恋愛体質


 天気の良い平日の午後のことだった。その日僕はたまたま休みで、何も考えずに街を歩いていた。大嫌いだった人込みも、ここ数年の暮らしで慣れてしまい、気を紛らわすためにわざわざ通りを歩くようになった。天気の良い、風のない午後のことだった。
 グレイのセーターに、紺のスラックス。無個性で目立たない、人込みに溶け込むための擬態のような格好。何も考えずに、流れに身を任せて歩く。誰の目にも留まらないし、誰も僕のことを覚えはしない。子供の頃夢中になった、かくれんぼの延長のような行動。何故か楽しくすらある。
 時々気紛れに声をかけてくるのは、街頭に立つティッシュ配りやチラシ配りくらい。くたびれた顔をして、それでも健気に明るい声を張り上げている。
「よろしくお願いしまーす」
 そんな声を聞こえない振りをして歩く人々。聞こえていないはずはないんだ。ただ、面倒だから相手にしないだけで。
 でも、僕はそれが冷たさじゃないってことを知っている。もちろん優しさじゃあない。ただ、皆自分のことだけで精一杯なだけなんだ。
(やれやれ……)
 少しだけ頬を緩めて、溜め息を吐いた。都市生活は個人の自由を奪い、個性的な思考をいつの間にか無個性な行動へと変化させてしまう。これじゃあこの国も長くはないだろう。
 空を見上げようとして、止めた。ここは僕の育った街じゃないんだ。空なんて見えっこない。見えるのは、墨を薄めて流したような灰色の幕と、コンクリートの額縁だけ。良い天気の日のなずなのに空がこんなじゃあ、誰だって陰気になるってものだ。街中に流れる陽気なBGMは、人々の心を浮き立たせるには不充分ってことだろう。
 でも、僕の心を浮き立たせる出来事は、その日起こった。

 灰色の、天気の良い日の午後。取りとめない散歩にも飽きて部屋に戻ろうとしているときのことだ。
 僕の部屋は少し込み入った場所にあって、何度も細い路地を行ったり来たりしなくてはならない。その数だけ、信号を待たなくてはいけない。
 車道を通り過ぎる車の群れを茫漠と眺めながら、信号が変わるのを待っていた。
「――君! ――君じゃない!」
 僕の名前を呼んだ声が、すぐ後ろで聞こえた。それだけじゃない。身体が大きく後ろに引っ張られた。危うく転びそうになってしまうくらい、強引に。
 なんとかこらえ、非難の目で声と手の主を見ると、それは古い知り合いだった。
「相変わらず乱暴だね、保坂」
 保坂恵。学生時代の知人だ。肩口で切り揃えた癖のある髪と、顔に対して大きめな眼鏡が印象的な、線の細い女の人。いかにもキャリア、といった感じのスーツに身を包み、胸を張って堂々と立っている。手馴れた化粧の施された顔が、いたずらっ子のようにニヤっと笑った。
「君も、相変わらず人生に疲れてそうだね?」
 服の乱れを整えながら、そんなことはない、と否定しようとすると信号が変わった。人の流れに押し出されるようにして、躊躇いがちに足を進める。と、保坂は僕の隣をぴったりとついてくる。
「そういえば、この辺りに住んでるんだっけ?」
「ああ、もうずっとね。部屋を探すのも面倒だし、不便もないから」
 保坂とは、学生時代に少し話をしたことがあるだけだ。だから友人じゃなく、知人。大して親しくはない。それでも、たまにこういう知人と会うと、やはり嬉しいものだ。多分向こうも同じなのだろう。無闇にはしゃいでいるのがその証拠。
「今日はもう帰るの?」
「そうしようと思ってたところだよ。保坂は……仕事、まだ終わってないんじゃないのか?」
 腕時計を見ると、時間は午後四時を少し過ぎたところ。一般的な会社はまだ就業時間の最中だ。野暮なことを言うつもりはないけれど、会社に戻らないとまずいんじゃないだろうか?
「まあ、それはそれでどうとでもなるしね。それより、ちょっと話でもしない? どうせ時間余ってるんでしょ?」
「失礼な……っと言いたいけど、まあ、確かに時間なんて気にする仕事じゃないからね」
 僕は他の皆と違って、少し特殊な仕事に就いているから。
「それなら話早いわ。この辺りで美味しいお茶飲めるお店、連れてってよ」
「その前に、少しだけ時間くれないかな?」
 保坂が顔を傾けて、愛嬌のある表情で疑問を浮かべた。
「この格好じゃあ、ちょっと情けないだろ?」

