ふと見上げると、そこには銀に輝く月。
(やけに明るいと思ったら……)
思いがけず、笑みがこぼれる。
この夜に、どこで何をしていても、月は見ている。
胸を張っていられるのか?それとも……
(貴方は何て言うのかしら?)
月は答えない。しかし、笑ってくれたような気がした。


薄闇の中、一人の男が立っている。
顔から上は見えず、服装すらもはっきりしない。
男は鏡の前に立っている。全身を映せるほどの大きさの鏡。
手を添え、表面を滑らせる。
その軌跡が、赤黒く染まる。
手を離すと、その軌跡は消えてしまう。
男はそれを延々と繰り返す。
ただそれだけの行為に男は何を思うのだろうか?
男はやがてそれを止め、拳を握り締める。
そして、その拳は鏡に向かって……


少女が歩く。夜の公園を。
中央にある噴水を目指し、歩いている。
その歩き方からは一切の感情が感じられない。
そして、噴水に辿りつく。
噴水はライトアップされていない。
その縁に立ち、少女は手を広げる。
瞳を閉じ、水音に背を向けて。
そして、後ろに倒れこむ。
激しい水音と飛沫。
不意にライトアップされる噴水。
輝く水滴が、少女の頬で弾ける。
また、ライトが消え、辺りには静寂が満ちる。
そして少女は涙する。
見える天蓋の星の輝きに。
水の冷たい暖かさに


真夏の太陽の真下で、一人の男が立っている。
黒いコート、黒い帽子、黒いブーツで。
男は思う。真冬の雪山を。
それは穏やかな光を放つ、輝く山々。
本当の青さを忘れていない、青空を。
男は思う。秋の海を。
夏の残滓と残骸の散らばる、美しくない砂浜。
そこでは一人の少女がゴミを拾っている。
ジーンズにTシャツという格好で。
野暮ったい雰囲気の少女は、一心に清掃を続ける。
秋の海は、穏やかにたゆたう。
男はコートを脱ぐ。そして帽子を。
最後にブーツを脱ぎ、それらを投げ捨てる。
真夏の焼けたアスファルトの上に。


月を見ている。雨上がりの夜空に。
仕事が終わって、不意に夜空を見上げると
月は美しく、それは美しく
輝いていた。
俺は月に語りかけた。
今までの全てを、包み隠さずに。
月は時々雲に隠れ、煙草の煙に隠れ
俺の話を黙って聞いてくれた。
月は、ただ輝いていた。


雨が降っている。
「まいったな……」
君はそう呟いて、空を見上げている。
そして、僕はこう言った。
「行こうぜ。どうせいつかは止むだろうから」
雨の中に見を曝け出し、胸を張る。何もやましいことなど有りはしないのだから。
背中に君の溜め息が聞こえた。
「……そうだな」
雨は暖かくはなかったが、僕等はそう冷めることはなかった。
水溜りを踏み締める音を楽しみながら、僕等は歩いた。
降り止むことのない雨など存在しないのだから。


夜更けに目を覚ますと、背中に翼が生えていた。
鏡で確認する。確かに翼だ。
でも、それは純白ではなく、黒い翼だった。
僕は漆黒の翼を夜空に広げ、あの
夜の出口にも見える月を目指した。
途中、ふくろうが僕に話しかけてきた。
僕らは共に月を目指しながら、色々な話をした。
やがてふくろうは森に帰ると言い出した。
僕は送り届けてやりたかったが、月は待ってはくれない。
僕らは再会を約束して、空で別れた。


そう広くは無い部屋の中、
二人の男が好き勝手なことをして時間を過ごしている。
本を読んだり、歌を聴いたりして。
時折思い出したようにする会話だけが
お互いの唯一の接点。
やがて夜が訪れ、二人はその部屋を後にする。
そこに居たという形跡すらも残さぬよう、
入念に掃除をして。
そして、次の日には別の男達がその部屋を訪れる。


別離の時が近付き、僕らは無言で見詰め合う。
離れることのない、上下の唇。
君のそれはとても妖艶で、僕は何も考えられなくなってしまう。
街の喧騒は遠くなり、互いの呼吸ですら聞こえる気がする。
(……いつから僕はこんなにも恐がりになってしまったんだろう?)
恐い。僕の言葉が君に届かないことが。
君に、拒絶されてしまうことが。
もしかしたら僕は君を信じていないのかもしれない。
君を、恐れているのかもしれない。
「…………」
君の唇から、吐息が漏れる。思わず耳を塞いでしまいたくなる衝動を抑え、その言葉を待つ。
君は何を言うのだろうか?
僕らは約束を果たせるのだろうか?
でも、二人共分かっている。
この約束は、絶対に果たせないってことを。
だからこそ、恐いのかもしれない。
君は、ここから去ってしまうのだから。
僕の涙は、乾かないのだから。


