坂道


 気持ちの良い風が吹いている。海から吹き上がる風。坂道を駆け上がり、空へと戻ってゆく風。
 途切れることなく吹き続ける風を背に受けるようにして、少年は自転車を走らせている。
 坂の上、この町の全部が見下ろせる場所を目指して。

 息を切らせて、汗を流して、少年は自転車をこぎ続ける。時折止まりそうになる両足を、それでも必死に動かして。空色の自転車は、九歳の誕生日に祖母からプレゼントしてもらった、彼の宝物。彼の体にぴったりと合うサイズで、ハンドルの前には小さな籠が付いている。
 彼はこの自転車で、町のあちこちへ行った。今年の夏休み中、ほとんど毎日のように出かけた。太陽は毎日眩しくて、彼の顔は健康的に日焼けをした。
 母親からは「ちゃんと宿題もするのよ」と決まりきったことも言われている。でも、そんなものは後になってからでも出来る。彼はそう考えていた。
 でも、天気だけは分からないじゃないか。今日晴れていたからといって、明日も晴れるとは限らない。晴れている日になると、彼はいつも落ち着かない気分になった。心が浮き立つような、心地良い不安。
 宿題は、雨の降った日にやればいいや。彼は自分にそう言い聞かせて、毎日自転車でこぎ出した。真夏の太陽の下へ。途切れることなく響く蝉時雨の下へ。
 そして、ほとんど毎日良い天気が続いていた夏休みも、もうすぐ終わろうとしている。
 彼は今、自転車をこいで坂道を駆け上がっている。

 背中を押すように吹き上がる風が、ほんの少しだけ汗を冷やしてくれる。倒れそうなくらいに息が切れて、胸が破裂してしまいそうだ。
 彼はその幼さの残る顔を少し歪めて、無理矢理大きく息を吸い込んだ。
 熱せられたアスファルトと自転車のタイヤがこすれて、耳障りな音を立てている。
 チェーンは時折軋みを上げて、「もう限界だよ」と彼にささやく。
 降り注ぐ太陽は、ただ黙って彼の姿を照らすだけ。
 頭がくらくらして、喉が渇いて、足が固まってしまいそうに重い。
 でも、彼は自転車をこぎ続ける。
 約束は、守れなかったのだから。

 空は青くて、高くて、とても綺麗で……
 涙が流れてしまいそうなのを、必死にこらえていた。
 その涙の理由も意味も、彼には分からないままだったけれど。

 夏休みが始まる少し前。長い雨が続いた日。天気予報ではそろそろ梅雨が明けるでしょうとしきりに言われていた頃。
 彼の祖母が他界した。
 葬儀は何の問題もなく執り行われ、その他の細々としたことも終業式の日までにはちゃんと終わっていた。
 古くて広い家の、一番日当たりの良い部屋。そこが彼の祖母の部屋だった。病気がちだった祖母はいつも布団に横になっていた。信心深かったのか、他に思うところがあったのか、毎日二度は仏壇に手を合わせていた。
 彼は、祖母が大好きだった。物心つく前に祖父は他界していたし、両親は仕事の忙しさもあり家を留守にしがちだったから。
 内気な子供だった彼は友達も少なく、祖母は少ない友人の一人でもあった。
 彼の九歳の誕生日、祖母はとても久し振りに家から外に出た。少年が「新しい自転車が欲しい」と言っていたのを覚えていたから。だんだんと成長してゆく彼の体にぴったりと合った自転車を誕生日に贈ろう。そう決めて家を出た。
 彼はその日、両親と一緒に家にいた。学校が終わって帰ってもいない祖母。少し不安になったが、久し振りに揃った家族と、たくさんのプレゼントに囲まれて、彼の笑顔はとても素敵なものだった。
 夜が来る少し前に、隣町の病院から電話があった。両親はその電話を受け、彼を連れて隣町まで車を走らせた。
 真っ白な病院の、真っ白な病室。薬と病気の匂いしかしない場所で、祖母は目を閉じて眠っていた。
「貧血を起して倒れられたようです。頭を少し打っているようですので、検査を兼ねて二日ほど入院して頂くことになると思います」
 祖母が家に帰って来る前の日に、彼の元に空色の自転車が届いた。送り主は、祖母だった。

 空色の自転車。彼の体にぴったりと合った、とても乗りやすい自転車。
 彼の祖母が贈ってくれた、最高のプレゼント。
 彼はその自転車で、そう広くもない町を自由に走り回った。
 時には友達と一緒に。時には一人で気ままに。
 小学校四年生に上がり、彼にもたくさんの友達が出来ていた。
 それは多分、祖母の買ってくれた空色の自転車のおかげだろう。

 自転車と、走る。
 大切に、いつも手入れをしていた自転車。
 小さな籠に荷物を積んで、いつも出かけていた。
 そして家に戻ると、寝たきりの祖母の部屋に行き、話すのだ。
「今日はこんな所に行ったよ」とか「今日は誰と一緒だったよ」とか。
 祖母はそんな少年に、静かに微笑みを返す。しわだらけの顔を、より一緒くしゃくしゃにして。元々細い目を、しわと区別が付かなくなるくらいに細めて。
 彼はそんな祖母の笑顔が大好きだった。

