夜風


 彼を見たのは、寒い夜のことだった。
 彼はオレンジ色の光をシャワーのように浴び、橋の欄干に寄りかかって、瞳を閉じていた。
 みすぼらしい風体の、中年というにはまだ若い、背筋のピンと伸びた男性だった。
 灰色のコートの襟を立て、川からの風から身を守っていた。
 短く刈り込まれた頭髪は、オレンジの光の下でもその力強い色艶を失ってはいなかった。
 指に挟んでいた煙草には火がついていなく、それはまるでアクセサリーのように彼を彩っていた。
 僕は何も言えず、何も思えず、ただその場に立ち尽くし、彼を見つめていた。
 やがて彼は僕の視線に気が付いたのか、うっすらと瞼を開いた。
 皹のごとく開いた瞼の奥に、漆黒の瞳が確かに輝いていた。
 僕は、彼に見つめられ言葉もなく彼の行動を待つだけだった。
 こうして、僕は彼と一時の邂逅をした。
 それは、オレンジ色の光と冷たい川風に満たされた、橋の上での出来事。
 夢のような、幻のような、現実感の希薄な会話を彼と交した。
 その夜はとても寒く、そして星が綺麗だったのを覚えている。
 そう、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
 彼の語った言葉の一字一句を洩らすことなく。
 僕が彼と出会えたことは、もしかしたら運命だったのかもしれないと、そう思っている。
 あれから数年経った今でも……

 自分のことはあまり語りたくない。僕は自分が好きになれなかったから。
 たったそれだけのことで、日々はつまらなくなってしまう。
 分かっていた。それでも自分を好きになるということが、どこか欺瞞のような気がして出来なかった。
 僕は、自分が嫌いでも日々を楽しもうとしていた。
 嫌いだからこそ、必死に生きてみせようと思っていた。
 それでもやはり毎日はとても辛く、穏やかでなく、僕の掌には何一つとして残りはしなかった。
 ある夜、僕は無性に缶コーヒーが飲みたくなった。
 時刻は深夜一時過ぎ。いつもならもう寝ているはずの時間だ。
 それでも一度涌きあがった欲求は消すことが出来ず、寝間着の上に厚手のコートを引っ掛け、僕は夜風に身を晒した。
 何気なく見上げると、星がとても綺麗に見えた。冬の空気はとても澄んでいて、星が良く見える。ことに、都会から遠く離れていれば尚更だろう。
 都会から離れているということは、現代人としての生活には不便ということでもある。
 歩いて行ける距離にコンビニ一つない不便さを罵りながら、目的地を橋の向こうの自動販売機に決めた。
 僕の家は川の近くにある。子供の頃は良くその川で釣りをしたり、泳いだり、少しだけ悪いことをしたりして遊んでいた。
 大人の時間が近付くにつれ、僕も僕の友達も川で遊ぶという選択肢を除外するようになっていった。
 それでも、僕の心の奥底にはあの川面の煌きが色濃く残っている。穏やかな日差しに照らされ、ゆっくりとその体温を上げてゆく石達。急流に逆らい自由に泳ぐ魚達。大地を削り、彼方の海を目指す流れの立てるせせらぎ。
 全て、僕の根底に存在している。
 橋はそんな川を横切っている。僕の住む町と、隣の村を繋ぐ三つの橋の一つだ。
 この橋が出来たのは、僕の両親が結婚してからだというから、都合三十年弱この場所で二つの土地を結んでいることになる。
 僕よりも長生きしている、橋。
 今日この日まで、一体どれほどの車と人を渡して来たのだろうか?
 そんなことを思い、橋を照らしているオレンジの灯りを見た。
 三十年間掃除されていないということはないだろうが、カバーは白く濁っていた。その向こうには黒い点々が無数に見て取れる。大方夏場に迷い込んだ羽虫の類だろう。少しだけ目が痛くなった。
 オレンジに蹂躙された瞳を下ろすと、薄闇が戻った。車は通らない。元々そんなに交通量の多い場所ではない。
 川のせせらぎが強く聞こえて来た。懐かしい音に胸が高鳴っているのを実感する。
 一歩一歩を大事に歩いていると、不意に横風が僕のコートを吹きつけてきた。水の匂いがする。これはきっと川から上がってきた風だろう。
 ポケットに手を突っ込み、コートの前を合わせる。下が寝間着なのであまり温かくはないが、それでも何もしないよりはましだろう。
 何気なく川面を見下ろしながら歩く。誰もいない世界に取り残されたような感覚を心地良く感じながら、橋の中央まで止まらずに歩いた。
 僕は橋の中央で足を止めた。理由は良く分からないが、多分驚いたからだろう。
 僕の目の前には、欄干に巣を張っている蜘蛛がいたのだ。その巣は川風に激しく揺さぶられ、今にもどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。頼りない細い糸の上に、蜘蛛は雄々しく鎮座していた。
 季節は冬を間近にしている。僕はコート一枚では今にも震え出してしまいそうだ。
 そんな寒さの中でも、蜘蛛は巣にかかる獲物をひたすら待っている。川風に翻弄されながらも、その場から逃げることなく。
 ふと、おかしなことに気が付いた。じっと見ていたが、どうもおかしい。この蜘蛛は動かないのだ。
 もしかして、死んでいるのだろうか?
