「あのさ・・・黒と白のヤツあったじゃん?」
 そう言う俺の瞳には、掌の裏側が写っていた。つまり、黒いものが。
 そう言った俺に、母は疑問符だけを返してきた。
 ああ、そうだ。これは夢の話だった・・・そう考え直し、「なんでもない」と言った。
 心配をかけるのは、イヤだった。子供だから持てるプライド。
 元々体が丈夫な方じゃあなかった。季節の変わり目には必ず風邪をひいて寝こんでしまっていた。それは今でも改善されていない、俺の弱点の一つでもある。
 気の緩みが、体の抵抗を弱らせるのだろう。
 中学二年の高原学校の前日だった。肺炎で倒れた。
 友達と遊び、帰宅した後のことだった。
「今まで大丈夫だったのに・・・」
 当然楽しみにしていた高原学校には行くことは出来ず、自宅の和室で寝込むことになってしまった。
 熱にうなされると、自分が何を言っているのか、何をしているのかが分からなくなる。改めて認識した。
 目を開けたまま、夢を見たのはあれが初めての経験だった。
 白い靄と黒い靄が螺旋状に絡み合い、昇って行く。見慣れた和室の天井、蛍光灯目指して。そして、絡み合い、消えてしまった。
「ああ・・・消えちゃったよ・・・参ったな・・・」
 口の中でつぶやいた言葉さえも、現実味を喪失している。熱は39度を超えていた。

 なぜ熱にうなされるとあんな珍奇な幻を見るのだろうか?
「熱にうなされてるからだよ」
 その通りだ。
 思考回路が熱暴走を起こしてしまうという体験は誰もが持っているだろう。それの大半は意味の無いものだが、中には意味のある幻を見ている人もいるのかもしれない。
 常識というタガの外れた脳が見せる一時のホントウ。それが無意味だと言い切れはしないだろう?
 そんなホントウの中で、どうにもならない苦しみを抱えて生き続ける人はどんな気持ちなのだろうか?
 熱に自分を侵されたまま生きなければならない。それはどんな気持ちだ?

 治らない病気にかかる。そんな人が身近にいないのは、幸せなことだろう。
 苦しみながら生きて、必ず死ななければならない。そんな、不治の病にかかっている人は何を見ているのだろうか?
 正常な判断も出来なくなってしまった頭で、何がホントウが分からないまま、狭い病室の窓の外に、何を見る?
 白一色の無感情な部屋に押し込められ、掌一杯の薬を毎日飲む。後は、横になっているだけ。見えるのは、白。
 もしかしたら世界は白だけなのかもしれない。そう思っても仕方ないじゃないか。それしか目に入ってこないのだから。
 たった一ヶ月だけ、経験したことがあるが、病院というところは何と言うか、恐い。
 そこに居る人は、病気をした人か、治す人だけ。面会に来た親類や知人は別として。
 全ての人が"病気"という魔法にかかっている。そんな考えが浮かんでは消えた。
 四人部屋の一人だったが、今では俺以外の三人は墓の下だ。
 その三人は、覚悟が出来ていたのだろうか?何を考えたのだろうか?
 夜中にうめき声を押さえきれず、俺を起こしてしまったことに「ごめんな、ごめんな」と繰り返した人。どこへ行きたかったのだろうか?
 俺には想像することも許されないような気がする。俺は生きていて、彼等は生きていることを剥奪されたのだから。
 安易な気持ちで想像して、彼等の人生を汚してはならない。そう思う。
 つまり、病人の見たこと、聞いたこと、考えたこと、思ったことは神聖なものなのだろう。それは生きている実感を誰よりも感じていた人々の人生なのだから。
 病室のベッドの上でしか得られなかった、人生の全て。それに同情したり感動したりするのは違う。
 彼等を尊敬することも、間違っている気がする。
 彼等は、健康な人々を恨んでいたかもしれないのだから。
 万人がそうだとは思わない。それでも、恨まれても仕方ないのだ。
 俺達は、生きているのだから。

 死にたい。そう口に出来る内はまだ生きている。
 死にたくない。そう口に出来る内はまだ生きている。
 望むことは、罪なのだろうか?
 素直にそう口にしているだけなのに・・・

