月の虹兎 後編     back


 ところで、あの虹色の兎はどこに行ったのだろうか?
 結論から言うと、彼はまだハレー彗星を待っている。あと何十年も待つだろう。
 あまりに長く待たされたので、彼は地球に降りてしまった。
 地球で一番最初に彼が訪れた場所は、あのギアナ高地だった。
 兎は神々の棚で、一番古い蛙と楽しそうに話をしている。

「つまり、僕の声は月の光と同じなんだ」と兎。
「でも、ここには貴方の声は届きませんでしたよ?」
「今届いたじゃないか。それで良いんだよ」
「そんなものですか……」
 蛙は不器用な手足を広げ、ペタペタと歩き回る。
「しかし、君は不器用だね。蛙なのに飛び跳ねることも出来ないのかい?」
「私が飛び跳ねたとしても、どこにも行けませんから。ここは天国ですよ?ここから飛んで逃げる必要はないでしょう?」
「でも、飛び跳ねると気持ち良いと思うけど?」
「風に背中を押されて転がるのも楽しいですよ」
「それは君が転がることが出来るからだろう?僕は転がれないから飛び跳ねるしかないんだよ」
「人それぞれですね」
 ギアナ高地は一年の大半が霧の中だ。今日も霧が辺りを白く濁らせた。
「参ったな、何も見えない」
「見る必要なんてないじゃないですか。ただじっとしていれば良いんですよ」
「でも退屈じゃないか?」
「人それぞれです」
「そうだね」
 蛙は岩肌にへばり付き、じっとしている。兎はやることがなくなって、毛繕いを始めた。
「そう言えば、あの草は食虫植物じゃないかい?」
「そうです。彼らは立派ですよ」
「どうして?植物なのに虫を食べるんだよ?不自然じゃないか?」
「でも、その場所でじっとしているじゃないですか。彼らに比べれば私達古い蛙はまだまだ自由ですよ」
「だって、植物は動けないものだろう?」
「世の中には歩く花もいるらしいですよ?」
「歩く花?」
「ええ。根っこが消えて、代わりに足が生えるそうです」
「どうして?」
「愛する人の庭に咲くためですよ。そこまで歩いて、そして根をおろして、花に戻るわけです」
「羨ましいな。僕もそんな生き方がしたいよ」
「すれば良いじゃないですか、兎さん。貴方は私達と違って自由だ。この天国以外の場所にも行けるし、自由に飛び跳ねることも出来る」
「でも、僕はハレー彗星に行かなくちゃならないんだよ」
 虹色の兎は、霧の中で月の兎の話をした。太陽に行って洋裁を教わって来た兎のこと。そして、地球に渡って野原でジルバを踊り続けた兎のこと。知っている限りの全ての兎の話をした。ギアナ高地では時間の流れが遅い。話をする時間は幾らでもあった。いつしか、霧が晴れて綺麗な夜空が見えていた。当たり前のように、そこには満月が浮かんでいる。
「なるほど。どうやら月の兎さんは大変な人生を送るようですね」
「そうだろう?」
 兎は髭をピクピクさせた。彼は誇らしげに前歯を見せた。
「私達はここで恋人に巡り会うまで転がるだけですが、世界には大変な人もいるのですね」
 蛙は右手を前に出して、左足を前に出した。とても不器用な動きで、兎はもどかしくなった。
「そうだ。食虫植物の話をしてくれよ」
「彼らの?直接聞いた方が早いですよ。彼らはとても話し好きだから、どんなことでも答えてくれる」
「そうしよう。案内してくれるかい?」
「ええ、喜んで」
 食虫植物はすぐ近くに群生していたが、辿り着く頃には月が下界へと移動していた。夜はとても暗い。
 でも、星の光はとても優しい。
「ウツボカズラさん。兎さんが話を聞きたいそうですよ」
「兎さんが?それなら隣のモウセンゴケも起こしてやってくれ。彼も楽しいことが好きだから」
「モウセンゴケさん、兎さんがやって来ましたよ」
「蛙さんかい?兎さんだって?こんな場所に兎さんが?……本当だ。しかも虹色をしている。とても綺麗だ」
「どうも」
髭をピクピク。
「僕は月から来たんです。地球は久しぶりですが、変わりましたね」
「でもここは変わらない」とモウセンゴケ。
「変わらない」ウツボカズラも。
「ずっと変わらない」蛙です。
 そして、四人は夜が明けるまでずっと話を続けました。
 月の話、地球の話、ギアナ高地の話、政治の話、それぞれの思い出の話……
 話が終わると兎はギアナ高地を飛び出して、下界へと下りました。蛙には恋人が出来たそうです。

