月を見る


 月が好きで、夜空を見上げていることが多かった。
 十六歳から十七歳にかけて、僕はこの部屋の中だけで生きていた。
 それでも、扉を開き一歩外に出れば、世界は広がっている。
 左手には川と橋。右手には街と山。僕の部屋はたった七畳半しかなかった。
 誰も訪れることのない、空気すら通り抜けることを拒否していた部屋。
 昼と夜が逆転してしまうまでには、そう時間はかからなかった。一ヶ月といったところだろうか。
 一日の睡眠時間は徐々に短くなり、三ヶ月後には不眠症になった。
 それでも構わなかった。
 何もすることはなく、何をしようにも僕の回りには背の高い柵が建てられていたのだから。
 つまり、現実という柵だ。
 本当にやりたいことがあった。その頃はそう思っていた。
 自分の口から外に出すこともなく、ただ胸の中だけでそれを噛み締めていた。
 噛み締め続けて、やがて噛み切ってしまった。
 望みはいつも叶うことはない。
 本当の望みは、叶えるもの。受動的でなく、能動的なものだ。今はそう思っている。
 あの頃の自分は、どこに行ってしまったのだろうか?
 きっと、僕の奥深くに隠れ、今でも一人で掌を見つめているのだろう。
 それくらいしかやることはなかったのだから。
 月を見ていた。満月からだんだんと欠けて行き、やがて消える。
 新月の夜はとても暗くて、僕は星を見ることすら恐ろしかった。
 そしてだんだんと月が満ちる。
 そんなサイクルをじっと眺めていると、自分を取り巻く時間が流れるのを止めてしまったかのような錯覚に陥った。
 錯覚だ。それ以外の何物でもない。
 時間は流れ続け、春になって僕は一つ歳をとった。
 十七歳というのは、節目だと思っていた。
 それすらただの錯覚で、一人よがりの思い込みでしかなかった。雨が降り続け、夜空に月が見えない。
 銀色に冷たく輝く月が好きだった。
 金色に温かく輝く月が好きだった。
 穴の開いた暗幕で太陽を遮ったような夜空。
 月は僕にとって、変わらぬ夜の出口だった。
 それすらも、偽りでしかない。また月日は過ぎて行く。
 雨粒を見ているのも好きだった。
 というより、雨粒くらいしか見るものがなかった。それと掌。
 何も考えずに、途切れることのない雨を見ていた。
 そして僕は、仕事を始めた。
 立ち上がり、部屋から出ると友人は歓迎してくれた。
 友人の家族は僕を受け入れてくれ、僕は新しい家族と新しい生き方を見つけた。
 それは、意を決して学校を辞めた人間の生き方ではなかったが、もうどうでも良かった。
 『何とかする』と言ってはいたが、何をどうするつもりだったのだろうか?
 僕の家族は、血の繋がっていない家族。それは今でも変わることはない。
 忙しさに身を任せているというのは、実は楽なことだ。
 何も考えなくても良いからではなく、自分に言い訳が出来るから。
 何もかもを仕事が忙しいせいにして、逃げることが出来るから。
 仕事に熱中していたのではない。仕事に熱中しているつもりになっていただけだ。
 こんな話がある。

 ある女詐欺師が男の財産が目当てで近寄る。
 気に入ってもらうためにあらゆる努力をするが、いつしかそれが演技なのか本心なのか分からなくなってしまった。
 結局、二人は普通の夫婦になった。

