「書く」ということと向かい合ってみた。


 居心地が良いだけの場所にいたいなら、書くことなんて止めちまえ。

 そう言われた気がした。
 鋭く尖った意見に、何度も繰り返し焼きを入れられた鋼のような言葉に、僕はしびれた。
 目を背けたくなるくらいの本気が、そこにあったんだ。

 僕が書いている理由なんて、あって無いようなものだし、そんなことはどうでも良い。
 ただ、重要なのは書くことを選んだことと、書くことを続けていることだけ。
 じゃあ、どんな話を書けば良いのだろうか?
 僕はずっと、自分を楽しませるだけの話しか書けなかった。

 言い訳にもならないけれど、僕はとても弱い人間だ。僕を知る人たちが思っているよりもずっと弱い。
 もちろん大抵の人間は弱いし、だからこそ強い面だって持ち合わせることが出来る。その程度のことは分かっている。
 それに、弱いからといって同情されたくもないし、自分で自分に同情している訳でもない。
 ただ、僕はこの弱さが嫌いで、大嫌いで、どうしても赦せそうにないだけ。
 弱い僕なんて、消えてしまえば良いのにといつも思っていた。

 でも、どこかでその弱さに甘えていたのかもしれない。
 だから僕はずっと、その弱さと向かい合い、認めて、受け入れることを拒否していたのかも。
 その理由の一つに、僕の話に共通する「居心地の良さ」がある。

 居心地が良い場所。誰もがそこに足を運ぶ。
 そこで一息入れて、少しだけ休んで、また自分の持ち場に戻って行く。
 辛い日々の苦痛を和らげてくれる、大事な場所だ。
 けど……
 ずっとそこにいられるはずはないんだ。
 誰だっていつかは自分の居場所を探すために立ち上がる。
 辛くて苦しい思いをしてでも、本当の安息と満足と、唯一そこにだけある「生きている実感」を得るために。
 居心地の良い場所なんて、そのための休憩所でしかない。

 それはとても大切な場所だけれど、傷付けない優しさがあるけれど……
 だからこそ、残酷だ。

 いつまでもここにはいられない。
 誰もがそのことに気付いているはずだ。
 でも、それはあまりに居心地が良いから、とてもとても優しいから、つい長居をしてしまう。
「ここにずっといられれば」
 そんな夢みたいなことを思ってしまう。
 分かっているのだろうか? それは悪夢でしかないということが。
 持ち場を放棄して、辿り着きたかった場所を忘れた振りをして、笑って生きる。
 本当に、幸せなのだろうか?
 その笑顔は、ただ「笑って」いるだけの笑顔なんじゃないだろうか。

 僕は笑顔が欲しかった。心から笑いたかった。
 いつ頃からだろう……
 居心地の良い場所でしか笑顔を浮かべなくなったのは。
 そして、現実の中では皮肉げな笑みしか浮かべなくなったのは。
 僕はちょっと人に言えないような出来事を幾つか経験している。
 でも、その出来事がきっかけになった訳じゃない。
 多分、僕が本当の笑顔を失ったのは――
 弱さと向き合うことを止めた頃からだ。

 言葉は通じない。誰も自分のことを理解してはくれない。
 努力は報われないし、信じるものは必ず裏切る。
 掌には何も残らず、涙はいつか枯れ果て、声も出ず、足は動かず、ただその場で砂となる。
 そんな絶望に満ちたことを、知ってしまったからだろう。
 それは確かにある種の事実だ。世界はそれほど僕らに甘くはない。
 いつも僕らは傷付いている。癒されることを求める意味すら無くなるほどに。
 傷だらけになった心が流すのは、血でも涙でもなく、虚ろな笑顔。
 正体のない、透明で感情のない、煙のような笑みをたれ流すだけ。
 子供だった僕に、世界の厳しい面はあまりにも痛すぎた。
 だから僕は目を閉じて、顔を背けたんだ。

 あるとき、僕は知った。
 そんな厳しい面だけで世界が成り立っている訳じゃないということを。
 かすかな希望かもしれないけれど、余程の幸運が無ければ見れないかもしれないけれど、こんな糞っタレの世界にも、美しくて優しい面はある。
 僕にとってのそれは、「書くこと」だった。

 生み出すこと、守り抜くこと、包み込むこと……
 たくさんある美しい場所の中でも、僕は書くことに酷く惹かれた。運命を感じるくらいに、激しくだ。
 書くことは世界を創ること。自分の描いた未来をそのままに、思ったままに創り上げることが出来る。
 それはとても美しいと、僕は思った。
 そんな都合の良い言い分なんて、どこにもありはしないのに……
 そして僕は思い描いた理想の世界、物語、別の僕らを書き続けた。
 とても居心地の良い日々だった。

 そんな自慰行為のような物語に、どんな価値があるというのか?
 僕に本当の笑顔が戻ることはなかった。

 その昔、僕が浮かべていた本当の笑顔。
 自分の弱さを知ってなお、退くことのなかった頃の笑顔。
 あれは、どこから来る笑顔だったんだろうか?

