さよなら

 とにかく、僕は急いでいた。待ち合わせの時間はとうに過ぎてしまっている。
 走りながら腕時計を何度も繰り返し見るけれど、やっぱり時間は戻らない。
 夕陽もとっくに沈んでしまって、明かりといえば街灯のオレンジ色の光だけ。そんな時間だ。もちろん、待ち合わせは夕暮れの前だったはず。
 学生服で走るのは、あまり好きじゃない。膝の辺りはきついし、腕だって振れない。何より片手に鞄を持っているから、バランスが崩れて走り辛い。
「参ったな……」
 息切れの合間に、ため息をつく。こうして待ち合わせの時間を大幅に過ぎてしまった原因は、僕が所属している陸上部の顧問をしている工藤先生のせいだ。
「ちょっと倉庫整理を手伝ってくれ。五分くらいで終わるから」という言葉にのせられて、気が付けば一時間が過ぎていた。そうと知っていれば「約束があるから」と断っていたのに。
「篠原、怒ってるよな……」
 待ち合わせ場所の駅前公園で一人、ベンチに座ったまま僕を待っている彼女の姿を思い浮かべる。
 鞄を乱暴に放り出して、両足をぷらぷらさせて。時々石を蹴ったり、立ち上がって道の方を覗き込んだり。その繰り返し。
 それはそれで微笑ましくてかわいい光景なのだけれど、僕の遅刻が原因となると話は別だ。彼女の怒りは必ず僕の方に向けられてしまう。
 この間待ち合わせに遅れたときは、ファーストフードでの食事代を全額僕が出すことになった。その前はシルバーの指輪を買わされたし、その前はピアス……
 僕も一応、バイトをしているのでそれなりにお金はあるけれど、一緒に出かける度に何かをプレゼントしていると流石にもたない。
 それより何より、篠原を怒らせてしまうのは嫌だ。
 白い息を薄暗くなった空に溶けさせながら、僕は駅までの道を走っている。

 丸いぼんぼりのような街灯の下。その下のベンチに彼女はぽつんと座っていた。少しだけうつむいているのは、多分待つことに疲れてしまったからだろう。改めて腕時計を見ると、待ち合わせの時間から一時間以上も過ぎてしまっている。ここ数ヶ月で一番の大遅刻だ。
 渇いて張り付いた喉に大きく息を吸い込んで、重くなった足を前に出す。心臓が弾んでいるのは、走ったからだけじゃあないはず。
「ごめん篠原、ちょっと急な用事が入っちゃって……」
 彼女は顔を上げない。何も言わない。一番の危険信号だ。待っている時間が長ければ長いほど、この沈黙は長くなる。そして、その後に出てくる言葉は恐ろしいものになる。
 頭が痛くなるのを感じながら、篠原の隣に腰を下ろす。まだ息が荒いけれど、ゆっくり深い呼吸をしていればすぐに収まることを知っている。何せ僕は長距離の選手なのだから。
「あの……待ったよね?」
 沈黙に耐えられなくなって言った言葉は、思ったよりも間の抜けた台詞だった。真っ白い吐息が街灯に照らされる。
 横目で見ると、彼女の方は小さく震えていた。冷え切って震えているのか、怒り心頭で震えているのかどちらかだ。そんなこと考えるまでもなく分かりきっているけれど。
 こうなると、彼女から何かを言い出すまで待つしかない。下手に言い訳なんてしようものなら、より一層彼女を怒らせるだけだ。腰の辺りが落ち着かない感覚を感じながら、ゆっくりと呼吸を整えて待つ。
 やっと落ち着いて、汗が乾いて肌寒さを感じ始めた頃に、篠原がこう言った。
「別れよう、私たち」
 にっこり笑って、確かにそう言ったんだ。

