言えない言葉


 言えるはずもない台詞を言おうとしている、貴方。
 一番大切で、一番大好きで……
 一番、優しくしてくれた貴方。
 でも、二人はこれで終わりになる。
 貴方は苦しそうに、奥歯を噛み締めて、眉根を寄せて、手を伸ばそうとして止めて、そして……
 何も言わずに、キスをしてくれた。
 今までで一番、寂しいキスをくれた。
 肩を大きく弾けさせて貴方は……
 私に、さよならをくれた。
 二人はこれで、終わりになる。
 私は唇に指を当てて、それから涙を拭い去った。
 顔を上げても、貴方の背中はそこにはもう無い。
 通り過ぎるたくさんの人達は、私たちの終わりを知らずに、無言で歩いていた。

 胸の奥にしこりのように残る、一つの衝動
 抑え切れるはずもなくて
 苦しさを消すことなんて出来なくて
 過ぎ行く時間だけがこの身を苛み
 僕はたった一つ残ったことに
 その苦しさをぶつける
 誰にも理解させないとしても
 それが愚かな行為だとしても
 他に手段を知らない不器用な僕は
 哀しさも苦しさも切なさも全部
 こうして残す

 あの頃一緒に過ごしていたキミのことを、たまに思い出す。
 どうしようもないくらいに暇な休日は、キミを探しに街に出ることもある。
 人通りの多い喫茶店に入って、窓際の席に座って、通りを眺める。
 人込みの中に、キミがいるかもしれないから。
 キミがもしそこにいるのなら、僕は必ず見つけられるから。
 でも、僕にはもうとっくに分かっている。
 僕ら二人の糸は完全に切れてしまっている、ということを。
 例え再会出来たとして、キミはもう僕の知ってるキミじゃない。
 僕はもう、キミと一緒にいた頃の僕じゃない。
 だから……
 今日も僕は、古い記憶を手探りで手繰り寄せて
 眠れない夜を越える。

 たくさんの気持ちとか言葉とか、そういう溢れ出しそうで、でも外に出してしまえば変わってしまような、そんな私の中のものを……
 溜め息にして、吐き出した。
 幸せを一つ逃してしまったかもしれないけれど、でも
 少しだけ、楽になった。

 落ち葉舞う夕暮れの並木道。一年の中で一番好きな時間。
 私は一人、そこに立ち尽くす。
 静かに流れる風は、そろそろ冬の訪れを告げている。
 コートの襟を寄せる、人達。
 足早に通り過ぎる、人達。
 乱れた髪を鬱陶しそうにかき上げる、人達。
 そんな人の波の中で私は立ち尽くす。
 街並みを朱に照らして沈む太陽。
 焼けるような光に照らされた青空は、藤色の陰影を雲に映す。
 一瞬ごとにその複雑な彩りを変える、並木道。
 世界。
 私は一人立ち尽くし、長い髪を風に揺らしながら、そんな時間を過ごしている。

 こんな情けない俺でも
 こんな惨めな俺でも
 無残で、弱くて、口先だけで、逃げ癖があって、嘘つきで、人を騙すのが得意で、演技することだけは一人前で……
 そんな、最悪な俺でも
 求めてくれる人達がいる。
 信じてくれる人達がいる。
 愛してくれる人達がいる。
 だから……
 腐った両足に拳を叩きつけて
 今日も俺は立ち上がろうとする。

 飢えている自分に、酷く驚いた。
 こんなにも、こんなにも飢えているなんて。
 満たされていると思っていた。僕にはたった一人のキミがいるのだから。
 知らなかった。自分の中にここまで激しい感情が隠れているなんて。
 キミの笑顔は僕を穏やかに満たしてくれた。
 キミの声で僕は生きる意味を見つけた気がした。
 キミと一緒の時間こそが、生きている全てだと。
 でも……
 こんなに激しく、恐ろしいまでに、僕は飢えていたんだ。
 まだ温かなキミの体を切り刻み、僕はその飢えを満たす。
 口の中に広がる、キミの味。鼻腔から舌先。口内から食堂。そして体の全部を満たす。
 柔らかな乳房を噛み千切り、何度も咀嚼する。
 キミの命の味がする。
 かすかに生の残滓を刻む心臓に銀の刃を突き立てる。
 弾けるように飛び散った、赤。舌で舐め取ると、とても甘美な味がした。
 肋骨を一本一本丁寧にしゃぶる。キミの人生が作った、一番美しい造形物。
 手でなぞる。白い背骨を手でなぞる。
 キミも見ているかい? その見開いた濁った瞳で、僕を見ているかい?
 こんなにも僕は今、満たされているよ。

 この街を離れるときが来て、僕はキミのことを想う。
 キミに何も言わずに、僕はこの街を離れる。
 この先は、僕一人だけの道。キミを道連れにしては進めない道。
 誰の助けも期待してはいけない、茨の道。
 僕は手を握り締めて、歯を食いしばる。
 涙を堪えている訳じゃない。僕が泣いてはいけない。
 キミはここに置き去りにされてしまうのだから。
 僕がこの街から離れるのだから。
 多分、僕は二度と帰れない。キミの元には戻れない。
 キミとの記憶が次々と浮かび上がる。その全てを僕はここに残していこう。
 この先は、とても厳しく辛い道。
 本気だけが頼りの、暗い道。
 行ってしまえば帰っては来れない、哀しい道。
 さようなら。キミよ。
 キミは知らないかもしれないけれど、考えもしないかもしれないけれど……
 この街を離れる最後の瞬間に僕は
 キミのことを想っているよ。

 僕はいつもキミの声を聞き逃してしまう。
 か細い、かすかな、弱々しい、その声を。
 声にすらならない、感情の揺れ動きを。
 キミの心が奏でる旋律を、聞き逃してしまう。

 何度も僕はこの気持ちを届けようとした。
 胸が締め付けられるような、切ない感情を告げようとした。
 でもキミの隣にはいつも、僕じゃない誰かがいる。
 僕が何か言おうとすると、キミは離れて行ってしまう。
 胸を満たした気持ちはあふれ出して、体の全部まで侵食してしまった。
 キミのことしか考えられないのに
 キミは、僕のものじゃない。

 まだ終わりにしないのは
 こんなにも苦しくて頭が痛くて何をして良いのか分からなくて
 死にたくて
 それでもまだ終わりにしないのは
 絶望してしまっているのに
 幸せになんてなれないと知ってしまったのに
 まだ まだ終わりに出来ないのは
 いつかくる、輝かしい瞬間を求めているから。
 それだけは、信じていたいから。

 気だるい日曜日の昼下がりは
 ポップなロックを聴きながら
 煙草を咥えて
 ソファーに深く腰掛けて
 窓の外の空を見上げて
 何も考えずに凄そうじゃないか

 出会いなんていつだって
 望めば望んだだけ
 強く望めば強く望んだ分だけ
 素晴らしい出会いが訪れる
 何せ
 誰だって、出会うことを切望しているのだから
 だからこの世界は素晴らしい

 夕暮れが綺麗な日には
 何も考えず こうしていたい
 空を眺めて
 眠りたい

 自分の中の本当のことを
 隠しているのは 隠して生きるのは
 とても楽かもしれないけれど
 とても苦しくて 寂しい
 誰だって
 簡単には話せない 本当のことを
 いつだって
 誰かに話してしまいたくて
 そんな誰かを探している



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