 巣を張り、獲物を待ってはいたが、捕食することが出来ずに息絶えてしまったのだろうか?
 そう思い、僕はやるせない気持ちになった。
 一つだけ断っておくと、僕はこの蜘蛛というやつが嫌いだ。きっと僕のへその緒を蜘蛛が跨いだに違いない。物心ついた時から、あの歪に蠢く八本の足を見るだけで、僕は背中の寒気を押えることが出来なかった。先天的に生理的な嫌悪を禁じえない。
 それなのに、何故やるせない気持ちになったのかというと、理由は幾つかある。最も大きな理由を挙げるならば、蜘蛛が生きようとしていたことが伝わって来たことにある。
 きっと、この蜘蛛は最後の瞬間まで獲物がかかることを待っていたのだろう。
 その獲物を糧とし、冬を乗り越えることだけを望んでいたのだろう。
 それが、やるせなかった。
 現実はこんなにも厳しく、冷たい。
 いや、蜘蛛の肩を持つ訳ではない。獲物となる羽虫のことを考えれば、そうも言っていられない。
 蜘蛛が生き残るということは、代わりに羽虫が死ぬということだ。それも一匹ではなく、何匹もの犠牲が必要となる。
 その羽虫でさえ、何者かを捕食しなければ生きることは出来ないだろう。それが昆虫であれ、植物であれ。
 生きるためには殺さなくてはならない。
 生きるためには生きようとしなくてはならない。
 生きるためには、生き延びなければならない。
 そんな生存競争は一体どれだけの年月繰り返されて来たのだろう?
 一つ言えることは、此の世に神はいないということか。
 吹き荒ぶ風は冷たく、僕の肌を引きつらせた。
 街灯の下で揺れる蜘蛛の巣を視界から排除し、僕は歩みを進める。
 薄闇とオレンジのサイクルを数回繰り返すと、ついに橋は終わりを告げた。隣の村に入ったのだ。
 人の気配は相変わらず無い。車が一台だけ通り過ぎた。大型のトラックが。
 誰もいない夜の街を徘徊する男と、その横を通り過ぎる一台のトラック。
 蜘蛛の巣を見たときのようなやるせない気持ちは、湧き上がらない。目的を目の前にした期待感が、やるせなさの頭を押えている。
 闇にぼんやりと浮かび上がる、自販機の光。一種異様な雰囲気を感じ取りつつも、懐から硬貨を幾枚か取り出した。
 迷うことなくホットの缶コーヒーを買い、その場で封を開けた。
 小気味良い音と共に、暖かな芳香が僕の鼻腔まで届いた。
 かじかんだ掌で、それを口に運ぶ。夜風で冷えきった体に、熱いコーヒーが染み渡る。
 そのまま数度、缶を傾けていると、どうしてももう一本欲しくなった。今すぐに飲むのではない。部屋に戻ってから飲む分が欲しかった。
 少し悩んだが、僕は買うことにした。今度は違う銘柄のボタンを押し、出て来た缶をそのままコートのポケットに滑り込ませた。ポケットの中に広がる、確かな温もり。冷えた掌で二つの缶をそれぞれ弄びながら、残りの液体を喉に流し込んだ。
 自販機の傍らにある御美箱に空き缶を投げ込むと、僕は夜空を見上げた。
 小さな光――星達が健気にも瞬いている。その光を瞼に焼き付け、僕は踵を返した。
 橋はオレンジ色の光に染め抜かれている。黒い夜の中、そこだけが色付いて見えている。
 幻想とはかけ離れたひたすらに現実的な光景に、胸が痛む。風に晒された顔、特に目が痛い。
 自分が嫌いでも、他のものを好きになることは出来る。そして、同時に嫌うことも。
 それが人として生きることの特権だというのなら、甘受しよう。僕は夜が好きで、昼が嫌いだ。
 温まったはずの体なのに、何故か足取りが重い。気分は、それよりも更に一回り重い。
 それでもここで息絶えるまで立ち尽くしている訳にもいかず、僕は再び歩き出すことにした。
 寒さのおかげで視界が滲んでいる。僕は昔から視力が弱く、今でも眼鏡をかけなくては日常生活に不便を感じる。
 往路よりも一層見づらくなった視界で、朧に滲んだオレンジを見つめる。それは少しだけ幻想的で、僕の心を風の無い日の湖面のように落ち着かせた。
 その心の湖面に、大きく波紋が立った。
 視線の先、丁度橋の中央の辺りに、一人の男がいたのだ。