「別れよう」と彼女は言った。しかも笑って、だ。
 実を言うと、「別れよう」と言われたのはこれが初めてじゃない。むしろ僕が彼女を怒らせる度にそう言われていた。僕らの友達の中でも、彼女の「別れよう」は有名で、仲の良い連中だと「また振られたか」とか笑い話にされていた。
 でも……
 今回の「別れよう」は全然違う。
 こんなにも素敵な笑顔で「別れよう」なんて言われたのは、初めてだ。そして、その分それが本気なのだと伝わってくるようだった。
 僕は思わず聞き返していた。
「え……どういうこと?」
 もしも通りすがりの誰かが僕の顔を見れば、世界で一番情けない顔だと思うかもしれない。それくらい僕は動揺していた。
 ほう……と彼女は大きく息を吐いた。白い塊が緩やかな風にさらわれて、消える。
「裕樹君が来るまでずっと一人で考えてて、やっぱり別れようって思ったの」
 僕の遅刻癖が別れの理由なのだろうか? だとしたら情けないにも程がある。
「遅れたことなら謝るよ。本当にごめん。でも、これからはちゃんと……」
「ああ、そういうことじゃないのよね。はっきり言って裕樹君の遅刻にはもう慣れっこだし」
「じゃあ……」
 頭の中からたくさんの言葉が溢れて、こぼれて、真っ白になってしまう。どうすれば良いのか分からなくなって、涙がにじんできた。
 僕の方を真っ直ぐに見ている篠原。彼女の顔は、どこか清々しくすら感じられる。
 そんなにも、僕と別れることが嬉しいのだろうか?
 もう、僕のことを好きでいてはくれないのだろうか?
「じゃあ、もう僕のことを好きじゃないの?」
 情けない、自分の声とは思えない声。今にも泣き出しそうな、母親とはぐれた子供のような頼りない声。
 僕の質問に、彼女はにっこり笑うだけで――
 何も答えてはくれない。
 心臓の鼓動がだんだんと高まって、苦しくなって、このままだと息が出来なくなるんじゃないかと思った頃、彼女がベンチから立ち上がった。
「さよなら祐樹君」
 息が詰まるくらい素敵な笑顔と、「さよなら」と、僕を残して……
 彼女は、公園を出て行ってしまった。
 いつもと同じ、真っ直ぐに伸ばした背中を、僕は黙って見送るしかなかった。

「付き合って」と言ったのは、篠原の方からだった。
 僕はまだ誰とも付き合ったことがなかったし、誰かを好きになるということの本当の意味も分かっていなかった。
 誰かを好きになるということは、とても強いことなのだと、知らなかった。
 彼女と付き合うようになって、初めてのデート。予定も何も決めていなくて、ただ思いつきで街をふらふらしていた。僕はその間中ずっとおろおろしていたけれど、彼女はしゃんと立って、何がしたいとか、どこへ行きたいとか、そういうことをしっかりと言ってくれた。
 人を好きになると、強くなる。
 それが彼女と付き合った僕が学んだ、最初の一つだった。

 昨夜はほとんど眠れなかった。
 冷え切った体で家に帰ると、急に熱が出た。多分寒さに当てられたのだろうと思う。
 だるさを我慢して夕食をとると、余計に体が重くなった。彼女に振られ、熱まで出して、僕はただ真っ暗な部屋で布団を被っているしかなかった。
 もちろん、たくさん考えることは出来た。それと、思い出すことも。
 彼女の初めての表情。やっぱり笑顔だった。最後の表情も笑顔だった。
 初めての声。僕が覚えているのは、少し緊張して強張った声だった。僕まで緊張してしまうくらいに。
 初めて手を繋いだのは、彼女の方からだった。僕はただ赤くなるだけだったけれど、彼女は照れ笑いを浮かべていた。空の高い頃だった。
 寒くなり始める頃には、毎週末一緒に出掛けた。映画や買い物、食事にちょっとした遊び。特別なことはなかったけれど、とても楽しかったことだけは覚えている。
 彼女を好きになり始めたのは、いつのことだっただろうか?
 それだけは思い出せなかった。思い出せないまま、気付けば朝になっていた。
 熱は下がってだるさも消えていたけれど、睡眠不足で頭が重い。
 頭だけじゃなく気分も足取りも重い。いつもよりもたくさんの人たちに追い越されながら、学校の門を通った。

「よう」
「おはよう」
 クラスメイトとそんな挨拶を交わして、肩を並べて下駄箱の前に立つ。上履きを出して、靴を入れて……
「祐樹君、おはよ」
 耳馴染んだ、楽しげな声が聴こえた。
「あ、おはよう……」
 顔を上げるまでもなく、分かる。間違いない。篠原だ。
 昨日僕に「別れよう」と言った、彼女がそこに立っていた。
「夫婦仲の良いことで」とクラスメイトがからかって、足早に廊下に消えて行く。
 上履きを履くことすら忘れて、しばらく呆然と彼女を見詰めていた。
 昨日と――別れる前と何ら変わらない笑顔と口調で、彼女は僕に「おはよう」と言った。
「早くしないと先生が教室に来ちゃうよ」
 強引に僕の手を取って引っ張って行こうとする彼女に、ただ唖然とするだけで……
「靴、いいの?」と言われるまで自分が靴下で立っていることに気付きもしなかった。

