休日
休みを取った。
理由なんて無い。あるとしても、それは後からつけたような中途半端なもので、意味なんて無い。
足りない言葉を連ね、下手な言い訳をするよりは、ただ「休みたいから」という理由の方が頷けるだろう?
もちろん、会社はそんな漠然とした理由は認めない。余りに余った有休を消化することすら「勿体無いから」という理由では認めてくれないのだから。
それが社会のルールというか慣例というかなのならば仕方ない。俺はそれに逆らう気力も無いので、仕方なしに「私用がある」という取って付けたような理由で休みを貰った。
布団の温もりに身を委ねたまま、夢見心地の意識で考える。
今日一日、何をして過ごそうか?
良い天気だ。風もさほど強くない。取り敢えず俺は布団を干した。これで昼過ぎ頃取り込めば、今晩はお日様の匂いと一緒に眠れるだろう。
そう広くない庭で、大きく伸びをする。凝り固まった体がバキバキと不穏な音で軋む。
決めた。散歩でもするか……
俺が思うに、休みだからどこかへ出掛けるとか、何かをするかというのは少し勿体無い。
折角の休みなんだから、休まなくては嘘だ。
身体を休めるのも良いし、心を休めるのも良いだろう。
俺は心を休めるために、多少の体力を費やすことにした。
散歩用の少しラフな服装をして、家を出た。
夏を目前に控えた今日。鬱陶しい梅雨空からやっと開放され、街並みも多少明るさを取り戻しつつある。一年越しの季節を予感させる明るさを。
行き交う車もすれ違う人も少ない。
当面の目的地は、川原の公園だ。意味もなく訪れるには健康的だろうと踏んでの決定。まだ優しい日差しが、俺のシャツをより一層白く見せてくれている。
背筋を伸ばし、一定の歩幅で、リズム良く。これが散歩の極意だ。自分のペースで歩いていると、世の中がどれだけ早足で動いているのかが良く分かる。もちろん時計はしていない。
喧騒から遠ざかるほどに、つまらない考えが頭を過ぎって行く。
考えるのは、つまらない失敗のことだった。
俺はいつまでもここにいられる訳じゃない。それは分かっていた。
いつの日か、この街を出て行く時が来ることを知っていた。
でも、少しくらい甘えてしまっても良いじゃないか。
……何の事は無い。少し、落ち込んでいるだけのことだ。
具体的なことは言いたくない。落ち込んだ今の気分を更に落ち込ませることになるから。
ふと気が付くと、視線は靴を追いかけていた。
溜め息で視線を跳ね上げ、煙草に火をつける。予期せず吸い込むことになった初夏の空気は、実に旨かった。これが休みの醍醐味だ。
少しだけ、少しだけ俺は歩幅を広げた。あの坂を下れば、河川敷だ。誰もいない公園で、ゆっくりと過ごそう。
ベンチは雨に濡れていた。強引に座ってやろうかとも考える。
服が濡れるのは気持ち悪いので、即却下。そのまま公園を抜け、俺は川縁へと移動した。
暫く続いた雨で増水した川は、それでも濁ってはいなかった。
所々に頭を出している岩が、健気にも流れに耐えている。ヤツ等は強い。誰にも注目されることはないが。
俺は確かに人との接触を断ってはいない。だが、断ちたいとは常々考えている。それが分不相応な願いだとしても。
何と言うか、一人でも生活出来る程度には大人になりたい。年齢的にはもう充分に大人だが。
成人の証でもある煙草をもう一本。
川のせせらぎを聞きながら、適当な岩に腰掛ける。色々なことを考えるが、その全てがひょっとしたらどうでも良いものなのかもしれない。
俺がどんなになっても、この川は流れ続けるのだろうから。
姿を変え、何億の月日をかけ大地を削り、泥も涙も飲み込み、流れるのだろうから。
そう、俺がこの街から出て行ったとしても……
川のせせらぎは、この星の脈拍。
全身を隈なく巡る、生命の証。
一瞬とて止まることは許されず、絶えず自分を変え続けている。
そんな姿が、とても眩しく感じられる。
それは初夏のお日様のせいかもしれないが。
穏やかな日だな……
この穏やかさは、何によって支えられたものなのか?
