擦れてしまった、心と自分。
 人ごみという大きなパズルの一つの欠片。そんな暮らしに馴れてしまったから。
 上達したのは、皮肉と無表情だけ。
 何も変われず、何者にもなれない。
 この町と、同じだと思った。
 誰の目にも写らない、金にならない景色。
 でも、それを懐かしく思い出してしまったのは、何故だろう。
 その日の内に休みを取り、高速に乗り、唐突の帰郷。
 五月蝿いロードノイズに苛立ちながら、車の中で考えていたことは……
 捨ててしまった、過去のことだけだった。

『私、ここの風景が好きなの。理由?
 ここはこの町の縮図だわ。青と緑。
 それだけで描けるシンプルさが、きっと好きなのよ……』

 実家に戻ると、帰って来たという気持ちが高まった。
 でも、それもどこかシラけていて、他人事のように受けとめている“大人”の自分に淋しくなった。
 家が小さく感じられた。
 家というのはそこに住む人達の心境を示すものなのだろうか?
 俺の両親の住む家。実家。
 それでも、きっともう俺の住むべき家ではなくなってしまったのだろう。
 玄関の引き戸が軋みを上げる。
「ただいま」
 予想外に両親の反応は薄かった。
「おかえり」
 出迎えてくれたのは、母さんだった。
 最後の記憶よりずっと老け込んだ母の姿を、直視出来なかった。
「おう」
 父さんは、相変わらずのようだった。
 帰って来たんだ……
 帰って来てしまったんだ。

 そして、あの場所――シンプルな草原へと足を運んだ。

二日目。
 実家に寝泊りしている。上げ膳下げ膳が楽だなんてのは嘘だ。
 気遣いが痛いこともある。
 何も聞かない両親に、何も言えない自分に、心が痛む。
 父さんは、俺の車を見て、「……いいな……」と呟いていた。
 本当に、俺の父さんだよ。
 部屋は、綺麗に掃除されていた。
 ……物置として。
 文句の言える立場ではない。
 誰にも何も告げずに、逃げるようにしてこの町を離れたのは、俺なのだから。
 この町と、あの人から。
 そして、今日もこうしてここにいる。何をするでもなく、ここに。
 風が少し強い。が、それもまた良い。
 雲が流れて行く様が、見ていて飽きない。
 海からの風が、薄まった汐の香りを届ける。
 この匂いは、昔と同じだ。
 不意に、風が止んだ。
「……ここにいたんだ……」
 懐かしい声がした。
 懐かしい声が、大人びた声になっていた。
「……俺はいつでもここにいるよ」
「ウソツキ……」
 影が視界を遮る。一瞬の闇に目をひそめる。
「久しぶり!」
 懐かしい顔が、懐かしい笑顔で、記憶よりも成長した笑顔で、そこにいた。
 あまりにも決まり切ったような再会だった。
 だが、悪くない。
 彼女の長い髪が、サラリと流れた。

 次の日の朝は、彼女の家で迎えた。
「おはよ!コーヒーで良いよね?」
 寝起きは声を出すのもタルい。
 冴えない顔で頷き、布団から身を起こす。
 出された甘いコーヒーに顔をしかめると、
「甘くないコーヒー、飲めるようになったんだ」
 と、言われた。
 その言葉が、あまりにも寂しそうだったので、俺は一日を彼女に捧げることにした。

「へー、車なんて乗ってるんだ?」
 俺の車を見てはしゃいでいる彼女に、少し戸惑う。こんな性格じゃなかった気がする。答えに困って、そんなに人気のある車じゃない、と言うと、
「でも、好きなんだ?」
 そうだな。多分、車と、車に乗ることの両方が。
 自分の中にまだこんな素直さが残っていることに軽く驚く。
 全く……

 その後は、買い物がてらドライブになった。
 海沿いの道を、オープンにしてゆっくり走る。
 良い天気でよかった。潮風が身体全体をほどよく支配する。
 見上げれば、そこにあるのは青い空。この開放感はオープンカーの特権だろう。
 久々の良い気分に、皮肉ではない笑みが浮かび、一瞬で消える。
 一瞬で消えてしまった理由は、彼女の台詞。
「ねぇ、あの公園、行ってみない?」
 彼女からの提案。一瞬どこのことかと思案するが、すぐに察する。
……あそこで俺達は、始めて恋人になって、キスをして、約束をして、そして……
別れた。
女は怖い。それだけを思った。