「俺はそんなに頼りないかよ!」
違う。こんなことを言いたかったんじゃない。
一度零れてしまった言葉は、連鎖的に次の言葉を引き出した。
「いつもそうやって無理して、誰にも辛いところを見せないで、そんな……そんな表面だけの笑顔なんて見たくないんだよ!」
彼女の表情が引きつった。凍りついた笑顔という言葉があるが、この顔はもっと酷い。例えるなら、出来の悪い彫刻だ。全体のバランスとしては驚愕と衝撃を受けているのに、顔は笑顔を保つことを強要される。そんなアンバランスな出来損ないの顔をして、彼女は次の言葉を待っている。
いや、違うだろう。きっと何も言い返せないんだ。あまりに俺が優しくないから。
いつもの俺とは、全く違っているのだから。
「泣けよ!辛いんだろう?そうやって無理して笑っているのは、楽がしたいだけじゃないのか?いいか?本当の信頼ってのは自分の弱いトコも全部曝け出したその向こうにあるんだ!そんなに俺は信頼できないかよ!」
答えを待つ。彼女の中に俺の言葉が染み渡り、完全に化学変化し切るまでの時間を。
その時、彼女はどう答えるのだろう?
「大丈夫なんだよ。俺は、俺だけは君を全面的に信じる。誰に何と言われても構わない。他人のことなんてどうでも良い。だから、せめて……」
この言葉だけは、静かに囁くべきだ。そう思った。一歩だけ彼女に近付き、手を伸ばす。
「俺にだけは、頼っても良いんだよ?」
さあ、俺の言葉は終わった。彼女はこの手を取ってくれるだろうか?
もう、その答えは分かり切っている。そして、彼女は……


私はその言葉を口にしようとした。
悔しくて、悲しくて、でも一番強かった感情は……
怒りだった。
心の中のドロドロとした感情。一番恐い感情。
それが私を支配していた。
だから私は何も言わなかった。
きっと、今口を開けばずっと後悔するような言葉を吐いてしまうだろうから。
本当に言いたいことは後で、もっと落ち着いてから言おう。
その時がもう手遅れでないことを祈って、今は……


あの日、もし雨が降っていなければ
僕は君と出会うことはなかっただろう。
そして、君がもし泣いていなかったら、
僕は君に恋をすることは無かっただろう。
あの日、君がいなくなってしまった。
僕は、今でも悲しみから逃げることが出来ずにいる。
夜の闇に降る雨――それだけが
二人の出会いと別れを知っている。
僕は雨が好きになった。
君が隣に居てくれるような気になれるから……


「良いわ、殺して……」
そう言って、女は男の手に短剣を握らせた。
「でも、僕は君を愛しているんだ!」
「だったら、貴方が生きて。私はそれで幸せだから」
男の手と女の手、合わせて四本の手に握られた短剣は、その身に月光を写す。
刃は女の喉元に近付き、その首に触れる直前――
女の頭が、弾けた。
見詰め合っていた瞳を探し、男は宙を見る。銀の刃は赤く染まり、銃声の余韻がやけに長く残っている。
「くそっ!外したか!」
声の方向、横を見るとそこには銃口をこちらに向けている男がいた。
「うわあーーー!」


私は全ての服を脱ぎ去った。夜の空気は容赦なく体温を奪う。
目の前にいる、愛すべき人の視線を一身に浴びている。恍惚にも似た感情を押えながら、私は声を紡いだ。
「これを見て」
私の体には、傷がある。左胸の下から這うように膝の上まで。
醜く浮かび上がるその傷痕は、薄闇の中でもはっきりと分かるだろう。
「今まで、私を愛した人は、この傷を見て私から離れて行ったわ……」
この台詞を口に出すのは、何度目だろう?
ある男は、「傷くらい構わない」と言った。私の方を見ようとせずに。
ある男は何も言わず、強引に私を求めた。二度と会うことはなかった。
ある男は、その場で荷物をまとめて出て行った。
「貴方は、この傷痕を見てどう思う?」
自分が冷たい笑みを浮かべているのが分かった。自嘲するような、全てを諦めるような、そんな笑みを。
(どんな反応をしても、正解は無いのよ……)
私は、きっと何を言われても許しはしないだろう。この傷痕は、彼でなく私に刻まれているのだから。
安い言い方をするなら、心まで……
(貴方はどうするの?)
この瞬間は、いつでも期待に満ちている。次に訪れるのは失望だと分かっていても……
暫く無言で見詰め合う、二人。
そして彼は……
真っ直ぐに私を見つめたまま、無言で、涙を零した。
(ああ、私は……)
きっと、この人に全てを委ねてしまうだろう。
頬を一筋、涙が流れるのを感じた。
それはとても温かく流れ、やがて私の傷痕にまで届くだろう。
私は思った。この人だけは、信じていようと……
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