 僕が着替えたいと提案すると、それなら私もということになり、結局二人とも準備を済ませてからまた待ち合わせることにした。
 待ち合わせ場所は、例によって例のごとく映画館の前。学生の頃からのお決まりだ。当時は十人以上がここに集まったりもした。その中に、僕と保坂もいた。そんな、思い出深い場所。今ではただ古い知人というだけの二人が、ここで待ち合わせをしている。
(でも、まあ、楽しいよな?)
 当時と同じ場所で待ち合わせている。違うのは、二人だけということ。それと、二人とも大人になってしまったということ。
 良くも悪くも、僕らは大人になってしまった。今の僕の格好からしても、誰がどう見ても立派な大人で通るだろう。
 普段着では流石にみっともない。時間は既に七時を過ぎている。この時間からどこか店に入るとすれば、それなりにちゃんとした場所になる。僕はこういう機会にいつもそうするように、一般的で無個性な「大人」の服装を選んだ。仕事柄そういう服の一着くらいは持っておくように、とある人から忠告を受けたから。
 僕は人を待つのが好きだ。「意外」と良く言われたけれど、じっと一つところに立って誰かを待っているときの、この何ともいえない気持ちの浮き沈みが好きだ。
 僕のことを知らない人、僕の知らない人。そんな人たちが目の前を過ぎてゆく。何人かで楽しそうに話しながら歩いて行く人。一人で静かに歩いて行く人。手を繋ぎ歩く恋人達。タバコを咥え、疲れた顔で歩くスーツ姿の男。耳慣れない言葉や、初めて聞く音楽。人込みの雑踏と、都会の喧騒。
 そんな中でじっと立って、たった一人の人を待つ。
「……なんだか犬みたいね」
 声をかけられた。当然、保坂だ。「お待たせ」の一言もなしに唐突に会話を始めるところが、少しだけ僕の好みに合った。
「犬?」
「飼い主を待ってる犬。ちょっと無愛想だけどね」
「尻尾でも振ればいいのかな?」
「そんなことしても、頭なんて撫でてあげないけどね。それより、早く行きましょうよ。お腹空いてふらふらしてるのよね」
 細い体に手を添えて、保坂がそう訴える。本当に空腹なのかもしれない。良い表情をしている。僕が犬なら、保坂はまるでお腹を空かせた子供のようだ。ある意味では似合いの二人かもしれない。
「それにしても、君って何着ても似合わないのね。出来損ないのサラリーマンみたいよ? それか成り立てのホスト」
「……良く言われるよ、それ。あとは成人式とか言われることもある」
「童顔だもんね。君」
「……そうだね」
 あえて否定するのも面倒だし、いつまで経っても話が先に進みそうもないので、この話はここで一旦切り上げることにした。
「近場にさ、仕事先の人が教えてくれた店があるんだ。静かで、料理が美味くて、ゆっくり落ち着いて話の出来る場所。そこに行こうか?」
 夕暮れはもう、終わりそうになっている。もうそろそろ夜が来る。どこかで腰を据えて話すべきだろう。大人としては。
「ん〜……」
 いつも楽しそうな、保坂の目。眼鏡の下で細くなって、何かを考えているようだ。
「それもいいんだけどね、それじゃあ普通じゃない?」
「まあ、特別じゃあないかな……」
 そもそも僕のどこに特別な何かを期待しているというのだろう?
「お腹空いてるんだけどさ、それよりも……」
 レンズの向こうの目が、いたずらっぽく輝いた。街の光を照り返して、カラフルに。
 雑踏の音が、少しだけ遠くなった。
「ちょっと、遠くまで行ってみない?」
 特別な何かは僕じゃなくて、保坂が持っているみたいだ。