 繋いだ手は、必ず離れる。
「それじゃね」
「うん……」
 僕と篠原はクラスが違う。いつもこうして僕の教室の前で別れるのがお決まりになっていた。
 考えのまとまらない頭を抱えるようにして、自分の席に向かう。朝特有の浮かれた喧騒の中を、ぼんやりとした顔で歩く。
「おっす祐樹。また彼女と手繋いで出勤かよ」
 友達数人が僕の机の周りに集まって、口々に茶化す。いつもの朝の光景。
 でも……
「別れたんだ。振られたんだけどね」
 そう言うと、ちょっとした笑い声が上がった。
「またかよ。今度はどれくらい遅刻したんだ?」
「これで通算十二回目か。なかなかやるなあのコも」
「祐樹の『振られた』ほど信用ない言葉もないよな」
 友達は皆、真剣には受け止めていないらしい。まるで僕が狼少年みたいじゃないか。実績があるから否定は出来ないけれど。
 でも、それでも……
「いや、多分今度は本当に……」
 いつもよりもずっと沈んでいる僕の声に、友達は皆顔を見合わせている。
「でも、おかしくないか?」
「何が?」
「本当に別れたんだったら、どうして手繋いで教室まで来るんだよ」
 それが一番の疑問だ。
 彼女は確かに、僕に「さよなら」と言った。それなのに――
 どうして、僕の手を取ったのだろう?
 気の抜けた顔で掌を眺めていると、やがて先生がやってきた。友達は首を傾げながらもそれぞれの席に戻って行く。
 週番の「起立」の号令に、少しだけ遅れて椅子から立ち上がった。

 寝不足の上に悩み事があるせいで、授業には全然集中出来なかった。黒板の内容をノートに書き留めることすら満足に出来なかった。
 悩み事は、篠原のこと。僕の元彼女のこと。
 どうしてあんなに素敵な笑顔で「さよなら」と言ったのか、別れた次の朝に手を繋いで歩くことが出来たのか、そして……
(僕は、どうすればいいんだろ……)
 それが、一番の悩み事なのだった。
 昼休みを告げるチャイムが鳴って、クラスメイトはそれぞれ思い思いの場所に行く。パンを買うために駆け足で飛び出して行く人、数人連れ立ってお弁当を持って部室に行く人たち、席を合わせてそこに集まる人たち、そのまま一人で食事を始める人、たくさんだ。
 僕はそんな中で、ぼんやりと考えていた。
(いつもだったらこのタイミングで……)
 枯れてしまった花瓶の花を懐かしむような視線で、教室の入り口を見る。いつもだったら、篠原がお弁当片手にあそこから僕を手招きしていた。そして、一緒に屋上なり中庭なりで話をしながらご飯にするのだ。「今日は帰り、遅くなる?」とか言いながら。
 溜め息をついて、机に額を押し付ける。冷たくて気持ち良い……
「祐樹君、どうしたの? 大丈夫?」
「あ……」
 顔を上げないでも、分かる。
(篠原……?)
「ご飯、いらないの?」
 とん、と机の端に何かが載せられる音がした。篠原と、僕の分のお弁当だろう。
 いつもと、別れる前と何も変わらない……
 顔を上げて、篠原を見る。「?」と無言で小首を傾げる彼女には、悩み事なんて一つもないように見えた。
「今日は温かいから、屋上行こうか?」

 半ば強引に、僕は篠原に手を引かれて歩いた。階段を上り、屋上への扉を開ける。
「うー、まだ少し寒いかなー?」
 春が来るまでには、まだ少し時間がかかる。僕は制服の下に厚手のセーターを着ているので平気だけれど、スカートで足を露出している彼女には少し辛いかもしれない。
「反対側に行こうよ」
 繋いだ手を引かれた。慌てて足を進めて、彼女の後を追う。反対側、つまり日の当たる方は、風も避けられるし温かい。この季節、屋上で昼休みを過ごすのなら反対側のベンチにでも座っていないと寒くて辛い。
 日陰から、日当へ。てくてくと壁に沿って歩く。
「あ、良かった。誰もいない」
 眩しいくらいに降り注ぐお日様、風もここには届かない。幾つかのベンチだけが雨ざらしになりつつも、しっかりとそこに座っている。
(でも、さすがにこの時期に屋上っていうのは……誰も来ないんじゃないかな……)
 そう言おうと思ったけれど、口に出なかった。何でだろう?
 ぺたん、と座った篠原。隣にお弁当の入ったナップザックを置く。いつの間にか手は離れていた。何となく、指をわきわきと動かす。
「今日はね、ちょっと凝ったの作ってみたの。自信作なんだよ」
 鼻歌でも歌い出しそうなくらいに、楽しそうな彼女。これもいつものことだ。溜め息も悩み事も、今は忘れることにした。
 とりあえず、ご飯にしよう。
 差し出された温かいお茶を受け取りながら、僕もベンチに腰を下ろした。