 それが、彼だった。

 出来る限り足音を潜め、息も潜め、僕は彼の立つ場所まで進んだ。
 瞳を閉じ、物思いに耽っているような仕草の、男。
 閉じた瞳は何も写してはいないのだろう。唯一写すものがあるとすれば、それは瞼の裏か。
 だが、その張り詰めた表情は全く違うものを映しているかのようにも見えた。例えば、過去。
 過ぎ去ってしまった日々の栄枯を瞳に写し、川風に耐えている聖者。そんな風にも見えた。
 欄干には蜘蛛が巣を張っている。強い川風に巣ごと蹂躙されている。獲物になりそうな羽虫はどこにも見当たらない。
 彼と2メートルの距離で、僕は足を止めた。僕の足は止まった。
 レンズの奥の瞳は、ただ彼だけを写している。
 精神の沈黙は一瞬だったのだろうが、僕はその一瞬で時間感覚が欠落したのを感じた。
 彼が、ようやっとその瞼をもたげた。指先に触れる感触は、缶コーヒーのもの。コート越しとはいえ夜の寒気に晒され、徐々にその温もりを失いつつある。
 足元の感覚がない。歩き出そうとすればバランスを失い、転倒してしまうほどに。
 喉が乾いている。先ほど一本缶コーヒーを空けたばかりだというのに。
 頭がぼやけている。深夜一時過ぎともなれば一日の疲労が鎌首をもたげる時刻だ。それも仕方ないのかもしれない。
 耳が痛い。長らく夜風に当っていたのだ、きっと真っ赤になっているだろう。帽子を被ってくるべきだった。
 彼の瞳は、僕を写さない。橋の上から二十メートルほど下の川面を見下ろしているらしかった。
 生気に満ちた存在。揺らぐことのない大樹。永遠にそこに鎮座し続ける巨石。広大な空。
 蜘蛛の巣が、一際大きく揺れた。
「……死のうと思ったんだがね」
 それが彼の言葉だと気付くのには、多少の時間を必要とした。風に掻き消されることのない、確かな声。それなのに、疲れを感じさせる声。
 まるで独白のように彼は続けた。上等の詩を吟じるように、枯れ果てたしゃがれ声を生み出した。
「安易に死を選ぶことが、馬鹿馬鹿しく思えてきた。この川は、いつからある?あの星は、いつの光だ?この風は、どれだけの年月旅をしている?」
 それは問い掛けではなかった。彼は答えを必要としていなかった。何故だか僕はそう理解した。
 僕は、ここで立ち尽くしているだけで良い。ここで、物言わずに彼の言葉を耳に収めているだけで。
 そして、その言葉を覚えているだけで良いのだと、彼の背中は語っていた。
「私は生まれてからどれだけの月日を過ごした?これからどれほどの月日を過ごせる?」
 彼は天を見上げた。オレンジのフィルター越しに見える、深淵に輝く淡い光。
「それでも、私にとってこの人生というヤツは苦痛でしかない。まるで思春期の少年のようだが、そうとしか思えない。終わりの見えている遊戯など、哀愁を誘うだけだ」
 川風は、抑揚をつけて僕らの頬を叩く。この橋は、三十年もの間この風を感じていたのだろうか?それならば、この風は橋にとって無二の親友だろう。
 この橋は風と遊び、川と戯れ、その背に人の生活を背負ってきた。
 存在するものは、いつか滅ぶ。その時を迎えるのなら、僕は――
「ならばいっそ、死んでしまうというのも悪くはないと、そう思っていたんだがね……」
 ここで初めて彼は表情らしい表情を浮かべた。唇の端を不器用に歪めたのだ。
 笑っているということはすぐに気がついた。清々しくも、自嘲的な笑み。誰に見せるでもない、自然に涌き出る表情。
 彼は、小さく嘆息した。
「馬鹿馬鹿しくなった。この橋の上で、改めて世界を見つめていると、死とか生とか、苦とか楽とか、そんなものはどうでも良いと思える。そうだろう?」
 その問い掛けは、初めて僕に投げられたものだった。まるで手を差し伸べるように、そっと投じられた、簡素な問い。
「はい」
「君も、日々に疲れているんだろう?そうでなくては、そんな足取りで夜を徘徊したりはしない」
「はい」
「君はこの橋から世界を見て、どう思ったね?」
「僕は……」
 彼は、僕がこの場所に立っていたことを見ていたのだろうか?