「君は何も食べなくていいの?」
「……いや、もうこうなったら腹を決めたよ。食べる」
「っそ。じゃあこれとこれもお願いします」
 聴こえるのは、切れ間無く響く振動。それと、ちょっとした会話。
 カートを押して車内を歩くお姉さんに、保坂がお金を払った。便宜的な笑顔を残して、車内販売のお姉さんは僕らの座席を後にした。
「はい、君の分」
「……どうも」
 便宜的じゃない笑顔で、保坂が微笑んでくれた。嬉しくなんてない。
「遠くまで行ってみない?」と言った保坂に引きずられるようにして、気が付けば新幹線に乗っていた。「いいからいいから」とだけ言って、ずけずけと歩く彼女に何も言えないまま、なんとなくここまで来てしまった。
「いただっきます」
 名物の駅弁を、かなり良い勢いで口に運び始めた。凄いペースだ。見ているこっちが気持ち良いくらい、美味しそうに食べている。それを見ると、何だか他のことがどうでも良く思えた。
(っま、その内詳しく話してくれるだろう)
 どうして『遠く』に行きたいと思ったのか。どうしてパートナーとして俺を指名したのか。
 もちろん、他の疑問だってある。仕事はどうなのか、とか、いつ戻るのか、とか。それと、どこを目指しているのか。
「ごちそうさまっと」
「早いね」
「仕事柄ね、ゆっくりご飯食べられることなんてないの。だからどうしてもね」
「それだったら仕事以外の時はゆっくり食べればいいんじゃないかな?」
 誰でも思いつく、正当な提案だ。
「つまらないこと言わせないでよ。癖になってるのよもう。落ち着いてご飯、ってのは、逆に落ち着かないの」
「そういうものかな……」
 缶コーヒーを飲みながら、保坂は満足そうに息を吐いた。急いで食べても、ちゃんと満足するらしい。
「それよりも、早く食べちゃえば? 量も味もアレだけど、食べないともたないよ?」
「もたない……ってことは……結構遠くまで行くつもりなんだね?」
 赤いだるまの形をした器の弁当を食べながら、保坂の差し出してくれたお茶を受け取った。
「言ったでしょ? 遠くに行くって。少なくとも、まあ、泊まりは覚悟してもらいたいわね」
 思春期の男の子が聞いたら顔を真っ赤にして俯いただろう。でも、僕は思春期でもないし、男の子というにはいささか歳を取り過ぎている。箸を動かしながら、横目で保坂の顔を見る。
 底抜けに楽しそうで、憎めない表情。何というか、「しょうがないな」と思えてしまう。眼鏡の下のくるりとした目が、またきらきらと光っている。こうなると、仕事がどうとか野暮なことはもう訊けない。保坂も僕も、もう大人だ。自分のことは自分で何とか出来る。それに、たまには仕事を忘れて無茶するのも大事なことだろうし。
「定番としては海かなぁ。逆に山に行くってのも良いけど……」
 コーヒーの缶を両手でくるくると回しながら、独り言のように言っている。僕は空になった弁当箱をゴミ袋に入れた。
「行き先は保坂の好きで良いよ。僕は結構あちこち出歩くことが多いからね。それにどこに行きたいっていうのも特にないし」
「知ってる? それって結構贅沢な発言よ?」
 丸い目を細めて、斜めに僕を睨んでいる。思わず、苦笑いが浮かんでしまう。
「私なんてね、毎日会社と家の往復だけで旅行するなんて夢のまた夢だったんだからね? 休み取ろうと思ってもすることないし遊ぶ友達だって少ないし」
「えっと、愚痴なのかな?」
「愚痴じゃないわよ。ただ、キミが贅沢者だって言ってるの」
 何だか機嫌を損ねてしまったみたいな気がする。でも、弁解をさせてもらうなら、僕のような仕事だってちゃんとストレスは溜まる。人付き合いが昔から苦手だったせいもあるし、空気の悪い街に長い間住んでいるせいもある。それに、旅行と言ってもやっぱり仕事の一環だし。
 いつの間にか乗り慣れてしまった新幹線。鈍行列車と違って揺れも騒音もほとんど無い。窓の外を流れる光が、凄い速さで僕らの生活する場所から遠ざかっていることを教えてくれている。
 遠くまで、僕らは行こうとしている。こうしていると、改めて実感する。
「仕事さ、大変なの?」
 野暮だと分かっていても、そう口に出してしまった。そんなこと訊くまでもないじゃないか。仕事はどんなものだって大変だ。一見楽で自由なように見える僕だって、かなり辛い思いをして今までやってきたのだから。
 僕の言葉に、彼女は少しだけ首を傾げた。肩口で切り揃えた髪の毛が、少し跳ねた。
「大変と言えば大変だけど、手を抜こうと思えば幾らでも抜ける仕事だからね。何とも言えないかなぁ?」
 空き缶をゴミ袋に押し込みながら、溜め息混じりにそう言う。
「私にしか出来ない仕事、って訳でもないしね。やりがいなんて感じたこともないし……昔と一緒よ。学生の頃と変わってない。ただ、なんとなく毎日会社に通ってるだけね」
 野暮だとは分かっていても、やっぱり仕事の愚痴は簡単に話すことが出来る話題だ。それが大人だと言えば寂しいことだけれど、その通りなのかもしれない。
「そっちはどうなのよ? 私よりは楽しい毎日送ってるんでしょ?」
 切り返されて、今度は僕が首を傾げた。確かに毎日が同じことの繰り返し、という訳じゃない。でも、退屈しない訳じゃないし、いつでも刺激に満ちている訳でもない。
 そう考えると、僕はやはりこう言うしかない。
「普通、だね」
「そっかぁ……」
 僕がそう答えるのは予想していたのだろう。落胆ではなく、どちらかといえば安堵しているような口調。
「私と一緒なんだね……」
 僕から顔を逸らしながら、優しい声でそう呟いた。それはまるで、アルバムの中で色あせた写真を懐かしむような響きで、僕の耳に届いた。
 一緒、という言葉に僕は少しだけ気持ちが安らぐのを感じていた。
 窓の外を流れる光がだんだんと少なくなってゆく。
 僕ら二人は、僕らの住む街から凄い速さで離れている。

 新幹線を乗り継ぐなんて、そうそう経験するものじゃあない。今の時代、大抵の場所は新幹線一本で行ける。長距離の移動をしようというならともかく、軽い旅行程度で新幹線を乗り継ぐなんてことをするのは……
(多分、思い付きで目的地を変えてるんだろうな……)
 僕はただ彼女の後ろをついて歩いているだけだ。保坂は時々振り向いて僕がいることを確認すると、満足そうににこりと笑う。僕はその度に肩を竦める。
 駅のホームから人が少なくなってきた。時計を見ると、結構な時間になっている。
 彼女は「泊まりは覚悟して」と言っていたが、今から宿なんて取れるだろうか?
 救いなのは、今日が平日で、今が観光シーズンから少し外れているということだ。それと、こういう言い方は不謹慎かもしれないけれど、この不景気でどこの旅館も民宿も経営が苦しい。無理を言えばなんとか一晩くらいは泊めてもらえるだろう。食事やサービスに関しては期待出来ないにしても。
 もう、「どこへ行くんだい?」とは訊かない。どうせ「遠くよ」としか答えがないのは分り切っている。今でさえ充分遠くまで来た気がするけれど。
「ちょっとそこに座って待ってて」
 僕の了解も取らずに、保坂は走り出してしまった。あっという間に僕の視界から消える。
「やれやれ……」
 今日一日分の溜め息はとっくに終わってしまって、今吐いた溜め息は明日の分を前借しているようなものだ。それくらい溜め息を吐いている。
 新幹線乗り場の安いベンチに腰を下ろすと、本当に疲れが出てきた。今日一日何をしたというのでもないのに、だ。
 今の僕の状況を客観的に捉えてみた。一番近い表現は、『強引な飼い主に無理矢理散歩を強要されている飼い犬』といったところだろう。そして、それは多分この上ないくらいに的確だ。誰も否定することはないと思う。
「やれやれ……」
 この分だと、明日の分も終わって明後日の分の溜め息も前借りすることになりそうだ。
 溜め息を吐いて、その分息を吸い込む。思いがけず胸一杯に吸い込んだ夜気は、しっとりと湿って、頭を綺麗に浄化してくれるような感じだった。僕らの街とは違う、まだ現実に負けていない場所の空気だ。
 今の時代に惑わされることのない、力強い空気。目を閉じてもう一度、今度はちゃんと深呼吸をする。やっぱり、良い空気だ。駅の構内なのに、ちゃんと生きている匂いがする。
(随分と、『遠くまで』来たんだな……)
 地名だけは知っている場所。有名じゃないけれど、誰でも名前だけは知っている場所。
 季節外れのバカンス。
 その相手は、今日の夕方に再会した、学生時代の知人。それほど親しくはしなかった、顔見知りの知人。
 でも、何だかそこに違和感がないのは、きっと……
「ねぇ! 泊まる場所決まったよ!」
 保坂の笑顔に、迷いがないからなのだろうと思う。