 篠原は、料理が上手だ。もちろん、他の同年代の女の子と比べたことはないけれど、それでも上手だと思う。お弁当は見た目にも綺麗に、栄養のバランス良く詰められている。ご飯は食べやすいように俵の形に分けられているし、卵焼きはだしまで入っている。本格的だ。
「今日の卵焼きはね、びっくりするよ」
 宝箱を覗き込むような浮かれようで、僕の顔を見ている。「早く食べてみてよ。ほらほら」と視線で言っている。
「じゃあ、いただきます」
 少し小さめのお弁当箱に手を伸ばす。箸をつけたのは、程よく焦げ目のついた、黄色い玉子焼き。
「あ……これ、チーズ?」
「そうそう。チーズオムレツ風だし巻き卵。結構難しかったのよね、それ」
 白いご飯の詰められたお弁当箱を差し出しながら、にこにことしている。「おいしい?」と目で聞いている。
「おいしいよ、うん」と答えながらお弁当箱を受け取る。そのままご飯を口に。
 篠原はいつも、四つのお弁当箱を持ってくる。少し小さめのお弁当箱を四つ、だ。
 一つは彼女自身のもの、一つはデザートの果物が入っているもの。あとの二つは、僕のためのおかずとご飯がそれぞれ入っている。
 僕が食べ始めるのを待っていたかのように、彼女は自分の分のお茶を水筒から紙コップに注いだ。ゆっくりとした仕草で、草色のお弁当箱のふたを開ける。
 冷めても柔らかいままの、豚のしょうが焼き。プチトマトと生ハムのサラダ。レタスとベーコンは濃い目の塩コショウで炒めてある。ピーマンの肉詰め。ほろ苦いピーマンとひき肉が丁度良く合う。
 そんな感じの手の込んだお弁当を、まだ少し肌寒い屋上で食べた。
 いつもよりも彼女は口数が多くて、僕は口数が少なかった。
 食べ終わっても、誰も屋上には来なかった。

