最後にキスを



 姉さんが死んだ。僕は姉さんのことが好きだった。
 姉さんは、イカれて死んだ。死に様は、ぐちゃぐちゃだった。
 多分、姉さんがイカれてしまった理由は、父さんに乱暴されていたからだと思う。
 時々、僕が真夜中に目を覚ますと、父さんの部屋から姉さんの声がしていた。
 細く切ない、聞いている方が哀しくなるような嗚咽。
 扉を少し開けて覗いてみると、髪の毛を乱した姉さんの上で、父さんが汗を流して激しく動いていた。
 僕は虚ろな目をしている姉さんを見て、姉さんのことが好きになった。
 朝になるといつもと変わらず明るく振舞う姉さんも、好きだった。
 そして姉さんはイカれて死んだ。
 でも、僕は父さんを憎む気にはなれなかった。
 僕にも、父さんの気持ちは分かるから。
 当然、僕らを捨てて逃げ出した母さんの気持ちも。



 ひとりで街を歩いていた。少し風が強かったから、時々前髪をかき上げながら。
 声をかけられて、振り返る。そこには、昔僕が恋していたキミがいた。
 暇に任せて、話をする。話をしながら、キミを見詰める。
 ああ……キミは変わってしまったんだね?
 あの日僕が恋していたキミは、もうどこにもいないんだ。
「あのね、実は昔、貴方のことが好きだったんだよ?」
 そんな台詞に、僕は苦しくなった。表面上は驚いた振りをして、「冗談でしょ?」と言う。
 そんなことが出来る自分に、苦しくなってしまった。
 結局、夕暮れの前に彼女と別れた。多分、二度と逢うことはないと思う。
 あの日僕が恋したキミの姿は、もうどこにもない。
 部屋に戻ったら、懐かしいアルバムを開いてみよう。
 その中には、褪せない思い出が残っているはずだから。

 そして僕は、あの日のキミに良く似た彼女を見付けた。

 その出会いは唐突で、僕は気が付けば声をかけていた。
 彼女はとても驚いた顔をしていた。演技ではなく、素直に驚いていた。
「ごめん、知り合いに似てたからつい……」
 そう言い訳するのが精一杯だった。失ってしまったものは、もう戻らないのだとはっきりしてしまったから。
 彼女は僕より少し年下に見えた。実際そうだった。
 頭を下げ、「それじゃあ」と立ち去ろうとした僕に、彼女が声をかける。
「あの……その知り合いの人って……?」
 足を止め、少し考えてから、振り返った。
「僕が好きだった人にね、似てたんだ」
 彼女は歩み寄り、僕の手を握って、胸の前まで持って行った。
「そういうの、私も分かります……」
 とても優しい笑顔だった。
 受け入れて、赦して、温めてくれる笑顔。
 僕はあの日のキミに良く似た彼女を見付けた。

 付き合ってゆくにつれ、彼女が本当に昔のキミに良く似ていると感じるようになった。
 僕の記憶の奥底にある、キミの姿。仕草。声。
 笑顔。
 何もかもがそっくりで、まるで僕まで昔に戻ったような錯覚に陥ることもあった。
 そんなとき、僕は哀しくなる。
 過ぎ去って無くなったものを、ただなぞっているだけなんじゃないか?
 そう思って、哀しくなる。
 道の向こうから僕の名前を呼んで、手を振る彼女。
 手を振り返して、笑顔を浮かべる。
 僕の中で、重要な何かが壊れる音が聴こえた。

 彼女は日毎、眩しくなる。
 僕は日毎に、虚ろになってゆく。

 彼女と逢えなくなった。忙しくなったから。
 彼女は毎日電話やメールで僕にその存在を伝える。
「忘れないで」と言うかのように。
 きっと彼女も気付いているのだろう。
 僕の中から、彼女がいるべき場所がなくなりつつあることに。
 そう、僕の中から何もかもがなくなり始めたことに。
 僕自身の居場所すらそこにはなく、ただ無力感だけが満ちている。
 携帯が鳴る度に、僕は少しだけ現実に引き戻される。
 それはまるで、悪夢の終わりを告げる目覚まし時計のベルのよう。
 でも、僕は知っている。
 疲れ果てた朝には、目覚ましなんて何の役にも立たないことを。