 駅を出て、タクシーを拾う。
 人の良さそうな白髪混じりの運転手に、保坂がホテルの名前を告げた。
「お客さん、ちょっと遠いから時間かかるけど平気かね?」
「ええ、ホテルの方に連絡は入れておきましたから」
 運転手はルームミラーで僕ら二人を交互に見て、小さく頷いている。
(多分、勝手な想像をしてるんだろうな)
 この時期外れに、男女二人が荷物も持たずにこんな場所まで来て、夜更けにホテル。まあ、胸を張って威張れるシュチュエーションじゃないのは確かだ。
 タクシーが走り出す。ネオンもまばらな駅前通りを。
 保坂が選んだのは、海じゃあなかった。かといって山でもなかった。湖でもないし、まして遊園地でもない。
 適した言葉が見当たらないけれど、ここは多分森ということになるのだろうと思う。
(分かりやすい言い方をするなら、田舎だな)
 繁華街らしき場所を信号三つほどで抜け、車は次第に細くなる道を走ってゆく。街灯の数もだんだんと減り、商店どころか民家すら少なくなってゆく。
 僕らは会話もなく、車の中でじっと座っていた。二人でフロントガラスの向こうをぼんやりと見詰めながら。
 何のことは無い。運転手がいる、というのが会話の妨げになっていただけだ。
 黙っている僕らをちらちら盗み見ながら、運転手は何かを言いたそうにしている。でも、何も言わない。多分、何を言っても無視されるだろうと思っているんだろう。むしろ何かを言ってこの沈黙を何とかして欲しいところではあるけれど。
 ただならぬ雰囲気の車内に、AMラジオの陽気な声だけが響く。季節外れの祭囃子のように。
 居心地の悪さから、保坂の方をちらりと横目で伺うと、彼女はにこにこと笑ってこっちを見た。
(やれやれ……)
 一番不自然なのは、僕ってコトか。
 車はやがて広い道に出て、久し振りに出現した赤信号で止まった。

 ホテル、といっても有名観光地のそれとは違って、無理に飾ってはいない感じがした。良いように言うと。
 辛らつに言わせてもらうと、小さい。狭い。せせこましい。あと、名前負けしている。これじゃホテルじゃなく中途半端に洋風な旅館といった感じだ。
「いいわね! こういう雰囲気の場所じゃなきゃ『遠く』まで来た甲斐がないわよ!」
 保坂は気に入ったらしかった。それもかなり。
 チェックインは簡単に済んだ。こういう場合の礼儀として、僕がカードを出した。女性にお金を払わせるのはマナーに反するということを、僕は社会生活で学んでいるから。
 カウンター係の女性は鼻の小さな背の高い人で、猫背だった。丁寧にゆっくりと部屋番号、ルームサービスについて、朝食の時間などを教えてくれた。あまりに丁寧なのでこっちが頭を下げてしまうくらいだった。
 ちょっとしたものを買いたいというと、猫背の女性は少し考えてから、
「売店は閉まっていますが、まだ係の者がおりますので話を通してみます。少々お待ち下さい」
 と言って奥に消えて行った。
 すぐに戻ってきて、「売店はこちらの通路の突き当たりを右に行った所になります。今すぐ開けますので、ご案内致します」と言った。僕は丁寧に断わり、保坂と二人で売店に足を運んだ。

「何買うのよ?」
「ちょっとしたものさ」
 こんな小さなホテルにしては、売店の品揃えはマシな方だった。レジ係の若い男性が疲れを感じさせない笑顔で僕ら二人を見守っている。職業的で、誇りある、誰が見てもそれと認める、レジ係としての笑顔。蛍光灯の無機質で白い明かりが、陳列されている商品の目を覚まさせているように思えた。
 僕は手に持った籠に、シェービングクリームと髭剃り、それとウイスキーの小瓶とビーフジャーキーを放り込んだ。
「そんなもの、備え付けの使うなりルームサービスで頼むなりすればいいじゃない」
「なんかね、落ち着かないんだよ。欲しいものをわざわざ誰かに持ってきてもらうってのがさ」
 それに、ここのようなホテルでは、備え付けの髭剃りなんてろくに剃れやしないのだ。
 歯ブラシとチョコレートを籠に入れ、「これだけだよ」と言ってレジへ。
「待ってよ。私も何か買うから」
 抗議するような声に、振り返った。と、保坂が見ていたのは土産物のコーナー。
「あのね、そういうのは帰る直前に選ぶものじゃないのかな?」
 多少うんざりとした声でそう言うと、批判的にこう言われた。
「目の前にこんな楽しそうな物があるのに、素通りなんて出来ないじゃない?」
 益体のない物を手に取り、楽しそうにしている。楽しそうな物なのかどうかは分からないけれど、保坂はかなり楽しそうだ。何でそんな物で楽しめるのか疑問だけれども。
「それもいいけどさ、忘れてない? 僕らは閉店後のお客だってこと」
「えっと、それじゃあこれにしよう」
 僕の持っている籠に、一つ品物が放り込まれた。カラフルな和紙でくるまれた六角形の筒だ。
「なにこれ?」
「さあ?」
 分かった。ただ欲しかっただけだ。子供みたいに、「私も何か欲しい」と言っただけ。
 心の中だけで小さく微笑んで、僕はカードで買い物を済ませた。