 話は続く。

 友人が風邪をひいた。熱が三十九度も出た。
 彼が言った。
「月に行って来たんだ」
 熱がまた上がった。
「だからこれは月の風邪だ」
「そう」
「月の風邪はとても楽しいよ。君も一度ひいてみると良い」
「遠慮しておくよ。苦しそうだからね」
「でもいずれひくことになる。月に行くなら一度は風邪をひく」
「難儀だね」
「でも一度だけだ。それに、とても楽しい。走り回りたいくらいにね」
 どうしてそんなに楽しいのだろう。熱が上がって幻覚でも見ているのだろうか?
「これを見てくれ」
 彼は腕を布団から出した。「星だ」「星だね」
「星の斑点が出れば、もうすぐ治る。悲しいけどね」
「僕が来るまで、どんな症状が出たんだい?つまり、月の風邪独特の症状が出たんだろう?」
「そうだね。折角だから話しておこうか」
 彼は熱にうなされながら言う。「君は連想ゲームを知っているかい?」
「あの、次々に思いつくことを言っていく遊びだろう?」
「あれが凄く強くなるんだ」「へぇ……」
「でも、僕は風邪をひいている。風邪とはいえ立派な病気だから、誰も近くにはいない。うつると大変だからね」「それで?」
「連想ゲームが世界で一番強くなった。相手になってくれる人はいない。でも、どうしても連想ゲームがしたい。するとどうなるのか?」「どうなるんだい?」
「増えるんだよ」
 分かった。きっと彼は熱でおかしくなっているのだろう。
「僕が増えて、連想ゲームの始まりだ。二人でやっていると飽きてくる。そうすると、もう一人増える。また一人、そして一人……この八畳の部屋に二十五人の僕が並んだんだよ」
「随分とにぎやかだったんだね」私は油性のマジックペン(黒)を探す。
「当然、皆が皆風邪をひいている。部屋の中は月の風邪ウイルスだらけだ。それでも連想ゲームは続く。僕はあの出来事を忘れないよ」
「それは良かった。実に、良かった」マジックペンはすぐに見つかった。友人の部屋は整理されているので助かる。
「跳び箱から始まったんだ」「それで?」「次はミミズク、むしろ、寝癖、かかし、オイルパン、カセットテープ、鉄道模型、太陽の黒点、猫柳、鍋の落し蓋……」
「連想なのかい?」「連想してるじゃないか?」
 楽しそうに言い続ける彼を尻目に、私はマジックペンの蓋を取った。きゅぽん。
「疲れただろう?一眠りしたらどうだい?」
「でも、まだ話が途中だぜ?」
「君の話で何か一つでも完結した話があったかい?」
「無いね。じゃあ、少しだけ寝ようか。お休み」
「お休み。良い夢を」
 彼の寝息が聞こえると、私は彼の額に張りついた前髪を除けた。そして、ペンでこう書いた。
『煮』。にえ、と読む。
 つまり、この人の脳は煮えていますという注意書きだ。
 彼の風邪は次の日の朝には治っていたが、『煮』の一文字は暫く消えなかった。

 彼の夢の話を聞いた。珍しく昼間に彼と会った日だった。
「目の前に扉があったんだ」
 ぼんやりとした目つきで、手を伸ばす。目の前に当然扉はない。
「僕はその扉を開けようとする。取っ手を掴んでね。でも、押しても引いても扉は開かない」
「引き戸じゃないかい?」「いや、違うだろ」
 妙に焦ったということは、引き戸という発想が無かったのだろう。
「それで、時計が出てきて言ったんだよ。『その扉を開ければ、月まで一直線。後ろを振り向いたらニューヨークに行く』ってね。僕はやっきになって開けようとしたんだ」
「それで?」「開かなかった」
 心底残念そうに呟いた。気分だけは夜になったような気がした。
「押しても引いても開かない扉だったんだ。時計は笑ったよ。『どうして開けられないんですか』ってね。笑うだけ笑って扉の向こうに行ってしまった。扉をすり抜けてだぜ?信じられるかい?」
 まあ、夢だしね。
「仕方なしに、僕は扉を破壊することにしたんだ」「過激だね」「夢だから」
「それで乳牛からやっとこを借りてきて一撃必殺。ジャンプして回転加えて気合一閃」
「扉は壊れた?」「粉々だよ。粉々過ぎてその向こうに行けなくなってしまったんだ」
 肩を竦める。「行きたかったな」と呟いた。
「いいじゃないか。その内いけるさ」「そうだと良いね」
 結局、彼は月に行くことにはならなかった。夢の通りに、道は砕けてしまった。
 私達の隣で時計のベルがなった。昼食の合図だ。
 今日のメニューは何だろうか?彼は自前の箸箱セットを取り出した。

