燃え尽きる灰の色


 銀の光が一筋、闇に軌跡を描いた。
 音は無い。不思議なことだが。
 あるのは、驚くほどに穏やかな鼓動と、死の匂い……
 今、この場で命のやり取りが成されているとは、当事者である俺にすら理解し難い。
 否、本当の意味で理解しているからこそ、こんなにも穏やかなのだろう。
 たった一度の油断で、俺はただの肉塊へと変貌してしまうという現実。
 それが心地良い。
 間延びした一瞬の中、加速した意識がこう命令する。
『さあ、笑みを浮かべよう』
 それに逆らう道理は、何も無い。
 命のやり取りの最中、俺は笑みを浮かべた。
 銀光が俺に迫る。"敵"の感情など、関係ない。
 何よりもシンプルな意志だけが、空気を伝わり、俺の脳に直接突き刺さる。
『殺す』
 ああ、何て心地良い殺気だろう!
 俺が殺されるのならば、あの銀光は赤に染まり、より美しくなることだろう。
 俺が殺すのなら、どうなる?
 闇を、光が切り裂く。俺の放った"ブリッツ"だ。
 分かりやすく説明するのなら、癇癪玉のようなものだ。
 サイズも形状も同様だが、違うのはその威力。
 直撃すれば、闇を切り裂くだけでなく、その命すらも切り裂く。
 弾け飛ぶ肉片と、赤い液体。一時だけ見ることの出来る生の輝き。
 美しい。本当に美しい武器だ。
 この技能を俺に仕込んだ男は、こう言っていた。
『この武器は、ただ弾けるだけの武器だ。それ以上でもそれ以下でもない。頼り過ぎるな。最後に必要となるのは、生きるという意志だ』
 どうでも良い。俺にとっては、ただ美しいだけの武器。
 命を糧に輝く花火。
 銀光が、更に接近する。だが、"敵"には俺の姿は見えていないだろう。
 人は、例え見えていたとしても意識出来なければ、それは見えていないのと同じだ。俺は人の意識の裏に隠れる。誰も見つけることは叶わない。そういう技能なのだから。
 世界の間隙に潜み、目標を確実に暗殺する。それが……
 アッシュという名の暗殺者なのだ。

 足元に転がっている肉塊を見下ろし、俺は笑った。
 ただ、純粋に笑った。
 肉塊という表現が最も適している。歪な人型の肉塊。
両腕は付け根から吹き飛び、左脇腹が大きく抉れている。これが決定打だったようだ。
 もう、全身の血液は出尽くしている。あふれ出た血液が、地面を湿らせている。
 それは最早赤ではなく、黒といった方が近いだろう。
 闇の中でも容易くその存在を確認することの出来る、黒。
 やはり、美しい。
 銀光を放っていた武器―真剣が転がっている。
 左右の肘から先がまだ柄を握っている。素晴らしい執念だ。
 だが、執念だけではこの俺を傷付けることは叶わない。
 現実を歪めてしまうまでの殺意を持たなければ、届かないのだ。
 この俺を、殺すには。
 夜の闇の中、天を仰ぐ。瞬く星達が、健気に自分をアピールしている。
 星。
「俺を殺せるのか!ケイ!」
 星に言葉を投げつけた。風に乗って、血の匂いと"ブリッツ"の液体火薬の匂いが鼻へと入り込んだ。
 こんな匂いをさせずとも、何一つとして武器を使わずとも、人をコロセル男―
 それがケイという名を持つ男だった。
 取り戻そう、あの輝かしい日々を。
 邪魔な者の全てを殺し、世界そのものをもコロセルかもしれないと思えた日々を。
 美しく散る命を、記憶から溢れるまでに感じられた日々を。
 そして、散り行く全ての命よりも……
 俺の命は美しいのだろう。