休日の持つ雰囲気なのか、それとも初夏のお日様のせいなのか。
多分、どっちも当りでどっちも外れなのだろう。
川原に横になって、空を見ている。
背中に当るごつごつとした石の感触は、お世辞にも快適とは言えないが、それでものんびりと時間を浪費するのには適した環境だろう。
うっすら白く濁った青空に、真っ白な雲が千切れて浮かんでいる。
ぷかぷか、ぷかぷか。
そんな音が聞こえてきそうな雲が、穏やかな風に流され、姿を変えている。
ぷかぷか、ぷかぷか。
腕を額にのせ、日よけの代わりにして、俺は思った。
自分を変えることは、もしかしたら簡単なことなのかもしれないと。
雲はあんなにも容易く姿を変える。
川は迷うことなく下流へと流れる。
お日様は俺を照らす。
風は穏やかに時間を流れる。
俺は、ここでぼーっとしてる。
簡単だけど、難しい。そんなことばかりなのだろう。
変わるのも、変わらないのも難しい。
ここに居続けるのも、ここから離れるのも簡単だ。
また雲が形を変えた。あの雲は昔育てていたサボテンに似ている。あれは今履いている俺の靴だ。
俺がここを離れたら、入れ替わりに誰かが来るのだろうか?
全く脈絡の無いことを考えながら、暫くこうしていることにした。
まだ昼までは時間があるだろう。
昼飯は、何を食べようか……
休日の過ごし方。
そんなマニュアルがあるとする。
例えば、それには余暇を有意義に使うためのノウハウが記されている。
誰もが「ああ、良い休日だった」と思えるような行動が提示されているマニュアル。
もしもそんなものがあるとするのなら、俺も是非一部欲しいものだ。休みを有意義に使うのは、大人の証明のような気がするから。
昼飯は家に帰って適当に作った。夏真っ盛りの時期ならば冷えた麺類などが欲しいところだろうが、今はまだそれほどまでには暑くない。それに、仕事をしていないとどうも食欲が湧かない。そんなものだろう。
有意義な時間の使い方というのは、人間が文化的に進歩を遂げた時代からの大きな課題だ。俺はそう思っている。
特に現代社会では、時間を売ってお金を買っている。そのお金でまた時間を買い、ささやかな楽しみを得ているのだ。
それが間違っていることなのかどうかは俺には分からない。俺もまたそのシステムの中にいるのだから。
それならば、折角買った休日という時間を有意義に使うためのマニュアルくらい、とっくの昔に出来ていたといても不思議は無いじゃないか?
どうしてそれが無いのかというと、それはきっと……
世の中に捻くれ者が多いからなのだろう。
窓を開け放ち、居間の空気を入れ換える。湿気の残った部屋では、気分が休まることはないだろう。湿気が与えてくれるのは、憂鬱と陰気とカビくらいのものだ。
庭木が微風に吹かれ、揺れている。そうだ、水を撒こう。長雨の後では必要ないかもしれないが、それでも長いこと庭の水撒きという楽しそうなことをやっていない。これは俺の失策だ。
時計はまだ今日の残りが充分にあることを教えてくれた。
昼下がりの太陽は、幾分色づいて見えた。
お日様に照らされ、庭木は木の葉一枚までが喜んでいるように見える。
静かに揺れる様さえ、休日を彩る一つのエッセンスとなっている。
普段は使うことのないホースを引っ張り出して、蛇口に繋げる。加減しながら蛇口を開くと、水は光を照り返しながら、庭に小さな水溜りを作り始めた。
さあ、水撒きを始めよう。
ホースの先端を軽く握り、水圧がかかるようにする。必要以上に上を向け、局地的な雨のように庭木を湿らせる。
虹でも見えれば更に楽しいのだが、角度の問題か、どうしても見えない。
これだけの日差しがあれば充分に見えるはずなのに。
そう言えば虹はどっちが赤でどっちが青だったのだろう?