 お弁当を片付ける彼女と、紙コップの中のお茶をぼんやりと眺めている僕。何だかおかしな絵かもしれない。
「ごちそうさま」はちゃんと言った。初めて篠原が僕の分もお弁当を持ってきてくれたときから、一度も忘れたことはない。でも……
(僕ら二人は、もう恋人じゃないんだよね……)
 彼女が、「別れよう」って言ったのだから。
 もちろん僕は納得もしていないし、「いいよ」とも言っていない。だからどうして良いか分からないまま、こうして彼女の隣にいるのだけれど――
(篠原、どういうつもりなんだろ……)
 彼女の考えていることが、全然分からないのだった。それを言うなら、今まで一つでも分かったことなんてないけれど。
 ぼんやりと、少し眠くなり始めた頭で、空を眺める。高くて、少し白く濁っているけれど、青い空。遠くには街並みと、山が見える。僕らの街はどこからでも山が見える。
「今日はバイトの日だっけ?」
 毎週水曜日は、アルバイトが入っている。月曜と水曜と、土日は人がいないときだけ入る。叔父さんのやっている店だから、その辺りは融通が効くし。
 僕は黙って頷いて、紙コップのお茶を飲み干した。篠原がすぐに注ぎ足してくれる。
 温かい湯気を立ち昇らせる、お茶。少し甘い独特の味のする緑茶だ。僕はこれが一番のお気に入りだったりする。
「じゃあ、駅まで一緒に帰ろうか」
「え……」
 バイト先の叔父さんの店は、駅の少し向こうにある。彼女は駅から電車に乗って、隣の駅で降りる。中学校が隣町だったから。だから、今までバイトの日は一緒に駅まで帰ったのだけれど……
「何? 他に何か用事でもあるの?」
「えっと……多分ないと思うけど……」
「それじゃあ、いつもと同じにね」
 嬉しそうな、笑顔。「いつもと同じ」笑顔。もしかしたら、「いつも」よりもずっと素敵かもしれない笑顔。
 篠原は……何を考えているのだろう……?
 これじゃあ全然……
(今までと、何も変わらないじゃないか)
 もしかして、あの「別れよう」も「さよなら」も「いつもと同じ」ものだったのかもしれない。友達の中でも有名な、もはや名物にもなりつつある、篠原のいつもの……
「あのさ、篠原……」
「何?」
 真っ直ぐに僕を見詰めるのは、優しい目。
「もう、怒ってないのかな……その、昨日のこと……」
 お茶を飲んでいるはずなのに、どうしてか喉が渇く。緊張しているせいだと気付くまでに、少し時間がかかった。
 短い沈黙の後、彼女は首を傾げてから言った。
「昨日の遅刻のこと? もう良いわよ。祐樹君の遅刻には慣れてるしね。でも、次のデートのときは覚悟しておいてよね。また何かプレゼントしてもらうんだから」
 楽しそうに、控え目に笑い声を上げる。次の、次の……
「篠原、あのさ……」
 僕らって、別れたんじゃないの? そう聞こうとしたけれど、声にはならなかった。もしも……もしもここで「そうだよ」と答えられたら……
 いや、「違うわよ」と答えられても、「別れたいの?」と逆に問いかけられても、僕は何も言えなくなってしまう。
(ああ、だめだ。頭がごちゃごちゃしてきた……)
 僕の「あのさ」の続きが出ないことが分かると、篠原は楽しそうに話を続ける。
「何がいいかなー。新しいリップがいいかな、それとも靴がいいかなー。あ、ネックレスもこの間かわいいのがあったんだよね、それでもいいかも……」
 僕からのプレゼントという名目の「罰金」を、にこにこしながら考える彼女。形の良い眉が、完全に下がりきっている。口元も柔らかく緩んで、本当に楽しそうだ。
 仕方なく、僕は考えるのを止めた。こうして彼女の隣にいるときは、どうせ何を考えようとしても無駄なんだから。
 それで、僕は「あまり高いものは勘弁してね……?」といつもと同じ台詞を言うのだった。

 午後の授業も終わって、手早く鞄にノートと教科書を仕舞う。あとはホームルームが終われば帰れる。掃除は当番制。僕の当番は再来週だ。
 僕は少し緊張した面持ちで、担任の先生の話を聞いていた。決めたからだ。
 あれこれ悩んでいても仕方ないから、とにかく彼女に直接聞いてみよう、って。
 そうじゃなきゃ、きっと今夜も眠れない。
 ホームルームは問題なく終わり、僕は足早に教室を後にした。

「篠原、あのさ」
 いつものように学校のすぐ近くの電話ボックスで落ち合って、二人並んで手を繋いで歩いている。
 この道を通る人は、少ない。遠回りだし、風が強いから。この季節は特に、だ。誰も好き好んで寒い場所を歩こうなんて思わない。
 すぐ左側、三十センチ以内の距離にいる彼女。見上げるようにして、僕の顔を見る。
(よし、言うぞ)
 細い深呼吸をして、勇気をふり絞って、言った。
「篠原は、僕と別れたんじゃなかったの? その……別れたいんじゃないの?」
 んー、と軽く唸って、彼女は簡単に答えた。
「別れたわよ。私はそのつもり。だからもう彼氏と彼女じゃないし、恋人同士でもないわよね。でも、別れたいかどうかはまた別の話ね」
 簡単に、とても簡単にそう言う彼女。昨日からずっと悩み続けていた僕の方が変みたいだ。
 でも……
「別れたのに、今までと同じことして、こうして手を繋いで歩いて……こういうのって、付き合っている人同士がやることじゃないの?」
 言っていて哀しくなったけれど、その通りだと思う。友達同士じゃ朝から手を繋いで歩いたり、お弁当を作ってあげたり、手を繋いで帰ったりはしないはず。
「したいことして何が悪いの? 祐樹君は嫌?」
「嫌じゃ……嫌じゃないよ、嬉しいよ。でも、でもさ……」
「嫌なら私、止めてあげるわよ。祐樹君のこと好きだもん」
 頬を少し赤くして、それでも彼女ははっきりと言った。
「好きなのに、別れたの? 恋人同士じゃないのに、別れても同じことするの?」
 僕はもう、何が何だか分からない。彼女は「そんな決まりきったことを聞かないで」とでも言うかのように、溜め息をついた。
「じゃあ、祐樹君は私と別れたいの? 別れたら、もう手を繋いで歩いたりとかしたくない? 顔も見たくない? もう一生逢えなくても構わないのね?」
 きゅ、と彼女の手に力が入った。繋いだ手が、熱い。
「そんなことないよ、でも、でもさ……僕は……」
「祐樹君は、私のこと――」
 強い風が吹いて、彼女が何を言ったのか分からなかった。耳元に届いたのは、通り過ぎる風の音だけ。
 風が収まると、繋いでいたはずの手は離れていた。たっ、と篠原が駆け出して、僕の前で足を止めた。背中を向けたまま、空を見て、言う。
「付き合って、って言ったのは私の方だから、さよならは祐樹君が言いたい?」
 篠原は、振り向かない。僕はただ呆然と、彼女の背中を見詰めている。
「別れて、恋人同士を止めて、二度と逢わなくなって、いつか私がいたことも忘れて、私の知らない誰かと、どこか知らない場所で幸せに暮らしたい?」
 そんなこと……
「違うんだよ、僕はただ、そういうことが言いたいんじゃなくて……」
「祐樹君は、どうしたいの?」
 そう言って振り返った彼女は、やっぱり――
 とても、素敵な笑顔を浮かべていた。
 僕はその姿に見惚れてしまって……
 何も考えられなくなって、何も言えやしなかった。