十分足らずで目的地に着く。
「見て見て!ブランコがちっちゃーい!」
 それでも乗るのか?
 しばらくは子供のように、はしゃいで過ごした。
 子供のように、あの頃のように。
 それが、妙に嬉しかった。
 顔には出ていなかっただろうが……

 日が傾き始め、空が明日の色に染まろうとする。
 黄昏時、とは良く言ったものだ。
「子供の頃ってさ、イヤじゃなかった?」
 何が?
「夕方になって、家に帰るのが」
 でも、皆バラバラに帰途に就いて行った……
「うん。寂しくても、仕方の無いことだってあるよね」
……そうだな。
 でも、次の日になればまた遊ぶ。その次の日も、次の次の日も。
「昔は、それがずっと続くと思ってた。でも、違ったのね。やっぱり私が子供だったのかな?」
……あの時は……
「ううん、いいの。私が悪かったって分かってるから」
 そうじゃないんだ。
「私ね、ずっと謝りたかったの」
「違う!あれは俺が……」
 吸い掛けの煙草が地面を跳ねる。
 彼女が驚きもせずに、じっとこちらを覗っている。
 静寂。
「……逢わない方が良かった……?」
 答えは、見つからない。
 俺が今ここにいる理由も、見つからない。
 答えられない、問い。
「私は今でも……」
「もう、止そう。俺達は、子供だったってことさ」
 彼女に背を向け、搾り出すように紡いだ言葉。
 今はこれが精一杯だ。
 また傷付けてしまうよりは良い。
「逃げないでよ!私は本気で言ってるのよ!逃げて誤魔化さないで!」
 振り返る。意外な言葉に心臓が跳ねあがる。戻ってしまう、あの頃の俺に……
 彼女の長髪が夕日に染め抜かれ、鮮やかに、あの日のことをフィードバックさせる。
 痛み。胸の奥の一番弱いところからの、痛みが俺を苛む。

 十年前のこと。
 雨が降っていた。夏を告げる雨が、シトシトと、物悲しく。
 紫陽花が揺れて、道には傘の花が咲いていた。
「私、貴方のことが大スキよ」
「僕だって……」
「じゃあ……」
 その続きは聞き取るのがやっとだった。囁くように、彼女は言った。
 理解も出来ずに、従った。子供だったから、それが正しいことだと疑わなかった……
 薄闇の中、衣擦れの音の生々しさを遠くに感じながら、緊張に震えている自分の手をじっと見つめていた。
 そして……
 夢中になった。彼女を組み敷き、二人で一つになった。
 彼女の望むままに……
 そして俺は、彼女を捨て、町を出た。
 数年前の、夏の初めに――

「私のこと、今でも好き?」
 昨夜、彼女に訊かれた。こう答えた。
「じゃなきゃこんなことはしないだろ?」
 答えになっていない答え。
素直に言葉に出来ない自分に、哀しみを覚えた。
それでも彼女は満足しているようで、今までで一番優しく微笑んだ。
 正直、失いたくないと思った。

「俺は、本気で愛していた。でも子供だった。考えたんだ、生まれたての小鳥が、始めて見た物を親と思い込むアレかもしれないと。怖かった……
 こんなに愛しているのに伝わらなかった!それを疑問に思った自分が許せなかった。
 だから、ここから離れて、そして泥のように生きて、死のうと思ったんだ」
 偽りのない本当の気持ち。言葉にしてしまえば容易く風に消されてしまうような、儚い祈り。
 それは、自分でも驚くような激しさを伴ない、彼女へと伝えられた。
「愛しているよ……そして、最も憎んでもいる……」
 彼女の頬に手を添える。俺は今、どんな顔をしているだろう?
 彼女の表情は、目に写っていなかった。
その日はそこで別れた。
 もう、会えることはないだろうと思った。

 三日目。
 空を見ている。
 何も考えずに。
 この風景を見たかったから、俺はここに戻ったはずだ。それなのに、どうして彼女は俺を見つけたのだろう?
 俺は、彼女を求めてしまったのだろう?
 後悔と、それに伴う痛みに気が遠くなる。
 彼女はいない。
 もう、来ることはないだろう。
 伝えたかったことは、まだあった。それも後の祭りだ。
 はぁーあ
 特大の溜め息は、草原に吸い込まれていった。
 その日はいつもの倍、タバコを吸った。
 買い置きは、底を尽きていた。