 熱中している気になっていると、いつしか本当に熱中してしまう。
 そうなると、それが本心になってしまう。
 本心になってしまってからは、『俺にはこういう生き方が向いている』と思い、そういう道に進んだ。
 会社を変え、より仕事に打ち込める環境へ。
 でも、本当に大事だったのは、適性でなく意欲だった。
 なりたいものがあるなら、たとえ不適応と断じられても命を費やすべきだ。
 十八の僕は、それに気がつかなかった。
 十九になり、また会社を移る。
 もっと、もっと本気で仕事を出来る場所に。
 より具体的には給料の良い会社に。もらえる金額だけ、自分の価値が上がったつもりでいた。
 それは幻。ただの張子。全ては崩れ去り、僕はやりたいことをやるようになった。
 文章を書くようになった大きな理由の一つを話そう。
 ある日、仕事先の先輩が荒れていた。
 僕はその先輩を車で送り届けることになり、恐る恐る運転席に座った。
 彼はこう言った。
 「死にたいか?」ハンドルを対向車線に思い切り切られた。
 僕は慌てて姿勢を立て直し、何とか事故だけは避けた。
 僕は何故そんなことをされなくてはならないのかが全く分からなかった。彼の言い分はこうだ。
「俺の陰口言ってただろ?文句があるなら面と向かって言え。言えないのなら何も言うな」
 彼は粗雑な容姿と言動の割に、非常に頭が良かった。乱暴な言葉で、理屈を並べた。
 困ったのは、それのどれもこれもが正しかったことだ。
「誤解です」僕が言った。
「ただ、先輩の機嫌が悪かったからどうしたのか皆で話していただけです」
 怒るより、怒られるより、気持ちが通じないのが悲しかった。僕は前を向いて、しっかりとハンドルを握る。
 その一言が彼に通じたのか、彼は大人しくなった。
 そして、相変わらずの口調で自分の哲学を僕に語ってくれた。
 この件の教訓は、「本気で話せば通じる。陰口では届かない」だった。
 文章を書くきっかけになったのは、その人の言葉から。
「お前は何かやってること無いのか?」
 僕は少し考えた。
「文章を書くくらいしか……」
「凄いじゃないか」
 彼が本心からそう言ってくれたので、僕は今でも文章を書いている。
 その件の一ヶ月後、僕は会社を辞めた。
 その先輩とはそれきり会っていない。
 彼は今の僕を見ても凄いと言ってくれるだろうか?分からない。
 本当のことを打ち明けると、僕はその時まだ文章を書いていなかった。
 書こうとすら思ってはいなかった。
 ただ、ふと頭を過ぎったので口にしてしまっただけだ。陰口も言っていた。
 要するに、僕はその人に対して何一つとして本当のことを語りはしなかったのだ。
 その全てを償うために、僕は文章を書いているのかもしれない。
 陰口を言わないようにしているのかもしれない。
 はっきりとは分からないまま、僕は文章を書き続けている。
 さて、十七歳で仕事を始め、二十歳で文章を書き始めるまで、僕は一度も夜空を見上げなかった。
 理由は分からない。
 ただ、見上げる必要がなかったからだろう。
 僕の隣にはいつでも誰かがいたし、夜は遊ぶか女を抱くかしかしなかった。それが夜だと思っていた。
 二十歳の夏、僕は何故か文章を書き始めた。
 どうしてだろう?
 熱でもあったのかもしれない。
 格好をつけてみたかったのかもしれない。
 優越感を感じたかったのかもしれない。
 一つだけはっきりとしているのは、書きたくて書いたのではないということ。
 それでも、文章を書くということは僕に鮮烈な刺激を与え、一瞬で虜にした。
 僕は文章を愛してしまった。
 そんな夜、空を見上げると月が浮かんでいた。夜空の出口。冷たく輝く銀の月。
 雲一つ無い闇を引き裂く、ミントのキャンディー。
 僕はまた、月を見上げることを覚えた。
 思い出す。十五歳の冬、友人達と夜道を歩いていた時のことを。
 その夜も満月が山の上にぽっかりと浮かんでいた。
 僕は言った。
「月には兎が、本当に、いるんだよ」
 友人達は静かに次の言葉を待った。
「その兎に会うことが出来ると、幸せになれる」
 それで終わり。
 普段の僕とは違うイメージの台詞に、誰もが暫く黙っていた。
 一人の友人が言う。
「メルヘンだね」
 彼とはそれから数年兄弟のように過ごしたが、その後連絡が途絶えた。
 彼が婿養子に入ったのだ。僕は祝福の言葉すら言うことを許されなかった。
 月を見る。工場の駐車場で、山道で、川辺で、橋の上で、部屋の前で。
 雲に隠れても輝く月、車のサイドミラーに映る月、学校の窓ガラスに映る月、黒いはずの夜空を蒼く染め上げる月。

 月を見ている。


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