 部屋は、意外としっかりとしていた。意外と、というのは失礼かもしれないけれど。
「外が真っ暗だね」
 大きな窓に張り付くようにして、外を見ている保坂。
 僕らの住む街では、真夜中でも暗くはない。原色のネオンが通りに溢れているし、街灯は昼間眠って夜に目を覚ます。車は絶え間なく通り抜けるし、人の声も途切れることはない。
 ここは、とても静かだ。そして、とても真っ暗だ。他に表現の方法が見付からないくらいに。
「でも、カーテンは閉めて欲しいな。外から覗かれる、ってことはないだろうけど、それでも落ち着かないからさ」
「うん、分かった」
 珍しく素直に保坂が頷いてくれた。渇いた音を立てて、カーテンが夜の闇を遮る。
 買い物袋をベッドの上に置き、腰を下ろした。クッション性は悪くない。快適な寝心地を演出してくれるだろうと思う。
 何の悩み事も無ければ、だ。
(僕はともかくとして、保坂はどうだろうな?)
 にこにこ笑顔を消さないまま、彼女は僕の前まで歩いて来た。大きな眼鏡が、少しだけずれて下がっている。
「ねえ、お風呂とかどうしよっか?」
 いたずらっぽく訊いてくるけれど、僕は赤面したりはしない。代わりに溜め息を吐いた。
「あのさ保坂、こんな所まで連れて来たんだ。何かあるんだろ?」
 何もないはずはない。そんなことは誰にだって分かる。
「遠くまで来たって、結局自分からは逃げられないんだよ?」
「随分アレなこと言うじゃない。仕事柄、ってことね」
 肩を竦めて、眼鏡を指で上げた。
「とりあえず、まだ何も話すつもりにはなれないわね。だから、お風呂どうする?」
 溜め息がまた一つ。もう向こう一週間くらいは溜め息が出ないかもしれない。
「分かった。僕の負けだよ。お風呂は君の好きにしたら良い。僕は寝る前にシャワーだけ浴びるから」
 温泉地でもない場所にある『露天風呂』に入ろうとは思えない。カウンターにいた猫背の女性が言うには、一応二十四時間入ることは出来るらしいけれど。
「それじゃ、私は一人寂しく湯船に浸かって来ます。綺麗な星空でも眺めながら、ね」
 ……その一言に、僕は少しだけ、ほんの少しだけ気を引かれてしまった。
 保坂は備え付けの浴衣を持って脱衣所に入り、着替えて出てきた。タオルや石鹸は向こうにあるから、いつでも出られる状態になった訳だ。
「お湯に期待は出来なくても、露天ってのには期待出来るわよね」
 独り言のように言っているが、僕の気を引こうとして口に出している。絶対に。
 また溜め息を一つ吐いてから、
「僕も行くよ」
 と、そう言うしかなかった。

 当然、露天風呂は混浴じゃない。混浴だったら何があっても僕は遠慮していた。
「いい湯だ……」
 実際はそれほどいい湯ではなかった。時間が外れているせいか、少しぬるい。自分以外に誰もいない貸切状態なのは素敵だが、やっぱり少し静か過ぎる気もする。
 夜空は、保坂の言った通りに綺麗だった。首が痛くなるまで見続けても、まだ見飽きないくらいの星空。星の瞬きすらはっきりと見て取れる。それだけここはそれだけ空気が澄んでいるということなのだろう。
「ねえ! そっちはどう?」
 ちょっと遠くから、保坂の大声が聞こえた。
「そんな大声じゃなくても聞こえるよ。迷惑にならないようにしようね」
「そんなつまらないこと言ってないで、そっちはどうなのよ?」
 やっぱり僕の正当な提案は却下される流れにあるらしい。溜め息なんて、もう出ない。
「いいね。少し狭いけど、星空を見るって点ではこれ以上ないロケーションだよ」
「そっか」
 僕の台詞に満足したのか、保坂はそれで黙った。
 言いたいことも聞きたいことも、たくさんある。今ここで話始めたら湯当たりしてしまうくらいに。
 でも多分、やっぱり何を訊いたとしてもこう言うのだろう。
『まだ話す気にはなれないわね』と。
 それなら、僕はただ待っていれば良いのだ。待つのは嫌いじゃない。気紛れな飼い主の、はた迷惑な気紛れに尻尾を振りながら付き合おうじゃないか。
 夜風が軽く頬を撫でて、充分に温まった体を少し冷やした。手足を大きく伸ばせる湯船というのは、やはり贅沢なものだ。体が広がって、お湯との境界が薄れてゆく感じがする。
 夜空を見上げる。何もかもがいつもと違う環境。ここには喧騒もないし、夜空を照らす原色の火もない。せせこましい時間の制約もないし、誰も僕の邪魔をしない。
「そろそろ出るわよ!」
 保坂以外は。