……思い出せない。というか、憶えてもいないのだろう。
決めた。虹を見るまでは、絶対に水撒きを続ける。
子供じみたことを考え、俺は虹作りに集中した。
光り輝く雫は、庭木の葉に等しく舞い降りている。休日はまだ終わらない。
濡れた服を着替えるために、俺はシャワーを浴びた。
結果から言うと、虹は確認出来た。かなりの体力を消耗することになってしまったが。
実験結果は、弧の内側が赤で外側が青ということになった。
……多分。
そろそろ虫達が騒ぎ始めた。夕方の朱色の日差しが、浴室の窓から飛び込んで来た。
後やっていないことは……
そうだ。夕涼みでもしよう。
冷蔵庫で冷えているビールでも片手に、縁側で夕焼けを見よう。
そうと決まれば話は早い。
肌の水気を拭うのもそこそこに、俺は脱衣所を飛び出した。
気が付けば、もう夜が始まっている。
どうやらあのまま寝てしまったらしい。
縁側でビール片手に見た夕焼け。必要以上の水撒きで奪われた熱気は、涼気となって火照った体を撫でてくれた。
遠く、微かに聞こえる街の喧騒と、穏やかな一日の終わりを目にして、俺は最高の気分を味わえた。
そうだ。俺はもしかしたら、今日一日ずっとこう言いたかったんじゃないだろうか?
「今日は良い休日だった」
そう、一言で一日を締めくくって、平凡で辛いが、それなりに楽しい日常に戻って行きたかったんじゃないのか?
そうかもしれない。でも……
半端な睡眠は、俺から睡魔を遠ざけてしまったらしい。
時刻は夕食時を少し過ぎた所だ。さて、まだ今日は終わらない。どうしよう?
取り敢えずは、夕食でも食べるか。
虫に刺された足をボリボリと掻きながら、笑える格好で台所へと移動した。
夜気が家を包む頃になり、俺は窓を閉めた。
気温はまだ高いので窓を開けていても構わないだろうが、明日の朝のことを考えると、閉めておいた方が良いだろう。
まだ朝方は冷える。
朝方の冷え込みが薄れれば、本格的に夏が訪れる。二十年以上生きて、やっと分かったことの一つだ。
外は真っ暗になり、街の喧騒も穏やかになった。
今日がもうすぐ終わるからだろう。
明日は仕事だ。そう考えるとどうしても憂鬱になってしまうが、こればかりは仕方無い。
どんな仕事でも、仕事は仕事。働く場所があるだけラッキーだから。
それに、自分で選んだ仕事だ。良いことばかりとは行かないが、それなりに望み通りには人生回ってくれている。
思春期の頃の俺は、将来の展望を何も持たない男だった。
それでも、必死になって考えた結論が、今の俺だ。
憂鬱になってしまっても、概ね良好だから、逃げてしまおうとは思わない。
最後に残った窓は、寝室の出窓。
そこからは橋が見える。
オレンジ色の街灯が、虫を集めているのが遠目に覗える。
何だか、落ち着く風景だ。
きっと、子供の頃に見た風景とイメージが重なるからなのだろう。
子供の頃は、何も願わなくとも日々が楽しかった。その安息が甦るからなのだろう。
出窓から音も立てずに忍び込む微風が、身体を柔らかく撫でる。
ああ、今夜も静かで良いな……
夜空には、星が見える。一等星の大きな光が、俺の網膜に痕を残す。
心が穏やかになってゆくのを、嬉しく思う。
今日はとても良い休日だった。
そう、迷わずに言える。
これから、また慌ただしい日々が俺を翻弄するだろう。
様々な出来事が降りかかり、時には打ちひしがれることもある。それは間違い無い。
でも、時々こんな風に素晴らしい休日が過ごせるのなら、それだけで上々だ。
日々は、こんなにも緩やかに流れ、同じ時はない。
そんな当たり前のことを忘れずにいられるのなら、それだけで……
出窓を閉め、カーテンを引く。夜の世界と隔絶された部屋の中で、軽く瞳を閉じた。
さあ、明日は仕事だ。
もう一度気合を入れ直して、日々精進を重ねようじゃないか。
なあ、俺よ!
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