「どうしたいの、か……」
 駅で別れて、バイトも終えて、お風呂も夕食も宿題も終わらせて、僕はベッドに寝転んでいる。
 どうしたいの? と彼女は言った。そんなこと決まっているじゃないか。
 別れたくない。
 今までと同じように、恋人同士でいたい。
 でも……
(多分、篠原が言ってることはそういうことじゃないんだろうな……)
 何となく、そんな気がする。
 参ったな……これじゃあ今日も眠れやしない。
 考えるのは、篠原のこと。篠原との思い出。
 雨が降っていた日、二人とも傘を持っているのに、わざわざ一つの傘に入って帰った。吐く息は白い塊になって、雨に消えた。
 天気の良い昼下がり。図書館の窓際で本を読んでいた僕ら。気が付くと篠原は机に突っ伏して眠ってしまっていた。起きたのは、夕暮れ前。「首が痛い」とか「どうして起こしてくれなかったの」とかそんなことをぶちぶちと言いながら怒っていた。額が少し赤くなっているのには、気付いていなかった。
 映画を見に行ったこともあった。彼女はひどく感動してぼろぼろと泣いていた。僕も当然感動したけれど、先に篠原が泣いてしまったので泣くタイミングを失ってしまった。差し出したハンカチは、まだ返してもらっていない。
 たくさんの思い出と、その度に少しずつ違う彼女の笑顔。思い出す楽しげな声。仕草。僕は……
 僕は、本当に、どうしたいんだろう?
 これまでのように、そういった思い出を積み重ねて行きたいのだろうか?
 それとも、ただ一緒にいられれば良いのだろうか?
 これまでよりもずっと、深い関係になりたいのだろうか?
 篠原を好きでいて、好きでい続けて、僕は……
 僕は、どうなりたいんだろう?
 分からないまま、瞼を閉じて、ゆっくりと眠りにおちていった。

「おはよう、裕樹君」
「あ、うん……おはよう……」
 下駄箱で、いつものように手を取られる。当然、僕らはもう恋人同士じゃない訳で……
「あのさ、篠原」
「? なに?」
「……こういうのってさ、やっぱり……」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
 多分、彼女は僕の考えていることなんて全部見抜いているんだと思う。
 僕が何を考えて、何に悩んで……それで、どうすれば良いのか分からないことも。
 どうしたいの? と彼女は言った。僕に問いかけた。
 そうだ、結局のところ……
 僕は、まだ何も自分から始めていないのかもしれない。

