映画を見る
僕がまだ自動車免許を持っていなかった頃の話だから、多分十八の夏くらいの出来事だったと思う。確かそのくらいのはずだ。移動手段に電車を使った記憶があるので、間違いは無いと思う。
デートに誘った。前日の夜に電話をして、「映画を見に行かないか?」と。相手は中学からの友達で、恋人にしたいと何となく思うような相手だった。恋人にしたいとは思ったが、本気で付き合いたいと思ったことはなかった。あったかもしれない。でも、それは大抵の場合僕が僕を取り巻く現実に打ちのめされた後のことだったから、カウントには入れたくない。結局、彼女は僕の恋人になることはなかった。
彼女は身長がとても低かった。僕よりも二十センチ以上低かった。それでもスタイルは悪くなく、僕は何度かそういう目で彼女を見たことがあった。その彼女の体を想像しながら他の女を抱いたこともあった。最低だ。でも、今となっては過ぎ去ってしまったことでもあるし、その当時は自己嫌悪の海の中で難破寸前の小船のような人生を送っていたので、さして問題ではない。問題はもっと根底に根ざしていて、解消するには一旦僕の中の全てをフォーマットしてしまうしかなかった。
ともあれ、彼女は小さくて、それでいて物静かだった。物静かではあったが、自己主張ははっきりとしていて、一人で物事を考え、決めることの出来る類の人間だった。そういう意味では、僕は彼女に特別な感情を抱いていた。嘘じゃない。
街を歩いた。
「今日はどんな映画を見るの?」彼女が言う。「流行りのヤツだよ」僕は彼女の歩調に合わせ、ゆっくりと歩いていた。それは普段のペースよりもずっと遅く、どこか窮屈な感じだった。それでも、心の中は温かな炎が揺らめいていた。オレンジ色に揺らめき、内側から暖めてくれた。
「隕石が地球に落ちてきます。さあ、どうしよう?」僕はおどけて言った。彼女はそんな僕の仕草をさして気にも留めず、相変わらずの歩調と、上を見上げるような視線で答えた。
「あれ、面白そうだよね」「そうだね。面白いと良いね」本心だった。折角お金を払ってまで見るのだ、面白くなくては浮かばれない。二人分の映画代と飲食代。働いていたのでその程度の余裕はあったが、お金は幾らあっても足りないし、節約出来るならそれに越したことはない。重要なのは、それを相手に悟られることなく実行することだ。「ケチ臭い」などと陰口を叩かれてしまっては、僕が浮かばれない。最も、彼女の方も勉強の片手間にバイトをしていたので、多少の実入りはあっただろう。そう言っていた。自分でお金を払いたがる女性というのは良い。夜に長居しない女性と同じくらいには躾が行き届いていると思う。
映画館に行くと、当然の如く上演時間丁度ではなかった。そういうものだ。電車の時間に合わせて上演時間を調整してくれる映画館があるのなら、それはサービスが行き届いていると思う。
仕方なく、僕らは手近の喫茶店に入り、他愛の無い話をしていた。
「ねえ、君って良い匂いするね」と彼女がアイスティーをかき回しながら言った。店内は僕らの他には客がいなく、BGMもかかってはいなかった。充分だった。
「ああ、ムスクだね」と僕。「安物だけど、何となく気に入っているから」
「学校でその匂いかいだことがあるよ」
「多分、その人は僕と同じ趣味の人なんじゃないかな。もしかしたら友達になれるかもしれない」
あり得ないことだ。僕は元来、社交的な性格ではないのだから。
「どうしてコロンなんてつけるの?」
「この匂い、嫌い?」
「そうじゃなくて、何かあるのかなって」
「別に何もないけど、身だしなみみたいなものだからね」
「ふーん」
アイスコーヒーをグラスから直接飲んだ。いつもこうだ。女性と差し向かっての会話は、落ち着かないものがある。それを誤魔化すために格好をつけたり、必要以上に多弁になったり、何杯ものコーヒーを飲んだりする。それでも彼女達が僕から離れていかないのは、多分同情しているからだと思う。可哀想な僕。
「ところで……」
彼女が一度言葉を区切って、質問をした。その区切り方は、はっきりしている質問をより簡潔に纏め上げるには必要なことだったのかもしれない。どっちにしろ、僕は落ち着かない気持ちのままでいた。
「仕事、ちゃんとやってる?」
「ああ、もちろん」
「そう……」
彼女の言いたいことは分かっている。学校に戻って来いと、そう言いたかったのだろう。
僕は高校を一年通わずに自主休学していた。つまり、サボっていたのだ。一日中部屋に閉じこもり、何をするでもなく掌を見つめていた。そして、十七の夏前に仕事を始めた。近所の会社で現場作業をしていた。何の事は無い、ただの肉体労働だ。
彼女は他の同級生がそうするのと同じように、僕に復学することを望んでいた。でも、この時になると僕の籍はそれまでの高校でなく、通信制の高校へと移っていた。彼女もまたそのことを知ってはいたし、今更僕があの閉鎖的で自堕落で安穏として幼稚な空気の『学校』という空間に戻るとは思ってはいなかっただろう。ただ、「勿体無い」という気持ちからの言葉だったのだと僕は思う。成績は、自慢する程ではないにしろ良かったから。