 近くの商店で、タバコを買う。
 見知った顔は見たくない。懐かしさに自分が乱されてしまうだろうから。
 そんな恐怖にも似た感情が嫌で、自販機で買った。
 缶のアイスコーヒーを車のドリンクホルダーに滑り込ませ、自分もシートに滑り込む。
 坂の下を見ると、海が広がっている。
 観光客の来ない、海岸。
 汚れる当てのない、綺麗な海。
 それに価値はあるのだろうか?
 誰の目にも写ることのない、芸術作品のようなものだ。
 全て美しさは、人の目に写るからこそ価値がある。例え、その視線で汚されてしまったとしても。
 ぐるぐる回る思考を収めもしないで、昨日も走った道を走る。
 さして広くもない町を、全て見ようと走り回った。
 あの頃とは違う、感性と視点で。
 物悲しさに支配されながら、ステレオは休みの終わりを告げていた。

 四日目。
 朝食の席で、両親に今日で最後にすると告げた。
 複雑な表情をする母と、「そうか」とだけ答える父。
 ホントに俺の両親だよ。
 
 最後の一日は、やっぱり空を見ていようと思った。
 最後の贅沢。後はつまらない日常に忙殺されるだけだ……
 自分でつまらなくしてしまった、そんな日常が、てぐすね引いて待っている。
 このまま……

「一つだけ答えて。何しに帰ってきたの?」
 空の青に包まれ、夢見心地のところに投げかけられた質問。
 彼女はいつも唐突だ。予兆すら許さない。
「……君に逢うため……」
「相変わらず嘘が下手ね」
「そうかい」
 隣に座る彼女。距離の遠さに歯噛みする。
 吸い込まれ、溶かされてしまいそうな青さに心を奪われる。
 彼女はこの空をどう見ているのだろうか?
「……私の方を見ようともしないのね」
 自嘲気味に呟く。
 眩しいからさ、と言えば彼女は怒って帰るだろうか?
 例えそれが本心だったとしても……
「私は貴方に逢うために来たのに、貴方は違うのね?」
 そうさ、俺は……
 ガバッと起きる。驚きもしない彼女。思えば彼女を驚かせたことは一度もなかった。
 悔しくなって、強引に唇を奪った。精一杯の自己主張。
「迎えに来たんだ、君を」
 はっきりと、強い口調で、本心で、告げた。
 その後の彼女の反応があるから、今の俺は頑張れる。

 大粒の涙を流しながら、俺に抱き着いて、一言。
 
 ありがとう。

 ははっ。悪くないな。こんな決着のつき方も。
 ああ、悪くない。そう思った。
空の青さが、心を青くしてくれた。
 青く、戻してくれた。
 この風景と、今日までの思い出に感謝して……
 これからを、二人で歩こう。
 この、青い空の下を……

 今、彼女は俺の隣にいる。
 一度、「幸せか?」と訊いたことがあった。
 にっこり笑って「幸せよ」と言うような女じゃあない。
 それは予想していたが、反応はその上を行っていた。
 彼女はこう答えた。
「まだまだ、貴方の居なかった間の苦痛を消すほどじゃあないわね」
 つまり、もっと努力しろ、というのだ。
 まだまだ、人生には先があり、様々なドラマが俺達を待っているのだから、と。
 俺は思う。何でも無い日常が、本当は一番大変なんじゃないか、と。
 それを、守り続けようとする人。
 それを、打破しようと努力する人。
 どちらも大差はないだろう。
 どちらも、大切なものを見つけるための道なのだから。
 今、目の前に広がる風景は、雑踏と切り抜かれた青い空。
 でも、何も悪いことなどない。そう思う。
 俺は勇気を出し、彼女はそれを待っていた。
 無償の愛情、なんて分かりずらいものなんかじゃなく、お互いに幸せという状況を与え続ける関係。
 その関係が欲しかったのだろう。
 そして、今日も彼女は俺を待っている。
 いつもの場所、いつもの笑顔、いつもの声で。
 それが、今の風景。
 だが、これもいずれは思い出へと昇華されてしまうだろう。
 その時の幸せを、今はただ祈ろう。
 あの日の、風景を胸に抱いて……


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