四季


 今日、街であの人を見かけた。
 全てにおいて、僕の理想そのものな人。
 艶やかな黒髪と、儚げな細い肩。優しく響く声は眠気を誘い、控え目な笑顔は静かな幸せを湧き上がらせてくれる。
 春の気紛れな風を受けても顔をしかめずに、むしろ喜ばしそうに目を細める。そんな、全てを受け入れているような人。
 一目で好きになった。二度目に出会って、もう諦められないほど気持ちが高まった。
 一度でいい、一度でいいんだ。僕だけに微笑みかけて欲しい。あの目で僕を真っ直ぐに見詰めて、その笑顔で僕に幸せを感じさせて欲しい。
 あの人にしか、それは出来ない。他の誰でも、僕を満たすことは出来やしない。
 でも、あの人の隣には……
 左手の薬指に揃いの指輪をつけた、大人の男の人がいる。
 二人はとても親しそうに寄り添い、何の不安もない笑顔を浮かべていた。
 あの人の微笑みが向けられる先は、僕じゃない。
 僕は声をかけることも出来ない人を、好きになってしまった。
 過ぎ去る二人の背中を見送った、春。

 恋人が出来た、夏。
 あの人に少しだけ似た雰囲気をした、一つ年上の先輩。
 僕を大切にしてくれる。僕だけに微笑みをくれる。穏やかな幸せを感じさせてくれる笑顔を。
 でも……
 それはまるで出来の悪い模造品のようにしか見えない。
 髪も、肩も、声も、笑顔も良く似ている。でもただ一つだけ許せない、決定的な違いがある。
 僕の隣にいる時の先輩は、とても不安定で逃げ出したいようにしか見えない。
 あの、全てを受け入れてくれるような、完璧な安らぎがない。
 もしかしたらそれは僕のせいなのかもしれない。先輩と一緒にいるときでも、僕はあの人のことばかりを考えていたのだから。
 例え誰かのものだとしても、それでもあの人のことが忘れられやしないから。
 夏の間を一緒に過ごした、一つ年上の先輩。あの人に少しだけ似た雰囲気をした、先輩。
 哀しい目をした、僕の恋人。
 夏が終わる頃には、少しだけ似ていた雰囲気も変わってしまっていた。
 多分それは、僕のせいなのだろう。

 風が冷たくなってきた頃。並木道が枯れ葉で騒がしくなってきた頃。
 一人で歩く並木道で、あの人に声をかけた。
 僕の中にそんな勇気があったなんて、知らなかった。いや、もしかしたらそれは勇気ですらなかったのかもしれない。
 ただ僕は、何も考えずに無意識の内にそうしてしまったのかもしれない。
 少し驚いた顔をして振り返ったあの人の左手の薬指に、あの大人の男の人と揃いの指輪が光っている。
 僕みたいなただの学生に声をかけられて、驚いて、そして困っているようだった。
「立ち話も何だから」と、あの人は僕を喫茶店に連れて入ってくれた。多分、人通りの多い並木道で多くの人に見られるのが嫌だったのだろう。もちろん、僕だってさらし者になるのは嫌だ。
 連れられて入った喫茶店は、タバコと埃とカビと、ほんの少しだけ気持ち良いコーヒーの匂いがした。
 僕はあの人の向かいに座って、僕の気持ちを全部話した。
 初めて見て、一目で運命的に惹かれてしまったということ。他の人と付き合ってみたけれど、結局その人を傷つけるだけで、自分も傷つけるだけで終わってしまったということ。
 そして、こう言った。
「貴方がもう結婚して、幸せなのは知っています。でも、僕はそれでも……」
 どうしようもないくらいに、貴方が好きなんです。
 真剣な顔で僕の話を聞いてくれたあの人は、最後に微笑んでくれた。何も言わないで、あの素敵な笑顔を僕だけに向けてくれた。
 それだけでもう、何も考えられなくなって――
 コーヒーのお礼を言って、そのまま一人で喫茶店を出た。

