天使は雲の上で、いつも一人だった。遥か下に見える人の世界をいつも眺めて、寂しさに耐えていた。 「私はどうして、一人なんだろう?」 天使の仕事は、人々を幸せにすること。とはいえ、幸せになる価値のある人間なんてそうそういない。そもそも仕事の対象は自分では選べないのだ。それは、神様が決めること。天使が勝手に動いてしまえば、人の世界は滅茶苦茶になってしまうから。 気が付けば、彼女は雲の上にいた。それからどれくらいの時間が経ったのか、良く覚えてはいない。 そして彼女は、まだ一度も人々を幸せにしたことがなかった。 眼下に見える、楽しそうな光景。笑顔を浮かべて歩く恋人たちや、暖かそうな家族の団らん。そんなものを、彼女はいつも見ていた。 一方悪魔は、天使とは少し違う仕事をしていた。 人々に、悪いことをさせる。それが彼女の仕事だった。 「人の世界は鬱陶しいな……」 彼女は人に紛れて行動していた。気が付けば、人ごみの中にいた。頭の中には人を誑かす無数の言葉と、ありとあらゆる悪事の手段。 毎日毎日、彼女は人々に悪事を働かせていた。捕まって牢屋に入る人がほとんどだった。 それでも、人は減らない。 人ごみに立ち、次の獲物を探しながら、彼女は疲れ果てた面持ちでため息を吐いた。 そしてもう一人。 彼はずっと、部屋に閉じこもっていた。彼は人間だった。 家族はもう彼を見放して、一日に三度の食事を与えるだけだった。 狭くて暗い部屋の中で、彼は毎日天井を眺めて過ごした。時々つけるテレビだけが話し相手だった。 一人でいる寂しさには、とっくに慣れてしまっていた。むしろ、一緒にいてくれる誰かを探すことの方がずっと大変そうに思えたし、彼にそんな勇気はなかった。 何をすれば良いのか、全く分からなかった。 悪事を働こうにも彼の細くて白い手足では何も出来やしないし、そんなことをしてもどうにもならないのは分かっていた。 とにかく、何をすれば良いのかだけが分からなかった。 今日もテレビをじっと見詰めながら、時間が過ぎるのを待つ。 ある日天使は、我慢出来なくなってしまった。寂しくて、何度も泣いて、それから決意した。 「地上に降りて、人と話をしよう」 少しだけなら神様も怒らないだろうし、仕事が入ったら指定された場所に行けば良い。 そうなると、相手は慎重に選ぶ必要があった。 出来るだけたくさんのことを知っている人が良い。それと、他の誰にも見つからないような場所にいる人が。 幸せな人は、大抵誰かが一緒にいるし、誰にも見つからないような都合の良い場所にはいてくれない。 天使は雲の上から街を見下ろして、慎重にその相手を選んだ。 そして、一人で部屋にこもっている少年に会うことにした。 悪魔は、うんざりしていた。 どんな悪事を働かせても、結局はすっきりしないのだ。 それは、誑かした相手の周りにも人がいるから。家族や恋人、それに知人に友人。そんな人たちのせいで、何をやらせてもすっきりしない。 どん底にまで落ちた悪人も、たくさんの人たちの手助けで立ち直ってしまう。最後には、幸せそうな笑顔を浮かべて家族に看取られる。 すっきりしない…… 「そうだ。今までとは違う、一人っきりの人間に悪事をさせよう」 そうすれば、もっとすっきりとするかもしれない。 ちゃんとした絶望が見れるかもしれない。 そう思って、彼女は街を見下ろす。高い、高いビルの上から。 そして、一人で部屋にこもっている少年を見つけた。 彼の元に天使と悪魔が訪れたのは、全く同じ日の全く同じ時間だった。 天使は天井からゆっくりと、悪魔は床からゆっくりと現れた。 白い布を合わせただけのような衣装の天使と、体のラインを強調するような衣装の悪魔。 少年は目を白黒させながら、二人に言った。 「何の用?」 「私は天使」と天使が言った。 「私は悪魔」と悪魔が言った。 「私とお話をしてくれませんか」と天使が言うと、 「私と一緒に悪いことをしようよ」と悪魔が言う。 少年はしばらくの間考えていた。現実味が無いし、そもそも何が何だか分からなかった。 「私は天使。全てを理解させる力を持っています」と天使が少年の頭に手を置くと、 「私は悪魔。全てを忘れさせる力がある」と悪魔は少年の胸に手を当てた。 そして少年は悪魔の力で常識とか経験とか、そういう邪魔になりそうなものを忘れさせられ、天使の力で今おかれている状況をちゃんと理解した。 天使は「悪事はいけません」と言い、悪魔は「こんな天使には何も出来やしないよ」と言う。 天使と悪魔はお互いに「自分の方が良い」と言い張る。少年は、それぞれの言い分をちゃんと聞いて、思いついた。 「天使は悪魔に、悪魔は天使になれば良いんじゃないかな?」 「でもそれじゃあ、私は人に悪事をさせなければいけない」と天使が言い、 「人を幸せにするなんて、私にはとても出来ない」と悪魔が言った。 「つまり」と少年は一つ咳払いをして続けた。 「天使が悪魔になれば、たくさんの人と話が出来る。それに、人を幸せにする悪事っていうのもちゃんとあるんだ」 天使は首を傾げて考え始めた。人を幸せにする悪事? 「悪魔が天使になれば、僕に悪事をさせたことになる。鬱陶しい人ごみにももう紛れなくて済むし」 悪魔は胸の前で腕を組んで考えた。悪事をさせたことになる? 「それで、ここからが重要なんだけど……」 少年の目は、久し振りにきらきらと輝いていた。 三日ほどして、一人の人間が殺されたというニュースがテレビから流れた。 最初はその男が殺されて泣く家族の映像が多かったけれど、もう三日すると、その殺された男がたくさんの人を恐喝して金を巻き上げていたということが分かった。 そんな殺人が、それからしばらく続いた。 「どうだい? 幸せになった人が結構いただろう?」 「ええ、それにたくさんの人と話すことが出来ました」 黒い衣装を着た天使が、少年の部屋でにこやかにそう言いました。 悪魔は雲の上で一人、首を傾げていた。これがすっきりする悪事なのだろうか? ずっと街を見下ろして、考えていた。今まで自分が人にやらせてきた悪事を。 そのどれにも、これは当てはまらないのだ。 もっとも、一人でいられることは彼女にとって幸せだった。 雲の上はとても静かで、鬱陶しい人の繋がりとかはここにはない。 でも…… 意を決して雲から降りた彼女は、また少年の部屋に行った。 「すっきりしたかい?」 「確かにすっきりしたけど……」 白い服を着た悪魔が、納得できない顔をして少年に向かい合う。 「人の世界ではね、人殺しを唆しただけで立派な犯罪なんだよ。殺人教唆、って言ってね」 少年の部屋で、また天使と悪魔が顔を合わせる。 「私は悪魔になった天使。もう満足しました」と元の白い服に袖を通す天使。 「私は天使になった悪魔。納得は出来ないけれど、すっきりしました」と元の黒い服に袖を通す悪魔。 「それじゃあ」 と少年が手を振ると、天使と悪魔も手を振った。 天井と床にそれぞれ吸い込まれるように消えた彼女たち。 天使は雲の上に戻って、たくさんの人としたたくさんの話を毎日思い出す。 悪魔は人ごみに戻って、すっきりした顔でまた人を誑かす。 少年だけが、暗くて狭い部屋からどこにも行けないままだった。 |