 湯上りはお決まりのビール。両手に持ちきれないくらいの缶ビールを買い込んだ僕らは、部屋に戻って酒盛りを始めた。二つあるベッドにそれぞれ腰掛けて、その間に備え付けの小さなテーブルを置いて。
「カンパーイ!」
 元気良く、それも微笑ましい類の元気の良さで保坂がそう言って、一気に一缶を飲み干した。飲み干して、声も出ないのか、涙ぐんだ目をきつくつぶって小さく震えている。
「ねえ言って良い? 言って良い?」
「……どうぞ」
 何を言うのかは、誰にだって分かる。
「この瞬間のために生きてるわよね!」
 はいはい。

 ルームサービスで頼んだ乾き物をつまみに、保坂は一人でほとんどの缶を空にしてしまった。呆れ顔でその様子を見ながら、何をやってんだろうなぁとかそんなことを思っていた。
 本当に、僕らは何をしているのだろう? 日常から抜け出して、良い気持ちでアルコールに酔っている。やるべきことを全部放り出して。これじゃあただの現実逃避だ。
「あ、今つまらないこと考えてたでしょ?」
 結局、そういうことも全部保坂にとっては「つまらないこと」で解決されてしまうらしい。
「まあね。もうこれは性分だからね。どこにいても、何をしててもつまらないことを考えてしまうんだ」
「酔ってるときくらい楽しくなればいいのに」
「性分なんだよ」
 肩をすくめて、そう答えるしかない。確かに言われてみれば、つまらないことだ。どう足掻いたって足を突っ込んでしまった状況からは逃げられない。それなら、その中でどう楽しむかを考えた方がよっぽど建設的。
 後のことは、後で考えれば良いのだ。後になってもどうせ「つまらないこと」を考えてしまうのだから。
「私は楽しいわよ。こうしてぐるぐる回る天井見てるとねー」
 空になった缶をテーブルに投げ出して、そのままベッドに倒れこんでいる保坂。
「久々に良い気持ちだわ」
「それは結構」
「何でそう人の気分に水差すようなコトしか言えない訳?」
 今度は勢い良く飛び起きて、僕を睨みつけている。元気だ。元気がありあまっているみたいだ。
「せっかく久し振りに会えて、こうして一緒に、二人だけで、お酒飲めてるってのに」
「悪かったよ」
 素直に詫びる。確かに、僕が悪い。どんなときだって、酔った女が一番正しいのだ。それは経験から学んでいる。充分に。
「そろそろ話してあげるわよ。なんか退屈みたいだし」
「…………」
「でもね、聞いてもやっぱり、退屈だと思うわよ。こんなの、ただの……なんて言うのかしら……」
 ぼんやりとした目が、僕以外の場所を見て揺れている。
「弱虫? すがりついてる? 取り返そうとしてる? えっと……なんて言うのかしらね」
「とにかく、そういうことなんだろう?」
「そう、そういうことよ」
 大きく頷いて、最後の缶ビールに手が伸びる。ぬるくなってしまった缶ビールは、プルタブを起すと粗い泡が溢れた。保坂は気にせず続ける。
「そういうこと。昔出来なかったことを今やろうってだけ。それで何がどうなるとも思ってないし、アンタにゃ何も期待なんてしてないわよ。ただね、これは私の中の問題なのよ」
 段々と、保坂の口調が力強く、でも辛そうになってゆく。酔った勢いで本当のことを話すというのはあまり好きじゃないけれど、酔わないと話せないようなことがあるのだって知っている。
 僕は黙って、彼女の独り言じみた話に耳を傾けた。