「仕事、面白いよ。ほら、僕は何も出来ないだろう?だから何をやっても面白いし、覚えることばかりなんだ。毎日が充実していて、とても楽しい」
そう言うことによって、僕は全てに蓋をした。この質問と答えに。彼女の「勿体無い」という気持ちに。そして、僕の中にある屈辱的な敗北感に。
そうだ。僕は負けていたのだ。あの何一つとして得るものは無い変わりに、青春という最も大切な日々を際限なく奪ってゆく『学校』というシステムに。
思えば、僕は小学校から『学校』という場所が嫌いだった。憎んでいたと言った方がより正しい。毎日に不満はなく、先生も友達も問題はない。それでも、僕は『学校』が許せなかった。理由なんかない。僕が蜘蛛や蛾を嫌うのと同じように、先天的な生理的嫌悪を覚えるだけのことだ。そして、それは困ったことに拭い去ることは出来なかった。勝つことの出来ないまま、僕はあの世界から追い出されてしまった。結果として見れば。
彼女は笑う。安心したかのように。その微笑はまるで理想の母親のように(あくまで理想の、だ)温かく、慈しみに満ちていた。狭いテーブルの向こう、手の届く範囲に彼女は座っている。僕のものではない、彼女が。
体を温めていた炎が、僕の内壁を焦がし始めた。
天気は生憎の曇り空で、湿気をかなり含んでいた。いつ雨が降り出してもおかしくない空。僕たちは同じスピードで映画館まで戻る。
退屈で騒々しくてキャッチーな紹介が終わり、映画の本編が始まった。
物語が中盤に差し掛かる頃になると、僕は話に飲み込まれてしまい、一人で涙してしまっていた。情けないことだが、隣に彼女が座っていることを忘れ、映画に没頭してしまった。
その日の目的は、映画を見ることではなかった。それは確かに目的の一つではあるが、その先には彼女を僕のものにするという下心がはっきりと隠されていた。それなのに、僕は泣いてしまった。失態だった。
館内が小さな嗚咽と鼻をすする音で満ちている時、僕はもう大変なことになってしまっていた。
ただ泣いているだけではなく、涙でスクリーンが見えないほどに泣いていた。歪んでしまう口元を隠すために、肘をついて掌で覆っていた。自分でも、まさかこれほどまでに感動することがあるとは思ってはいなかったのだ。
彼女が僕に差し出したハンカチを、僕は受け取ることはなかった。それどころか、涙を流すことなく冷静にハンカチを差し出す彼女に嫌悪すら抱いた。感情というのは恐ろしいもので、本末転倒だという論理的思考は生まれなかった。その時は、ただ泣いているだけが僕の事実だった。
クレジットが終わり、館内の照明が戻る。
「…………」
僕は黙って席を立ち、彼女が後ろについて来ていることを確認すらせず、自分のペースで人込みを歩き、洗面所で顔を洗った。鏡の中の僕は目を赤く腫らしていたが、それほど悪い顔ではなかった。どちらかといえば、僕はあの時の顔が好きかもしれない。
洗面所から出て、彼女を探す。
「あ、おかえり。はい」
手渡されたタオルを、今度は受け取った。
「……あー……」
改めて発した声は、まるで他人の声のようだった。悪い意味ではなく、不思議な安堵がそこにはあった。
「泣いたねー……」
恥ずかしくて、頬が紅潮するのを実感していた。
「泣いてたねー」
タオルを受け取り、綺麗にたたんでからバッグに仕舞うと、彼女は言った。
「先に泣かれたから、泣けなかったよ」
そういうものかもしれない。
「でも、君も泣くことがあるんだね」
「どういう意味だよ」
「何か、氷のような男ってイメージがあったから」
「そんなことはないよ」
確かに、泣くとは思ってもみなかった。悲しくては泣かないし、悔しくて泣くこともないだろうと思っていた。まさか感動して泣くことになるとは、誤算だった。
「ちゃんと血の通っている人間なんだなってびっくりしたよ」
「それ、誉めてる?」
「うん。かなり」
それがどんなことであれ、誉められれば悪い気はしない。人込みは大分はけたし、腹も減った。煙草も吸いたい。
「じゃあ、どこかでご飯でも食べようか」
「うん」
泣いてしまったことを情けないと思ったが、それはあながち失敗ではなかったらしい。この時の話は今でも会話に上る。それだけ彼女にとっては意外だったのだろう。少しだけ失礼な気もするが。
僕らは適当に夕食を食べ、デパートの食器売り場でグラスとマドラーのセットを買い、ちょっとしたアクセサリーと洋服と文庫本を買って、電車で帰った。そして、そのままそこで別れた。健全な付き合いだ。
彼女は今でも僕の恋人ではない。その分、友人としてはなくてはならないランクに位置している。僕の悩みも苦しみも全て彼女は知っているし、彼女のそういった部分も僕は可能な限り知ろうと努力している。
思うに、こういったことを繰り返していると、そこには愛情でなく友情といったものが存在するようになるのだろう。良くも悪くも。
とにかく、この件で僕が得た唯一の教訓は、『女の前では泣くものではない』だった。
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