何年振りだろう? 俺がこの町に戻るのは。 子供の頃、親の仕事の都合でこの町を――海影町を離れた。それから今日まで一度もここを訪れることはなかった。 指を折りながら数える。 (……十二年……か) それだけの年月を感じるには充分だった。俺は、今歩いている道がどこに続いているのかすら、忘れてしまっているのだから。 バッグを背負い直し、坂道を上る。汗にまみれて、息を切らせて。太陽は強く輝いて、視界を全て白で染め上げる。その中で自分の落とす影だけが不自然なくらいに黒い。坂の上は、陽炎で見えない。うねるように曲がりながら山を目指す坂道。その両脇には木々が不揃いに並んでいる。 どこかはっきりしない所から、蝉の声が聴こえる。 坂道の途中で、鳥居を見つけた。ここは覚えている。子供の頃、友達とかくれんぼをして遊んだ場所。 所々塗装の剥がれ落ちた小さな鳥居をくぐり、細い日陰道へと足を向ける。木漏れ日が帯のように差し込む、薄暗い世界。草いきれと木々の吐き出す生まれたての空気。ゆっくりと流れる風。蝉の声の切れ間にかすかに聴こえる、波の音。しばらく歩き出すことが出来なかった。 俺は、こんなにも綺麗なところで育ったのだろうか? 今俺の住んでいる街は…… (いや、どうでも良いことか……) 目の前の澄み切った光景に、翳りある感情をかき消す。こんなにも素晴らしい場所に、埃臭い自分は似合わない。 気分を切り替えるために、力いっぱい深呼吸をする。 (よし) ゆっくりと、汗も収まってきた。歩き出そう。この日陰道の先には―― 春香神社があったはずだ。 予想以上の日差しに、顔をしかめる。顔をしかめながら、頬は緩んでいる。 「懐かしい、な……」 変わっていない。そう言うには十二年の歳月は長過ぎた。神社は確かにそこにあったけれど、十二年分の時間をその身に刻んでいた。全体としてみれば些細な変化かもしれないけれど、細かい部分では老朽化が進んでいる。 小走りに近寄り、手近な柱に手を触れる。朱塗りされていた柱は、もう地の色が出ている。縦に幾つものひび割れが走っている。 「十二年、か……」 振り返り、日陰道の方を見る。遠い記憶に残っていた光景をそこに探して。 俺がそこに望んでいた光景は…… 無邪気な笑顔を俺に向けてくれる、一人の少女の姿。 もちろん、そんなものはなかった。十二年だ。少女だって立派な女性に育っているはず。子供だった俺が、もう子供ではなくなってしまったように。 寂しさはあった。でも、それ以上に陽光のカーテンが美しくて―― 石積みの階段に腰を下ろして、しばらく境内を眺めていた。 森に切り抜かれた、青い空。バッグを適当に放り投げ、地面に直接寝転がっている。 ここは、空が見える。しっかりと青い、本当の青さを忘れていない、見ているだけで泣きたくもなるような、嬉しくもなるような、青い空が。 雲だって、ちゃんと白い。陰影を持った白い雲が、海からの風に吹かれて、ゆっくりと姿を変えている。 止むことのない、蝉の声。 途切れることのない、海からの風。 そうだ、俺が子供の頃、俺はいつもここで…… 無邪気な笑顔を浮かべて、駆け回っていたんだ。 日差しが朱に染まり、海に太陽が沈むまで。 汗を誘う熱気が薄れ始めるまで…… 境内の裏手に回る。そこには湧き水が引かれていたはずだ。半分に割った竹が石垣の上から降りていて、石で囲まれた水飲み場が設えられている。溜まった水はやはり石で組まれた細い水路を流れて、境内の端まで。その先は良く知らない。神社の裏を流れる、人の手で作られた清流。人工のものであったとしても、そのせせらぎに不自然なところはない。 両手を水にひたして、指を水と遊ばせる。 (そういやあの頃は……) ここで、全身水に濡れて遊んだりもしたっけ。 湧き水は綺麗だ。当然飲める。両手で水をすくって、口に運ぶ。 夏に奪われた水分が、透き通った清水で補われた。 唇から体の真ん中を一直線に冷やして、体に沁み込んでゆく。 忘れていた感覚をまた一つ、思い出した。 「忘れちゃったのかと思ってたよ」 「俺も、忘れてたんだけどな」 行くあてもなく坂の上をふらふらと歩いていると、声をかけられた。俺の名前を呼ばれた。 「白昼夢って言うのかな? そういうのだと思ったよ」 「俺もだ」 まさか再会出来るとは思っていなかった。それ以前に、存在すら忘れていた。名前も、声も、顔も、仕草も忘れていた。 覚えていたのはただ一つ。俺と一緒に笑っていたことだけ。 無邪気な笑顔で、笑っていたということだけ。 「十二年、になるんだね」 「ああ、そうだな」 指折り数えて、俺と同じ数を出した。 並んで歩く、小さな女の子。俺と同じ歳の、水色のワンピースを着た、ショートカットの良く似合う女の子。 名前は忘れていた。顔を見て、その笑顔を見て思い出した。 『水名』 「今までずっと戻って来なかったから、忘れてたのかと思ってたよ」 「忘れてたって、何を?」 「私のことと、私との約束」 思い出せないまま、懐かしさから会話は弾む。 太陽の下、青空の下、風を浴びて、懐かしい場所を歩く。 そして、また春香神社に戻った。 「ここ、懐かしいよ」 俺がそう言う。 「私も懐かしいよ。でも、懐かしくないかな?」 何が言いたいのか分からず、疑問符と共に顔を向ける。 