 太陽は、真っ白に輝いて彼のシャツを照らす。汗でぐっしょりと濡れたシャツは、彼の体に重く纏わり付く。
 額を流れる汗を肩口で拭い、彼はまた前を見詰める。
 坂道の、その上を。
 陽炎に揺れる、アスファルトの向こうを。

 彼には祖母の他にも、好きな子がいた。本人がそのことに気付くのはずっと先のことだけれど。
 同じ学校の、違うクラスの女の子。家がどこなのかも知らないし、学校では一度も話したことがない。
 その女の子は坂の途中の神社で一人、寂しそうにしていた。
 空色の自転車に乗る彼が神社の境内に入ると、彼女は少し怯えたような顔をした。彼はそれがとても哀しかった。その理由も、感情の名前すらも分からないまま、彼はこう言った。
「一緒に遊ぼうよ」
 こうして、少年と少女は始まった。
 いつも、少女は一人で神社の軒下に座っていた。とても、とても寂しそうに。
 境内の入り口、林の隙間の道から自転車がやってくる音を聴くと、彼女は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「こんにちは」
 いつも、最初はその一言から始まった。息を切らせて自転車から降りる彼は、その度にくすぐったいような、泣いてしまいそうな気持ちになった。
 学校が終わってから、夕食までの短い時間。二人は神社の境内で一緒に遊んだ。子供じみた、何の道具もいらない遊びで笑い合った。
 夕暮れが訪れると二人は「またね」と言い合って別々に家路に就いた。彼は坂の上に、そして彼女は坂の下に向かって。
 誰にも見付からない、二人だけの時間。

「いつもここにいるの?」
 彼がそう問うと、少女は黙って頷いた。
 少年はたまに神社を訪れるだけ。それはほとんど気紛れで、他の友達と一緒のときは絶対に足を運ばなかった。
 ここに来るときは一人じゃなくてはいけない。そんな気すらしていた。
 同じ歳の、同じ学校に通う女の子。それなのに、彼は少女のことをほとんど知らなかった。口数の少ない女の子を質問責めにするのも嫌だったから。
 少女はうつむいたまま、何も喋ろうとはしない。
「じゃあさ」と彼は明るい声で言った。
「じゃあ、僕ももっと来るよ。毎日は無理かもしれないけど、もっと来るよ。そしたらもっと遊べるよね?」
 彼のその言葉に、少女は顔を上げた。少し驚いたような、迷っているような、困ったような……
 それでも、嬉しそうな表情で。

 海から伸びる曲がりくねった坂道を上りきると、目の前には田園風景が広がる。青々と生い茂る作物と、田畑を縫うようにして走るあぜ道。住宅地は左手側、道沿いに並んでいる。正面の突き当たりは、森。そこから山が始まる。少年の通う小学校は左手の奥の方。ここからだととても小さくしか見えない。右手側にある防風林に沿って伸びる道は、田畑の外側を縁取るようにして続いている。
 少年は、右手側に自転車を進める。ほぼ真上にある太陽が、彼を容赦なくあぶる。
 平らな道を、呼吸を整えるようにして、それでも急ぎながら走る。畑と林の間の道を、陽光と蝉時雨の中を走る。
 時折木々の切れ間から海の青さが見える。日差しを受けた波はきらきらと輝き、一つ一つの光がまるで宝石のように思える。
 でも、少年はそんな素晴らしい光景を見ようとはしない。ただひたすらに、自転車を走らせる。息を切らせて。汗を弾けさせて。
 今はただ、この道を進むしかないのだから。

 女の子の名前は水名(みずな)といった。優しい、とても落ち着きのある名前だと彼は思った。恥ずかしくて、そう言ったことはなかったけれど。
 短い冬が過ぎて一つ学年が上がると、二人は同じクラスになった。でも、何故か学校では一言も会話をしなかった。
 ただ、帰り際に目配せをするだけ。他の誰にも気付かれないほどの、短い間のやりとり。
 小学四年生になっても、二人は変わらず神社の境内で遊んでいた。二人きりで、他愛のない遊びを繰り返していた。
 水名が好きだった遊びは、かくれんぼだった。小学校四年生にもなってかくれんぼなんて、とは思わなかった。彼はいつも小さな子供のように、水名の姿を探して駆け回った。
 春が過ぎて、夏を連れてくる雨が降る季節。二人は神社の軒先から雨粒が落ちる様を見ながら、ゆっくりと話をした。
 家族のことや、もっと小さかった頃のこと。それと、この先のこと。不思議と学校の話題は出なかった。もしかしたら少年も水名も学校が好きではなかったのかもしれない。
 灰色の空の下、静かに降り続ける雨を見ながら、たくさんの話をした。