 夏に付き合っていた、一つ年上の先輩。彼女とはまだ時々会っている。
 もちろん、あの夏のように恋人同士という関係じゃあない。先輩が僕に会いたいと、時々教室までやってくるのだ。その度に僕らは一緒に帰途に就く。あの並木道を避けて通って帰る。
 先輩の雰囲気は、それまでと変わり始めていた。
 あの人の模造品じゃあなく、先輩そのものとしての雰囲気。他の誰でもない、先輩だけの――
 僕はいつか、この人を好きになるだろうか? そんなことを考えて、切なくなった。
 僕はまだ、あの人以外の人を愛することが出来るのだろうか?
 報われなかった最初の恋は、いつまで経っても消えることはないと誰かが言っていた。
 先輩は、日に日に綺麗になってゆく。僕と会う時間も増えてゆく。
 僕はそれでも、先輩をもう一度恋人にすることなんて出来やしなかった。

 春と、夏と、秋と。三つの季節を、僕はあの人に心を奪われたまま過ごした。そうするしかなかった。
 目を閉じれば、あの人の姿。笑顔。
 耳に響く、あの人の声。手を伸ばして触れたい、細い肩。
 指で撫でたい、穢れ一つない黒髪。
 もう一度、あの笑顔が欲しかった。僕の全てを許して憐れんで、そして受け入れてくれるあの笑顔が。
 あの人の指に光る指輪が、憎いくらいに眩しかった。

 長い長い冬だった。
 生きていることすら忘れてしまうような寒さと、体が凍っているのではと錯覚させるような強い風の吹く、長い冬だった。
 コートの裾に当たる、先輩のコートの裾。僕らは並んで歩く。
 いつのまにかこうして、毎日を一緒に過ごすようになっていた。
 先輩の笑顔にはもう、何の不安もない。満たされて、穏やかに安心して、透き通った笑顔だ。
 でも、やっぱり先輩とあの人は違う。
 冬が長いと感じている理由は、誰に問うでもなくはっきりとしている。
 僕の中で少しずつ、大切な何かがずれて行くのを感じていた。

 冬の終わりの、全てを砕いてしまいそうなほどに寒い日。
 あの人と、その隣を歩く男の人に会った。
 僕は駆け出し、人込みをすり抜けて、二人に声をかけた。どうしてそんなことをしたのか分からない。
 驚いて振り返る二人と、驚いて振り返るたくさんの人。ほとんどの人はすぐに興味を失い、自分の世界に戻ってしまった。
 二人だけは、息を切らして立っている僕を見ている。
 何かを言おうとすると、後ろから控え目な駆け足の足音が聴こえてきた。先輩の足音だった。
 先輩の手が僕の背に触れ、あの人は微笑んだ。男の人も全てを知っているように頷いて、僕に素敵な一言をくれた。
「…………!」
 あの人は、微笑んだ。微笑んでくれた。今までで一番、僕が見た中で、僕に向けられた中で一番素敵な笑顔で微笑んでくれた。
 不意に涙が溢れて……
 人込みに消える二人の背中が滲んで見えなかった。

 あの人は、僕の理想そのものだった。そして僕は、あの人の笑顔を求めていた。
 受け入れ、許し、満たしてくれるあの笑顔。
 僕だけに向けられる、その笑顔。
 でも、あの人は僕の隣にいてはくれない。
 満たされたのに、狂ってしまいそうなほどに飢えている僕。
 どんなに偶然が重なったとしても、あの人にはもう会えない。
 僕にはそれが、何故か分かってしまった。
 涙を流す僕を、先輩は優しく包み込んでくれた。夜が終わり、朝が訪れるまで……

 また春が来て、僕の学年が一つ上がった。そして、先輩は進学のためにこの街を離れた。
 別れ際に僕らはキスをした。僕からする、初めてのキス。それだけが精一杯だった。
 春。暖かな真昼の光の下を僕は一人で歩く。あの並木道を、一人だけで歩く。
 時折先輩から電話がある。休みの日には会うこともある。
 最近、だんだんとあの人のことを考える日が少なくなって来ている。そして、先輩のことを考える日が多くなって来ている。
 そんなことに気付いて、僕は怖くなった。
 このまま僕は、あの人のことを忘れてしまうのだろうか?
 あんなにも、自分ではどうにも出来ないくらいに、あの人を愛していたのに。
 そしてこれから先、先輩のことすらも忘れてしまう日が来るのだろうか?
 最後に僕は、誰のことも覚えていないまま、一人で死んでしまうのだろうか?
 それはとても怖くて、僕は暖かな日差しの下、一人で震えながら歩いていた。

