死ぬということは、何も無くなるということだろうか?
生きているということは、何かを手にするためにあるのだろうか?

死んでしまった人がいた。
あれは俺がまだおかしなプライドにがんじがらめにされていた時期だった。
人間は、弱い。そう感じた。

40メートルの高所作業よりも、
高が六尺(180センチ前後)の脚立からの転落の方が
事故死する人が多いと聞いていた。
実際に40メートルの高所作業をこなしたことがある。
それはとても
天に近かった。
俺はそれしか感じなかった。
恐怖?全くなかった。
落ちる気がしなかったし、死んでも構わないと
そう思っていたから。
それはきっと精神が平穏を保つための制御だったのだろう。
そうだろう?
落とした物が落ちるのに
数秒かかる高さだぜ?誰だって怖いさ。
それなのに、幅15センチの鉄骨の上を
安全帯(命綱)も無くバックで歩いたんだ。
自慢じゃあなく、それが異常なことだと言うことだ。
逆に地面に近い方が危険だ。
転落した時に、丁度後頭部がヒットする。
油断してしまうということもあるのだろうが。
そんな些細なことで命を落とす。
それが、納得出来なかった。

俺のすぐ脇で、人影が消えた。
それは家の解体作業の最中だった。
鈍い音と、うめき声。
声が聞こえるから大丈夫だろう。
そんな単純なものじゃあなかった。
携帯で救急車を呼ぶ。
20分程度で到着するはずだった。
何も問題はなかった。
事故の後始末と、労災の手配。
それくらいで済むと思っていた。
5分後。
誰も何も言えなかった。
うめき声は消え、呼吸は終わった。
必死になって蘇生させようとする上司。
だが、素人に何が出来る?
増してや背中を強打していたんだ。迂闊なことは出来ない。
10分後。
予定よりも早く救急車のサイレンが聞こえて来た。
何とかなるかもしれない。そう期待した。
既に心臓は止まっていたというのに・・・
朝の澄んだ空気が、妙に息苦しかった。
自分が喫煙家だということすら忘れていた。
簡単な仕事のはずだったんだ・・・
そして
サイレンは間に合わず、命は消えた。
「ああ、駄目だ」
そんな言葉が俺を、俺達を切り裂いた。
それは初めて目にする
死にたての死体だった。
病死ではない。健康ではなかったが。
老衰ではない。若くはなかったが。
うっかり足を滑らせた。
それだけで人は死ぬ。
それが、真理のような気がして
初めて死の恐怖を知った。

その人には身よりがなく、
必死になって見つけた娘は
「今更言われても・・・」
そう言って、弔いにも来なかった。
俺は、その人の言葉を思い出そうとした。
でも、それは掌を摺り抜け、
白い煙に混じって消えた。

ある朝、事務所でのことだった。
新人が来ていた。
俺よりも年上で、経験豊かな若者。
その時は普通の一日になると思っていた。
その日、彼は崖下に転落。生き埋めになり、
死体は後日発見された。
初日の仕事だった。
俺は、彼のことを知らなかった。
知る機会は、幾らでもあると思っていた。
もう、それはナイと言われた気がした。
夕方の事務所で。
誰に?
運命という名の死神に・・・

俺はその後、必死に仕事をしていた。
そう、思っていた。
死の恐怖という言葉は知っていた。
何度もそれと向き合っていた。
でも、本当の死の恐怖はまだ先にあった。
信じられるか?
本当に、コロサレルと
そう思ったんだ。

結果として、生きていた。
死ななかった。
それからだ。現実がどこか朧げに見えるようになったのは。
頭が眠ったまま、起きてこない。
そんな状態が今でも続いている。
あまりに必死になったから、平穏を拒絶しているのか?
退屈しているのか?
死ぬ そう思ったが、
同時に実感があった。
「生きている。まだ」
一瞬と一瞬の繋ぎ目を、確実に
生きていた。
死 生
それらが同じ線の上に置かれているコマのようなものだと
実感できた。
知識ではなく、経験した。
生き延びた俺は、
「割と簡単には死ねねぇな」
そう思った。
どっちが本当なのか?
それは俺には決められない。
もう、現実感を喪失してしまったから。
抜け殻。
俺という器に収められた
恐怖。
それが判断の邪魔をしているから。

死んで行った彼等と
生き残った俺と
どう違ったのだろうか?
俺は自分で行動できる余裕が残されていた。
彼等は突然、死が襲いかかって来た。
死はいつでも隣にいて、
恐れると光よりも速く襲いかかってくるという。
それは本当のことだろう。
それでも、俺はあの時
死を恐れ無かったのか?
怒りで誤魔化していただけで
本心は震えていたんじゃあないのか?
今となっては分からないこと。

人の手は、何かを掴むには小さくて
いつもタイミングを逃している。
死が待っているから、焦る。
急いては事を仕損じる、
そんな諺があったはずだ。
それでも、成功する一瞬よりも
死の方が足が速いから、
焦ってしまう。
俺が逃したのは、何だったのだろう?
死に際だったのか?この若さで。
だが、あの時俺が死んでいれば
仲間達には違う選択が残されたんじゃないのか?
違う現実が待っていたんじゃないのか?
それは殉教ではない。贖罪だ。
この罪に、耐えきれないから・・・
死んで、終わってしまった方が良かったのか?
それはとても甘美な誘惑。
だからこそ、俺は認めない。
死の恐怖なんて簡単に克服してみせる。
今はまだ無理でも、
手に入れるためには、それが必要なのだから。
全てが俺のために用意された
試練だと思いたい。
希望的観測でも構わない。
全ては神の思し召しのままに・・・
神という、時代の意志の・・・
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