 そんな中で、祖母が他界した。降り続いた雨が弱まり始めた頃のことだった。
 大好きだった祖母がいなくなって、彼は当然泣いた。両親が心配するくらいに、泣いた。忌引きで学校を休んだ数日の間、彼はずっと祖母の部屋で座って泣いていた。
 日当たりの良い縁側。雨はもう上がり、空は夏の色。
 振り返り部屋の中を眺めても、そこには誰もいない。布団も敷いていないし、祖母も微笑んではいない。話しかけても、何も返ってこない。ただ沈黙があるだけ。冷たい、ひび割れた沈黙が。
 蝉の声が聴こえ始めた。風の匂いが柔らかな温かさを帯びてきていた。
 祖母のいた部屋。この古い大きな家で一番日当たりの良い部屋。
 誰もいない、部屋。
 再び学校に通う頃、彼は少しずつ自分が変わろうとしていることに気付いていた。

 都会に引っ越す、という両親の提案に黙って頷いたのも、何かが変わろうとしている証拠だったのかもしれない。

 自転車を、走らせている。何も考えないで、ただ、走らせている。
 頭がずきずき痛む。顔をしかめながら、足の痛みをこらえながら、それでも止まらない。
 守れなかった約束とか、消せない悲しみとか、そういうものの全てを思い出さないようにして、ひたすらに自転車をこぐ。
 こいだ分だけ前に進む。山へと登る道は、もうすぐだ。
 あそこからは、この町の全てが見下ろせるから。

 水名はその日、学校で彼に話しかけた。初めてのことだった。クラスメイトはそれぞれの話に夢中になっていて、誰も気付かない。
 数日振りに顔を見た彼は、どこか大人びて見えて……
 それが、少しだけ怖かった。
 彼一人だけ、水名を置いて大人になってしまうような気がして……
 精一杯の勇気を振り絞って、声をかけた。
「大丈夫……?」
 か細い、消え入りそうな弱々しい声。他の誰にも届かない、少年にだけ届く声。
 静かに顔を上げた彼は、黙ったまま微笑んだ。誰にも分からないけれど、それは彼の祖母が浮かべていた笑顔にそっくりだった。
 その笑顔を見て、水名は初めて自分の気持ちに気付いた。
 その日、少年は神社に現れなかった。

 夏休みが始まった。夕方になると祭囃子の練習をする音が響いた。水名も少年も、その中にはいない。
 居場所を奪われてしまった水名は、毎日同じ道順で散歩を続けた。坂道を下って海に出る。バス停に座り、日陰で波の音を聴いて時間を潰すと、今度は坂道をゆっくりと上る。そこから町の北側を目指して、またゆっくりと歩く。町外れを流れる川沿いに道を下り、また海沿いの道まで。そして家に帰る。
 毎日、毎日そうやって昼過ぎから夕暮れまで歩き続けた。時々かすかに聴こえる祭囃子の音に、少し寂しい気持ちになりながら。
 歩き続けても出会うことのない、少年のことを考えながら。

 少年は毎日、自転車で町中を走り回った。夏休みが終わるのと一緒に引っ越すことが決まっていた。友達の誰にも、それを告げていなかった。
 毎日自転車で家を出て、日暮れと共に家に帰る。同じような行動をしていた水名と少年が出会うことがなかったのは、とても酷い偶然だ。
 二人が久し振りに会うことになったのは、夏祭りの日。
 夏休みももう、半分以上が過ぎていた。

 水名は夏祭りの日、友達に強引に誘われて神社に行った。本当は、行きたくはなかった。
 あの場所は、あの静かで誰もいない穏やかな神社は、自分とあの少年だけのものだと思っていたから。
 自分達以外の誰かがいる、二人だけの場所。変わってしまった景色。そんなものは、見たくはなかった。
 親に半ば強引に浴衣を着せられ、友達数人に連れ出され、いつもとは違う姿の神社に。鳥居をくぐると狭い道に露店が軒を連ねていた。電飾の提灯で明るく飾られた、日陰の小道。水名は泣いてしまいそうなほどの哀しみを感じていた。流れる人込みとそのざわめきと祭囃子の中で、凍り付いて動きたくないと思った。
 そんな水名の気持ちも知らず、友達は強引に手を引く。罪のない笑顔を満面に浮かべて。
 作り笑いを、初めてした日。

 小さな頃、まだ元気だった祖母に手を引かれてやってきた夏祭り。小さな町の、一夏に一回だけの夏祭り。
 少年は自転車には乗らず、ゆっくりと歩いて神社まで行った。昨夜電話で友達に誘われはしたけれど、一緒に行こうとは思えなかった。神社で会えれば一緒に見て回るかもしれないけれど、自分から進んで探そうとは思っていない。
 夏が終われば、この町を離れてしまうのだから。
 全部、なくなってしまうのだから。
 そんな渇いた気持ちで足を運んだ夏祭り。その人込みの中から水名の姿を見つけられたのは、奇跡のようなものだった。

