みかん畑で会いましょう


 僕の住む街には、実に数多くの街灯が立っている。夜になるとそれらの全てが煌煌と光り、夜道を照らしてくれる。どうしてそんなに数多くの街灯が立っているのだろうか?僕は時々疑問に思う。でも、それは至極当然のことで、何も間違ってはいないのだ。そもそもそんなことを気にする人間に会ったこともない。僕以外に。
 街灯は国道沿いに集まっていて、その次は県道、市道、私道の順に数が減って行く。間隔はそう変わらないのだろうが、どうしてもそう見えてしまう。それは国道が目につくからなのだろう。そして私道はあまり目につかない。
 良く夜のドライブに出かけた。橋を渡って山の中腹くらいまで上り、そこで車を止める。何のことはない、眠れなくて暇な夜が多いだけだ。いや、暇とは違う。やらなくてはならないことは唸る程にある。でも、それらの全てに僕は蓋をする。蓋をして、庭に穴を掘って、そこにコンクリートを流し込む。そしてこう言うのだ。
「こんなクソッタレの面白くもないことに時間を費やすくらいなら、コアラの肛門でもマッサージしてる方がずっとマシだ」
 コアラはストレスが溜まると便秘になってしまうらしい。彼らもあれはあれでデリケートな生き物なのだ。
 違う。暇の話だ。それも違っただろうか?まあ良い。
 暇とは違う。やらなくてはならないことは吐き気がするくらいある。その全てに僕は……
 つまり、退屈なのだ。何をやっても集中出来ない。三十秒で限界が来る。スクランブル・ブーストのようなものだ。白煙がマフラーから排出され、タービンに過負荷がかかる。そのままではブローしてしまうから、アクセルを抜くしかない。そうだ、抜け。これ以上回しても良いことなんて何も無い。抜くんだ。
 そして僕は自分のブースト圧を抜くために夜のドライブに出る。ブローオフバルブの小気味良い、思わず腕を振り上げたくなるような音をイメージして。
 プシャァン!
 僕の車はNAだ。
 BGMは時代遅れの古臭いロックが多い。それが一番落ち着くし、耳馴染んでいる。と言っても洋楽はあまり多くは無い。メロディを聴くには洋楽の方が優れているのだが、何しろ歌詞を聴いても感情が湧き上がって来ない。理解出来ない言語というのは、僕に法事の読経を思い起こさせる。なむなむ。
 思春期の頃僕が聴いていた音楽は、全て古びてしまった。錆びついて、どれほど油を挿しても動かない。丁寧に錆を落として、キスをしても動かない。そんな音楽ばかりを聴いている。僕の思春期のBGM。グロリアスデイズ――栄光の日々。彼らは僕に変わることのない強い意志を与えてくれる。問題はその全てが古びてしまったことと、何度聴いても変わらないということにある。考えてみれば当然のことだ。変わらない。録音されたMDはそれ以上の仕事はしない。役所のようだ。決められた仕事はきちっとこなすのに、それよりも込み入った話になると「担当の部署はこちらではありません」。知ったことか。僕はそんな冷たい言葉よりも担当の部署を知りたいんだ。暇そうに爪の甘皮をボールペンの先で押し込んでいるくらいなら、お前が僕の手続きをしてくれ。暇も潰せるし、僕も役所の出来損ないのホテルのような雰囲気から逃げ出せる。お互いにデメリットがない。そうしようじゃないか。
 ともあれ、僕の聴く音楽が変わらない原因は全て僕にある訳だから、誰に文句を言っても仕方ない。この書類は君が書いたのかね?はい、そうです。そうか。おしまい。
 変わらない音楽、変わらない道順、変わらない山の中腹。それでも構わないと思う。世の中は放っておいても変わるものだし、少しくらい変わらないものがある方が僕は落ち着く。怠惰で退廃的な自慰行為。そうかもしれない。そんなには酷くないかもしれない。自己弁護。
 そもそも何で今更こんな話を書いているのかも分からない。何の意味も無いし、価値もない。それなら僕が今まで書いて来た話には価値や意味や思想や哲学や美学や云々があったか?無かっただろう。あったとしても、それは誰の目にも見えないささやかなものだった。僕は今までずっと空回りをして生きて来たのだ。社会という歯車の連鎖の中で、一つくらいは空回りしている歯車があっても良いじゃないか。自己弁護。退廃的自己弁護。何を言ってるんだ。自己弁護というのは元来退廃的で保守的なものじゃないか。オーケー、認めよう。僕は愚かだ。とても、とても愚かだ。
