歌を歌おう


『歌を歌おう君のために』

 僕は、僕のために歌を歌った。それがそもそもの間違いだった。

 初めて歌というものを聴いたのは、多分子守唄じゃないかと思う。

『ゆりかごの歌はカナリヤが歌うよ』そんな歌だ。

 初めて歌った歌は、良く分からない。気がつけば、僕は歌を歌っていた。

 悲しいときも、嬉しいときも、楽しいときも。一人のときも、大勢のときも、夢の中でも。

 憧れたのは、ステージの上で観客と一つになって歌う、あの曲。その時、その瞬間、その場所でだけ味わえる、最高の快楽。僕も味わってみたかった。その願いは、きっと叶わない。

 青春という誰にでもある輝かしい日々を振り返ると、三つのグループの歌がメインになる。誰もが聴き、誰もが歌った歌だ。特に珍しくはない。

 ただ、彼らに対する思い入れだけは誰よりも深かったと思いたい。そう、歌を聴くだけで、涙が溢れてしまうほどに。

 涙が溢れてしまうのは、その歌に付随する記憶がそうさせるからなのかもしれない。

 初めて好きな人が出来て、僕は好きな歌でその気持ちを伝えた。子供心に、それが最高だと思ったから。でも、それは僕の言葉ではなくて、彼らの言葉だった。当然、僕の思いは通じなかった。

 歌を歌った。悲しくて、悔しくて、振られた理由が分からなくて、それでも好きで、歌を歌った。

 喉がかれ、声が一段階低くなった。

 恋の歌がとにかく好きで、切ない気持ちを湧き上がらせるフレーズを求めた。求めるだけで、生み出そうとはしなかった。そんなこと、思いつきもしなかった。

 今、一人きりの夜に口ずさむ歌は、全て適当な歌だ。歌詞も適当、メロディも適当。二度とその歌を歌うことが出来なくても、僕は楽しい。

 僕が僕のために歌った歌。誰かに好意を抱いてもらいたくて歌った歌。その曲を創った彼らは、そんなことは望んでいなかったはずだ。僕は彼らの作品を汚してしまったのかもしれない。

 僕は、歌の本質を歪んで捉えてしまったのかもしれない。

 だから僕は歌う。今度こそ、誰かのための歌を。たった一人に伝えたい、僕の言葉で綴られた愛の歌を。

 そんな僕の隣には、今となっては誰もいない。友人は皆幸せそうに誰かと一緒に街を歩いている。僕だけがこの部屋の中で誰に届けるあてもない歌を歌い続けている。

 曲に付随する思い出。そこにはいつも、彼女がいた。僕が初めて愛した人。それは十八歳の日々。

 彼女の好きな歌を、僕は良く聴いた。僕はその歌が好きになった。彼女は僕の歌う歌を好きだと言った。僕は彼女が喜ぶから、あの歌を歌った。でも、それは本当に彼女のためだったのだろうか?違う。僕はあの頃、誰かのために何かをするという発想が欠落していた。ただ、自分のためだけに生きていた。そんな中で愛していたと言っても、それはただの欺瞞だ。愛しているという言葉は、誰かに愛されている自分に向けられていたのかもしれない。自分で自分の考えていたことが分からない。ただ、あの頃の僕は間違っていた。

 彼女は歌う。不思議な歌を。僕はその歌を覚えて、彼女の前で歌って聴かせた。彼女は笑って、こう言った。「歌、本当に上手だよね」誰かに誉められることは子供の頃からずっと好きで、そのために幾つもの嘘で現実を塗り固めて来た。事実を真実まで貶めていた。

 事実というのは、ただあったこと。そこには誰の意志も立ち入る余地はない。手を加えることの出来ない、神聖なものだ。真実は違う。真実とは、人の数だけ存在している。そんなものに価値はない。誰の真実なのか、どんな真実なのか興味はない。事実は、たった一つだけ。過ぎ去ってしまったことだからこそ、尊い。

 そして、僕は彼女と別れた。最後まで彼女のために歌を歌うことはなかった。

 歌を聴いている。青春という輝くべき時代に流れていた、懐かしい歌を。僕はそれに涙する。自分がどれだけ愚かだったのか、自分がどれだけ無駄な時間を生きていたのかを実感して。

 いつか、そんな感情の全てを捨て去って、本当に純粋なままの気持ちで、あの曲を聴くことが出来るのだろうか?あの歌を歌うことが出来るのだろうか?君のために。僕のために。

 新しい歌は増える。古い歌は忘れ去られて、記憶と共に砂に堕ちる。

 僕の歌う歌は、今変わった。激しく哀しい歌から、穏やかで幸せな歌へと。これは、僕が変わったからだと思っても良いのだろうか?

 僕は、少しはマシな歌が歌えるようになったのだろうか?

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