 私と古い友人は、ほとんど夜にしか会わなかった。それも決まって月の綺麗に見える晩にしか。
 私達は月に向かって歩くこともあったし、月に背を向けて歩くこともあった。
 目指している場所は、はっきりとは決まってはいなかった。
 彼が言う。
「目的地がどこなのかよりも、今こうして歩いていることの方が重要じゃないかな」
 彼はとても自然に歩く。風のように、水のように。
「悩み事があっても、どんなに打ちひしがれていても、歩く。そうしていれば、必ず辿り着くだろう?」「でも、僕らは一体何処を目指しているんだろう?」私達は月が山の向こうに沈んでしまうまで歩き、それぞれ家に帰った。その繰り返しだった。だから、私はせめて目的地だけでも知りたかった。そして、そこに一歩でも近付いているのかどうかを。
 何も知らず、分からず、ただ言われるままに歩き続けるのでは、あまりにも寂し過ぎる。兎だったら死んでしまうほどに。
 古い友人が、月の光で白く照らされた道を見て、足を止めた。振り向き、私の顔を見ている。私も足を止め、彼の顔を見た。それはまるで、鏡のように思えた。
「僕は僕の夢見た場所。君は君の夢見た場所。それだけだろう?」
 そうだった。至極当然のことだった。私はただひたすらに夢見た場所を目指して歩いていたのだ。彼の案内に従って。でも……
「そうだね。それなら、僕らはいつか違う道を歩まなくてはならないね」「それも仕方ないよ。でも、歩き続けていればきっとまたいつか会えるさ」「そうだね。きっと会えるね」
 彼が笑い、私も笑った。月も笑っていたかもしれない。道ですら、道の両脇に立ち並ぶ雑木林の木々ですら笑っていたかもしれない。
 夜は、楽しい音楽が流れる時間だから。
「じゃあ、今日も行ける所まで歩こうか」「そうだね」
 私達は歩き出した。月が山に消えるまで。月の光が届かなくなるまで。
 そしてとても長い間歩き続けて、私は月に立っている。彼とは随分昔に離れてしまった。もうどれくらい会っていないかも分からない。
 それでも、私達は再会するだろう。
 私は今、あの日夢見た場所に立っている。でも、次の夢見た場所はまだずっと先に待っている。だから私は歩き続けている。こうして、月の光を誰よりも早く浴びながら。
 月の地平線に、また蒼い地球が昇る。

