濁った海の記憶


 海辺の町で育った。
 海と緑しか無い、退屈な町だった。
 空はいつでも青かったはずなのに、その青さは思い出せない。
 どこに行けば取り戻せるの?
 たった一人の親友に問い掛けても、答えは返ってこない。
 彼女は、もう死んでしまったのだから。
 彼に、殺されたのだから……

 夏の夕立は、好きだった。
 うるさい雨音も、嫌いじゃなかった。
 一人で部屋に篭り、外を見る。
 海に落ちる雨粒が、斑の波紋を描き、波にさらわれる。
 子供の頃、あまり雨が降ると海が白くなるんじゃないかと思っていた。
 海は青く、雨はいつでも灰色だったから。
 子供から大人に移ろう時期が来て、私の心は大きく変わった。
 親友に……藍香に彼氏が出来たからかもしれない。
 でも、当の二人は付き合っているとは思っていなかったらしい。
 一夏だけの、アバンチュール。今時少女マンガでもやらないシュチュエーション。
 彼女は彼が好きだったのだろうか?
 少なくとも、彼女は彼を必要としていた。都会から来た、啓吾という名前のオトコノコを。
 私はそれが羨ましかったのかもしれない。
 今、彼女はいない。
 私は雨の中、名前も知らない街で立ち尽くしている。

 彼が憎かった。
 藍香――そう呼ばれるのを嫌い、アヤと呼んでと言っていた少女が死んでから、三年が経った。
 彼女は大人になっても、少女だった。純粋さと儚さを持ち、汚れた部分を認めながらも、彼を待っていた。
 あの、海辺の町で……
 私はアヤの墓前に誓った。
『もう一度、彼に会わせる』と。
 彼女は私のたった一人だった。誰も代わりにはなれない、本当の友達だった。だから、彼女に何も出来なかったのが悔しくて、悲しくて、私は生まれ育った町を離れた。
 街に降る雨は、強く弱く、悲しいメロディーを奏でる。長い髪が雨に濡れ、纏わり付く。
 通り過ぎる傘達は、私に一瞥を与えるだけ。何も言ってはこない。
 ここは、おかしい。
 同じ国なのに、別の世界を持っているようで……
 私はきっとここには馴染めないだろう。ただ、通りすがっただけなのだから。
 それでも一つだけやっておかなくてはならないことがあった。
 彼を探し、戻し、そして連れ帰る。
 彼女が死んでしまったことを知り、彼は姿を消した。
 三年もの月日を費やして、私はやっとここに辿り着いた。
 箱庭のような、この街に……
 雨はいつ上がるのだろうか?
 傘を持たない私は、雨の中を歩くことは出来ない。
 アヤのいない私は、幸せを探すことは出来ない。
 アヤを失った彼は、啓吾でなくケイになった。
 全ては同じことなのかもしれない。
 私はそれでも誓いだけは果たしたい。
 雨の中を歩くことは出来なくても……

 彼は殺し屋だったらしい。
 そういう経緯でそういった血生臭い仕事に就いたのかは知らない。初めて出会った頃の彼からは、そんな雰囲気は感じられなかった。
 夏に生き、自然に溶け込む、そんな少年だったと思う。
 そして、彼は完成していた。
 一人の人間として、啓吾という男の子として、真っ直ぐに生きることが出来ていた。
 アヤはきっと、そんな所が好きだったのだと思う。その一言を彼女の口から聞くことは、最後まで無かったが。
 アヤは知っていたのだろうか?ケイと名乗っている男が人を殺すことの出来る男だったということを。
 それでも彼女は彼が訪れるのを待っていたのだろうか?坂の途中の喫茶店を、一人で切り盛りしながら……
 彼女の死に方は、思い出したくも無い。人は簡単に死ぬ。そう思った。だから、彼は人を殺すことが出来たのだろうか?
 私には絶対に出来ないことだろう。
 私に出来ることは、彼を取り戻すことだけだ。
 この街から奪い、もう一度あの場所で彼女と再会させることだけ。
 夜の街は、喧騒と静寂を等しく持ち合わせていた。
 “clock”というネオンが、悲しげに映る。
 通り過ぎる人が遠ざかる感覚。私だけの時間に隔離される一瞬。
 そのネオンは、私に複雑な想いを抱かせた。
 そう、あの喫茶店もまた、“clock”だったのだから……
 彼は知っているのだろうか?憶えているのだろうか?
 もし、忘れているのならば……
 私は彼を許せない。
 マニュキュアの塗られた爪が、掌に食い込んだ。