 ケイという名の男は、いつでも隣にいた。
 当然のことだ。俺の唯一の相棒だったのだから。
 無口な男だった。俺も口数の多い方ではないので、二人の間にはいつでも沈黙だけが居座っていた。
 だが、それでも人を殺せた。
 俺が"ブリッツ"で目標を足止めし、ケイが直接に手を下す。
 たったそれだけの手段しか持ち合わせていなかったのだから。
 一度、正規の訓練を受けた軍隊と交戦したことがあった。
 熱い砂漠の国だった。敵の武器、弾薬は豊富にあり、こちらの戦力は俺達二人のみ。
 ゲリラ戦を展開するのが上策だったのだろう。だが、俺達は真正面から立ち向かった。
 二人対無数。
 俺は思い出す。あの日の血の匂いと、砂漠の暑さ、そして…
 ケイの恐ろしさを。
 その度に、体の真芯を貫く恍惚に身を委ねる。
 何と輝かしい日々だったのだろう。
 "ブリッツ"も底をつき、肉塊からもぎ取った使い慣れない銃器を手に応戦していた時、その姿を見た。
 あれが、本当の恐怖だ。間違い無い。
 武器らしい武器も持たずに、目の前の敵全てを、殺した。
 断末魔の悲鳴など、一つも聞こえなかった。状況を正確に理解出来た者など、一人としていなかっただろう。俺も含めて。
 それが、俺の相棒だった……

 だが、そんな男もこの世界から忽然と姿を消した。
 俺の持つ情報網にも触れることなく。
 あれから三年の月日が流れたが、俺はいまだに奴の居場所を特定出来てはいない。
 半ば諦めていた。奴がいなくとも人を殺すことは出来ていたのだから。
 しかし、そんな俺の前に一人の女が現われた。
 美女の条件を全て満たしたような、女。
 名前をサトコと名乗った。

「貴方、人を探しているんですって?」
 その女は、真っ直ぐに俺の方へと向かって来た。
 姿を消していたというのに、ただの一度も戸惑うことなく、だ。
 一目で普通の女ではないと分かった。
「奇遇ね、私もなの」
 そういって、妖艶に微笑んだ。
 その微笑の前では、どんな常識も意味を成さない。そう感じた。
 見つけられないはずの俺を見つけた女。
 美しい、女。
 俺はその女の話を聞き、狂喜した。
「ケイの居場所を知っている?」
「ええ。昨夜彼に会って来たわ」
 何ということだろうか。この俺が必死になって探しても、手掛かり一つ手に入れられなかったというのに、こんな女が奴の居場所を着きとめるなんて…
 俺が女と出会った店は、一階がバー、その上が宿になっている。そして俺の寝泊りしている部屋へと移動した。
 家具なんて上等なものは何一つとしてない。あるのは酒瓶と煙草、それに小さなバッグだけだ。灰皿一つ用意されてはいない。
 床はコンクリートが露出しており、その上に土と埃と吸殻が散乱している。
 忘れていた。ベッドも家具の部類に入るのか。
 たった一つの家具の上に並んで座り、酒を煽った。暫くすればアルコールが全身に回り、心地良い酩酊感が体を満たすだろう。
 人を殺す時以外は、俺は酔っていることにしている。そうでないと、発作的に血を求めてしまうから。酔い過ぎればそれはそれで問題だが。
 俺の隣で、女はまた微笑んだ。赤いルージュの引かれた唇が、艶かしい弧を描く。この余裕はどこから来るのだろうか?
 隣に座っている男は、いつでも人を殺すことが出来る人種だというのに、恐ろしくはないのだろうか?
 やはり、女は俺の理解の範疇にいない存在だ。
「彼は、ある街にいるわ」
「奴は何をしている?」
「私を捜しているでしょうね」
 ケイが女を捜している?そんなことがあるはずはない。
 もしあるとすれば、何と滑稽なことだろうか。
「くくく……」
「可笑しい?」
「ああ、最高だ。最高に気分が良い。それで、お前は奴をどうしたい?」
「そうね……」
 俺は酒を飲み、女は何かを考える。きっとこの仕草は演技だろう。もう、この女の目的は決定している節がある。
 まあ、良い。たまにはこんな茶番に付き合うのも悪くは無い。
「彼を、元に戻したいの。最高の殺人者である"ケイ"という男に。そして、それ以前の名前に」
 その言葉を口にした時の女の表情を、俺は忘れることはないだろう。
 その瞳には、既に光は宿ってはいなかった。壊れてしまった者の持つ、灰色の瞳。
 この俺の名前と同じ、燃え尽きたものの放つ、濁った色彩。
 この女が俺を見つけられた理由が、分かった。
 この女は、とうの昔に死んでいるのだ。体ではなく、心が。
 俺の技能は人の精神に反響することで初めて効果を発揮する。だが、反響するべき精神が崩壊していたならば?
 答えは、きっと目の前にいる女自身なのだろう。
「奴に会って何をした?」
 瞳に光が戻る。生きている人間の持つ光が。何かを楽しんでいるような、それを思い出しているような表情が、俺の理性を揺さぶった。
「寝たの。それだけよ」
「そうか……」
「ねえ……」
 女は立ち上がり、俺に背中を向けた。長い黒髪がサラリとしなやかに広がり、また一つに纏まった。
「貴方は私を愛せる?」
「……………」
 そして、布の擦れるリアルな音。人工の光に照らされた肢体は、ただ美しかった。それだけだった。
 ただの人工の照明を、月光の如く気高く見せる美しさ。だが、俺は……
「俺は、誰も愛せない。他人は殺すか、そうでないかだけだ。それしか知らない」
「そう……」
 その答えが意外ではなかったのだろうか、振り返った顔は、笑みを浮かべていた。
 美しい、女。ただ、それだけの女。それだけなのに……
 俺の理性は完全に奪われてしまった。