「あのね、生きているだけで、息をしているだけで幸せなんですよ・・・」
 そう言った人がいたらしい。
 その人の人生は、素晴らしかったのだろうか?
 疑問を挟む余地は無いじゃないか。その一言を世界に告げることがその人の役目だったとしたら、その人は立派に自分の役目を果たしたことになる。
 死に直面した時、人は否応無しに変わってしまう。
 当然だ。人一人の人生がそこで終幕を迎えるのだから。
 逆に何も思わないことは失礼だ。生という全て、ひいては自分にも。
 その人の言葉しか、俺達は分からない。聞けなかったことは、無駄になってしまう。
 だから、聞けなかったことを無駄にしないように、変わる。
 その人が生きていた証を受け継ぐ。
 それは連綿と続けられた儀式だ。人間という種が繁栄するための儀式。
 死から目を背けることは許されない。自分もいつかは死ぬのだから。
 死にたいなんて簡単に口に出来る奴は、甘えてるだけだ。
 本当に"死"に直面してしまえば、そんな口はきけない。
 安楽死なんてのは、滅多に無い。
 俺の爺さんが死に際に残した言葉。俺は仕事の最中で聞くことは出来なかった。
 それを耳にしたのは、葬式でのことだった。

「あのさ、爺ちゃん死んだから」
 簡単に言われた。冗談には、聞こえなかった。
 それから涙は流れなくて、俺という人間がどんなに乾燥しているかを改めて実感してしまった。
 そして、葬儀の終わりに叔父が言ったのが、爺さんの最後のことばだった。
「色々ありがとう」
 それを聞いた時、初めて実感した。そして、涙が溢れて―

 爺さんはもう長いこと声を出せなかった。唯一のことばが、文字だった。
 ホワイトボードの小さいものに、黒のペンで綴ることば。
 達筆な人だった。声を出せなくなっても、同じくらいに文字を綴った。まるで自分の全てを文字に起こすように。
 その人が、死の縁に立ち"言った"ことばは、俺に涙を思い出させてくれた。
 力の入らない手で、達筆とは言えない筆遣いで、記したのだろう。
 そう思うと、堪らなかった。

 人の人生というものの価値が、葬式に参列してくれた人の数と悲しみで決まるのならば、無価値な人生なんてのはあり得ない。一人でも泣いてくれる人はいる。絶対に。
 そして、死んで悲しむのは、俺だ。
 誰も悲しんでくれる人がいないなら、俺が悲しもう。
 その人の人生が終わってしまうことに、そして、「誰もいない」としか言えなかった現実に、俺が悲しもう。
 価値のない人生なんてのを歩もうとするなら、俺が妨害してやる。
 「死にたい」と口にするなら、笑って言ってくれ。「もうここまで出来れば最高だ!」そう言って、最高の瞬間に死を夢見てくれ。
 打ちひしがれた「死にたい」は、聞くに耐えないから・・・
 「死にたい」は「生きたい」だ!
 そう言った人がいた。日本橋ヨヲコ著の『極東学園天国』より抜粋。
 俺は、涙した。
 死にたがりだった俺が、涙したんだ。
 望み通りに生きられないから、死んでしまいたいと考える。もっとまともに生きたいから、それでも生きられないから、死にたがる。
 その通りだろう。
 生きることがどうでも良いのなら、別に死にたがる必要もなく、ただ漫然と生きていれば良い。
 必死に生きて、それでも望み通りにならないから、絶望の内に終結を望む。
 だから、「死にたい」というのなら、笑って言ってくれ。俺はその瞬間にこそ、人生の全てが要約されていると思う。上り詰めて、浮かび上がる笑みを押さえられずに、「今死にてぇなー!」そう、言ってくれ。
 素敵じゃないか?そんな人生は?
 自分の頂点を決めるのは自分で、だからこそ「死にたい」とは言えないのかもしれない。だったらそれで構わないじゃないか。それはただ漫然と生きるのとは違う。侍のように死に際を求め、恥を知る者のような人生だ。素晴らしいじゃないか?
 病気で命を落としてしまった人には、それが出来なかったんだ。健康な俺達がそういう生き方をしないで誰がやる?
 あの世で話してやれば良い。胸を張って、満面の笑顔で。
「俺の人生?もちろん最高さ!」
 そうすれば、病気で命を落とした人も、笑ってくれるじゃないか?
「俺の苦しみも、意味があったな」
 そう、認めてくれるじゃないか。
 生きよう。
 自分のために、そして不遇の死を遂げた人々に笑顔を与えるために。
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