 自分でも何でそうしたのか、全く分からなかった。
 浴衣姿の、いつもより寂しそうな水名を見て、彼は駆け出した。人の流れをかき分けて走り、手を伸ばす。そして、その手をつかんだ。
「水名」
 息切れしながら、その名前だけを呼ぶ。少女は驚いた顔をして、それから泣きそうな顔をして、本当に嬉しそうに微笑んで、顔をしかめた。
「手……痛いよ……」
「あ、ごめん」
 謝りながら手の力を緩めても、手を離そうとはしなかった。
「あれ? ――君じゃない。来てたんだ?」
 水名の前にいた数人の女の子が声を上げた。水名は困ったような顔を彼女達に向け、少年はむっとした。
「行こう」
 痛くないように、それでも強引に手を引きその場を後にした。振り返らずに早足で歩く少年の手には、水名の手がしっかりと繋がれている。
 水名は「ごめんね」と唇を動かして、しっかりとした足取りで彼の後について行く。
 何故か楽しくて、嬉しくて、とても久し振りにちゃんとした笑顔を浮かべていた。

 気がつけば、夕暮れが訪れていた。
 神社への小道を抜け、海から伸びる坂道に出る。曲がりくねりながら町の上の段へと続く坂道だ。その途中、細い砂利道を右に曲がって少し進むと、大きな木が立っている。大人三人が手を繋いでも抱えられないほどの、とても大きな木だ。
 その木の木陰には、石を並べて設えられた水場がある。澄み切った湧き水がそこに溜まり、そして流れて行く。
 二人はそこで足を止めた。水名は息を弾ませて、頬を赤らめている。少年は何故か照れくさくて、黙って海の方を見詰めていた。
 夕陽が海に映って、朱色の光が一面に広がっている。一秒毎に色を鮮やかにしてゆく空。青を深くして、朱を濃くしてゆく。
 海に沈む太陽が、海と空とを照らしている。
 空を、燃やしている。
「……えっと……」
 何を言っていいのか分からず、水名はとりあえず声を出した。
 離れてもまだ聴こえる祭囃子に邪魔され、その声が届いたのかどうかは分からない。
「ごめん、急に引っ張ったりして」
 少年がそう言った。でも、彼は少しも悪いとは思っていなかった。
 あの場所は元々水名と彼だけの場所で、そこに土足で押し入ってきたのは、他の人達なのだから。
 はっきりとそう思った訳ではないけれど、彼は心の中でそういった悔しさを感じていた。
 だから、悪くない。
 でも、ごめんと謝った。もしかしたら、さっきの行動で水名に嫌われてしまうかもしれないと思ったから。それだけが怖かったから。
 水名はそんな少年の気持ちも知らず、何度も何度も首を振った。言葉が出ないくらいに気持ちが溢れていた。いつもおっとりしていて口数の少ない水名のコミカルな仕草に、少年は少しだけ笑ってしまった。
 そんな少年の無垢な笑顔を久し振りに見て、水名は目が潤んでしまった。感情が高まると、涙が自然と溢れそうになる。そんな経験を今日、初めてしている。
 祭囃子が、遠のいたような気がした。
 今ならどんなことでも言える。二人で肩を並べて座っていたあの時のように。ここはあの神社の境内じゃないけれど、水名の隣には少年がちゃんと立っている。立って、真っ直ぐに目を見詰めてくれている。
 一人でこの町を歩き続けていたあの寂しさなんて、もうどこかへ行ってしまっていた。一緒に時間を過ごしていた頃の、あの少年が今目の前にいる。その安心感が、水名に勇気を与えてくれる。
「また、一緒に遊べるよね?」
 それがどれだけ酷な言葉なのか、水名はまだ知らない。ただ、思ったことを素直に口にしただけ。何の罪もない、胸の奥から湧き出た気持ち。
 少年は、その言葉に胸が詰まるような気持ちになった。喉の少し下の辺りが、狭くなったような感覚がした。
 彼はそれでも微笑んで、「うん」と頷いた。
 浴衣姿の水名は、手を胸の辺りで合わせて満面の笑みを浮かべている。
 少年には、本当のことなんて言えるはずもなかった。

 照りつける太陽の暑さとか、少し進むたびに重くなる足とか、時々目に入る汗とか、そういうものを全部無視して、自転車をこぐ。
 バカみたいだ、とは思わない。もう何も考える必要はない。
 砂利道はやがて、森に入る。そこからは急な上り坂になっている。山の入り口だ。
 日陰の、薄暗い道。風がゆっくり通り抜ける涼しい道。少年はサドルから腰を上げ、足を一層力強く動かす。
 何も、考えないようにして。