 長い雨が降り続く時期を、僕はたった一人で過ごした。
 時々ふとあの人のことを思い出して、切なくなることもあった。そんな夜は布団を頭まで被って、眠気が訪れるのをじっと待った。
 先輩からの電話を切ると、時間をどこかに置き忘れてしまったような哀しさが押し寄せてきた。そんな日は何も出来ないまま、暮れ行く日を眺めて過ごした。
 僕はこのまま、誰からも取り残されたまま、静かに消えてしまうのだろうか?
 雨の音が、僕の暗い考えを膨らませる。
 誰かに呼ばれたような気がして、振り向いても、当然誰もいない。
 長い雨が降り続く時期。僕は、毎日を迷子のように頼り無く過ごした。

 何も解決しないまま、夏がまた訪れた。
 日差しは例年と同じく白く濁っていて、眩しい景色を霞ませていた。
 透明な陽光に出会えるのは、朝の一瞬のこと。
 夜の手前の時間には、本当の青さを見せてくれる空に心を奪われた。
 あの人への気持ちが湧き上がって、湧き上がらせようとして、止めた。消した。
 全ては過ぎ去ってしまったことなんだ。もう、手を伸ばしても何にも触れることは出来やしない。
 夏休みで街に帰ってきた先輩と、毎日を一緒に過ごした。
 
 乾いた風が吹きつける季節。この季節が、一番たくさんのことを考えてしまう。
 落ち葉を靴の底で砕きながら歩いていると、世界の終わりはすぐそこにあるような錯覚をしてしまう。
 先輩は街を離れ、僕はまた一人ぼっちになっていた。
 笑顔を向けてくれる人も、僕の話を聞いてくれる人もいない。
 だんだんと自分の感情が平坦になってゆくような気がして、哀しくなった。でも、涙は出ない。あれから僕は、一度も泣くことが出来ずにいた。
 あの人が、僕だけに笑顔を向けてくれたあの時から。
 結局、全部は僕のせいだったんだ。僕にはもっとちゃんと出来ることがあったはずだ。
 何度もそう考えて、後悔を繰り返した。眠れなくなるくらいに。
 でもやっぱり、僕にはそうするしかなかった。
 そんなことを繰り返し、繰り返し何度も考えた。
 迷路の出口はここにはなかった。

 錆びた鉄の色をした雪が降っている夜。隣には先輩がいる。
 世間は毎年この時期になると例のイベントで盛り上がっている。
 先輩も例外ではなく、とても楽しみにしていた。
 赤と白の模様の袋には入ったプレゼント。子供の頃には楽しみにしていたプレゼント。
 それが今、こんなにも哀しく見えてしまう。
 僕は何も思えず、何も考えられず、先輩と一緒にいた。
 眠っている先輩の、暖かな吐息。首筋に触れる、柔らかな吐息。心地良い重さと、過ぎることを拒むような時間。
 その中で、僕だけが置き去りにされている。
 暗闇の中、手をかざす。闇の中で掌を見詰める。
 何も、見えない。
 涙も出ない。
 あの人の笑顔が、思い出せなくなってしまった。
 目を閉じて、掌で顔を覆う。
 笑うことすら出来なくなった、雪の降る夜。

 春になり、僕は就職した。先輩との関係は続いている。
 仕事は忙しくて、毎日が新鮮だった。たくさんの人達が僕に仕事を教えてくれる。仕事だけじゃなく、たくさんのことを教えてくれる。着慣れていないスーツとネクタイでさえ、たくさんのことを教えてくれる。
 たくさんの人の、たくさんの言葉。たくさんの出来事と、たくさんの記憶。その積み重ね。
 僕の感情も、以前のようなはっきりとした起伏を取り戻そうとしている。
 そんな中で、短い余暇は先輩と逢っていた。途切れ途切れの会話と、ほんの少しの笑顔。
 変わって行く生活は、僕自身すら変えてしまう。
 僕は、変わろうとしている。

 一瞬で春が過ぎて、街を灰色に染める雨が上がった。気が付けば、夏になっていた。
 職場の先輩達と遊んだり、先輩と逢ったり、一人で街を歩いたり……
 そんなことを繰り返して、夏ももう終わる。
 太陽の色が、思い出せない。風の匂いも。
 どんな景色を見て過ごしたのか思い出せない。何を考えていたのかも。
 僕の中のそんな黒い渦のような気持ちが誰にも伝わらなかったのは、僕が変わってしまったからなのかもしれない。
 多分、今の僕は誰が見ても「普通」に笑っているはずだ。
 でも、こんな笑顔は笑顔じゃない。そんな気持ちが湧き上がって、本当の笑顔を記憶の中に探す。
 そこには、何も無い。
 作り笑顔とか、愛想笑いとか、本当の笑顔とか……
 その差が分からないまま、夏ももう終わる。