「学生の頃は良かったわよ、そりゃあ。言い過ぎかも知れないけど、自分達が時代の真ん中にいるみたいな感じがしてた。何をやっても上手く行くって自信もあったし、これから先どんなことがあっても大丈夫だって思ってた。今思うと馬鹿みたいだけどね」
 でも、それはそういうものだと思う。自分は上手くやれている。今の自分はとても輝いている。誰にだってそう思えるような時期がある。輝かしい、栄光の日々。
「そんな中でも、やっぱりどうにもならないことが一つだけあった。それが……」
 彼女は頭を小さく振った。頭を振って、飲みかけの缶をテーブルに戻した。
「自分のこと、だわ」
 ずれた眼鏡を雑な仕草で戻して、僕の方を見ている。僕もしっかりと保坂を見る。
「私自身の欲求っていうか、願望っていうか、そういうものだけはどうにもならなかった。もっと良い望みがあって、もっと自分に合っている望みがあって……そういうのは分かってたの。でもね、私には私自身が何を望むのか、それを決めることは出来なかったのよ」
 自分には過ぎた望みを持っていた、ということだろうか?
「私はね、ただ一緒にいたかっただけなのよ。誰かと一緒に、ね」
 そう言うと、保坂はベッドの上で膝を抱えた。膝で顔を隠すようにして、ぼそぼそと続ける。
「一人でいると、寂しい。誰だってそう思うはず。でもね、私はそうじゃなかった。一人でいると、怖かったのよ。私が私じゃなくなるみたいで。私が何も無くなるみたいで」
 僕はこういうときいつもそうするように、黙っていた。黙ったまま、ただ話を聞くことに専念していた。
 こういう場合、僕が何かを言うと相手の話が止まってしまう。一度止まってしまった話の続きを引き出すのは、殆ど不可能に近い。
 語りたい話というのは、常に変わり続けているのだから。
 そして今、保坂は一番奥深くて素直でシンプルで、大切な自分のことを話している。邪魔なんて出来やしない。
「だから、私はいつも誰かと一緒にいた。何人もの男と付き合ったし、女の子の友達だってたくさんいた。知らない人にも積極的に話しかけたし、相手を楽しくさせてずっと一緒にいられるように頑張った。そんなことを続けて、本当に大切なことを忘れてしまったのね」
 ぼそぼそと聞き取り辛い声。でも、ここは都会じゃない。僕らの生活する街じゃない。ここは森の中の寂れたホテルで、とても静かな場所だ。窓の外は綺麗な星空で、生活の音なんて何一つとして聞こえない。
 保坂の声だけが、僕に届く唯一の音。
「私はね、一人でいる怖さを誤魔化すために誰かと一緒にいることを選んだ。でも、ただ一緒にいたいから、って理由で誰かを選んだことはなかった。会社に勤めて社会に出て、びっくりするくらいに私には何も残らなかった。当たり前よね、私はただ、私だけのために皆と一緒にいたんだもの」
 利己的で個人的な、一緒にいたいというだけの単純な願い。それは悪いことなのだろうか?
 僕には、そうは思えなかった。むしろ下手な飾りがない分、心地良くさえ感じられた。
 どこまでも我侭な、保坂の気持ちなんだと。
「それでもやっぱり社会に出ても、何人かの男と付き合ったわ。誰かと一緒にいたい、って欲求は強くなる一方だったし。そんなことを繰り返して気付いたことが一つ。私は、誰も好きになっていないってこと」
 大きく溜め息を吐いて、保坂が眼鏡を取った。寂しそうで苦しそうな目に、涙が浮かんでいる。
「目の前が真っ暗になるって経験、初めてしたわ。昔はこうじゃなかった。昔はちゃんとその人のことが好きで、好きで好きでしょうがなくて、だから付き合っていた。そんな簡単なことすら忘れて、ただ寂しさを紛らわすことにだけ必死になって。まるっきり馬鹿だわ、私」
 浮かんでいる涙は、こぼれない。まだ、こぼれるほどじゃあない。長い瞬きをして、小さく息を吐いて、続ける。
「だから、もう一度取り戻したかったのよ。あの頃の、誰かを好きになっていた私を。気が狂いそうなくらい好きって気持ちを思い出して、私だけが望むんじゃなくてお互いに望んで一緒にいられるような、そんな恋がしたかったの」
「恋愛体質……なんだな」
 不意に僕が呟いた単語に、保坂が反応した。口の中でそれを一度繰り返して、首を傾げる。
「恋愛体質?」
「生まれつき、誰かを好きになり易い人っていうのはいるんだよ。惚れっぽいとか気が多いとか、そういう風に言われる。でも、それじゃ風情がないから、僕は恋愛体質って呼んでる」
 恋愛体質、と保坂がまた口の中で呟く。
「そうね、そうだったんだわ。私は一人でいることが怖かったんじゃなくて、誰も好きになれないことが怖かったんだわ。だから無理やりに誰かを好きになろうとして、傷ついて、もちろん相手も傷つけて……ホントに馬鹿ね……」
 答えが、出る。もう少しで、保坂にとっての答えが出る。僕の役目は、それを手伝うことだ。それしかない。
「学生の頃、いつも一人でいる君が不思議でしょうがなかったのよ」
「僕としてはいつも皆と一緒にいたような気がするけど」
「そうね、皆と一緒にはいた。でも、君はいつだって一人だった」
 謎かけのようだ。一人じゃないのに一人。
「恋人も作らないで、親友と呼べる人もいないで、友達の輪の中にいつもいた。気が付けばそこにいた。空気みたいに。影みたいに。雨上がりの虹みたいに」
「随分と詩的な表現をされたな」
「水差すの止めてよ。思ったこと言ってるだけなんだから」
「分かったよ」
 肩を竦めて、おどけて見せる。ちょっと照れくさかっただけだ。
「私はいつも誰かと一緒で、付き合ったり別れたりを繰り返して、その度に自分をすり減らして。でも、皆のところに行くと君がいて、一人でも充分だって顔してて……正直、憎たらしかった」
 確かに僕はあの頃からずっと一人だったかもしれない。他の人から見ればそうだったかもしれない。
 でも、僕はただそういう付き合ったり別れたりというのが苦手だっただけだ。真面目な訳じゃない。ただ苦手だっただけ。
「憎たらしくて、何で平気なのか分からなくて、悔しくて、でもなんか放っておけなくて、近づけなくて、離れられなくて、いつも目で追ってて……。卒業して君と会わなくなって、初めて分かったわ。私は君が、羨ましかったのよ」
 羨ましがられることなんて何もない。そう言おうとしたけれど、止めておいた。きっと、僕がどう考えて何を思って今まで生きてきたのかなんて、言っても仕方ないだろうから。
 今は、保坂がそういうことを話しているのだから。
「恋愛体質、なんてぴったりの表現だわ。もう本能的に誰かと一緒にいることを求めていたんだもの」
「それが一番素直、なんじゃないかな?」
「素直って馬鹿ってことよ。何も考えてない馬鹿ってこと。素直なだけじゃ、何も出来やしないし、どんな望みも叶いはしない。少なくても、私は何も叶えられなかった」
「じゃあ、これからなんだろう? これから、君の中にある素直な望みを叶えればいい。そういうことなんじゃないかな?」
「あの頃みたいに若くなくても?」
「あの頃みたいに若くなくても」
 無責任な若さなんて、僕らには必要ない。たくさんの日々の中で、僕らは若さを失って、そして――
 本当の、望みを知った。
 それで、いいじゃないか。
「君の中には、一体何があるのかしらね?」
 保坂の目が、僕を映している。眼鏡を取った、潤んだ瞳が。
「それはまた、次の機会に」
 ウイスキーのボトルの封を切る。備え付けのグラスに注いで、そのまま一口。
 保坂の独り言じみた話は、もう終わったようだ。解決されたようだ。結局何が言いたかったのか分からないままに、なんとなく解決してしまったようだ。
 それならそれで、いいと思った。
「一人なのに一人じゃない君が、羨ましいのよ……」
 保坂の声が消え入るように細くなり、ベッドに倒れ込むような音が聞こえた。振り返ると、本当にベッドに倒れ込んでいた。
 溜め息混じりにシーツをかけ、手にしたままだった眼鏡を枕元に置く。穏やかな寝息を立てて目をつぶる保坂に、僕はこう言った。
「僕は寂しさに耐えている訳じゃないんだ。一人でいても平気な訳じゃない。ただ、僕には本当に欲しいものが分からないだけなんだ。だから怖くて何も手に入れられなかった。そういうことなんだよ。保坂が見ていたようなものなんて、僕の中には何も無い。恋愛体質でもない。そんな素敵なものじゃない。僕はやっぱり、自分のことだけで精一杯なだけなんだ。そんな僕を羨ましいなんて思っちゃいけない。保坂みたいな人が僕を羨ましいなんて言っちゃいけない。自分をもっと、誇らなくちゃいけない」
 返事はない。保坂はとても穏やかな顔で眠っている。
 僕は溜め息を、もう何ヶ月先のものを借りているのか分からない溜め息を吐いて、一人でウイスキーを飲み続けた。