 そして、彼女と別れる決心をした。




 キミなら、僕を助けてくれると思った。こんな苦しい夜から、連れ出してくれると。
 それが都合の良い思い込みで、依存で、愛なんて呼べないことは知っていた。
 でも僕はただ、抱き締めて欲しかったんだ。
 自分の腕じゃあ、自分は抱き締められない。
 だから誰もが自分を抱き締めてくれる人を探している。
 それは愛じゃなくても、恋じゃなくても、一番素直なキモチ。
 僕は惨めで情けない負け犬だから、せめて、キミだけは……
 そう思っていた。
 でも、キミの腕は僕を抱き締めるには短すぎた。
 僕はキミを抱き締める。キミの腕は僕の胸に届かない。
 キミは僕に逢いたいと願う。僕はキミを忘れてしまいたい。
 二人でいても、ひとりでいても、変わらない。
 だったら二人が良い、とキミは言う。
 でも僕は……
 キミのために何かをしようなんて気が、起きないんだ。
 だからキミを捨てる。
 この夜の中に投げる。
 僕はひとりに戻る。
 きっとこれから死ぬまでひとり。



 あるところに、ひとりの天使がいました。
 彼女は生まれてすぐに神様に言われました。
「みんなを幸せにしておやり」
 生まれたばかりの彼女は「幸せ」が何なのか分からずに、ずっとそこに座っていました。
 人ごみの通りの、路地の、その奥に。
 狭い視界に写るのは、通りの風景。たくさんの人が通り過ぎて行きます。たくさんの表情で。
 彼女には、一体どれが幸せなのか分かりませんでした。
 分からなくて、困って、いつしか泣き出してしまいました。
 か細い彼女の泣き声は、通りを行く誰の耳にも届きません。
 でも、たったひとりだけ泣いている彼女に気付いた人がいました。
 それが、彼でした。
 両手で涙を拭いながら、それでも泣き続ける彼女。そんな彼女の前に座り込んで、彼は言いました。
「どうして泣いているんだい?」
 赤くなった目を上げて、彼女は答えます。
「幸せが、分からないの」
 彼は目を丸くして驚いて、でも、すぐに「わかったよ」と笑顔を浮かべてくれました。
「キミの幸せを探しに行こうか」
 そして彼と彼女は一緒に暮らすことになって……
 微笑む彼を見ると、胸に湧き上がる気持ち。
 彼女は「幸せ」が何なのか、やっと分かったのでした。だから……
 だから彼女は、彼の元を離れました。
「みんなを幸せにしておやり」と、神様が彼女に言ったからです。
 彼女はたくさんの人を幸せにしました。通りを明るい笑顔で満たしたのです。
 けれど……
 そんな彼女の姿は、どこか寂しそうに見えたのでした。



 例えば人ごみの中で彼を見つけたとして――
 貴女だったらどうするでしょう?
 遠目で見送るだけ? 声をかける? 手を振って気付いてもらう?
 私はいつも、小走りに彼に走り寄るのです。
 彼はいつもそんな私に気付いて、足を止めてくれます。
 そして振り向いて、私が追いつくまで待っていてくれるのです。
「ねぇ、私だって良く分かったね?」
 いつもそう訊く私に、彼はこう答えます。
「ああ……なんだろうな?」
 自分でも分からないようで、本心から首を傾げて笑うのです。
 そんな彼のことが、私はどうしようもないくらいに好きで……
「もしも私じゃなくて他の人で、キミじゃなくて別の人に駆け寄ってたんだとしたらどうする?」
 こんな意地悪なことも訊いてしまうのです。
「……そんなこと考えたこともなかったな……それに、今まで一度も外れたことないしさ」
 ああ、私は本当に、彼のことが大好きなのだと
 こういうときに、改めて気付いてしまうのです。
 けれど……
 彼は、私のことをどう思っているのでしょうか?
 それを確かめるのは、別に怖くないのです。
 私が怖いと思うことは、ひとつだけ。
 人ごみの中に彼の姿を見つけて、駆け寄ることが出来なくなること。
 顔を背けなければいけないようになることだけが、それだけが――
 怖くて、仕方ないのです。
 だから私は今日も、そして多分明日も、彼の姿を探して……
 息を弾ませて、駆け寄るのです。



 例えば、これは思いつきの出来事のお話。
 貴方に恋人がいて、その恋人が病気にかかる。
 長く続く入院生活。彼女の病名は教えてもらえない。
 季節が二つ過ぎて、痩せ細ってゆく彼女の姿。
 笑顔は透明に、肌は雪より白く。でも、唇だけはより赤く。
 そして貴方は彼女の病名を知る。それは、助かる見込みの無い病。
「手術して治る確率ってね、梅雨に雨が降らないくらいの確率なんだって」
 冗談めかして言い、彼女は小さく笑う。
 貴方はその笑顔を見て……
 どうするでしょうか?