 また秋が来た。例年よりもずっと寒くて、ずっと風の強い秋。僕は厚めの長いコートを買った。
 休みの日になると、一人で散歩をすることが増えた。先輩は勉強が忙しいらしく、地元には帰って来ない。
 仕事は順調で、怖いくらいに順調で……僕は多分、このまま大人になるのだろうと思い始めていた。
 気が付くと、足を止めて視線を巡らせていることがある。
 そして、それに気付く度に僕は哀しくなる。
 分かっているんだ。もう、あの人に会っても僕は何も感じない。あの人と僕との物語は、もうとっくに終わってしまっているのだから。
 いや、違う。僕は自分に言い聞かせる。
 そもそも始まってさえいなかったじゃないか。始まる前から、結末は見えていたはずだ。
 夕暮れ過ぎの、紫の並木道。閉じたシャッターに背を預けて、コートのポケットに手を入れて、僕はまばらになった人波に目をやる。
 幸せそうな人も、そうでない人もいる。
 嬉しそうな人も、そうでない人もいる。
 満たされている人も、そうでない人も……
 そして僕は多分、どうしようもないくらい惨めな人に見えるだろう。
 秋の夕暮れ。並木道で僕は、空を見上げることさえ忘れて立ち尽くしていた。

 仕事を始めて一度目の冬。吐く息は真っ白で、手を伸ばせばつかめるほどだった。
 僕はコートの下にセーターを着て毎日会社に通った。家を出て、あの並木道を越えて、駅まで。そこから二駅分電車に揺られて、また歩く。
 高校に通っていた頃と同じくらいに時間がかかる通勤。それだけ、たくさんのことを考えてしまう。
 寒くて、僕はとても寒くて……
 雪がちらつき出した頃には、マフラーを買った。
 寒いことを除けば、毎日は平穏だった。時々思い出される幾つかの哀しい記憶は、もう色褪せてしまった。その大まかな輪郭だけを浮かび上がらせて、すぐに消えてしまう。
 一度、楽しかった出来事を思い出そうとしたことがあった。幼稚園の頃から、小学校、そして中学校……
 でも、結局はそれも色褪せてにじんでしまっていた。
 寄せては返す波のように、僕の中でたくさんの記憶が甦る。
 ホームで帰りの電車を待っているときには、僕は何も考えないようにすることにした。

 積もった雪が道の片隅で灰色に汚れる頃。その上からまた雪が降り、雪が粒の粗い氷の塊になる頃……
 先輩が帰ってきた。
 駅まで迎えに行った僕の顔を見て、先輩は笑った。弾けるような、本当に嬉しそうな、見ているこっちまでも頬が緩むような、そんな笑顔で。
 ああ……そうか……
 これが、本当の笑顔なんだ。
 少しだけ長く目を閉じて、それから瞼を上げる。先輩は、僕のすぐ前に真っ直ぐに立っていた。僕を見上げるようにして。長い髪を、冬の冷たい風になびかせて。
「おかえりなさい」と僕が言う。
「ただいま」と先輩が言う。
 風に撫でられた頬は朱に染まり、吐く息はやっぱり真っ白。何となく先輩の手を握ると、ひんやりとして心地良かった。小さくて、柔らかな、冷たい掌。
「おかえりなさい」もう一度僕はそう言って、出来るだけ上手に笑った。
 笑いたい、と心から思った日。

 春になった。気が付けばまた春になっていた。僕はコートを薄手のものに変えて会社に通った。
 先輩は、僕らの住む街に戻ってきた。そして、ちょっとした事務の仕事に就いた。
 残業の多い僕を、先輩は駅で待っていた。
 一人暮らしを始めた先輩の部屋で、良く夕食をご馳走になった。
 気が付けば、僕は先輩を名前で呼ぶようになっていた。
 気が付けば、僕は先輩の手を握って歩くようになっていた。
 気が付けば、僕は先輩と一緒に笑うようになっていた。
 気が付けば、僕は……
 あの人のことを、忘れてしまっていた。
 先輩は僕の恋人になった。春の胸が騒ぐような夕暮れと、徐々に長くなる一日を、僕らは並んで過ごした。
 そして、気が付いたのは――
 彼女が、僕のことを受け入れてくれたということ。
 迷子だった僕はやっと、帰るべき場所を見つけたんだ。
 安堵と共に、何故か少し哀しくなっている自分に気付いて……
 彼女に、婚約を申し込んだ。

