何時でも冷静でいられるということは、
あまり良いことではないのかもしれない。
冷静でいるということは、常に自分の限界を知っているということで、
何が出来て何が出来ないのか、その一線を知っているということに繋がる。
それでも、自分の能力の全てを費やしても足りない事態というものは
いつでも訪れる。残念なことに。
そんなとき、冷静さを欠いていない者は、冷静なまま
「もう駄目だ」と高を括ってしまうのだろう。
そうなってしまう危険性があるだろう。
諦めるということはしてはならない行為の筆頭とも言える。
何をどうしようと、その先に道があろうと無かろうと、
そこで終わってしまうのだから。
冷静なまま諦める。してはならない行為だが、
それが出来る者もまた、いないのだろう。
人はどうにもならない事態と直面したとき、
混乱してしまう。
それは冷静という概念の逆に位置するものだ。
限界を知り、どうにもならないと知っていても
諦めることは出来ないのが人間というものだろう。
それなら、本当の冷静さというものはどんなものだろうか?
まず、自分を見失わないことが一つとして挙げられるだろう。 だが、そんなものには意味はない。
誰もが常に自分である訳だし、自分以外のものにはなることは叶わないのだから。
それならば、現状の全てを正確に把握出来るということだろうか?
それは不可能だ。
一人だけの視点では全ては判断出来ない。それは当然のことだろう。
全ての人にはそれぞれの正義があり、真実があるのだから。
感情にかられたり物事に動じたりしないで、落ち着いている様子。
辞書にはそんなようなことが書いてある。
これは本当に正しいのだろうか?
感情にかられないということは素晴らしいようにも思えるが、
感情の無い行動には価値も無いだろう。
物事に動じないというのは、ただ単に鈍感なのか関心が無いのかどちらかになってしまう。
落ち着いているというのなら、人はいつでも落ち着いている。
そして、いつでも混乱してもいる。
頭じゃあ理解出来ているのに、どうしても思った通りに出来ない。
それが落ち着きと混乱の同居の成せる技だろう。
冷静でいる。それはとても素晴らしいことだ。
だが、冷静なだけでは道は拓かれない。
冷静に、感情を昂ぶらせることが必要でもある。
冷静に、自分の限界を見極めることが必要な時もある。
冷静に、諦めないことが必要とされることもある。
確実に言えることは、一つ。
限界を超えようとしているのなら、冷静さは必要無い。
自分に出来ないことをしようとしている時に、
それを冷静に分析することは意味を成さない。
いや、冷静なまま、無理をする必要があるのかもしれない。
何も見落とさず、自分の全てを費やして、尚且つ感情を昂ぶらせて
そこで始めて自分の限界を突破出来るのではないだろうか?
冷静に、暴走するように
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