 例えば、これは思いつきの出来事のお話。
 貴女に恋人がいて、その恋人と離れなくてはならなくなる。
 死に至る病が、貴女を現実から引き剥がす。
 毎日のように灰色の病室を訪れてくれる恋人。
 彼は何も知らない。貴女の苦悩も、苦痛も、悲嘆も、絶望も
 死の恐怖も、知らない。
 だから貴女は笑う。彼に何一つとして悟らせないように、涼やかに笑う。
 続く闘病生活で痩せ細った指。艶を失った髪。満足に歩くことすら叶わぬ両足。
 貴女は笑う。笑いながら、彼に病名を告げる。
 彼は貴女の手を取って……
 涙を流す。
 貴女はその涙を見て……
 どうするでしょうか?

 例えば、これは思いつきの出来事のお話。
 出来損ないの、おしつけがましい、不自由で束縛された
 限定された偽りの物語のお話。
 涙を流して彼女の手を取った彼は、その指にキスをする。
 彼女はその温もりをかみしめる。彼の流す涙の落ちた掌を、抱き締める。
 彼は彼女を抱き締めて、唇を重ねる。流す涙をそのままにして。
 彼女は彼に言う。「私を好きになったこと、忘れてもいいよ」
 彼は彼女に言う。「忘れられるはず、ないじゃないか……」
 忘れられっこ、ないじゃないか。かすれた声と、それを聞いて笑う彼女。
「忘れてもいいの。でも、好きになってくれたことは、後悔しないで」
 それが彼女の儚い望み。彼女は分かっているから。
 これが、最後になるのだと。
 彼は彼女にキスをする。彼女はそれをしっかりと確かめる。
 幾つものキスと、幾つもの涙。幾つもの果たされない約束と――
 たくさんの、笑顔。
「これが、最後だね」彼女は笑顔でそう言う。でも、もう涙を隠すことは出来なかった。
 最後のキスは、彼女から。
「貴方は忘れても、私はずっと忘れないから」
 彼はただ、泣くことしか出来ずに……
 白いシーツに、雨のように涙が降る。

 そして彼女は一言を残して、行く。彼のいない場所へ。
「それじゃあ、行ってくるね」
 静かな、優しい、苦しい、切ない、笑顔。
 彼もそれに、しっかりと笑顔で応える。
「ああ、行ってこいよ」
 さよならは、言わないで。

 彼女が戻らないとしても、彼女は彼と交わした最後のキスを忘れはしない。
 彼女が戻らないとしても、彼は彼女を愛したことは後悔しない。
 そして、長い長い手術が終わって――


 これはただの、思いつきのお話。

 戻ってきた彼女に、彼はこう言う。
「おかえり」
 それだけが、彼女の欲しかった言葉。
 それを聞いた彼女は「ただいま」と返して……
 死の恐怖を全て彼に吐き出して、泣く。
 彼女の細い体の中に満ちていた恐怖を抱き締めて、彼は微笑む。
「おつかれさま」



 高校時代からずっと好きだった、彼女。
 彼女はとても自由で、僕には勿体無いくらいに素敵で、綺麗で、明るくて……
 彼女が僕に優しくしてくれるだけで、何にでもなれる気がした。
 高校を中退して、同級生より一足早く社会に出て……
 彼女は、僕のたった一人の友達になった。
 仕事はとても忙しくて、連絡を取ることすら出来ない日々が続く。
 でも、僕はいつも彼女のことを想っていた。自分でもその一途さに驚くくらいに。
 今、僕は25歳になって、この町を離れる決心をした。
 理由なんて、幾らでもある。だから、一番「これだ」と思えるものに決め付けた。
 今まで、8年も先延ばしにしてここまで来たけど……
「好きなんだ。僕と、ちゃんと付き合って欲しい。もちろん、結婚を視野に入れて」
 僕は何度か彼女に告白をしたことがあった。でも、その度に柔らかく断られてきた。
 でも、彼女と僕はそれからも何度か一緒に遊びに出た。
 水族館や、ドライブや、買い物や……そんな感じだった。
 でもこれは違う。今までとは、違うんだ。
「僕は、この町を離れる。だからもう、気軽には逢えなくなる。だから、これが最後の告白」
 恋人同士になれば、気軽じゃなくてもきっと逢えるから。
 彼女はとても困った顔をして……それから、笑った。
「ずるいよ。でも、やっぱり私は君とは付き合えない。好きだとは思うけど、これって恋人に対する好きじゃないから」
 僕も、笑う。「そっか」とそっけなく言う。
 そして、ずっと考えていて――一度は彼女から言い出して、僕がお茶を濁したことを言う。
「キスしてくれるかな? 最後に」
 これでもう、逢えないから。
 そして彼女は目を閉じて、僕の肩に手を乗せて……
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