 揃いの指輪を左手の薬指にはめて、僕らは夏の空の下を歩く。とても暑い夏だった。繋いだ掌から汗が伝わるくらいに。
 あの人を想っていた日々は、今では僕の宝物になっていた。そのおかげでこうして彼女と一緒に歩くことが出来るのだから。
 あの時、並木道を歩く二人に声をかけたとき、もらった素敵な一言。それを思い出した。
 あの二人の幸せそうな笑顔は、思い出せないままだったけれど。
 でも、僕はちゃんと笑えるようになった。感情の起伏も取り戻したし、夜に眠れなくなることもなくなった。
 彼女と僕は、同じ部屋で暮らしている。仕事はそれぞれ別の場所だけれど、家に帰ってから朝が来るまでの時間は、ずっと一緒にいられる。結婚式は、何とか来年には挙げたいと思っている。暮らし向きは決して裕福ではないけれど、胸を張って「幸せ」だと言える。
 僕は、満たされている。
 短い夏休みを使って、僕らは遠くの海辺の町へと旅行をした。何もない、海と山しかないような田舎の町だ。そこで僕らは、たくさんの話をして、たくさんの思い出を作った。
 これから二人はこうして、それぞれの季節ごとに忘れられない思い出を残して行くことになるだろう。楽しい思い出も、もちろんそうでない思い出も。
 彼女の髪が真っ直ぐに伸びた。艶やかで、思わず触れてしまいたくなるほどに。
 彼女の肩はとても儚く見える。支えてあげなくてはいけないと思うほどに。
 声は優しく、穏やかで、まるで素敵な子守唄のように響く。笑顔は僕に幸せと、ほんの少しの勇気を与えてくれる。
 日毎、彼女は美しくなってゆく。
 ああ、そうか……
 女の人は、こうして綺麗になって行くんだ。
 眩しい日差しと、彼女の笑顔。僕はもう、決して迷うことはないだろう。
 蝉の声がかすかに聞こえる夕暮れ。昼間の青さと夕暮れの赤が混じりあって藤色に染まる空。アスファルトの熱気すら忘れられるような素敵な空を眺めて、僕らは歩いた。

 その年の秋も、やっぱり風が強かった。並木道を通り抜ける乾いた風は落ち葉を高く高く舞い上がらせた。空は白く煙る青さで、他のどの季節よりも高く見えた。段々と短くなる一日。その分、夕暮れの美しさは他のどの季節でも適わないくらいだった。
 ビルの切れ間、その遠くに見える山並みは紅葉で赤く、そして紫に染まって次の春への準備を済ませたように見える。
 そんな季節の中で、僕は一人の女の子に声をかけられた。たまたま一人で歩いている時の出来事だった。
 振り返ると、真剣な眼差しで僕を真っ直ぐに見詰めていた。高校生くらいの女の子だ。ショートカットの良く似合う、背の高い女の子。多分バレーボールか何かのスポーツをやっているのだろう。体は伸びやかなバネのように引き締まっている。
「あの……!」
 何かを言おうとして、それでも何を言って良いのか分からない。そんな表情をしていた。
(ああ……そうか。この子は……)
 あの日の、僕と同じなんだ……
 以前の僕だったら、こんな時にはとても哀しくなっただろう。涙だって流していたかもしれない。でも、今の僕は少し違う。
「どこか、落ち着いて話の出来る所に入ろうか?」
 大丈夫。僕はもう大丈夫だ。
 何を言えば良いのかは、分かっているんだから。

 そして、僕は大人になっていたことに始めて気が付いた。
 それはとても嬉しくて、寂しくて哀しいけれど、喜ばしくて――
 夕暮れの並木道を、人込みの中に消えて行くショートカットの女の子の背中を、じっと見詰めていた。
 吹く風は徐々に冷たくなり、そろそろ冬が来る。そして春が来れば……
 きっとあの女の子は恋人を連れて僕の前に現れるだろう。
 そうしたら、僕も結婚式を挙げようと思う。
 胸一杯に吸った空気は、あの頃よりもずっと気持ち良く体に沁み込んでいった。
 

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