 短くなってしまった、夏休みの残り。二人は毎日を一緒に過ごした。
 神社の境内でいつものようにかくれんぼをすることもあれば、二人であてもなく散歩することもあった。少年はゆっくり歩く水名に合わせて、空色の自転車を押す。水筒やタオルの入ったバッグを二人分、籠に入れて。
 昼過ぎから夕暮れまで。毎日は穏やかに過ぎて、緩やかに流れた。
 夕立が降れば、神社の軒先で雨宿りをして。
 いつもよりも暑い日には、境内の裏にある水場に足をひたして。
 たくさんの話と、たくさんの他愛もない遊び。無垢な笑顔と、言えない言葉。
 二人で見た、たくさんの風景。
 坂道の上から、海を眺めたこともあった。夕暮れ時の海は、太陽を抱きとめようとしているようで、いつもより優しく見えた。
 川原の石に腰を下ろして、その流れを眺めたこともあった。昼時の、真上から照りつける太陽に、魚の背が光る。水しぶきが光を反射して、宝石箱の中のようだった。
 神社からも、海が見えた。緩やかに弧を描く砂浜。それに沿うようにして伸びる防波堤。防波堤の手前には、道が走っている。時々バスが行き来する以外は、ほとんど車の通ることのない道。知らない場所から、この町を通って、また知らない場所へと続く道。砂浜に押し寄せる波はいつも真っ白で、いつまで見ていても飽きることはなかった。
 残り少なくなってしまった夏休みを、二人はそうやって過ごした。

 そして、夏休みが終わる三日前。二人は、学校の友人達に出会ってしまった。
 とても、残酷な出来事だった。

 防波堤から砂浜に抜けて、海を眺めていた。その日も太陽は元気良く町を照らしていた。真っ白な視界に映る、真っ青な海。雲の多い空は夕立の合図。靴の裏で形を変える砂の心地良さを感じながら、二人はとりとめもない会話をして歩いた。
 浜辺からの帰り道。バス停から真っ直ぐ伸びる坂道。いつもの坂道を二人でゆっくり歩いていると、後ろから声をかけられた。
「あれ、――君と水名じゃない」
「ホントだ、二人共どうしたんだよ?」
 男女数名の友人達が、それぞれバッグを手に坂の下から駆け寄ってきた。多分、バスを使って隣町のプールにまで出かけていたのだろう。そして、運悪くバスの到着時間と重なってしまった。少年は水名を隠すようにして前に出た。水名は少年の背中に隠れるように一歩下がった。
 夕暮れ前の日差しが、二人の影をアスファルトに残す。
「そういやお前、転校するんだって? 今朝母さんから聞いてびっくりしたよ!」
「うそ! ――君引越しちゃうの?」
「何で言ってくれなかったんだよ!」
 口々にまくし立てる友達に、少年は顔をしかめた。彼の後ろには、水名がいる。そして水名はまだそのことを知らないのだから。
 水名にはまだ、言えないままだったのだから。
「お前ん家の母さんが、ウチの母さんに挨拶しに来たって。俺そんなこと知らなくてさ、確かめようと思ったんだけどお前いっつも家にいないし」
 少年は何も言えないまま、背中の後ろだけを気にしていた。水名の手が、シャツの裾を握っている。
「それじゃあお別れ会とかしなくちゃだね!」
 誰かがそう言った。少年は何も言えない。話はどんどん進み、
「じゃあ、明日のお昼くらいに俺の家に皆で集まって――のお別れ会だ!」
 という所まで決まってしまった。
 少年と水名を残して、彼らは坂道を上って行く。明日のお別れ会のことを、とても楽しそうに話ながら。
「……水名」
 渇いた喉で、その名前を呼ぶのが精一杯だった。振り返ることすら出来ない。
 水名は少年の背中に額を押し付けた。何も言えるはずはなかった。
 少年の目の前には、海が見えている。一日を終えるために朱に染まり始めた海が。
 雲の影は徐々に大きくなり、風の匂いが変わり始めた。
 もうすぐ、夕立が来る。

 何も言えないまま、二人は坂道を上った。少年は自転車を押して。水名は少年のシャツを握り締めたまま。俯いたまま、目で靴を追いかけている水名。何かに捕まっていなければ、倒れてしまいそうだった。
 たくさんの思い出と、たくさんの気持ち。たくさんの言葉と、たくさんの感情。それらがあふれ出しそうで、震えそうなくらい怖かった。
 少年が、遠くに行ってしまう。
 そんなことは、考えたこともなかったから。
 二人は黙って坂道を上る。やがて鳥居の辺りに差し掛かった頃、空が大きな音を立て始めた。次の瞬間、ぽつぽつと大粒の雨が降り出す。
 二人は黙ったまま、急ぎ足で神社の軒下に逃げ込んだ。