 授業の最中も、ずっと考えていた。真剣な顔をしていたらしく、先生も僕をあえて指そうとはしなかった。
 最初に告白をしてくれたのは、篠原だった。
 お弁当を作ってくれるのも篠原で、デートの時いつも待っているのも篠原。
 僕は、デートの誘いすらしたことはない。
 いつも彼女に引っ張られるようにして、後をついていた。
 まるで犬みたいに、だ。
(考えてみると、情けないことしてたんだな……)
 男なら、とかそんな肩肘張ったことは、僕は言えないけれど……
 せめて、もう少し彼女に出来ることがあったんじゃないだろうか?
 そう、例えばプレゼント。
 彼女と付き合うようになってから、たくさんのものをプレゼントした。といっても、大抵は僕の遅刻に対する罰金、みたいな感じだったけれど。
 でも、考えてみれば僕から何かを送ったことはない。
 待ち合わせもそうだ。僕はいつも時間に間に合えばそれで良いとばかり思っていた。でも、きっと篠原は約束よりもずっと早く待ち合わせの場所にいたはずだ。きっとそうだ。
 昼休みに呼びに来るのも、朝の下駄箱で僕の手を取るのも、全部彼女からで……
 そんなことを考えていると、放課後になっていた。
 昼休みは、やっぱり篠原が迎えに来てくれた。

 走っている最中は、何も考える余裕がない。
 体の軸がずれないように。歩幅が狂わないように。一定のペースを保つように。ペース配分を間違えないように。
 汗がじっとりとシャツを濡らして、重くする。鼓動が早まって、呼吸も苦しくなる。
 無理をする、ほんの少し手前まで力を振り絞って、走る。
 自分の限界を超えて走り続けようとするのは、ただの無茶だ。体を壊すなんて、馬鹿げてる。
 先輩たちのペースは確かに早いけれど、ついていけないほどじゃない。それに、無理をさせるような先輩は一人もいないし。
「よし、次ラスト!」
 先頭を走っている部長が声を上げて、少しペースを上げた。

「おつかれー」
 着替えを終えた先輩たちが、一人また一人と部室から出て行く。中には残って雑談をする人たちもいる。僕はいつも、さっさと帰る組だ。
「裕樹、お前次の大会出てみるか?」
「え……けど僕まだ一年で……」
「新人戦って大会もあるんだよ。一年と二年しか出られない、ってな。一応基準タイムがあるんだが、お前ならクリア出来ると思うし」
「それって、種目何ですか?」
「1500だな。いつも走ってるし、慣れてるだろ?」
 けど、いきなり大会っていうのは……
 悩んでいると、先輩が言った。
「一応、考えといてくれ。申し込みは来週末だから」
「はい」
 失礼します、と頭を下げて、部室を出た。
 
 僕が急いで帰ろうとする理由は……
 当然、篠原が待っているからだ。

「あ、篠原……」
「おつかれさま」
 下駄箱の前に、彼女は立っていた。
「今日も頑張ってたね、裕樹君」
「え? 見てたの?」
 なんだか恥ずかしい気がする。
「見てた、っていうかね、実はいつも見てたんだけどね」
 いたずらっぽく笑う。
「陸上部って、皆でずっと走ってるから目立つじゃない?」
「そう……かな? そうかもしれない」
「それで、その中でも一番裕樹君が目立つから」
 どういう意味だろう? もしかして、僕はそんなにもフォームがおかしいのだろうか?
「ほら、帰ろうよ」
「あ、うん……」
 結局それ以上のことは言わずに、篠原は僕の手を取る。
 これまでと同じように。
 ごく普通の恋人同士のように。