 軋まないドアを押し開けると、室内の停滞した空気が漏れた。私はそれに顔をほころばせる。慣れてしまった空気。今ではこれが私の人生そのものだ。
 つかつかとカウンターに向かう。そこに、彼は座っていた。
「隣、良いかしら?」
 自分の声とは思えない声。艶を帯び、憂いを帯びた声。いつからこんな声を出せるようになったのだろうか?
 返事を待たずに座ると、彼は視線だけを向けたようだった。
 何も言わないの?分からないの?
 私はアヤじゃない。それでも、彼は私を憶えているはずだと思っていた。そう、確信していたのに……
 物言わぬマスターにギムレットを注文する。胸の内では、苛立ちが溢れていた。それすらも顔に出すことは出来ない。
 私は、平静を装い彼に顔を向ける。
 表情一つ変えないケイという名前の男に、私は一つの問いを投げかけた。
「私のこと……憶えてる?」
 彼の目にはどう映っているのだろうか?猫のように擦り寄る、この私が……
「俺は、君を知らない」
 大した仕草も見せず、端的に告げた。
「私は貴方を知っているわ……」
 この一言で、彼の表情が変わった。瞳が鋭さを増し、それまでの緩んだ空気が張り詰めるように変わった。
 ああ、こんな顔が出来るようになったのね……
 アヤが見たら何ていうかしら?
 そう口に出してしまいたい衝動に駆られる。
 カツ
 何時の間にか、マスターはお酒を作ってくれたらしい。磨きぬかれたグラスに、並々と液体が注がれている。それを手に取り、出来る限り妖艶に飲む。喉を焼くようなアルコールは、何度飲んでも慣れない。緊張しているのかもしれない。私はそんなに強い女じゃないのだから。
 彼はどうなのだろうか?
 アヤを失って、この街に逃げこんで、そして……
 傷は塞がったのだろうか?
 その夜、彼は私の誘いに乗った。
 何を考えていたのか、何を思っていたのかは分からない。それでも、彼は私に抱かれた。
 アヤは、彼に抱かれたことはあったのだろうか?
 そんなことを考えながら、二人の身体を流れる汗を眺めていた。それは一つに混じり、境界を無くす。
 紅潮した肌に、篭った部屋の空気が絡み付く。
「貴方は私を愛せる?」
 薄闇の中、そう呟いた。
 彼は何と答えたのだろうか?
 情事の後の倦怠感は、彼を眠りへと誘い、私の涙を誘った。寝ている彼に、私は全てを語った。彼は聞いているのだろうか?
 でも、彼はケイだ。啓吾じゃない。アヤの求める男の子じゃない。
 その両手に落ちないほど血の匂いを沁みこませた、一人の殺し屋だ。
 戻さなくてはならない。どんな手段を使っても……
 バックからお香を取り出し、火をつけた。深い暗示の効果がある物で、起きている者には効かないが、寝ている者には効くという便利なものだ。この街の外で買った。必要になるかもしれないと思って。
 不思議な香りが部屋を満たすまで、少し待つ。
 そして、私はこう言った。
「私を忘れなさい。そして、私を探しなさい。そうすれば……」
 あの頃に戻れるわ。
 嘘だ。
 それでも彼は探すのだろう。
 手掛かりを与えておく必要があるだろうか?
 服を着て、髪をとかす。鼻腔の奥に残っているのは、汗とお香の香り。
 最後に、彼の寝顔にキスをした。軽く触れるだけの、かすめるようなキス。
 アヤ、私は必ず啓吾を連れ帰るからね。ケイでなく、啓吾を……
 そのためには、まだ駒が足りない。
 私は彼の楽園を去ると、必要な駒を手に入れるため、街へと歩き出した。

「ケイの居場所を知っている?」
 無表情を不思議そうに歪め、男はそう言った。
 私は頷く。嘘ではない。それどころか、彼はもう私の掌の上にいる。
 埃と煙の匂いしかしない、疲れ切った部屋で、男は私を見つめ返す。
 彼の相棒だったという殺し屋。名前の通り灰色の頭髪をした、乾いた瞳をした男。
 私は少し試してみたくなった。この男が、本当に彼と同じ時間を過ごしていたのか、を。
「貴方は私を愛せる?」
 服を脱ぎ去ることに対する抵抗は、どこかに忘れて来た。それは、アヤを失ったときだったのかもしれない。 多分、アヤが死んだときに私も死んでしまったのだろう。
 今の私は“水出悟子”ではなく、“サトコ”になってしまったのだろう。
 彼が“ケイ”になってしまったのと同じように……
 そして、灰の男は私を抱いた。少年のような不慣れな手つきで。
 私は、何も考えずに微笑んでいた。

