旅人とドブネズミ


 一人の旅人がいた。
彼はずっと一人で探し物をしていた。
 それは、キレイな物。
 とても曖昧で、見当もつかないような目的だったが、彼は必死になって探していた。
 心当たりは一つだけ。子供の頃誰かに聞かされた話。どこかにあるという何よりもキレイな湖。
 他の何よりもキレイで、言葉に出来ないほどキレイな風景を。
 それを探して長い旅をしていた。

 高原の街では、キレイな花を売る少女に出会った。
「大事に育てたお花ですが、これが売れなくては生活が出来ません」
 旅人はその花以上にキレイ花を見たことがありませんでした。白い大きな花びらの花で、高原の透明な日差しを照り返してキレイに輝いていました。
 籠一杯の真っ白な花。少女はそれを持って沈んだ顔をしています。旅人は、懐から銀貨を取り出してこう言いました。
「私はキレイな物を探す旅をしています。この花はとてもキレイです。一束頂けますか?」
「ありがとう!」
 少女は眩しい笑顔と共に、キレイな花束を旅人に手渡しました。
 
 旅人はキレイな花束を持って街を後にしました。
 山道に入り、森の中を進みます。
 木漏れ日に照らされる花束はとてもキレイで、旅人は穏やかな気持ちで歩き続けました。
 けれど森を抜けた途端に強い風が吹き始め、キレイな花びらは散ってしまいました。なんとか残った花も、夜が明けるとしおれていました。

 キレイだった花束を捨てて、彼は旅を続けます。

 商人の街はとっても大勢の人々で賑わっていました。
 その道端で、旅人はとてもキレイな宝石を拾いました。
 旅人は持ち主を探しましたが見つかりません。仕方なく警備兵のいる所へその宝石を届けに行きました。
「貴様、その宝石はこの街一番の商人の物ではないか。この泥棒め!」
 警備兵は旅人に鋭い槍を突きつけてそう叫びました。
 旅人は逃げ出しました。警備兵は話を聞いてくれなかったからです。
 とうとう逃げきれずに、大勢の警備兵に囲まれ、殴られ、捕まってしまいました。
 旅人はキレイな宝石を奪われ、代わりに大きな傷と罪人の汚名をもらい、街を追い出されてしまいました。

 まだ上手に動かない手足をぎこちなく動かして、旅を続ける旅人。
 それでも彼は一生懸命にキレイな湖を探すのでした。

 次に訪れた所は、小さな村でした。
 そこはキレイな自然に囲まれた、穏やかな土地でした。
 村人は旅人を歓迎し、ここに住んでもいいとまで言ってくれました。
 旅人もここの自然に心を奪われていたので、しばらくここで暮らそうと考えました。
 一晩泊まり、朝になって旅人が目をさますと、村人は皆で畑仕事をしていました。
 あくせく、あくせく、村人達はさも嬉しそうに畑を耕します。
 汗と土にまみれて働く彼等を、旅人はキレイではないと思いました。
 旅人は何も言わずにその村を後にしました。
 
 海辺の街で、ついに彼は今までで一番キレイなものを見つけました。
 それはキレイな瞳を持った娘です。
 二人は恋をして、結婚しました。
 家を建て、仕事を見つけ、いつしか旅人は旅を忘れ、ただの男になりました。
 そうして一年が過ぎたある日、男がキレイな湖の話をしました。
「そんな湖はもうありません。貴方はこの街の住人です。もう旅人ではないのです」
 娘は男に行って欲しくない一心で、そう言いました。必死に男を引きとめようとしました。旅人は、もう旅人ではなくなっていたのに。
 でも、男はそう言う娘の瞳がキレイなものには見えませんでした。
 一年過ごした家と、街と、キレイだった瞳の娘を置いて、男はまた旅人に戻りました。

 一年、二年、旅人は旅を続けました。
 もうこの世界で訪れたことのない場所は、あの川の上流だけになっていました。
 その川はとても急な斜面を流れていて、途中で幾つも滝があります。日が当たらないくらいに深い森と、息をするのも辛いくらいに冷たい空気。震える手をコートの中ですり合わせて、旅人は歩き続けます。
 何度も倒れ、服は泥まみれになりました。
 肌を切り裂くような風に吹かれ、帽子はどこかへと飛んで行ってしまいました。
 食べるものがなくなり、地面に落ちている少しの木の実を口に運びました。
 真っ暗な夜の中で、あの温かかった家のことを思い出して泣きました。
 それでも彼は最後の望みをそこに託して、歩き続けました。
 そして、ついにたどり着いたのです。
 何よりもキレイな湖に。