「裕樹君さ、明日の夜って家にいる?」
「うん、いるけど」
 明日は金曜日。多分いつもより夜更かしをしているだろう。
「あのさ、静かにしてるから、夜泊まりにいっちゃダメかな?」
「って……それって……」
「あ、でも、うん。嫌ならまた後でもいいし、無理にって訳じゃなくてね、えっと……」
 突然の申し出。
 それと、真っ赤になって俯く彼女。
 繋いでいる手は、少し強張っている。
「だって……篠原ちょっと待ってよ」
「あ、やっぱり嫌だった? それなら、土曜日は……」
「篠原ってば!」
 僕の中で、何かが弾けた。
「篠原、僕と別れたんじゃないの? 僕が嫌いになったんじゃないの?」
「別れたけど、好きだよ?」
 はっきりと、そう言う。当たり前じゃないの、とでも言いたそうな顔で。
「そんな……別れても今まで通りやってて、しかもそんな泊まりだなんて……分からないよ!」
 久し振りに出した大きな声は、少し裏返ってしまっていた。
「それじゃあ、裕樹君はどうなの? 別れたい? 別れたままでいいの?」
「そんな……僕は……」
 僕は、どうしたい?
 繰り返し考えていたこと。
 その度に篠原の笑顔や、いたずらっぽい仕草が思い浮かんだ。
 胸が、軋んだ。
「僕は、好きだよ。篠原のことが好きだよ。だからその……」
「本当? 本当に?」
 続けようとしたら、遮られた。詰め寄るように、篠原が体当たりをしてきた。
「それ本当だよね? 嘘じゃないよね?」
「え、うん……」
「もう一回ちゃんと言って!」
「す、好きだよ。篠原のことが。だからさ……」
「……よっし! それならもういいの。別れる、って言うのも取り消しね」
「……あの、篠原?」
 良くは分からないけど、はしゃいでいる。とにかく嬉しそうだ。
「じゃあ、明日の夜泊まりに行くのもオーケーだよね?」
「……いやまあそれは構わないけど……」
 泊まりに来るということは、そういうことなのだろうか?
「って、そうじゃなくて篠原……僕は何がなんだか……」
 とりあえず、篠原の機嫌が直ったというのははっきり分かるけれども。
「裕樹君鈍い。あのね、私付き合ってから今日まで『好き』って言われてなかったんだよ?」
「……そうだっけ?」
 記憶にないけれど、篠原が言うのだからそうなのだろう。
「いつも私ばっかり好き好き言って、フェアじゃないでしょそういうの」
 ……まあ、確かにそうかもしれない。
「あのね、そういうことをちゃんと口にするのって、とっても大事なことなんだからね!」
「あ、うん……ごめん……」
「……わかってないでしょ?」
「いや、その、そうじゃなくてさ」
 なんというか、僕は試されたのだろうか?
「分かってない。絶対分かってない。もう! やっぱり別れる!」
「わ、わ、ちょっと篠原待って……」
「待つわよ! 私は裕樹君のことが好きなんだから!」
 もうめちゃくちゃじゃないか……
「そのさ……僕は篠原のことが好きでさ……けど、僕からしたことって本当に何もなくてさ、こんな僕をどうして篠原は好きって言ってくれるのか分からなくてさ……」
「そんなの私だって分からないわよ!」
「いやその、ごめん。でもさ……」
 溜め息なんだか深呼吸なんだか分からないような呼吸をする。
 なんとなく周りを気にしてしまう。幸い、人はいなかった。
「僕は、篠原と一緒にいたいんだ。それだけじゃダメなのかな?」
「……ダメじゃないけど」
 言いながら、篠原の顔が下に向けられる。口調も、もごもごと聞き取り辛くなってしまった。
「だったら別に恋人同士じゃなくてもいいんじゃないの?」
 拗ねた子供のような声。彼女がこんな声を出すなんて、知らなかった。
「いやでもそのさ、僕はやっぱり、篠原とは恋人同士のがいいんだけど」
「それって、告白?」
 ぱ、と顔を上げる。なんというか、今日の彼女はころころと表情を良く変える。
「もう一回、ちゃんと言って」
「あー……だから、僕とこれからも恋人同士でいて欲しいんだけどさ……」
「やった! うんうんもういいよ! 完璧だよ!」
「……何が?」
 全く分からないけど……
 これで、篠原の『さよなら』で始まった騒動は終わったと思っていいのだろうか?
「やっぱり、明日泊まりに行くね!」
「……積極的過ぎる女の子って、どうなんだろうね……」
 また、今度は違う騒動が起きそうな予感はするけれども……
 走りつかれた僕の手を、彼女が引っ張る。
「ほら、裕樹君からの告白記念に、何か食べよう!」
 色々な面で脱力した僕の足はもうふらふらで……
 締まらない笑顔を浮かべて、彼女に引き摺られるようにして走るしかなかった。

 そして、週が明けて――

「おはよう、篠原」
「うん、おはよう」
 下駄箱で手を差し出すのは、僕からになっていた。


「おはよー」
「あ、きたきた篠原。そんで、彼とはどうなったのよ?」
 私は黙って、親指をぐっと突き出す。
 甲高い声が、教室中に響いた。
「それにしてもアンタ、珍しい趣味してるわよね」
「うんうん、それは言える。あんなぱっとしないコのどこがいいんだか」
 友達が口を揃えて言う。でも、私は何とも思わない。
「みんなが思ってるよりも、面白いよ。真面目だからつまらない、っていうのは一般的な考え方よね」
「篠原はマニアだわよ」
 溜め息混じりの台詞にも、何も思わない。
 裕樹君は、私の恋人なのだから。
 その恋人を育てるのは他の誰でもなく、私の役目。
「将来の旦那様なんだからね」
 にっこりと笑ってそう言うと、またみんなの叫び声が上がった。
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