朝日


 僕はその日、初めて朝日が昇るところを見た。
 それは、十六の冬の出来事。
 きん、というガラスのコップを弾いたときの音のような、耳鳴りのような、そんな音の聞こえてきそうな、とても良く澄んだ空気。
 見慣れた山裾を、黄金に染めながら夜を払拭していく、朝日。
 鳥達の声が聞こえていた。街が眠りから覚める声も。
 新しく生まれ変わる。そんな言葉がぴったりだと思った。
 寒さに震えながら、僕はただ茫洋とその様を見つめていた。
 十六の冬の出来事。
 僕はその日、死ぬことを止めた。

 生きるということの意味を考えるのは、とても不幸なことだと誰かが言っていた。
 幸せな人は、考えるまでもなく生きる意味を実感しているから、と。
 僕は、死にたかった。死んで、何も無かったことにしたかった。
 いつからだろう?そんなことを考えるようになったのは。
 小学校の頃、好きな女のコに意地悪しか出来なくて、結局泣かせてしまった時か?
 中学に上がり、部活動の大事な試合で失敗をして皆に迷惑をかけてしまった時か?
 行きたい高校をはっきりと口に出すことが出来ず、先生に進められるままに進路を決めてしまった時か?
 それとも、もっとずっと前だったのか?
 生きることの意味は分からなくても、死ぬことの意味は簡単に分かると思っていた。
 きっと、死ぬということは楽なことだと。
 毎日が辛くて、僕は気が狂いそうだった。
 回りの目を覗いながらの行動。反応を察しながらの言動。
 恥をかかないための努力。会話についてゆくための趣味。
 何もかも、僕には重荷にしかならない。
 唯一の楽しみといえば、寝ること。つまり、夢を見ることだった。
 寝ている時は良い。何も考える必要が無い。
 何も考えなくても、楽になれる。
 死ぬってことは、夢を見ることと同じなのかもしれない。
 それは、とても楽なこと。

 高校に上がり、回りは少しだけ大人の雰囲気に近付いて来ていた。
 そんな中でも、僕一人だけが取り残されていた。
 自分の居場所も見つけることが出来ずに、乾いた笑みで日々を過ごしていた。
 夏の前、一人の女のコと付き合うことになった。
 何をして良いかも、相手を好きなのかも分からないまま、僕は皆の真似をして彼女と接した。
 表面的にはとても上手く行っていた。秋が来るまでは。
 四季というものがあるのは、僕の心を少しだけ楽にさせてくれた。
 それは、時間が流れているということだから。
 でも、時間が流れるということは、終わりが近付くということ。
 それに気が付いたのは、秋。
 木枯らしが並木道の枯葉を舞い上がらせる。どこまでも抜けているような青い天まで。
 一枚増えた服装で、僕らはいつものように通りを歩いていた。
 この頃には、もう彼女が隣にいるのが当たり前になっていた。
 順応するのが早いのは、昔からだった。でも、それは同時に悪い意味で慣れてしまうということでもあった。
 彼女は、そんな僕に飽きていたらしい。
 僕の初めての恋人は、冷たい捨て台詞を残して去って行った。
 そう、木枯らしよりもずっと冷たい言葉を僕に残して。
 奇妙だと思ったのは、自分に対してだった。
 何故か安堵している自分。肩の力がすっと抜けてゆくのを感じた。
 ああ、僕は何てからっぽなんだ……
 そう思って、哀しくなった。
 彼女に振られたことでなく、そのことに心が沈まなかったことに対してのみ、哀しくなっていた。
 鏡に写る、僕の姿。
 何の特徴も見つからない、僕。
 でも、鏡に写るその瞳だけは、濁っていた。
 何も写していない瞳を、僕は他人事のように眺めていた。
 落ち葉は風にさらわれて、やがて寒さも本格的になって行った。

 死のう。
 きっかけなんてどうでも良かった。そう思ってしまってからは。
 毎日死ぬことだけを考えていた。
 一人で食べる朝食の席でも、他愛のない会話を友達のような人達としている時も、押し潰されそうな沈黙が恐かった夜も。
 何度手首にナイフを当てたことだろう。
 何度校舎の屋上に上ったことだろう。
 何度踏み切りで立ち尽くしたことだろう。
 冬の寒さで手はかじかんでいた。
 きっと、それは僕の心も一緒だったのだろう。
 温もりは欲しくなかった。温もりは、知らなかった。
 冬は僕のためにあった。少なくとも、僕にとっては。
 雪が降る気配を感じ始めた頃に、僕は眠れなくなってしまった。
 夜が終わらないことが、嬉しかった。
 それでも、当然終わりは訪れる。
 カーテンを閉め切り、布団に隠れるようにして夜を引き伸ばしていた。
 学校は、僕の世界の外に存在していた。そして、それは社会という生き物も同様だった。
 何が欲しかったのだろうか?何が恐かったのだろうか?
 何が、望みだったのだろうか?
 生きることはとても辛くて、苦しくて、悲しくて、痛い。
 こんなことをあと数十年も続けるなんて、とても耐えられそうになかった。
 それなら、逃げてしまえば良い。
 でも、逃げることすら僕には大変なことだった。
 死んでしまうことの方が、ずっと簡単に思えていた。
 その年初めての雪が降った夜、僕はやはり眠れぬまま部屋の隅で小さくなっていた。
 音の無い世界。でも、雪の積もる音はしっかりと存在している。
 沈黙を誘う音。静寂を招く響き。
 雪夜の音楽会。
 心地良くなんてない。凍りついた僕の気持ちは、何の感慨も浮かべてはくれなかった。
 カーテンを開けたのは、どうしてだったのだろうか?
 今でも理由は分からない。
 もしかしたら凍死することを望んだのかもしれない。
 ただひたすら冷たいだけの雪に抱かれ、徐々に体温を奪われるのを実感し、動かなくなる四肢に戸惑い、薄れる意識の中で死を実感する。そんな最後を望んだのかもしれない。
 でも、予想に反して僕の目に飛び込んだのは、白いまでの光だった。
 夜は、終わりを告げていたのだ。僕に何の断りも無しに。
 恐怖と憎悪と狂喜。全てを一瞬で味わった。
 起伏が希薄になった風景は、僕の知らない世界の姿。
 山並みを染めながら昇る朝日は、予想以上に足が速い。
 止まっていた呼吸を再開すると、胸に浸透してゆく新しい空気。
 何も、考えられなかった。
 寒さに震えることも、美しさに涙することも忘れ、僕はただそこに立っていた。
 そう、朝日が昇りつめるまで……

 それは十六の出来事。冬の朝の出来事。
 僕は何も分かっていなかった。それだけを理解した。
 勇気という言葉も、希望という言葉も必要としなかった。
 朝日はあまりにも黄金だった。
 それだけで、僕は生まれ変わることが出来た。
 これは、そんな日々のお話。
 誰にも言えない、僕だけのお話……
 
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