紡ぎ出されなかった言葉達は何処へ行くのだろう?
俺達が言葉という手段を得たのは、多分
他者との繋がりをより簡単に得るためだろうと思う。
決められた単語、響き、音階によって紡がれる
言葉。
それはとてもとても素晴らしいものだろうと思う。
そして、人々は理解し合い、文化を発展させる。
しかし現在、言葉はコミュニケーションの道具にすらなっていない。
本音なのか、建て前なのか、腹の探り合いから始まる。
本来の意味とは違い、歪んだ意志で紡がれる
言葉。
それにどんな意味がある?
嘘なんてものが存在しなければ、もっと言葉は美しいままだったのだろう。
永遠に、事実のみを伝える手段として。
それは美しいだろう?
そう。言葉はそうあるべきだと思う。
造られた、曲げられた意志を伝える言葉には
きっと哀しみが乗っていると思う。
悲しい言葉は、それが単純に悲哀だけを伝えるものではなく、
次への希望も乗せているのだろう。
人間は、本質的にはお人好しだ。そう思いたい。
だから歪めても曲げても優しい言葉を紡ぎ出そうとする。
その行為こそが傷を増やして行くことを知りながらも。
物凄く遠まわしな自殺みたいなものだ。
心の中に残された言葉、思いはそのまま残る。
そしていずれ、容量を越え、パンクするだろう。
紡ぎ出されなかった言葉は何処へも行かない。
自らの中にのみ存在が認められ、許され、
外界に出ようとすればそれは変質してしまう。
もっと素直に生きることが必要だ。
現われた言葉の全てを胸に残してしまわぬように。
紡いだ言葉が歪んでしまわぬように。
美しく、言葉を使うために。