 そこは、本当に何よりもキレイな場所でした。確かに言葉に出来るようなものではありません。
 透明な水が、まるで鏡のように波一つなくそこにあります。
 周囲をぐるりと山に囲まれているので、風もここまでは届きません。山並みは湖面に映り、藤色に染まっています。
 太陽の光が真っ直ぐに差し込んで、湖とその周りを眩しく照らしています。
 白い幹の木々は、同じ間隔で並んでいます。
 鳥たちのさえずりと、ほんの少しの川のせせらぎ。それだけしか聞こえない場所。
 旅人は疲れ果てた足取りで湖のほとりに近づいて行きます。
 そして……
 鏡のような湖面に写った自分の姿の何と醜いことか……
 彼は初めて全てを悟りました。自分という存在の醜さを。
「ならば、せめてここで……」
 旅人は、湖に足を入れました。
 その時、どこからともなく「チュー」という音が、微かに聞こえました。
 辺りを見まわすと、そこにはあまりにも醜い……今の自分よりも更に二匹の醜いドブネズミがいました。
「ああ……お前が鳴くから人間様に見つかってしまった……辛いのはよくわかります。鳴いてしまうのも仕方ありません。だからせめて、お母さんと一緒に死にましょう……」
「待て待て、醜いドブネズミよ。どうして死のうなどと言うのか、訳を聞かせてはくれないか?」
 旅人は小さな醜いドブネズミが憐れに見えて、そう尋ねました。
「はい。私達は見ての通り、世界で最も醜いドブネズミです。神様は他の者に見られないなら、という条件で私達を生かしておいてくれているのです。私達は醜いので、他の生き物を不愉快にさせてしまいますから。ですから私達は見つかってしまったら死ななければならないのです」
 母ネズミは頭を地面にこすり付けるようにして、そう答えました。
「そうか。お前達ドブネズミは確かに醜いからな。だったら何故こんな所に来たのだ?」
「はい。それはこの子が流行り病にかかってしまい、薬代わりにこの湖の水を飲ませようと、あの山の向こうから一ヶ月かけてやって来たのです。……ああ、それでも私達はドブネズミ。見られてしまったら生きてはいられないのです……」
 母ネズミは今にも泣き出しそうです。
「……だが、死ぬのだったらその坊やの病を直してからでも遅くはないだろう?」
「ああ……ありがとうございます。心のキレイな旅の人」
 旅人はその言葉に、軽く首を振ります。
「私はキレイではない。だからもう、ここで死のうと思っていたところだ」
「もしよろしければ、事情を話してはいただけませんか?」
 旅人は今までのことの全てを、ゆっくりと話始めました。
 母ネズミは一心に耳を傾けました。
 子ネズミも病の辛さを一時忘れ、熱心に聞いていました。
 旅人の話はとても長くて、太陽が山の向こうに隠れてしまうまで続きました。
「……このように、私の出会ったキレイなものは全て、一瞬だけ、見せかけだけのものだったのだ……」
「それでも私達には想像も出来ない程にキレイなのでしょうね」
「だが、世の中はとても醜い。それに比べ、この湖はどうだ? ……キレイだ。他の何よりもキレイだ。私はこの湖で死ぬことでねれば、今度こそキレイなものに生まれ変われるかもしれない」
「それでも貴方は美しいではありませんか。死ななければならない私達を、少しの間でも楽しませてくれた。その上、私の坊やの病を治してからで良いとも仰ってくれた。とても、とてもキレイなことだと思います」
 母ネズミは子ネズミの頭をそっとなでてそう言いました。
「おお、そうだった。坊やに水を飲ませてやらなくてはな。……そら」
 旅人は湖に手を入れ、キレイな水を一すくいしました。それを子ネズミの前に出し、「さあ、坊や」と優しく言いました。
「ありがとう、キレイな旅人さん」
 子ネズミは一心に水を飲み、一滴残らず飲み干しました。
 するとどうでしょう。子ネズミはあっという間に元気になって、そこら中を走り始めました。
「坊や、良かった、良かった。旅人様、ありがとう、ありがとう」
母ネズミは感極まって、涙を流しました。
それは旅人の目に、とてもキレイに写りました。
旅人は考えました。今までのことの全てを。
そしてやっと分かりました。何が本当にキレイなものなのか。
「ネズミよ、貴方は死ぬことはない。私は貴方たちのことを見てはいないし、話してもいない。そういうことにしよう。貴方達程にキレイなものは他にない。私はやっと、本当にキレイなものということが分かったよ」
「しかしそれでは貴方様は神様に罰をもらってしまいます」
「そうだな……」
 旅人はため息を一つ吐きました。そして薄い夕焼けを見上げてこう呟きました。
「出来ることならば、この世界で一番醜いものに変えてもらいたい……」
 その時、湖の上にキレイな姿をした神様が現れました。キレイな神様は旅人とドブネズミを見下ろして言いました。
「旅人よ、貴方には罰を与えなければなりません」
「私は今まで、キレイなものしか欲しがりませんでした。だからこの世界で最も醜いものに変えて下さい」
「わかりました。では罰を与えましょう」
 そして、旅人はドブネズミに変えられてしまいました。

 しかし、旅人はそれを罰とは思いませんでした。
 きっと、神様が幸せを与えてくれたのです。
 そして旅人だったドブネズミは、最も醜いものとして、最も醜く暮らしました。


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