 夕立の始まりは、土の匂いがした。神社の古びた屋根を打つ雨粒は、細かく弾けて集まって、雨どいを通って落ちる。境内は、渇いた土と湿った土でまだらの模様になっている。
 明るい空から降る、大粒の雨。海からの風に流されて、斜めに落ちる雨。
「本当に、引越しちゃうの?」
 水名が始めにそう言った。やはり、渇いた声だった。渇いているのに潤んでいる声だった。
 少年は黙って頷いた。「うん」とも「そうだよ」とも言えなかった。言えるのなら、もっと早くに言ってしまっている。
 軒下の、石積みの階段。並んで座っている二人。水名は少年の膝に小さな掌をそっと乗せた。かすかに震えていることに、彼は気付いた。
「何で、もっと早く言ってくれなかったの?」
「……ごめん」
 水名の顔が、瞳が、真っ直ぐに少年の顔を見詰めている。彼はただ、徐々に湿っていく境内を茫洋とした視線で眺めていることしか出来なかった。
「いつ引っ越すの?」
「夏休みが終わってすぐに……」
「それじゃあ、もう……一緒に遊んだりも出来ないんだね……」
「ごめん……」
「だってまだ……まだ……」
 言えなかった。その続きは、小さな水名には言えなかった。
 まだ始まったばかりじゃない。まだ言いたいことだってあるのに。
 まだ、何も……
 言いたい幾つもの言葉を言えないまま、水名の頬を涙が流れた。その涙は、少年の膝に落ちて弾けた。冷たい雨粒とは違う、暖かい雫。
「明日……お別れ会来てくれるよね?」
 少年が、何とかそれだけを言った。
「行けないよ……行けるはずないよ……だって、私きっと笑ってなんていられないもん……笑ってさよならなんて、言えないもん……」
 水名の顔が、見れない。
「ずっと一緒に遊んでいられるって思ってたのに……今度はちゃんと学校でもお話しようと思ってたのに……一緒に勉強して、一緒に帰って……ずっと一緒に遊んでいられるって……」
 雨脚が強くなり、水名の嗚咽がかき消される。もう、境内には幾つもの水溜りが出来ていた。水溜りは、雨粒で波紋を立てて揺れる。少しずつ、大きくなる。
 横殴りの雨に、少年の自転車は少しだけ濡れていた。

 さよならも言えないまま、少年は雨の中に飛び出した。自転車に乗り、振り返らずにこぎ出す。夕立の強い雨粒は、彼の顔をあっという間に濡らしてしまった。
 目もろくに開けられず、息もろくに出来ず、彼は家まで必死になって自転車で走った。
 水名を、あの場所に残したままに。

 さよならも言ってもらえず、掌のやり場も失い、水名はただそこに座っていた。雨が神社を、境内を、木々を打つ音だけが聴こえる。突然の雨に驚いたのか、蝉すらも黙っている。
 悲しくて、寂しくて、涙が流れていた。声が喉からこぼれていた。背中が震えて、足に力が入らない。
 少年の背中を追いかけようなんて、思えなかった。
 だからただ、そこで泣いていた。またあの日のように彼が来て、「一緒に遊ぼう」と言ってくれると期待して。
 でもそんなことはあるはずもなく、夕立が上がるといつもより遅めの夕暮れが訪れた。真っ赤な目と、真っ赤な夕暮れ。湿った風の匂いに、また涙が溢れて――
 たった一人、いつもの場所で座っていた。

 急な坂道を、少年は自転車で駆け上がる。時々砂利にタイヤを取られてバランスを崩してしまう。でも、止まらない。
 木漏れ日が彼の行く先を導くように照らし、蝉の声は彼にエールを贈る。でも、彼はそんなことに気付きはしない。
 汗で手が滑る。もうリズム良くペダルを踏むことすら出来ない。心臓が破裂しそうで、肺が胸から飛び出してしまいそうだ。
 でも、もうすぐなんだ。
 もうすぐ、僕が生まれ育った大切な町を全部見ることの出来る場所に行けるんだ。
 彼は自分に言い聞かせる。強く。迷うことなく。
 誕生日に祖母からプレゼントしてもらった、彼の体にぴったりと合った、彼の宝物の、空色の自転車。だから……
 あの場所で、この町を見たいんだ。

 夜。
 引越しの準備がほとんど終わり、寂しくなった部屋で少年は一人考えていた。
 離れてしまうこの町のこと。いなくなってしまった祖母のこと。
 そして、水名のこと。
 このまま、さよならも言えないまま、水名と別れてしまって良いのだろうか?
 もう、二度と会えなくても良いのだろうか?
 そう思うだけで、苦しかった。まだ小さい彼の心の中でも、それが何なのかはっきりとしていた。
 水名のことが、好きなんだ。
 もうまとめてしまった段ボールを開け、荷物をひっくり返す。突然の物音に驚いた両親が駆けつけ、彼に何かを言って帰っていった。でも、そんなことはどうだって良い。
「あった……」
 一枚のわら半紙を大事に手にすると、電話のある玄関まで走った。居間の前を通るとき、また両親が何かを言っていたけれど、気にしない。
 クラスの連絡網。そこにある水名の名前。番号を何度も確かめて、ダイヤルした。心臓がどきどき言っている。喉が渇いて張り付いてしまいそうだ。手だって少し震えているかもしれない。
「はい、――です」
「あの、――といいますが、水名さんをお願いします」
 精一杯のしっかりとした口調、しっかりとした言葉遣いでそう言うと、電話に出た水名の母親は少し微笑んだようだった。「ちょっと待っていてね」オルゴールのような音で、『エリーゼのために』が流れる。
『もしもし……』
 電話越しに聴く水名の声は、何だか少し潤んでいるように聴こえた。
「あの、僕だけど分かるよね?」
『うん……』
「明日……明日さ、また会おうよ。あの神社でさ、会おう」
『え……?』
 少し動揺しているような声。構わずまくし立てる。
「言いたいことが、言ってないことがあるんだ。ちゃんと言うから。明日、ちゃんと会って、ちゃんとあの場所で言うから。絶対言うから。だから……!」
『でも、明日は……』
「大丈夫、ちゃんと行くから。約束するから。だから、待ってて」
 短い沈黙。電話の向こうで水名は一体どんな顔をしているのだろう?
『うん、分かった』
 きっと、いつもと同じ笑顔を浮かべてくれているだろう。