 彼は私に様々なことを教えてくれた。
 それらの全ては役に立つことばかりで、私は彼に感謝している。
「おいしい牛乳の見分け方は、まず牛の気持ちになってから考えること」とか、「生水が飲めないのなら、生じゃないと思い込ませてから飲めば良い」「湿気たマッチで火を着ける時は、火であぶって湿気を取ると良い」など、当然ではあるが盲点とも言えるような、目の覚めるようなことを教えてくれた。
 その中でも一番役に立ったのが、「月面の歩き方」だった。
 知っての通り、月面は地球の六分の一しか重力がない。少しの力でもふわふわと飛び跳ねてしまうので、歩くことは出来ない。歩くのと飛び跳ねるのは違うのだ。
「じゃあ飛び跳ねて移動すれば良いんじゃないかい?」と僕が言った。その方が楽だし、きっと早い。「分かってないね」彼は肩を竦めて見せた。「それじゃあ散歩が出来ないじゃないか」「なるほど」歩きでなければ散歩ではない。走ってしまえばジョギングだし、飛び跳ねてしまえば……何と言うのだろう。
 何と言うのかは分からないが、確実に散歩ではない。どうしても散歩をしなくては眠れない夜もある。歩くという行為は、私達人間にとってはとても重要なことなのだ。
「良いかい?まずは、水面を走る方法から始めよう」「水面を走る?」忍術のようだ。
「右足が沈む前に左足を出して……」「左足が沈む前に右足を出す。それで、またその足が沈む前に……」「左足を出す。これを繰り返せば水面を走れる」「でも……」とても基本的なことを見落としている。そんなに早く動ける人間が一体どこにいるのだろう。
「でも、そんなことは出来ない」彼は自分で否定した。「そうだね」私は賛同する。当然だ。
「それなら、逆に考えれば良い」「逆?」「つまり……」彼は人差し指を立てて、先生のように言った。
「右足が着いてから左足を上げて、その足が着いてからまた右足を上げる。オッケー?」「なるほど」でも、考えてみれば当然だ。私はその姿を想像してみた。まるで忍者が忍び足で歩いているようで、どことなく緊張感が漂う。間抜けにも見える。決して格好の良いものではない。
「とても役に立つと思うよ。多分ね」私は言った。
「役に立ててくれよ。僕も役に立てているから」
 彼に教わった沢山のことは、どれも「ああ、なるほど」と思うことばかりだった。私が彼から教わったのは、そういう物の考え方だった。彼がどういうつもりで私に「アイスクリームの焼き方」や「バナナの不味そうな食べ方」を教えてくれたのかは分からないが、多分その通りなのだろう。
 彼は毎日楽しそうに暮していた。多分、頭の後ろの辺りが暖かかったのだろうと私は思っている。誉めているのだ。

 さて、話は兎と私との会話に移る。
 
 桜咲く。サクラサク。
「咲いているね」「咲いていますね」
 夢だ。
「どうです?捕まえられそうですか?」「今日はやってやるさ。一晩かけてもね」
 ぴょんぴょんと兎が跳ねる。桜はふわふわ飛んで行く。
 私はそんな兎と桜の遊戯を見ながら、南の風に吹かれている。ほんのりフローラルの香りただよう、温かな風。
「君、ちょっとは手伝ってよ」
 前歯が少し伸びた。怒っているようだ。
「でも、私が手伝っても仕方ないでしょう?桜を捕まえたいのは兎さんで、私ではない」
「君、案外冷たいことを言うね」
「そうじゃない。自分の力で成し遂げてこそ、達成した喜びを噛み締めることが出来るんですよ」
 シャボン玉に包まった、小さな桜。そろそろ花びらが散り始めるだろう。私は業者の連絡先を電話帳で調べる。
「分かったよ。でも、本当に駄目そうだったら手伝ってくれるだろう?どうしても欲しいんだよ」
「でも、私が捕まえてしまえば、きっと桜はゆずの木になってしまいますよ」
「ゆずか……それでも良いな。ゆず湯に入れるから」「そうですか」私は肩を竦めて見せた。
 兎は跳ね回り、私は業者を探した。月の電話帳はやはり変わっていて、バスケットボールのような外見をしている。そこに手を入れ、くじ引きのようにして探すのだ。これにはかなりコツが必要になる。月で生活するのは、地球で生活するのと同じくらいにコツがいる。
 私は「どうでも良い。何でも良い」と呟き、欠伸をしながら手を入れた。掴み、引き出す。
 『モモンガ自治会』どうやら外れたようだ。もう一度トライ。今度は明後日の方向を見つめながら。『竿オンリー商会』また外れた。今度は鬼が笑うようなことを考え、ボサノヴァのリズムで。
 『花びらリサイクル』これだ。この業者ならきっと桜の花びらを回収して、その花びらを素敵なクッキーに仕上げてくれるだろう。早速連絡を取る。伝書鳩で。
「ねえ、そろそろ手伝ってよ」「まだまだいけるでしょう」私はソファーに横になった。「果報は寝て待て。これ、貴方が言った台詞ですよ?」「言ったのは君だよ」「そうでしたか?」「そうだよ」
 それでも私は寝た。兎の前歯がまた伸びた。