 僕が、益体の無い思索に耽っていたことに気付いていたのだろうか?
 彼の瞳に見据えられ、僕はただ答える言葉を搾り出した。喉の乾きに耐えながら。
「僕は、やるせないと思いました」
「そうだな……」
 彼が満足してくれたことだけは分かった。相変わらずの乾いた声だったが、心なしか温かみが増したから。
 まるで、僕のポケットの缶コーヒーと対をなすかのように。
「やるせない。切ない。苦しい。列挙しようとすれば限が無いだろう。でも、それらの感情には根底にある一つの願いが存在している。それは、生きたいという願いだ」
 彼は指に挟んでいた煙草に火をつけた。風に嬲られる炎が、一個の生き物のように夜を退けていた。
 幻のような、真紅の輝き。それは煙草の先に自分の存在を残すと、姿を消した。
 彼が吐く吐息は白く濁り、風に掻き乱され、天へと昇って行った。
「その願いが尽きない限り、失敗は取り戻すことが出来る。罪は償うことが出来る。どんな望みも、叶えることが出来る。それは私達が此の世に生を受ける前からの契約だ。今夜、それを改めて実感したよ」
 川のせせらぎも、風の唸りも、星の瞬きも、オレンジのシャワーも、彼を遮ることはない。彼はただ、生きることを望んでいた。
 僕は潤んだ瞳で、彼と、彼の存在する空間を見つめるだけ。
 ふと視界の端に、蠢くものを見つけた。蜘蛛だ。破れた巣の上で、微かに蠢いている。良く見ると、小さな羽虫が一匹だけかかっていた。
 蜘蛛は息絶えてはいなかったのだ。生きることだけを望み、じっと待っていたのだ。
 約束された、その時を。
 また、羽虫も生きることを諦めてはいないようだった。その小さな羽根に命を託し、文字通り必死に羽ばたこうとしている。
 生きている。そんなことがこんなにも力強く感じられるのは、初めてのことだった。
「諦めてしまうこと、終わらせてしまうことはその契約に反することだ。……仕方ないから私は終わるまで生きてみようと思う。君はどうするね?」
「僕も、貴方と共にこの世界で生きようと思います」
 言葉は実に自然に流れ出た。滞ることなく、絹のような手触りで。
 それはまるで川を流れる泡のように、不確かではあるが滑らかに流れ出た。
「私達はこれから互いの生活に戻る。だが、同じ時を過ごしたという事実は残る。それだけあれば充分に生きることは出来るだろう」
 彼は煙草を吸い終えた。大きく夜に深呼吸すると、踵を返し、僕に背を向けた。
 彼の向く方向は、隣村の方角。僕が向かう先は、僕の住む家。
 それぞれの場所で、僕らは生きなくてはならない。それが彼の言う契約なのだから。
「私の言葉に耳を傾けてくれたことに、感謝する」
 それが、彼の最後の言葉だった。彼は迷うことなく、足を踏み出した。自分の住むべき場所へと。
 滞ることなく、滑らかに、とても自然に……
 彼の去った後、僕は暫くその場所に残っていた。彼が見つめていたものを、少しでも理解したかった。
 たった数分の会話なのに、僕の中で彼に対する畏敬の念が涌きあがるのを感じた。
 灰色のコートに包まれた背中がそこにあるかのような錯覚に、僕は歓喜していた。
 蜘蛛は羽虫を捕食している。冬を越えるまでには、更に命を得なくてはならないだろう。
 それでも、生き残ろうという強い意志があれば、乗り切れない困難はない。
 自分を好きになることが出来ずとも、必死に生きることは出来る。
 もしかしたら、僕は死んでしまいたかったのかもしれない。彼はそれを見抜き、あんなことを言ったのかもしれない。
 だとしたら、僕は彼に感謝しなくてはならないだろう。
 今、こんなにも生きていたいのだから。
 ポケットから缶コーヒーを取り出し、封を開ける。既に冷めかけたそれは、柔らかな温もりを僕に与えてくれた。彼の言葉のように。
 川風は相変わらず冷たく激しい。川の流れは留まることなく進む。夜空には星が輝く。この橋は、僕達の会話を聞いていた。
 僕はこの晩、今まで以上に夜が好きになるのを実感した。
 
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