 でも、その約束は守られなかった。

 良い天気の日だった。空の色は「まだ夏は終わらないよ」と言っているようだったし、蝉の声もそれにならっているようだった。風は相変わらず海の匂いを運んで来てくれていたし、太陽の光は他のどの季節よりも真っ白だった。
 水名はその日、少年との約束の日、朝一番に家を出た。「待ってて」と言われたから、ずっと待っていようと思った。
 お別れ会がお昼くらいから始まるはずだから、彼が来るとしたらその前か後。ちゃんと時間を決めておけば良かったかもしれないけれど、待つのが好きだから気にはならなかった。少年を待っているときの、心が浮き立つようなそわそわした感じが、好きだから。
 昼になって、太陽が頭の上に来た。もうすぐ友達の家で少年のお別れ会が始まる頃だろう。たくさんの友達と、たくさんの笑顔。それと、たくさんの声に送り出されて、少年はこの町から離れる。
 とても暑い日だった。水名は時々石段から腰を上げて、境内の裏で水を飲んだ。冷たくて透き通った湧き水は、いつもよりもずっと甘く感じられた。
 少年は、何を言ってくれるのだろう? そのことばかりが気になっていた。
 引っ越すことは止められないかもしれない。でも、もしかしたらもっと他の何かがあるのかもしれない。
 水名が想っているようなことを、彼もまた想ってくれているのかもしれない。
 それは、水名の心を浮き立たせた。今までで一番。
 例えこの夏の終わりに、少年がこの町から姿を消してしまうとしても。

 蝉の声が一層激しくなり、日差しは段々と柔らかくなる頃。
 少年はまだ来ない。
 きっと他の友達に引き止められているのだろう。そう思いながらも、視線は境内の入り口にから離れない。木々の切れ間を伸びる、日陰道に向けられている。
 木漏れ日がまるでカーテンのように揺れている。いつもよりもずっと眩しくて、ずっと綺麗な木漏れ日。その中からいつものように少年が現れるのを待っている。
 空色の自転車に乗って、息を切らせて水名の所に来る少年を。

 彼が姿を見せないまま、夕暮れが訪れた。
 水名がいつも少年と二人でやった、かくれんぼ。いつも水名が隠れて、少年が見つける役だった。
 どこに隠れても、どんなに上手に隠れているつもりでも、彼はちゃんと水名を見つけてくれた。
「見つけた!」
 そう言って顔中で笑う彼の顔が、大好きだった。だからいつも、かくれんぼをしたいと言った。子供じみているとは分かっていても。
 どこにいても見つけてくれるのが、他の何よりも嬉しかったから……
 きっと今日もまた、彼は水名の元に来てくれるはず。少し遅れても、「見つけた!」と笑ってくれるはず。
 他のことは考えないようにして、石段で膝を抱えている。

 太陽が海に沈み、空には無数の星が輝いている。虫の声は種類を変え、波の音すらもかすかに聴こえている。静かな、静かな時間。
 木々の葉がこすれる音が、冷たく圧し掛かる。
 少年は、来ない。
 水名は膝を抱えたまま、泣いた。声を出して、涙をぽろぽろ流して。
 少年は、来てくれなかった。
 かくれんぼも、もう終わり。皆家に帰り、今日一日の出来事を家族に笑顔で話す時間。
 ただ一人、水名だけが神社に取り残されてしまった。
 彼女を見つけてくれる人はもう、誰もいない。
 夏休みは終わり、少年は姿を消すだろう。いくら待ったとしても、もうここには誰も来ないだろう。少なくとも、水名の望む人は。
 涙が出なくなるまで泣いてから、水名は重い足取りで神社を離れた。街灯もまばらな暗い夜。ただ星だけが輝いている夜空。とぼとぼと、たった一人で家に帰った。
 家に帰ると、そのまま倒れるようにして眠った。どんな夢も見ずに、ただ、眠った。
 やっと始まったことが、途中で途切れてしまったのを感じながら。
 押しつぶされそうな悲しみと寂しさを、瞼の奥に閉じ込めて――