 ケイの友達を殺した。義手の男だ。
 相談屋という呼ばれ方をしていた男は、私の『相談』を受けてくれると言った。電話越しに。
 その口調がどこか温かくて、私は自分の冷たさをはっきりと自覚してしまった。
 何も見ていない瞳は、それでも真っ直ぐに私へと向けられている。
 赤い液体に寝転ぶマネキン。まるで悪趣味なオブジェのようだ。
 でも、これは間違いなく人の死体。私は初めて、この街で人を殺した。
「コイツはどうする?」
 壁に寄りかかったまま、アッシュが質問してくる。
「そうね……ケイに見せてあげましょうか?」
 自分の声が遠くに聞こえる。私は、死体を目の前にしている。
「それはすぐに叶う。奴は今、ここへ向かっている……信じられないことだが、必死に走ってな」
 誰かのために必死になっている。自分を捨て、現実を捨てた彼が、最後に残ったものを奪われないように必死になっている。
 私はそれが許せなかった。
 彼はアヤが死んだときも必死だったのだろうか?
 アヤは、最後まで彼を待って微笑んでいたのに。
 それでも、彼は間に合わなかった。アヤは彼に殺されたようなものだ。
 彼を盲信していたからこそ、甘んじて殺されたのだから。
「……少し、演出でもしてみましょうか?」
 自分の顔がどんな顔なのかは確認出来なかった。でも、きっとまともな顔はしていないだろう。
 殺した男は、微かに眉をひそめた。

気を失い倒れたケイの上で、私達は会話をしていた。
「何をしているの?それを使ったんじゃ貴方だって分かるじゃない」
 冷ややかに指摘する。だが、男は全く気にしていない。
 もしも彼が相棒の存在に気付いたら、戻ってしまうかもしれない。
 “啓吾”でなく、“ケイ”に。それはこの街でのケイでなく、一人の殺す者としてのケイ。
 私はその前の彼に戻って欲しいのに、昔のことを思い出してしまえば、そこで止まってしまうかもしれない。啓吾には戻らないかもしれない。
 あの夏にアヤと手を取り合って神社の境内を歩いていた、風の匂いのする少年には……
「一つ言っておく。俺はお前の奴隷じゃない。ケイは俺が取り戻す。お前ではなく、この俺が」
「確かに、私は自由にしてくれて構わないと言った。でも、貴方が上手く立ち回れなければ、彼はきっと戻らない」
「上手く立ち回る必要などない。人の死を見れば誰もが変わる。そしてケイは誰よりもそれを知っている。だからこそ、人を殺していた時間の感覚を味わわせるのが確実なのだ」
「それも自由よ。私はただ、彼に戻って欲しいだけだから」
「……お前は、コイツの何だ?もし俺の邪魔になるようならば……」
 殺気というのだろうか、足元を不安定にさせるような、落ち着かなくさせるような空気が私に向けられる。灰色の瞳は、輝きを吸い込んでいる。
 足元に倒れているケイ。彼はこの灰色の瞳を見て何を思うのだろうか?
 私の瞳を見て、何も思わなかったのだろうか?
「ちょっと待って。彼、まだ意識があるみたいだわ」
「“ブリッツ”が直撃した。いくら威力を弱めてあるとはいえ、意識を保てるはずがない」
「でも、彼はケイよ。貴方の望む、最高の男なのよ?」
「どうしてそこまでコイツに肩入れをするのだ?お前は何を知っている?」
「こんな所で言い合いをしている余裕はあるのかしら?話は後で聞くわ。今は義手の男の死体を運び出さないと」
「……アレはもうどうでも良いだろう?このまま放置しては不味いのか?」
「時間が欲しいの、もう少しだけ。彼が本当の自分に戻るまで、もう少し足掻いてもらわないと……」
「……残酷な女だな。分かった。お前の自由だ、私は何も言わない」
「そう。じゃあ、運び出してくれるかしら?」
「……分かった」
 死体を運び出すのはかなりの労力を要する。女の細腕で出来ることではないし、血塗れの死体なんて触りたくもない。
 ……アヤの死体には、触りたくても触れなかったけれど……
 アッシュは結局私の道具にしかならない。それ以上の働きは期待出来ない。
 下手なことをされては、彼が駄目になってしまうだろう。
 この街で人を殺させた原因が自分にあると知ったとき、彼はどんな反応をするのだろうか?
 それすらも、今の私には分からない。
 ねぇ、アヤ。貴方なら分かるの?
「……自由に、なりたい」
 それは私の口から出た言葉だったのだろうか?
 分からないまま、私はそこから立ち去った。
 ケイに別れの言葉を告げて。
「サヨナラ、啓吾。またね」と。

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