「あれから毎日、ここに来てたから」 何だろう? 俺は何かを忘れている気がする。 海を見る。少し遠くに見える砂浜と、砂浜に押し寄せる波と、その向こうに広がる青い海。水平線は緩やかに弧を描いている。この星の形に、緩やかに。 風の匂いが、少し変わった気がした。 「まだ、忘れてるのかな? それとも……」 水名は困ったような寂しいような笑顔を俺に向ける。無邪気じゃない、切なくなるような笑顔。 「思い出そうとしてくれないのかな?」 手を、伸ばした。何だかそうするべきだと思った。 伸ばした指先に、水名の頬が触れる。 艶やかで、温かい頬。俺の指と、水名の頬の境界線が曖昧になってゆくような、不思議な安らぎ。 「忘れているけど、でも……」 その先は、言葉にならなかった。どんな言葉が適しているか分からなかったから。 分からなかったから、俺は手を引き戻した。そして、笑った。 そんな俺を見て、水名も笑った。短い髪が、さらりと揺れた。 蝉の声が、聴こえる。 肩を並べて、石段に座っている。時間はとてもゆっくり過ぎている。会話はない。水名は満足そうに、幸せそうに、楽しそうに微笑んでいる。俺の膝にそっと手を乗せて。 十二年前。俺達はどうやって別れたのだろうか? それがまだ、思い出せない。 一つだけ思い出すことが出来たのは、はっきり口に出せなかったこと。 子供が口にするには、照れが邪魔してしまうようなこと。 それだけは、思い出すことが出来た。 だから俺は…… 「好き、だったんだ。あの頃」 独り言のような俺の台詞に、水名は顔を上げた。 「知ってたよ。でも、言ってくれなかったね」 「あの頃の俺がどんな約束をしたのか思い出せない。どんな別れ方をしたのかも思い出せない。思い出そうとしても、手がかりすらないんだ」 軽く首を振る。真っ白だった日差しは、だんだんと深い色合いを帯びてきている。 「だからせめて、これだけは言いたい。好きだった。あの頃の俺は、あの頃の水名にそう言いたかったんだ。嘘じゃない。今の俺には、これが精一杯」 おどけて、肩をすくめて見せる。また、水名が寂しそうに笑った。 「別れる日にね、君は『次に会ったら、絶対言うから』って言ってくれたんだよ? だから、約束はちゃんと果たしてくれた。ありがとう」 寂しそうな笑顔は、消えない。 「だからずっとここで待ってたの。毎日ここに来てたの。一緒に過ごした場所で、ずっと……」 でも、俺達が再会したのはここじゃなかったし、俺は約束のことも、水名のことすらも忘れていた。 とんだお笑い種だと思った。子供だったとはいえ、なんて滑稽な約束をしたのだろう。 別れるときにくらい、全部を言ってしまえば良かったんだ。そうすれば、もっと違う何かが俺達を待っていたのに。 「約束はちゃんと果たしてくれたけど、でも、それだけなの?」 境内に斜めに差し込む光。白く煙ったような光。隣で聞こえる、水名の声。何かを期待しているような、諦めているような、寂しそうな声。 蝉の声が聴こえる。 「私たちの約束は、これでもう終わりなの?」 膝に乗せられた掌が、きゅっと縮まった。 「約束は果たされて、君はまた私を置いて違う場所に行ってしまうの?」 水名の顔を見る。二つの大きな瞳に浮かぶ、涙。 「私を置いて行って、また私はここで君の気紛れな帰郷を待つの? 私のことをまた忘れて、君は毎日を過ごすの? この町の……海影町のことを忘れて」 涙は流れることなく、瞳を濡らしている。輝いている。ふとした拍子にこぼれるだろう涙。まばたきすらもしないで、水名は俺を見ている。一生懸命、俺を見詰めている。 「忘れていたんだ。思い出すことも出来なかった。ここに戻ってきたのは、本当にただの気紛れだよ。十二年も、忘れていたんだもんな。 でもさ、約束なんてする必要なかったんだ。俺はこうしてちゃんと戻って来たし、あの日の気持ちはちゃんと届けた。だから……」 水名が瞼を閉じた。涙が雫になってこぼれて、俺の膝で弾けた。 「約束はしない。する必要はないんだ」 まだ目を開けない、水名。小さく震えて、掌はきつく握り締められている。震えが、俺にも伝わってくる。 「また、始めれば良い。それだけのことじゃないか」 蝉の声が降るようだ。木漏れ日がカーテンのようだ。 風が、歌を唄っているようだ。 目を開けた水名は、俺の胸に飛び込んできた。俺はしっかりとその小さな体を受け止める。 「また、もう一度、私と始めてくれるの?」 涙に濡れた頬と、声。俺の胸にしっかりと包まれている。 細い肩に腕を回し、抱き寄せる。優しく、きつく。 耳元で、ささやくように言った。 水名が十二年、ずっと待っていた言葉を―― 日が暮れる前に、俺はまた海影町を離れた。夕暮れの海を見ながらバスに揺られて、隣街まで戻った。そこから電車に乗り、俺の住む街まで。 約束はしなかった。思い出すことも出来なかった。忘れたまま、俺はまたあの場所から離れてしまった。 でも…… 今度の始まりは、絶対に忘れはしない。 夕陽を浴びて小さく手を振っていた水名の姿を、忘れられるはずがない。 予感がある。もしかしたら俺達はどこか全く予想していなかった場所で、思いがけなく急に再会する。 そして、そこから始まるんだ。 この日の続きが。 耳の奥にはまだ、あの場所で聴いた蝉の声が残っている。 |