 急な砂利道にタイヤを取られ、彼は自転車ごと転んでしまった。派手な音がして、自転車が坂道を少しだけ滑り落ちる。渇いた砂利道に手をついて体を起こすと、膝を擦りむいてしまっているようだった。血が、にじんできている。見ると、自転車の籠もひしゃげてしまっている。汗をかいていた腕には、砂埃が張り付いている。顔も埃で灰色のまだら模様になってしまっていた。
 怪我の痛みを無視して、彼は駆け出した。這うようにして。自転車をそのまま置き去りにして。
 もう少し……もう少し……
 それはいつしか声となって彼の口から出ていた。繰り返し、繰り返し呟く。もう少し……もう少し、と。
 古くて苔むしている道祖神を越え、木々の間に飛び込む。下草で足を切ったかもしれない。額を枝にぶつけたかもしれない。でも、そんなことはどうでも良く思えるほどに――
 そこからは、町の全てが見下ろせた。

 雲一つない青空と、陰り一つない海。真っ白な砂浜に届く波は銀色に輝いている。
 防波堤と、それに沿って南北に伸びる道。南に行けば隣町に。北に行けば岬と山を越えて、遠くの町へ。
 町は二段に分かれている。坂の上と、下に。斜面はほとんど森だ。青いほどに鮮やかな緑色の木々が、海から駆け上がる風に吹かれて静かに揺れている。
 坂の下の家々。商店街があったり、洋風の新しい家が多く建っていたりする。水名の家のある、坂の下。
 坂の上には、学校がある。それと一面の田園風景。豊富な湧水で育った作物は、彼の好きなものの一つ。まだ祖母が元気だった頃は、夕食が毎日楽しみだった。
 坂の上と下の境目には、防風林がある。これがなければ、塩害でろくな作物が育たないだろう。木々の切れ間から海の見える、防風林。
 遠くに見えるのは、町外れを流れる川。徐々に幅を広くして、岬の手前で海に還る。泳ぐ魚の背を目で追った、とても綺麗な川。
 隣町には高い建物がたくさん見える。この町よりもずっとたくさんの人がいて、たくさんの家がある隣町。この町には中学校までしかないから、高校からはあの隣町に通うことになるはずだった。彼の友達はやがて、毎日バスに乗って隣町まで通うことになるだろう。海沿いに走る道を、朝と夕暮れの二回、それぞれ違う顔を見せて輝く海を眺めながら。
 ここからは、全部が見える。
 この夏休みを使って走り回った、少年の育った町の全部が。
 そして、これから育っていくにつれて知ることになるはずだった場所も。
 呼吸を整えるのももどかしく、彼はそこに倒れこんだ。山の中腹の、見晴らしの良い草原に。
 目を閉じてもなお、青い空が見えているような気がする。
 青く広い、眩しい空に抱かれているような――

 お別れ会の日、少年は迎えに来た何人かの友達に連れられて家を出た。
 昼食をご馳走になり、ゲームをして、お別れのプレゼントを貰い、夕暮れの前にはお開きになった。
 これで水名の所に行ける。そう思い、彼は走って家まで戻り、自転車をこぎ出そうとした。でも、それは母親に止められた。「お祖母ちゃんのお墓に挨拶に行くわよ」と。
 ほとんど強引に車に乗せられて、町外れの墓地へ。墓参りが終わったのはもう空が橙色に染まる頃だった。早く家に帰って、自転車に乗って、神社に行かないと……!
 そんな彼の焦りも知らず、父親は車を走らせる。坂道を下り、水名が待っている神社を通り過ぎて、海沿いの道に出て、隣町へと。
「久し振りに家族が揃ったんだから、どこかで夕ご飯でも食べようか」
 そんな両親の提案に、はっきり「嫌だ!」とは言ったが、受け入れてはもらえなかった。
 家族での外食が終わり、家に戻ったのは、もう完全に夜が更けきった時刻だった。
 それでも少年は自転車をこぎ出した。電気をつけて、一生懸命にあの場所を目指した。
 水名は、そこにはいなかった。
 いつも水名が座っていた石段の前に立ち尽くして、彼は泣いた。涙は石段に落ちて、幾つものしるしをそこに残した。
 彼は気付かなかったけれど、そこには水名のこぼした涙の跡も残っていた。
 言えなかった言葉を、少年は何度も心の中で繰り返した。
「好きだよ」
 空色の自転車だけが、彼の背中を見詰めていた。

 朝起きて、彼は自転車で家を飛び出した。長い坂道を一気に下り、海まで出て、そして今度は坂道を駆け上がった。
 水名にはもう、会えない。何故かそれだけははっきり分かっていた。
 もしかしたら家に行けば水名はいるかもしれない。嫌われたかもしれないけれど、それでも話くらいは聞いてくれるだろう。
 でも、会えない。
 だから彼は坂道を駆け上がる。
 約束は守れなかったけれど、この町を離れてはしまうけれど、せめて……
 この町の全てを、見ておきたいと思ったから。

 呼吸も収まり、汗もひいた。後に残っているのは、重く鈍い疲労感だけ。でも、それもすぐになくなるだろう。
 閉じていた目を、開ける。
 空はただ青くて、高くて、とても綺麗で……
 何も考えられなかった。
 何も考えられないまま空を眺めて、そして――
 涙が溢れていることに、今やっと気付いた。


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