 奴のいる街。それは退屈な街でしかなかった。
 本当のケイがいるのならば、もっと混沌としていても驚きはしなかっただろう。
 だが、この穏やかさには驚愕した。
 ケイはここにいる。
 それが、サトコという美女の情報だった。
 この穏やかな街並みの中に、いる……

「ここは余所者を歓迎してはくれないわ。誰にも見つからないようにして」
「俺を見つけられる者など、いない」
「あら、私は簡単に見つけられたわよ」
 それはお前が死人だからだ。
 言ってやれば良かったかもしれない。例え意味が無くとも。
 その一言だけで、この女は変わっていたかもしれない。
 だが、俺の目的はこの女をどうこうすることではない。残念だが。
 俺の目的は、ケイを戻し、あの日々を取り戻すことだ。
 それは容易なことではないだろう。
 奴は三年もの間、休業していたのだ。リハビリには時間がかかる。
 俺がそう言うと、女が一つの提案をしてきた。
 この街で、人を殺すと。
 この、一切の暴力を認めない、理想郷で。
「親しい人間が殺されれば、少しは戻ってくれると思うんだけど?」
 親しい人間?奴と?
 俄かには信じられない。奴はいつでも一人だった。それは俺の隣に相棒としていたときでも変わることはなかった。
 そんな奴の親しい人間だと?
 俺はその瞬間、嫉妬を覚えた。
 暗殺者としての自分を忘れたケイという男に。そして……
 そんな男を受け入れたこの街に。
 殺してやろう。簡単なことだ。
 俺は、人をコロセルのだから。
 天国で人を殺す俺は、もしかしたら悪魔なのかもしれない。
 女は、満足そうに微笑んでいた。

 そして、また肉塊を見下ろしている。見なれた風景。
 毎回違うのは、肉塊の姿と場所。
 毎回同じなのは、その美しさ。
 女が奥に連れ込み、俺が殺した。まるで俺がケイになり、女が俺になったかのようだった。
 ケイはいつもこんな気分を味わっていたのだろうか?だとすれば、奴は何故この世界から逃げ出した?
 俺には何もワカラナイ。
 飛び散った血飛沫の染め上げた壁紙と床が、だんだんと変色してゆく。
 肉塊は冷たくなってゆく。
 さあ、帰って来い!そして……
 戻れ!"ケイ"に!
 俺はここで待っているぞ!
 
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