 月の住人は餅を食べる。それは古くからの習わし。
 最も古い住人であるところの兎達が餅しか食べなかったので、それを引き継いで餅を食べる。良き風習だ。
 もちろん、今現在月面には兎はいなく、兎以外の生物が暮している。餅だけを食べている訳ではない。
 餅はつかなくてはならない。月で餅をつくことが出来るのは私だけ。それには理由が二つある。
 一つは前にも話した通り、私だけが月兎から餅のつき方を伝授されたから。
 そして、もう一つが重要だ。もう一つの理由は、もち米の入手経路にある。
 地球で採れたもち米は、月に持ち込めない。餅に加工してからならば問題はないのだが、もち米のままで持ち込むと、もち米があられになってしまうのだ。ピンクや黄色や水色のあられ。確かに綺麗で、さくさくして美味しい。でも、それでは餅はつけない。
 私はもち米の入手方法を虹兎に教わった。その頃には彼との付き合いも随分と長くなっていて、より親密に言葉を交していた。酒を酌み交わしたこともある。もちろん夢の中で、だが。
「君だけにそっと教えるもち米の地下ルート」と題打って催された説明会には、「君だけに」というタイトルそのままに、私しかいなかった。結論から言えば、それは別に地下でも何でもなかった。いや、地下ではあったが、地下ではなかったというべきか。
 ちなみに、月の地下にはゼリーが満ちている。
「苦いんだよ、とっても。三日は苦いね」と兎は言った。私はどうでも良いと思った。そんなに大きなゼリーをどうやって作ったのか、何味なのか、どこから食べれば良いのか……多分聞いても面白くないと思った。
「そろそろハレーの奴がやってくるから、僕も準備をしなくちゃいけない」
 彼は珍しく真剣に言った。
「本当はもっと君の楽しい話を聞いていたかったんだけど、僕にも使命があるからね。こればっかりはどうにもならない」
 私は少しだけ寂しくなった。
「でも、また会えるでしょう?」
「君が餅をついてくれるなら、いつか食べに来るよ」
「そういえば……」私は今までずっと気になっていて、聞きそびれていたことを聞こうと思った。
「貴方はハレー彗星に掴まってどうするんです?」
「ああ、その話をしていなかったか……。でも、長くなるからまた今度にしよう」
「今度があればね」
「きっとあるさ。何なら戻ってからでも遅くはないだろう?」
「それもそうですね」
 寂しくはない。生きていればきっとまた会えるのだから。
「それじゃあ、今日のメインイベント『もち米を手に入れよう・in月面』を始めようか」
「お願いします」
 ペコリ。
 この頃には月面での上手な餅のつき方を会得していた私。ただ、もち米だけはこの兎が持ってきてくれていた。これを教えてもらえば、私はもう後にはひけない。旅ももう終わりだ。
「月面でもち米を手に入れるには、まず後ろを向くことから始まる」
「後ろ?」
 くるり。私は首だけを後ろに回した。
「うまいうまい。この時、体は前を向いていることがポイントだね」
「それで、これからどうするんです?このままだと首がつってしまいそうだ」
「後ろを向いたら、目を閉じる」「閉じました」「両方とも?」「しっかりと」
「そしたら、井戸を掘る」「井戸?」
「そう、井戸」「どうやってですか?何も見えないし、いい加減首が痛い」
「ここで必要になるのは、先割れスプーンだね。持ってる?」「しっかりと」
「それを左手に持って、井戸を掘るんだよ」「分かりました」
 私は左手の先割れスプーンで井戸を掘った。だいたい二時間くらい掘ったところで、兎が言った。
「よし、目を開いて。前を向いてくれ」「よかった。首と腕がくたくたですよ」
「何、この作業は一度だけで良いからね。そう病むことはないよ」
「それは良かった。毎日もち米のためにこんな重労働をするんじゃあ体がもちませんからね」
「じゃあ、今何が見えるか言ってくれないか?」
 穴の上から兎が大声で叫ぶ。私は真っ暗の井戸の中で目を凝らし、見えるものを探した。
「何も見えませんよ」
「足元だよ」「足元?」
 樫の木で出来た靴の底に、何やらプルプルとした感触が伝わってくる。
「これが月の中身のゼリーですか?」「そうだよ。でも間違っても食べるなよ。苦いから」
「苦いですか」「それだけじゃない。そのゼリーが無くなると月が空っぽになってしまう。そうなると中身がプリンに変わってしまうから気を付けてくれたまえよ」