 小さな物音で目を覚ました。寝ぼけたまま、考える。昨夜はあれから少し経って眠くなったので、何も考えずに眠ったんだった。
 静かに体を起こして、物音のした方――窓際に目をやる。窓から入り込む太陽の光に、目が眩んだ。
「おはよう」
 その声に、僕は答えた。
「おはよう」
 あれだけ飲んだにも関らず、保坂は元気なようだった。僕は少しだけ頭が重い。
 朝日の眩しさに、だんだんと目が慣れてくる。窓にはレースのカーテンが揺れている。保坂は窓を開けて、枠に手をかけている。白いカーテンと白い服と、真っ白な朝日。
「さあ、帰ろうか!」
 通り過ぎてゆく風にカーテンが大きく膨らみ、保坂の顔を隠す。
 でもきっと、保坂は笑っているはずだ。
 太陽の光を浴びて金に輝くカーテンの向こうの、灰色のシルエット。久し振りに再会した、古い知人。
 その笑顔を思い浮かべて、僕は朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 僕らの住む街に戻ったのは、昼過ぎだった。僕らは一緒に遅めの昼食を食べ、少しだけ他愛の無い話をした。
 そして今、別れようとしている。
「それじゃあ」
 保坂と再会した交差点だ。僕はこの信号が青になったら、向こう側に渡る。保坂はこの道を真っ直ぐ進む。
 僕らはここで別れる。
 奇妙で不思議で特別な再会も、これで終わる。
 街を行く人々はいつものように無表情で、無表情に疲れていて、理由も無く苛立っているように見える。
 空は相変わらず灰色で、空気も相変わらず無機質な感じがする。
 でも、ここは僕らの住む街だ。僕らはここで生きている。今までも、これからも。いつかこの街を離れる、その時まで。
 保坂が胸を張って、手を腰に当てる。背の低い保坂の、精一杯の大きな姿勢。
「どうせまた会うんでしょうね、君とは。何だかそんな気がするわ」
 灰色の空ではなくて、どこまでも抜けるような青空のような、そんな笑顔で保坂が言った。
「その時は、僕のことも少しは話すよ」
「期待してるわ」
 ひらひらと気楽に手を振る彼女に、僕は少しだけ笑う。信号が青に変わって、人込みが動き出す。
 動き出す。
「じゃあね」
 僕が言う。
「またね」
 保坂が言う。
 僕は振り返らずに歩く。
 保坂も多分、振り返らないで歩いて行っただろう。
 僕らは日常に戻って行く。
 交差点を渡って、僕は自分の日常に。
 人込みに紛れて、保坂は自分の日常に。
 雑踏と、騒音と、灰色の空と、無愛想な空気と。
 それと、ほんの少しだけ特別な出来事が起こる、そんな日常の中に。
 どんなに遠くまで行っても、僕らは結局ここに戻ってくる。
 お土産を手にして、ここに戻ってくる。
 僕が手にした土産物の中には、保坂が適当に選んだカラフルな和紙で包まれた六角形の筒がある。
 万華鏡、だった。
 くるくる、くるくると回すと形を変える万華鏡。とても比喩的だと思った。
 部屋に戻ると、日当たりの良い窓際にその万華鏡を置いて、僕は気紛れな再会劇に幕を下ろした。


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