 僕らの暮らす世界は、とても辛い。
 悩みや苦しみは道端に有り触れていて、避けて歩くことすら出来ない。
 でも、もしも上手なステップで進むことが出来たなら……
 悩みとか苦しみの方から逃げて行くかもしれない。
 辛い世界だからって、わざわざ悩みや苦しみを拾い集めることはないんだ。
 蹴り飛ばして、唾でも吐いてやれば良い。
 そうすれば、少しはすっきりするかもしれないだろう?

 僕のスタイルは、とても陳腐で安易なものだった。
 綺麗で、苦しみのない話。それだけだ。
 少しの苦しみはもちろん用意しておいた。僕が痛いと思わない程度のものを。
 それを感じることで、居心地の良さをはっきり分からせようとしていた。
 頭が醒めない訳だ。
 布団から足が出たくらいじゃあ、僕らは眠りから醒めたりしない。
 目を醒ますのはいつだって、朝日の眩しさだ。

 ある人の話を読んだ。つい最近のことだ。
 その話自体は未完成で、二年くらい前の作品だった。
 当時の僕は、読むことが出来なかった。
 答えは一つ。
「居心地が悪いから」

 当たり前じゃないか。
 本気とか本音とかってのは、いつだって綺麗なものばかりじゃない。
 ときには傷付くこともあるし、泥にまみれたものに触れることだってある。
 何より、流れた血を目にすることが一番多い。
 そんな鋭く尖った言葉に、僕は目を背けた。
 そう、弱さから目を背けたように。

 そっと頬を撫でるだけの風なら、すぐに忘れてしまうだろう。
 強く吹き付ける風のことは、忘れられやしない。
 本当に優しいのは、どっちだろう?
 本当に必要なのは?
 柔らかな風にずっと吹かれていること?
 それとも……
 向かい風に、真っ直ぐに立つことだろうか?

 今の僕には、弱さを赦すことが出来る。
 自分の弱さと見詰め合った今なら。
 自分自身が嫌いだった。どうしようもないくらいに殺してしまいたかった。
 いや、殺すことすら生温い。
 永遠の苦痛の中で、死を願う余裕すらない程に……
 全てを呪う間も、諦めたり逃げ出したりする暇もないほどに
 破滅に向かって、歩ませてやりたかった。
 そんな自分に、酔っていたのかもしれない。
 僕は今、それを「違う」と言う。
 やっていることにはまだ、それほど変わりがない。
 けれど、根底にある気持ちは全然違ってきている。
「僕は、僕を認めてあげたいからこうするんだ」
 そう、はっきりと言える。
 そんな当たり前のことを思い出すのに、どれだけ遠回りをしたのだろう。

 情けないことに、誰かに言われなくてはずっと気付かなかったかもしれない。
 そう考えると、僕の幸運もまだまだ捨てたもんじゃないと思える。

 これから僕は、この居心地の良いだけの場所を離れる。
 疲れが取れたら、また立ち上がる。その時期がきただけのことだ。
 今までの話に比べて、それは気持ち良いものじゃないかもしれない。
 汚いし、痛いし、重いし……優しくだってないかもしれない。
 でも、分かってくれるはずだ。
 それは僕の本心がちゃんと込められているからだということが。
 この厳しい世界で僕が学んだ、たくさんのこと。考えた、思った、知った様々なこと。
 そういうことを、形を変えて織り込んでいるからだと。
 僕の祈りは、より強くなることだろう。
 涙を流し跪きながらも、きっと笑顔を浮かべられるだろう。
 本当の笑顔を、浮かべてみせる。
 本当の笑顔を、浮かべたいから。

 本当の笑顔を、貴女に見せたいから。

 僕の弱さは今でも残っている。
 でも、少しも恥ずかしいことじゃない。
 僕の一部が欠け落ちたとしたら、それは「僕」とは言えないじゃないか。
 この弱さをほんの少しずつでも強さに変えるために――
 誇りに思えるように、僕は書き続ける。
 いつの日か、全てを赦せる日が来ることを夢見ているから。

 そして僕は、あの背筋が凍りつくほどに研ぎ澄まされた物語を
 更に一歩進めてみせるんだ。
 居心地の良い場所を離れて、本当の苦しみと向かい合う日々を超えて。
 他の人の言うことなんて気にすることはない。罵詈雑言だって励みにしてやる。
 投げられた石でさえ、大切にポケットにしまってやろうじゃないか。
 ここはもう、暖かい陽だまりじゃない。
 目指す場所へと続く、険しい茨の道なのだから。

 本気を出す覚悟が出来たなら、大きな深呼吸をして……
 さあ、行こうじゃないか。





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