 プリンの方がゼリーよりも好きだ。でも、苦いゼリーを食べ尽くす勇気は無い。
「ちなみにプリンはどんな味なんですか?」「プリンはあの日流した青春の涙味」「ほろ苦くてしょっぱいんですね」「分かって来たじゃないか」
「それで、私はこれからどうすればもち米を手に入れることが出来るんですか?」
「そのゼリーにお願いしてごらん。『もち米が欲しいなー』ってね。他人事のように言うのがコツだよ」
「なるほど」
 私は出来る限り他人事のように言った。
「もち米、欲しいなー……」
「一つか?二つか?」
 ゼリーが答えた。私はどうして良いやら分からず、「取り敢えず、持てるだけかなー」と言ってみた。
「私を食べるか?」
 まだ終わりではないらしい。
「苦いなら、お断り」「甘いなら?」「チョコよりも?」「……チョコよりは甘くない」「じゃあ、良いやー」
 他人事のように言う。
「もち米は、静かの海に置いておくよー」
 ゼリーはプルプル震えた。そして、穴の底は静かになった。
「兎さん」
「終わったかい?」
「ええ。どうやら上手く行ったようですよ。でも、あんな問答があるなら始めから言っておいて下さいよ」
「教えてはいけない決まりなんだ。それに、問答の内容は人それぞれだから、アドバイスは出来ないしね」
 私はゼリーを踏み切って、穴の出口まで飛び跳ねた。月面の重力は地球の六分の一。
「お帰り」「ただいま」
「それで、もち米はどこに置いておくって?」
「静かの海だそうです。すぐ近くですね」
「じゃあ行こうか。あ、そうそう。もち米は出て来る場所がまちまちだから気をつけないと盗まれてしまうよ。それと、次からは穴の底に下りなくても良い。何となく後ろを振り向くとゼリーの姿が見えるから、そこでお願いすれば大丈夫だからね」
「便利なのか、不便なのか……」微妙なところだ。
「でも、誰にも見られないようにしてくれよ。ゼリーの機嫌を損ねると、もち米が煮干になってしまうから」
「煮干?」「そう。しかも出汁を取った後のやつ。当然餅はつけない」
「その時はどうすれば良いんですか?」
 もち米をもらえなければ、私は困ってしまう。
「奴との交渉のコツは、プリンをちらつかせることだ」「つまり?」「『プリンなら、もち米くれるかなー』と言うと焦ってもち米をくれる。この時は夢見心地で言う」「なるほど」
 しかし、私はプリンがどこにいるかも知らないし、どうしてゼリーがプリンに弱いのかも分からなかった。それは今でも分からないままだが、ゼリーと私は仲良くやっている。
 二人は飛び跳ねて静かの海まで辿り着いた。
「ほら、そこにあるのがもち米だよ」
「何だか地球のものとは違うようですね。見た感じ香水の瓶みたいだ」
 色とりどりの瓶。凝った形をした小瓶。それが私の言った通りに、持てるだけ置いてあった。木綿の布に包んで。
「それを蒸かすと、綺麗な白いもち米になる。盗まれないようにしろって言ったのは、香水好きの鶏があちこちにいるからなんだ」「鶏は香水をどうするんですか?」「眺めながら一杯やるらしい」「それは楽しそうだ」
「でも餅つきはその十三倍は楽しい」「そうですね」
 私達は早速香水瓶に似たもち米を蒸篭に乗せて蒸かした。
 夕暮れ時の月面から、一筋の細く白い煙が真っ直ぐ地球まで伸びる。
「そろそろかな?」「そろそろですね」
 木綿に包まれたもち米は、上手に蒸かされていた。これなら美味しい餅が出来る。
 私を兎は二人で餅をついて、網で炭火で焼いて食べた。海苔を切らしていたので、大根をおろして醤油で食べた。とても美味しかった。
 その数日後、虹兎はハレーまで旅立つことになる。私に一言も言わずに。
 きっと、彼は再会を疑わなかったのだろう。そして、それは私も同じだ。

 こうして私は月面で唯一の餅つき屋になり、地球や他の星からの移民に餅つきを頼まれることになった。
 あの虹色の兎との再会はまだ果たされてはいないが、やがて再会は果たされるだろう。
 この話は、一度幕を下ろす。それでも、兎と私の会話はまだまだ語り尽くせずにいるし、古い友人との会話もまだまだ残っている。いずれ機会があれば囲炉裏で餅をあぶりながら語ることが出来るかもしれない。



(c)Tsukuyo Hoshimi
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