 書き出してしまった話は完結させなくてはならないらしい。そういうものか?そういうものだ。せめて、自分のためにだけでも完結させるべきだ。誰が言ったのかは知らないが、正論というものはいつでも綺麗で隙がない。高級レストランのウエイターのように。または高級ブランドのスーツのように。どっちにも縁がない暮しをしている。ざまあ見ろ。
 話を戻す。
 夜の街を当てもなく走っていると、僕はいつでもそこに行き着く。ナイルが海へと流れ込むように。昼間旅した旅人が夜には宿に着くように。それは定められた手順で、僕はそれに逆らおうと思ったこともない。夜に一人でドライブをしているのだ、そんな気力はどこにもない。ただ漫然と車を走らせているだけだ。古びたロックと取りとめのない、どこにも辿り着くことのない思考。いがらっぽい喉に煙草の煙を送り込み、夜の中に吐き出す。その繰り返し。リフレイン。オートリピート。カチン。
 夜の街は綺麗だ。それ以外に適切な言葉が見つからない。あるいは閑静なのかもしれない。あるいは殺伐としているのかもしれない。誰もが寝静まり、夢を見ている時間。動いているのは時計の針と川面。それと僕。
 時には夜霧が漂い、幻想的な光景を仕立て上げてくれることもある。星空が綺麗で、じっと見入ってしまうこともある。満月の夜も、新月の夜もある。曇っている夜だってあるし、雨の降っている夜もある。夜は実に様々な顔で僕を楽しませてくれる。そうだ、僕は夜が好きなのだ。明るくてさっぱりとした昼間よりも、静かでどこか終わりを連想させるような、そんな夜が。
 車の窓を少しだけ開ける。そうすると、夜の匂いがする、夜の味がする。比喩ではなく、本当にするのだ。それはきっと誰もが感じられることで、特別なことじゃない。夜は毎日規則正しくやってくる。クリーニングに出したYシャツの襟のように。ざまあ見ろ。
 出口も終点もない思考は、僕に永遠を与えてくれる。永遠とは少しだけ違うかもしれない。それはただ終わらないだけだから。終わることのない繰り返し。一から十に行って、九に戻る。九から一に戻って、次はニ。その繰り返し。何が一で何が十なのかはその度に違うが、それは結局同じことなのだ。違いはとても些細なことで、誰かにそれを説明しようとしても無理だ。「だいたい同じ。でもちょっと違う」それが関の山だ。相手は首を傾げるだろう「何が言いたい?」
『そんなこと、僕にだって分かるもんか』
 ざまあ見ろ。これが僕の環状的思考だ。思考はピストンのように上下して、止まらない。止まる時は寝る時だ。眠れないからこうして車を走らせている。眠れるものなら今頃夢でも見ている。小学校で恋人とかくれんぼをする夢。僕が彼女を見付けようとすると、彼女はどこにもいなくなってしまう。彼女は僕の古い家の押し入れに隠れていた。そして二人は結婚式を挙げるのだ。今にも倒壊しそうなくたびれた教会で。彼女は白いドレスに身を包み、僕の隣でこう言う。『幸せにしてね』。一人で長い廊下を歩くシーンがフィルインされる。洗面所では水の流れる音が聞こえていて、僕はそこに向かう。真っ暗な闇の中、白い影が床に落ちている。
 彼女だ!彼女が倒れている。冷たくなっている彼女を抱き上げ、僕は顔にかかった黒髪を除ける。せっかくの美人が台無しだよ。ねえ、目を開けて笑ってくれよ。入り口で声がする。『あれはもう駄目だよ』。駄目じゃない。駄目なんかじゃない。『灯りをつけてくれ!』僕が怒鳴っても、誰も耳を貸さない。ただ黙って神妙な顔をしているだけ。それがモラルだから。ステンドグラスの下、白いベッドに彼女を横たえ、僕は彼女を見下ろす。蝋燭の光りがゆらゆらと揺らめいてとても美しい。それでも彼女は死んでしまった。僕は哀しくて、大声で泣いた。声を出して泣くなんて、一体いつ以来だろう?
 ………………
 眠れるなら夢を見ているはずだ。眠れないから夜に滑り込んだんだ。悪いことじゃない。眠れないからといってアルコールを胃袋に流し込むよりはずっと健康的だ。
 定期的にMDを変える。一枚のMDに入っている曲で、良く聴くのはだいたい一曲か二曲しかない。そういうものだ。それらの曲を集めて一枚のMDを作ると、僕は大抵聴かなくなる。曲が上手く繋げられないのだ。だからその時の気分に合わせてMDを変える。友人達には「うるさい」とか「鬱陶しい」とか辛辣な意見をもらった。ざまあ見ろ。
 一人でドライブするのは気楽で良い。誰に気を使うこともないし、何より黙っていてもおかしいことはない。昼間ではこうはいかないだろう。それは夜だからそうしたいと思えるのだ。夜は僕にとってとても、とても特別な時間なのだ。それはシエスタのようなものだ。絶対に、休む。例え親が死んでも。
 スピードはそれほど出さない。動体視力が致命的に無い。それに急いでいる訳ではないのだ。そもそも目的地なんて初めからない。適度なワインディングを、それなりのスピードで走る。助手席のシートに散乱したMDがその機能的で混沌とした配置を変えないように。ドリンクホルダーに立っている缶コーヒーがこぼれないように。
 そうしていると、何時の間にかそこにいる。僕の住む街が見下ろせる、山の中腹に。そこは僕が子供の頃に住んでいた(そう、子供だったのだ)家の近くだ。自然と静寂に囲まれた良い場所だ。人はそれを田舎と言う。悪くないじゃないか。田舎。何となく僕はその響きに正しいものを感じる。人は田舎に住むべきなのだ。都会。冷たく無機質でおぞましい。誰もが犠牲の上に立ち、他人の腐肉を口に運んでいる。そういうシステムが出来あがっている。人は田舎に戻り、他人のために自分を犠牲にすることを思い出すべきだ。そして自然の与えてくれる日々の糧に感謝し、汗を流してただ単純に生きるべきなのだ。そこには何の争いも存在しない。生きるために生きる。完璧だ。咲くために存在している花のように。
 それでも、やはり田舎は良い。きっと誰もが心の奥にしまってある温かなものを引き出してくれる。そこには確かに様々な苦悩も葛藤も存在しているだろう。それでも、そういうものをも温かく感じさせてくれるのが田舎の素晴らしいところだ。田舎に戻ったのなら、下らないことを気にしている場合じゃあない。田舎の雰囲気をしこたま味合わなくてはならない。自分のペースで。じっくりと。
 そこからは僕の住む街が一望出来る。その向こうの街も、その更に向こうの街も見える。関東平野の端っこ。山岳地帯の始まり。ここで僕は生まれ、そして育った。僕の血肉はここの水と空気で出来ている。分解すれば五ドル九十八セントの価値しかないとしても(その値段ですら古びてしまっている。今では一体幾らなのだろう?それも日本円で知りたい。どうでも良い)それは僕の原材料なのだ。関東平野の端っこが僕の故郷。よろしく。今晩は関東平野。今日もしっかりと平野だったかい?オーケー、答えなくて良い。大丈夫、僕は全てを分かってる。皆まで言うな。分からないこと以外は全部分かるんだ。君は今日もしっかりと、無駄なく無理無く、完璧に平野だった。僕には分かる。
 後ろを振り向くと、そこには関東平野の終わりを示す山々がどっかと腰を下ろしている。その隆起は触れれば切れそうなほどに鋭く、どこか攻撃的な印象を僕に与える。やあ、山さん。今日もご機嫌麗しゅう。僕は街を見下ろす。
 温くなった缶コーヒーをちびちび飲んで、煙草を吸う。車のエンジンを切ると、そこには完璧な静寂が訪れる。違う。静寂はそこにあったのだ。初めから。それを僕が引き裂き、掻き乱し、勝手にやって来ただけだ。静寂はそこで立っていただけだ。別に僕を待っていた訳でも、僕のためにわざわざ奈落から足を運んでくれた訳でもない。静寂はいつでもそこに立っている。
 そんな中で、僕は待ちを見下ろす。深夜でも街の明かりは完全には消えない。ネオンが色取り取りに自己主張を続け、街灯はその光で誰も通る当てのない道を照らす。不毛だ。省エネって何だろう?矛盾って素敵?分からない。僕には何も分からない。それでも、こうして街の火を見ていると落ち着く。それだけでも、無駄にエネルギーを消耗している訳ではない。少なくとも、僕だけはこの光景に感動しているのだから。とても素直に。斜めから見ることはなく。代価を払えと言われても困るが。
 遠く離れた光はぶ暑い空気の層に遮られ、瞬いて見える。星と同じだ。光だって邪魔者があれば立ち止まることもある。少したじろぐこともある。そういうものだ。
 そんな時、僕はふと気がついた。街灯はどれを見てもオレンジ色をしているのだ。もちろんそれ以外の色もあるが、こうして見下ろすと一番多い色はオレンジだった。ちょっとした発見だ。
 それは僕に蜜柑畑をイメージさせた。オレンジ色をした数々の光。今年は蜜柑が採れ過ぎて蜜柑農家は山の斜面に蜜柑を捨てているそうな。勿体無い勿体無い。でも、そうするしかないのならそれで仕方ない。捨てられた蜜柑は微生物が分解し、木々の栄養になる。素敵なことだ。無駄のない環状線。僕とは大違い。悔しくなんてない。ただ悔しいだけだ。同じだ。
 ともかく、僕の暮している街は蜜柑畑だった。手を伸ばして一つもぎとって、僕はそれを剥いて中の三日月の形をした果肉を頬張りたいと思った。とても強く思った。煙草ばかり吸っているので、最近ビタミンが不足しているのだ。栄養豊富な蜜柑。冬のコタツのお供に蜜柑。必需品だ。それでも蜜柑はゆらゆら揺れて不確定。僕の指先は届かない。フロントガラスにも届かない。短い手だ。
 この街は、蜜柑畑。僕はここで暮している。今夜はきっとぐっすりと眠れる。夜明けがすぐそこに来ているとしても。

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